第二百七十七話
今日はこの丘の上で野営することが決まっていた。
そこで俺は相棒にお願いして地面を平らに均してもらい、二棟の小屋を設置してもらった。元々は予備の小屋は三棟あったのだが、一棟は養蜂小屋に転用したからな。
そして当然のことながら、内一棟は俺とミジェナ、働き蜂の両名で使う予定だ。
「やはりカツトシ殿が居ると便利じゃの」
「そりゃ兄ちゃんだもん」
設置した小屋の竈によく乾いた薪を放り込み、ドケチ魔術『炎』で火を点けたタイミングで、アグニの爺さんとガヌが小屋の扉を開けて顔を覗かせた。
働き蜂である彼女らはアグニの爺さんを警戒することは無いのは当然として、ミジェナとガヌを警戒対象として捉えていない理由は、実のところよくわかっていない。
「土壁じゃないから外気を完全に遮断できないのが痛い。師匠ももっと早く予定を教えてくれれば良かったものを」
「うむ。儂もすっぽん鍋を食ろうた翌日には、カツトシ殿を真似て壁に土を塗りつけておる。あれは実に良い。竈からの熱が逃げず、余分な湿気も吸い取ってくれるでな」
師匠から氾濫した河の視察に行くと教えられたのは一昨日だが、今夜一晩野営すると教えられたのは出発の直前のことなのだ。
知っていれば、事前にこの小屋の壁に土を塗ることも出来ただろう。今も相棒の中には土も水も十分にあるはずなのだが、繋ぎとなる枯草と糊の役目を果たす膠が足りない。
野営すると聞いて俺が用意できたものは薪だけ。
板張りの壁から吹き込む隙間風と換気のために開けた窓から吹き込む風は冷たく、燃料となる薪は幾らあっても足りないと考えてのこと。
「食料は各員自前でと聞いていますけど、爺さん何か持って来てます?」
「うむ。少々黴臭くなった硬パンと干し肉を持って来ておるよ」
硬パンと聞いて顔を顰めたのはガヌとミジェナ。いいや、俺もか。
開拓団が死蔵していた硬パンの殆んどは揚げ物のパン粉にされている。開拓団員の誰もが硬パンに見向きもしないのだから、食料を無駄にしないための処置である。
個人が持つ在庫も、おやつ感覚で小腹を満たすてめに齧る程度なのだが、アグニの爺さんに至っては例外であるのかもしれない。
「……いらない」
「まてまて、ミジェナ。ちゃんと俺も持って来てるからな」
「ん、あんしんした」
「まずはお湯を沸かそう。相棒、やかんと五徳」
「ニィ!」
焼く・煮る・沸すは今までずっと鍋でやってきた。鍋一つあれば、何でもこなせたとも言える。
でも使い勝手を優先すると、それ専用のものがあった方が便利なのだ。
そこで、炉の最終調整の試作でやかんも作ってもらっていた。
三リットル位入りそうなやかんなのだが、竈上面の開口部より小さい。なので、やかん使用時専用の五徳も作ってもらっている。
竈上部の開口部に合わせ五徳を置く、その上にドケチ魔術『H2O』で水を注いだやかんを載せる。この小屋自体が予備のものなので、給湯器は設置されていない。
「相棒、例のカットした煮凝りを一個ずつ茶碗に入れて人数分と、ライアンに貰った生姜モドキを一個と蜂蜜、湯飲みを人数分。それと伸したパン生地を一枚と型、もうほとんど無いと思うが菜種油と鍋な。ああ、まな板と包丁、人数分の木匙か」
「ニィ!」
「「はちみつ!」」
揃いの歓喜と共に、ミジェナとガヌの目がまん丸にキラキラと輝く。
この蜂蜜は働き蜂の彼女らの引率の礼にと、女王蜂から進呈されたもの。
最高級品と謳われる蜂蜜の味は、アカシヤの蜂蜜に風味が似ている。他にも何かが複雑に混じっているようなのだが、俺には判別できなかった。そも、こちらの草花の種類をそこまで知らないからな。
ただ、調整蜂蜜のように薄くはなく、家の近所の果樹園で爺さんがやっていた養蜂で採れた蜂蜜に近い。色合いや味も濃くしっかりとした蜂蜜だった。
生姜モドキを薄くスライスして隠し包丁を入れ湯飲みに投入後、蜂蜜をひと垂らし。
「おい、ガヌ! そのまま舐めるなよ。お替りはないからな」
「……ぅ、うん」
