第二百四十九話
俺とアグニの爺さんはホクホク顔で丘まで戻ってきた。リスラは様子見といったところ。
ただ、蟹を茹でれるようなサイズの鍋はない。炊き出しに用いられていたものも含め、小さいのだから言うまでもない。その点をどのように解決するのか、戻って来てから気付いた俺は抜けている。
「戻ったか、勇者殿」
「皆さんの昼食を手に入れてきました」
「ほほう、蟹であるな。行軍中の野営ではよく口にしたものだ」
どうやら蟹を知らなかったのは、リンゲニオンを出たことのないリスラのみであるようだ。
魔物が蔓延るため、防衛を兼ねて大勢で旅をすることが基本となっている世界では、生まれた街や村から一歩も出たことがない者たちが大多数を占めていると聞く。
例外は軍及び騎士団と行商人、僻地へと赴き開拓に勤しむ新規開拓団くらいなものであるらしい。
「それで周囲を調べて回ったところ、本命と目される丘はあちらにあるものと判明した。夜を待たず、陽の高い内であれば移動も可能であろう」
「河の氾濫が幾度と繰り返えされた後、押し寄せた土砂が堆積したのが丘を形成しておるようじゃの。ここと、あちらに見える丘とでは、どちらが大きいのじゃ?」
「部下の話では、あちらの方がやや広いという報告である。いずれにしても、その蟹を食してからの行動となろう」
「うむ。では儂は蟹を茹でることに専念しようかの」
「お任せしますぞ、アグニ殿」
相棒が取り出した蟹を見た、ダリ・ウルマム卿や部下の皆さんは目の色を変えている。如何にワイバーンの肉が美味しかろうと、毎回毎回では飽きているのは俺も同じ。変わったものが食べたくなるという気持ちに加え、それが蟹であるというところがポイントだろう。
報告や打ち合わせの後、アグニの爺さんは丘の地面を掘り始めた。素手で、しかも抜き手というやつで……。
「穴を掘るんですか? それなら、相棒に一口食わせれば、なあ?」
「ニィ!」
「おおぅ、そんな手があったとはのぅ」
相棒の右触手は蟹が一匹すっぽりと入る程度に地面を齧り取った。深さ四、五十センチの穴は見事に地層を描いていた。
表面は二十センチ程度は肌理のそこそこ細かい土が、その下の部分には目の細かい砂や玉砂利が見える。アグニの爺さんの推測が正しいことの裏付けのなった。
「むむ。このような地質では開拓が思うように進まぬであろうな。勇者殿、すまぬがライス殿とミラ殿を解放してはくれぬか? 相談しておくに越したことはないのでな」
「はぁ、わかりました。相棒」
「ニィ!」
ダリ・ウルマム卿のお願いに従い、相棒に師匠とミラさんを取り出してもらう。案の定、師匠とミラさんは出てくると同時に何が起こったか分からず、混乱をきたしたようだ。
流石に毎度毎度のことである。俺は師匠とミラさんをしばらく放っておくことにする。そう判断した俺にリスラは何も言わない。それが最善だと、リスラも判断したらしい。
「結界を張り終えた。カツトシ殿、水と塩を頼みたい」
「ここに水を張ればいいのですね? 塩は相棒、頼んだ」
「ニィ!」
開拓団の物資である樽に入った塩を相棒に取り出してもらっている間に、俺はドケチ魔術で穴に水を注ぐ。穴の表面の多くが砂地であるにも拘らず、キラリと光る結界に阻まれて、水が浸透していくことがない。
大荷物となる鍋を持ち歩かずに済むのなら、例え単独行であったとしてもアグニの爺さんなら有り得ないとも言い難い。この爺さんもライアンも色々と規格外に過ぎる。
穴を掘って焚火をすれば、ある程度の風を無視できる上に後片付けの容易となる。俺も経験上、森や草原で野営をする時などはそのようにしていたからな。
「殿下は焚火を起こして、そこらの石を焼いてくだされ」
「は、はい」
俺が注水しているのはドケチ魔術由来の水で、所謂純水。ミネラル分が全く含まれていないため、無味無臭で不味いことこの上ない水だ。温度もほぼ常温である。
アグニの爺さんが結界を敷いた穴に水を注いでいる以上、下から熱することは不可能。だからこそ、焼いた石を放り込むという荒業に出るのだろう。
しかし、そこで俺はふと思い至る。
「ライアンが作った風呂の給湯器を使えば良かったんじゃ?」
「なるほど、元氷の剣ですね」
「おおう、そうじゃの。今、あれはどこにあるかの?」
氷の剣を改良して造られた風呂の給湯器は、今現在では複数存在している。勿論、全てライアンが造り出したものである。
俺は水を創れるし、魔力の消費を気にしないのであればお湯も創れないわけではないため、所持してはいない。一番身近にある所在とすると、子供たちの乗る馬車が有力候補となる。
「子供たちの馬車なら、どこかに必ずあると思います」
「金盥と一緒に置いてあるはずですわ」
「では、カツトシ殿。子供たちごと、解放してはくれぬか?」
「リスラのように蟹に驚く姿も面白いでしょうからね。相棒、馬車ごと頼む」
「ニィ!」
相棒が子供たちが乗り込んでいる馬車を取り出した。
馬も驚いているようで目をぱちくりさせているが、今のところは暴れる様子はない。どちらかというと、御者のお姉さんの方が大きく驚きを表していた。
そんな馬車の下に、いいや、馬にはミートが寄り添い、落ち着かせてくれているようにも見える。
「ああ、カットス君。今の状況は?」
「そうよ! もう着いたの? つい先刻、その子の中に入ったばかりなのに!」
給湯器をどうするかを考え実行している間に、師匠もミラさんも正気に戻っていたようだ。
師匠はある程度相棒の能力を理解しているからか、正気に戻るのが早かったのだろう。今も俺に対して捲し立てるミラさんとは態度が大きく異なる。
「おお、ライス殿。問題があってな、お呼びたてした次第である。ミラ殿が落ち着くには今しばらく掛かりそうであるが、アグニ殿が蟹を茹でるまでに回復するであろう」
「蟹ですか?」
「勇者殿と殿下、アグニ殿で捉えてきてくださったのでな。ここに居る皆の昼食にしようと考えておる」
師匠は蟹を正しく認識している。俺の肩を引っ叩きながら混乱を沈めている最中のミラさんがどう反応するのか見物であるが、ミラさんはそれなりに旅慣れていることを考えれば、リスラのように怯えることはないようにも思えた。




