第二百六十九話
この小屋に住み始めて、早くも十日が経過した。
その間、俺とライアンのブレーキ役になりそうな人物たちが小屋を訪れたのだが、都度、女王蜂と働き蜂の威嚇を受けて退散していった。
蜂蜜に心惹かれてやってきたリスラもそれは同様に。
唯一の例外は蜂たちの保護に立ち会ったアグニの爺さんなのだが、爺さんは小屋の中を覗き込み。自身の生活空間が存在しないことを知ると、大人しく帰って行った。
最高級の蜂蜜を作り出すと言われているレッドハニービーは、その獰猛さもまた有名であるようで、警備担当者も巡回で訪れはしても小屋の傍に近寄ろうともしないのが現状だ。
俺とライアンは蜂たちの為の生贄。
たった二人の犠牲で蜂たちが大人しくなり、季節が廻れば美味な蜂蜜が得られる。その恩恵のための必要な犠牲なのだ、と皆は納得しているそうだ。
最早、開拓団員たちから異界の勇者としての尊敬の念は全く存在しない。嘗て開拓団員の誰もが抱いていたであろう感情とは裏腹に、皆悪い意味で慣れてしまったらしい。
ひとりの人間として扱われること。それ自体は嬉しくもあるが、今の扱いはどうなのか? と俺は問いたい。
「ライアン。今日、タロシェルとリグダールさん、それとドワーフ兄弟が小屋に入れるよう説得してくれたんだよな?」
「ああ、問題ない。タロシェルとリグダールは魔王が留守の時に砂糖水を与えているから、あいつらも感謝している。ロギンとローゲンは、まあ何とでもなるだろ」
「なら問題ないか。すっぽんは甲羅と爪以外ならほとんど全部食べられるって兄貴が言っていたからな。だからという訳じゃないけど捌くのは相棒に任せてしまおう、血も勿体ないし」
泥抜きに十日を要したすっぽんを今日の夕飯にする予定だ。
十日も一緒に暮らしてきた仲間だからか、それなりに愛着はある。だが、食べないという選択肢は最初からない。彼か彼女かは定かではない存在は、食べるために泥抜きしていたのだ。
泥抜きを始める前、身があまり痩せ細らないようにと少量だが栄養満点の食事を与えている。贅沢にもワイバーンの肉片や地竜の肉片を与えただけだが、その効果もあってか萎んだような感じも無い。
檻の底に泥が溜まれば水を交換し、それを十日の内に何度も繰り返すという労力を掛けている。
それこそ食べられる箇所は全身余すことなく、喰らい尽くしてやろうではないか!
「ということで、相棒。すっぽんの解体を頼みたい」
「ニィ!」
主にすっぽんへの餌やりを担当していた相棒に、すっぽんへ情が移ったような様子は見られない。毎度のことながら俺のお願いにすぐに応えてくれ、檻の中のすっぽんはその姿を消した。
「鍋はタロシェルたちが持って来てくれるはずだからいいとして、蜂たちはどうしよう?」
「砂糖水さえ与えておけば、気にしないだろう」
「それもそうか」
焼き肉ではないからな。昆虫が嫌う煙が小屋の中に篭るということにはならない。ただ、結構な匂いが篭る可能性は大だが、窓を開け放して換気することは必要だろう。
蜂たちの感情は小屋に近付いてくる誰かを威嚇している最中くらいしか、俺にはわからない。それに、流石の相棒でも昆虫とのコミュニケーションは不可能であったのだ。
だからライアンを抜きにして、彼女らと意思疎通することは不可能。
そのライアンが言うのだ。あまり気にし過ぎても仕方がない。
◇
「兄ちゃん、言われた通りに試作してみたよ」
「プリンのような手間も無く、非常に簡単でした。これならば、他の調理担当者に任せることも出来ますね」
煮炊き場から大鍋を担いできたリグダールさんと、前もって作っておいた棒ゼラチンを用いて作られたミルクゼリーを持参したタロシェル。
俺とライアンは早速、ミルクゼリーの試食を始めている。
「プリンとは全然違うが、これはこれで美味いな」
「良かった、ちゃんと固まってる。それだけが心配だったんだ」
ゼラチンを作り出す工程は、膠を作る工程を真似たものだ。だから一応は固まるだろうと考えてはいたのだが、実物を見るとその思いは一入であった。
