第二百五十話
どこの国でも、いや、世界でも蟹を食べる時は無口になるらしい。
そんなどうでもいい感想が俺の中に浮かんでいた。
「ウルマム殿、問題とは如何なものでしょう?」
少々泥臭い蟹の身を皆が食べ終わる頃合いで、師匠が口火を切る。
問われたダリ・ウルマム卿は厳しい表情で、師匠へと答えを返す。
「ウェンデル河流域であることは事前に了承しておったのだが、河からの距離がここまで離れておってもこの辺りまで表層の土は極めて薄く、ほぼ砂地であることが判明しておる。開拓のための拠点を築くとして、どのように手を加えていくべきか、とな。地域こそ異なれど領地を経営する貴族で、その点に長けておるであろうライス殿の意見を伺いたい」
「それはこの丘も含まれる、という意味でしょうか?」
「うむ。先程、蟹を茹でておった穴を見れば一目瞭然であろうな」
川の氾濫など、日本では大型の台風でもやってこなければ起こることのない災害。だが、この辺りには元々人の手が加わっておらず、氾濫を抑制する手段すら施されてはいなかった。
しかも、幾つかの開拓団が開拓そのものに失敗している土地だ。そう簡単に解決できる問題にはならないと思われる。
自然というものは、俺が考える以上に厄介であるのかもしれない。
「まずは開拓団の安全を確保した上で、ですが。雨期にどれほどの規模で氾濫が起こるのかを見極めましょう。でなければ、対策も何もあったものではありません。最悪は、多少後退してでも草原に仮の拠点を築くのが理想でしょうか」
「ふむ。開拓団の安全を確保するとなれば、後退もやむなしであろうな。斥候が視察しておった本命の丘はあちらになるが、そこも安全と言い切れるか分からぬでな」
「ええ。丘を回り込むように水が押し寄せてくれば、開拓団は孤立を免れません。水がどの程度で引いてくれるのかすら、今の僕たちでは判断基準となるものがありませんからね」
「前回の氾濫が及んだ範囲はひび割れた地面が示しておると考えられるが、あくまで春季の氾濫であり、秋季の氾濫の範囲を特定できるものではない。そして、氾濫の範囲が毎回同等であるとも考えにくい。そうした場合、どの程度後退すべきであろうか?」
「十分な余裕を持つべきでしょう。差し当たっては、馬車で一日の距離を取りましょう。戦車での一日の距離ともなると戻るのにも手間でしょうからね」
師匠とダリ・ウルマム卿の相談には誰も口を挟まない。俺もミラさんもリスラもアグニの爺さんも、ダリ・ウルマム卿の部下の皆さんも。
村長になることが決まっているミラさんは統治こそが仕事であるが、今回のような事態に対処できるほど経験があるわけではない。こういった事態に対処できるのは、それなりの経験と知識がある人物でなければならないのだろう。
仮に丘に陣取ったとしても、俺や相棒の存在があれば脱出すること自体は可能であると思われるが、恐らくそういった例外的な対処方法は最初から彼らの念頭にはないのだろう。
俺はこの開拓団の神輿であっても、かなりの割合でイレギュラーな存在であるという自負はある。師匠やダリ・ウルマム卿の判断を歪めるような発言はすべきではない。そのくらいの理解はあるつもりだ。
「砂地の開拓に関するならば、技術者の意見をまとめる必要もありましょうな」
「そうですね。ロワン氏のご子息であるお二方と、ゴブリン族の方々にご協力していただきましょう」
師匠とダリ・ウルマム卿の極めて真面目な話し合いが続く傍ら、甲羅に付いた蟹味噌を指で掬って舐めていたのは俺とアグニの爺さんだ。子供たちも俺の真似をして蟹味噌を舐めているが、その姿は真剣そのもので嫌に静かだ。
「実に旨いのぅ」
