第三百話
モリアさんが直上に挙げていた腕を振り下ろすのを合図に、ライアンの姿が掻き消えた。
以前も使っていた光学迷彩だが、以前よりも精度が上がっている。
夜でもないのに、朝日を浴びても輪郭の揺らぎが見えない。相棒のスライム触手よりも遥かに視認が難しくなっている。
そも、ライアンの動きが早すぎて捉えられないというのもあるのだが、動体視力が著しく向上している俺の目でも見失った。
踏み込んだ衝撃でか、凍った地面から散る粉塵により跳んだ方向が分かるという程度でしかない。
「消えた!?」
ベガさんもライアンを見失ったのか、遮二無二大剣を振り廻す。
意味のない行動に思えたそれにも意味はあったらしい。
「ふむ、魔剣か」
「風の魔術を飛ばすなんて便利ですわね!」
アグニの爺さんもキア・マスも感心するだけだが、その衝撃波の形状がまた凄い。
剣の切っ先から飛び出してきたのは色のない虎。空気が質量でも持ったかのように、虎の形をした衝撃波が小道に沿うように放たれていた。
魔剣ね。ベガさんが握る大剣の柄元に仄かに光るのは魔法陣だろうか?
戦闘モードのキア・マスが背負う二本の大型ナイフに匹敵するものであるらしい。
「勝負あったのぅ」
大剣が横薙ぎにされたタイミングを見計らったのだろう。
薙ぎ払われた方向とは逆の位置に姿なきライアンが踏み込んだであろう地面の凹み。それをいち早く捉えた爺さんの言葉だった。
――ボコッ
奇妙な音が鳴った。
ベガさんが着込んでいた鎧は革と金属の複合鎧で、急所以外はほぼ革鎧のそれだ。
ライアンが狙い打ったのは脇腹で、金属で補強されている部分ではあった。
それも腕がある方の。
「だから言ったんだ。あんな重いの振り回してちゃ、隙だらけだ」
「義姉さんが子供に……しかもこれ以上ない負け方よ!?」
「手加減はしたのじゃろうな。でないと腹に穴が空いておろう」
「ほら、一撃でしたわ」
爺さんの言うように手加減はされていたと思う。
クド・ロックさんのように直線で飛んで行ってはいない。下から打ち上げられるように、放物線を描いて奥の厩舎の屋根に落ちた。
「勝者、ライアン!」
「「「おおおおおおお!!」」」
ギャラリーの歓声が沸き立つ。
開拓団の皆はライアンの強さを知っているためか、安心して見ていられたのだろう。
しかし、ガフィさんとシフォンさんはそれどころではなかった。誰よりも早く厩舎に駆け、屋根によじ登ったガヌも心配そうにベガさんに寄り添う。
俺もライアンを労うでもなく、ベガさんの方へと向かう。
「無茶すんなよ、母ちゃん」
「……ガヌゥ。お母ちゃん、負けちゃったよ」
「魔王の兄ちゃんはもっともっと強いんだぞ。やるの?」
「……やらない」
縦に二棟並ぶ厩舎の屋根では、ガヌがベガさんを尋問していた。この場合、脅しているとも取れる。
ガヌが褒めちぎるほど俺は強くないのだが……それは置く。
「この開拓団は化け物揃いだから安全なんだ。母さんも大人しくしてろよ」
「ほんとよ。あんな子供が……って、あれ?」
「ライアン様ならお仕事に戻られましたわ」
キア・マスはよく見ているな。俺も全然気付かなかった。
まあ、ライアンは魔石の加工を少しでも早く終わらせて、二段ベッドの修復に入りたいだけなんだけどな。
今はマットレスを床に敷いて川の字になって眠っており、床下から襲ってくる寒さに耐える日々を送っている。
全部、ライアンが養蜂小屋を吹き飛ばしたのが原因で、自業自得の巻き添え食った俺とミジェナにとっても非常に辛い日常だった。
「何なら儂が稽古をつけてやっても良いぞ」
「親父ぃ。折角、上手く纏まってんだ。余計な口を挟むんじゃねえ」
「――怪我の具合はどうです?」
「……鎧が逝っちゃったけど、怪我はしてないよ。たぶん」
いつの間にか近寄って来ていた師匠の質問に、ベガさんは軽く返答した。
厩舎の屋根から降りてきても元気そうではある。ガヌが肩を貸してはいるが。
「手加減されてボロ負けとは……本当に一発しか殴られてないのも泣ける」
「義姉さん、あれだけ偉そうなこと言ってたのに」
「……」
やめてあげて、針の筵だよ。
ライアンは仕事量が多すぎると嘆いていただけなので、別段ベガさんを煽っていたわけではない。意図を取り違えたベガさんが勝手に売り言葉に買い言葉としていただけだから、ライアンは気にしてもいないだろう。
俺もライアンの勝利が齎した副次的効果で、敵視されることもなくなった。ある意味、ガヌのお陰でもあるが、それはそれ。
「お二人が今後暮らす小屋も今日中に建つと思います。今の宿と厩舎は撤去しますので引っ越しの準備をお願いしますよ」
「はい、わかりました」
「家財道具はとりあえずですが、今使っている寝具は持ち出しても結構です」
「ありがとうございます」
「カットス君。新たな宿の調度類は新規で注文するようにお願いしますよ」
「えっ、注文ですか? 俺、もうお金に余裕がないんですけど……ミモザさーん! 地竜の肉の一番美味しいところ、買いませんか?」
「魔王様。興味はありますけど、一番美味しいところとは例のアレですか?」
「はい」
地竜は大きさがワイバーンの比ではない。
その角だけでも俺が抱える程の大きさがあるといえばわかるだろう。
当然、お腹の肉だって相当な量がある。ちょっと手放したくらいでは無くならない。今までもそれなりに消費はしているが、全然減っていないというのが正しい。
食べると暫く味覚が馬鹿になるけど、決してマズいものではない。その辺りはジレンマだろうが、試してみたいと思う人は多いはずだ。
すっぽんの在庫がない今なら開拓団内だけでも十分に捌けるだろう。
「ミモザ、それ食わせろ! キャラバンを分捕られた詫びとして」
「叔母様が望みなら仕方ありませんね」
真実を知らないモリアさんに隠すように、ニチャっとした嫌な含み笑いをしたミモザさんであった。
「それでカットス君。宿の位置はどこにしますか? これからも開拓は北方面を重点的に行う方針ですが」
「いっそ、新築する養蜂小屋の位置をずらして、宿は南門に持って行ったらどうでしょうか? お客さんが居ない間は警備はなくてもいいですし、蜂たちに受粉させるのなら養蜂小屋は畑の中でも十分ではないでしょうか」
ハウス栽培なんかでは蜜蜂を放つらしい。
実家近隣の農家さんの話を小耳にはさんだことがある。母経由でだが。
ただ、こちらの蜂はサイズが非常に大きいので実際にどうなるかは知らない。
「そのような方法があるのですね。でしたら、その方向で検討しましょうか。開拓が順調であれば商店街も用意することになります。南側をその区画としてしまうのもありですね」
「なら、鍛冶場も移動してしまいますか?」
「それはあのご兄弟に話を通してからになりますが、特に反対する理由はないでしょうね」
北へ向けて開拓していく理由は、治水と川港の建設を諦めていないからだ。
開拓が進み人口が増えれば、治水に携われる作業員も増やせる。そういう目論見があった。
ただ、その頃には師匠は領地に戻っていることになる。
近いか遠いか不明な未来に治水と川港の建設が上手くいくかどうか、それはミラさんの手腕に掛かってくるわけだが、今は何とも言えない。