しかも、これで卵の数量不足によるプリン作成量の問題を解決することもできる。
プリンの奪い合いという、開拓団員内での揉め事を避ける意味では大きな成果と言えるだろう。
「ええ、まさか膠を料理に使うとは思いませんでしたよ」
「さすが兄ちゃん! でも、この膠を作るまでが結構大変なんだよね。灰汁取りが特に」
俺がワイバーンの骨から肉を削ぎ落したり、二度茹で零したりといった工程をタロシェルもリグダールさんも見ている。それを含めれば、それこそかなりの手間ではあるのも事実。
でも、それはゼラチンの作り置きができることと引き換えになる。必要最低限の手間なのだ。納得してもらうしかないな。
「全ての工程を二人がやる必要もないよ。誰かに教えて専業にしてしまえばいい。タロシェルとリグダールさんの本業はパンと焼き菓子なんだし」
「そうですね。冬の間は警備担当者以外は手持無沙汰でしょうし、適当に割り振ってしまえば良いでしょう」
「まじめで丁寧な仕事が出来る人を選ばないとね」
俺が主張したいことを、リグダールさんとタロシェルの二人が理解していたことに安心した。
「ニィ!」
「相棒、バラせたか。なら早速だけど、煮込んでいこう」
大鍋と言ってもあのすっぽんが丸々入る大きさの鍋ではない。
相棒に渡した俺のイメージ通りに硬いはずの背中の甲羅も八等分されていた。腹側の硬い部分までもブツ切りと言っていい。
他の部位も肉は食べやすい大きさに、内臓の類は大きなものは分割、小さなものはそのままで鍋の中に入れられていく。
まあ、半分以上は鍋に収まりきらず、相棒にストックされたままのようだが。
「兄ちゃん。これ、何の肉?」
「タロシェルは知らなかったのか? 檻で飼っていたデッカい亀だぞ。魔王が言うには物凄く美味いらしい。そんな風には全く見えなかったけどな!」
「十日も泥抜きに費やしたんだ。美味くないと困る」
竈に載せた大鍋につい先日ようやく支給された給湯器で水を張り、相棒に秘蔵されている残り一樽の白ワインを少量投入する。あとは臭み消しにと俺なりに厳選した、ライアンの薬草も入れておいた。
このまま暫く煮込み、出汁が十分に出たところで塩で味付けすれば完成となる予定だ。本当は醤油があればいいのだけど無いのだから、それくらいしか味付けの工夫は出来ない。
醤油は麹菌がどこに存在するのか不明で、作り方もいまいち判然としない。
魚醤の作り方は兄貴の試作を見ていた結果として、ある程度分かるのだが、川魚で出来るかどうかの不安がある。
それに、あれは兄貴の所為で半ばトラウマなので、チャレンジすらしたくないという感情が先に立ってしまうのだ。
作りようの無いものを幾ら惜しんでもキリがない。諦めよう。
「こう、何と言いますか。食欲をそそられる匂いがしますね」
「確かに、腹の減る匂いだ」
「兄ちゃん、お芋入れる?」
俺の背後で大鍋を覗き込んでいたのはリグダールさん。身長が足りずに匂いを嗅いだだけなのは、ライアンとタロシェルだ。
「タロシェル、芋は……一応貰っておくか」
「じゃあ、ちょっと分けてもらってくるね」
「タロシェル、俺たちがここで料理していることは内緒だぞ! あとは雨で地面が滑るから気を付けろよ!」
「わかってる」
ここは住宅地から遠く、南口を塞ぐように置かれた小屋だ。
窓を開け放しても匂いが住宅地まで届く心配はないが、自ら話題にしてしまえば意味は無い。
そしてこの小屋には蜂たちが同居していることで、開拓団員が容易に近付くことはできない。そこを上手く利用して、今回すっぽん鍋の試作をしている。
ダリ・ウルマム卿辺りにバレるのはいいが、師匠だけには絶対に秘密にしなければならない。
開拓団内にミラさんの弟か妹が生まれてしまうのは避けたいからな。
もし、そんなことになってみろ。ライアンがあれほど恐怖する師匠の奥さん、ミラさんの母親がこの地にやって来てしまうかもしれない。