「大きいから大味かと思ったけど、そんなことは無かったですね。普通に味の濃い淡水の蟹でした。父はよくこの甲羅に酒を入れて、軽く焙って飲んでいたものです」
「ふむ。それはまた旨そうな話で興味をそそられるが、合いそうな酒はあるかの?」
「酒樽は幾つか出発前に『収納』した覚えが……でも目録を失くしてしまってまして。それに日本酒に近いお酒となると、どうでしょう?」
ワインの入った酒樽は結構な数が収められている、ということ自体は把握していても、そのワインのほとんどは赤ワインであるはずだ。俺はこちらで白ワインというものを見たことがなく、存在しているかどうかさえ知らない。
当然、米が存在するかも定かではないため、日本酒に似た酒があるかどうかも知らない。
しかし、こういった時は相棒に頼ればなんとかなる場合が多い。相棒は賢いのだから……。
「ということで、日本酒若しくは白ワインみたいなお酒を探しておくれ」
「ニィィ? ニィ!」
お酒の樽は帝国上層部からの贈り物である。仮に白ワインが大層珍しいものであったとしても、贈られた樽の中に紛れ込んでいる可能性は無いとも言い切れない。
そうして、相棒が取り出した樽がふたつ。
アグニの爺さんが早速樽の栓を抜く。その様子をダリ・ウルマム卿の部下の皆さんも固唾をのんで見守っていた。どうやら、俺とアグニの爺さんの会話を聞いていたようだ。
「ほう、これはこれは! これならば蟹に合うのではないかのぅ」
取り皿に使っていた木製のお茶碗に注がれた酒の色は透明に近い。白ワインがあったのだ!
父が兄貴に酒のことを教えている場面に立ち会ったことがある俺は、魚介には白ワインが合うことを知っている。
兄貴は赤ワインが好みであったからか、何にでも赤ワインを合わせようとして、父にイカの塩辛を勧められていたことがあった。イカの塩辛を食べた後に赤ワインを口に含んだ兄貴は盛大に噴出したことを思えば、ワインの色に次第で合う料理が異なるのだろう。
当時というか今もだが、日本の法では未成年である俺にはそこまでの関心は無かった。でも、こちらでは綺麗な飲み水は貴重で俺のドケチ魔術の水は不味いとくれば、お酒を飲まざるを得ない。軽く、そう軽くなら、平気さ。
「薄めなくても飲めますか?」
「この透明な酒は薄めると不味くなってのぅ。このまま飲むのが正しいのじゃ。とっと、このくらいで良いかの?」
「そのまま持っていてください。少し焙ります」
アグニの爺さんに甲羅の両端を持ったまま維持してもらい、俺がドケチ魔術『火』で焙る。
燃料が魔力であるからか、火の魔術は師匠が使うタイプでも未熟な俺であっても水の中ですら火が消えないという特殊な性質を持っている。そうは言っても、俺の場合は指先を軽く振るだけで消えてしまうのだが。
そして何より熱い。これが問題だが、短時間なら我慢できなくはない。
「ほほう、よい香りだの! これは愉しみだわい」
「全部飲んじゃダメですよ。俺にも少し分けてください」
「わかっておる。わかっておる」
俺とアグニの爺さんのやり取りを鋭く観察していた、ダリ・ウルマム卿の部下の皆さんも真似をし始めたようだ。甲羅を焙る火に関しては、焚火を起こして対処するようだ。
「お兄ちゃん!」
「ミジェナちゃんはまずライアンから基礎を学んでからだね。俺の魔術は師匠やライアンのものとはかなり違うけど、基礎は大事だから」
「ん」
「ほう! これは……」
「ああ、ちょっと爺さん、俺にも!」
ミジェナちゃんが俺の革鎧の垂部分を掴んで何か言いた気にしている間に、アグニの爺さんは甲羅に口を付けていた。甲羅を焙ったことで揮発した酒の香りが辺りに漂う。少しだけ甘い香りに、蟹独特の香りが混じる。
最早、師匠とダリ・ウルマム卿の話し合いを真面目に聞いているのはミラさん唯一人となっていた。