薄く伸したパン生地をリング状に型抜きする。まな板と型は相棒に端材で作ってもらったヤツだ。
この小屋には窯もオーブンも設置されておらず、パン生地を揚げる以外に方法がなかった。
リング状に抜くのは生焼け防止のためだったか、何か本か新聞で見た記憶がある。実は俺、ドーナツ作りは初挑戦なのだ。最初は基本は押さえておきたい。
「この四角いのは何じゃろか?」
「それもお湯が沸くまで待ってくださいよ」
ふと見れば、アグニの爺さんが茶碗に入っている四角い煮凝りをつついていた。
煮凝りの正体は婦人会のすっぽん鍋の残り汁。ご婦人方全員の口を賄えるだけの蕎麦はなく、締めの雑炊はなし。
その残り汁は翌朝になるとぷるぷるの煮凝りとなっていた。大鍋二つ分の煮凝りは俺が回収し、残りの鍋の分はタロシェルとリグダールさんが引き取ることに。
タロシェルは煮凝りを乾燥させようとしたのだが、ゼラチンを作った時は本格的に雨が降りだす前で乾燥が間に合った事実を忘却していた。毎日雨が降り続ける今は乾燥には向かず、一部は黴が生えて処分せざるを得なかったと聞く。
俺の場合は相棒が『収納』しておけば、どれだけ経っても悪くなることはないから安心だった。そう考えると今更ながらに反則だな。
で、この煮凝りなのだが、かなり煮詰まっていて味が濃い。
熱湯で薄めるだけで、十分にスープとしての提供できると俺は考えた。実際に、俺とライアンは、養蜂小屋で隠れて何度か飲んでいるし。
竈の火は強く、そう掛からずにお湯が沸く。
茶碗と湯飲みにお湯を注ぐ。あとは個々人で混ぜてもらえば、双方出来上がりだ。
熱い五徳を相棒に外してもらい、菜種油を入れた鍋を火に掛ける。
温度計はないので、水を油の中に弾き入れながら適当に観察。良さげと思われる頃合いでパン生地の欠片を投入して再度確認を済ませれば、本番のドーナツを揚げ始める。
「おおう、すげー膨らむ! ちょっと温度高すぎるか?」
竈の中で炎をあげる薪を何本か手前に掻き出し、火加減を調整。
鍋の大きさに余裕があるので、隙間に三個浮かべた。とりあえず、人数分だ。
「ん、すっぽん」
「はちみつ、うんめぇ!」
「あの塊がすっぽん汁に早変わりとな?」
すっぽん好きのミジェナのジト目を回避するには、もうこの手しかなかったんだよ、爺さん。わかってくれ。
ドーナツを油の中でひっくり返し、両面がこんがりキツネ色になるまで揚げた。
まな板の上に揚がったドーナツを置いて、ポーチから砂糖を取り出して指で圧し潰すように塗していく。
砂糖が零れるのとドーナツそのものが熱いため、まな板に載せたまま提供する。
「ほら揚がったぞ。熱いから気を付けろ」
「おー、なんだこりゃ? アツッ」
「お砂糖がかかってる?」
「パンを油で揚げるとはまた……」
俺は竈の前で湯飲みを口にしながら、一人三個となるドーナツを全て揚げ終えた。
「ドーナツは一人三個。スープはお替りできるけど、ガヌとミジェナは二杯までだな」
「ん、おかわり」
「はちみつ、お替りは?」
「それは、ダメ!」
女王蜂からもらった蜂蜜は本当に貴重なのだ。
蜂たちの貴重な食料を分けてもらっているのだから、言うまでもないだろう。若干一名、ガヌは理解していないようだが。
「この薬湯も温まるのぅ」
「夜にもう一杯ずつ飲んだら本当に蜂蜜も無くなる」
「むぅ。なら、夜まで待つ!」
ドーナツも失敗なく揚がり、すっぽんの煮凝り汁も旨い。薬湯は生姜モドキと蜂蜜のお陰で体の芯から温まる。
今日はもう外に出たくないな。
「しかしあれじゃの。外が、隣は騒がしいのぅ」
「小屋の奪い合いだもんね」
「ん、みぐるしい」
小屋の仕様は拠点のものと同一でとても狭い。
俺たちが占拠する小屋も、四人と働き蜂二匹が入るのが限界。だというのに隣では、ここに居ないほぼ全員が犇めきあうように小屋の中に入っているのだ。
もはや、上官とその部下という立場も関係なく、寒さを凌ぐために小屋に留まる権利を争っていた。




