第百八十七話
――ドス、ドスン、ゴキッ、ペチャ
「ああ、もう、うるせぇ!」
非常に耳心地の悪い音と振動によって、俺は目覚めた。
目覚めたというのに視界は白い靄で覆われていて、まるでまだ夢の中にいるように感じる。トイレに行きたくて目が覚めた気でいたら実は夢の中でした、といった経験は以前にもあった。その時はギリギリではあっても漏らしてはいない。
靄で覆われ朧気ながら、相棒が何かを翻している姿が映し出された。
翻されている何かは大半が白っぽいのだが黒い柄があり、サイズは広く大きい。
左の触手は布団を翻しては地面に叩きつけ、右の触手は布団を上面を叩いている。相棒は、その行為を何度も何度も何度も何度も繰り返していた。
「相棒、布団を干してんのか? でもな、そんなに何度も叩いてると綿が切れて布団がダメになっちまうぞ」
俺が声を掛けても、相棒は止まることがない。本当にまだ夢の中なのかもしれない。
それにしても寒い。肌寒いなど通り越して真冬のよう。
左手を握り込むと指先が氷のように冷たい。右手は長い時間正座していた足の裏みたいに痺れて感覚がほぼない。
「――痛ツ!」
寒さに凍え、腕を摩ろうとして激痛が走った。
そして思い出す、寝惚けている場合ではないと!
一体、どれくらいの時間、俺は眠っていた?
じんじんとした痛みと熱を発する右上腕からは、今も絶えず血が流れ続けている。
魔物や獣の血を見ることには慣れてきたのだが、さすがに自分の血を見るとくるものがある。
俺は骨が露出する程の大怪我を負うのは、日本もこっちも含めて人生初の出来事なのだ。気絶しても仕方ないよね?
そんなことは今はどうでもいい! 考えるな! いや、考えるのを止めるのはマズい! 考えながら動け!
ちくしょう! 考えが纏まらねえ、脳に血が足りてないのか?
兎に角だ! 今は止血を優先しないと!
いつも持ち歩いてる手拭を使おう。
右手は動かないから歯で手拭の端を噛んで、左手でなんとか右脇に手拭をぐるりと巻き付けた。何だか、傷口が小さくなってないか? それとも、ただの目の錯覚か?
チィッ! 右肩から首元までの鎧は吹っ飛んでるから良いけど、脇の下で健在な鎧に干渉して締め付けられそうにない。それに鎖帷子も邪魔だ。
役に立ってほしい時に役に立たず、要らないときに邪魔をする鎧と鎖を相手に必死に格闘してみたが、左手一本の俺ではどうすることもできない。
「相棒! 相棒!! ……ダメだ、聞こえてねえ」
意識を取り戻して直ぐの俺が布団と勘違いしたのは、俺たちを襲ったワイバーンであったらしい。
視界の靄がやや晴れたことで、視線が通るようになって気付いた。
相棒に喉元を掴まれ、幾度も繰り返し地面に叩きつけられたワイバーンの口からは舌が垂れ下がり、息すらしているようには見えない。恐らくはもう死んでいるのだろう。
そして相棒の触手にも変化が見られる。
つい先刻までは俺の腕をコピーしたような人の掌を象ったものであったはずの左の触手は、守護の森で遭遇した極太なゴリラの腕に切り替わっていた。
右の触手はそのままのようだが、サイを再び咥えてワイバーンに叩きつけている。
「相棒がダメならミート。ミート、こっちに」
ミートは木陰に隠した。危険を感じて逃げていなければ、だが。
俺が声を掛けて直ぐ、カシャカシャと木製の車輪が草と地面を掴む音を奏でながらミートが姿を現した。
「ミート、済まないがこの辺りにある革紐を噛み切ってもらえないか?」
「フヒー」
ミートの返事は微妙だけど、顔が俺の背中に近付いているってことは理解してもらえたらしい。
俺の鎧は一応組立式だ。
普段は面倒なので組み立てた状態で、被るように着用している。でもメンテナンスの折にはバラして作業するため、整備性も重視されていた。
両脇腹の少し後ろの部分、正面のパーツと背中側のパーツを靴紐のように編み込んで結び付けている革紐が通っている。それをミートに噛み千切ってもらいたい。
そうすれば鎖帷子はどうにもならないが、少なくとも鎧は排除できる。
「ブゥゥゥゥ」
「……無理か?」
ヤバい。万策尽きた?
「こんな所で死んで堪るか! 日暮れまでに帰るとミラさんと約束したんだ!」
このままだと安らかに眠ってしまう。
今も少し眠い。右腕だけでなく、全身の体温が下がっているのも感じられている。
迷った挙句に造血剤は服用してあるが、渾身の『氷結』で消費した魔力の補填に消費される血液の量を考えると頭が痛い。今も猶、右上腕からは血が流れ続けている。圧倒的な血液不足に陥っているのだ。
もう、こうなったら多少無茶でもやるしかない!
「ミート、相棒の腕を齧って力いっぱい振り回してくれ! そうすりゃ、いくら相棒でも気付くだろう」
「ブルゥゥゥ!」
ミートの大きな顎なら、相棒の触手でも十分に噛み付ける。
そして馬にしては巨躯を誇るミートならば、相棒に負けない力を持っていても不思議じゃない。
気合を入れたミートは、俺の背中側にある触手の根本に頭突きを入れると大口を開き、噛みついた。そのまま、首の力だけでぶん回すようだ。
「ニィ、ニィィィ?」
「ミート、もういいぞ! 相棒が気付いた。よし相棒、ここを掴んで鎧を剥がしてくれ。可能なら鎖帷子も」
「ニィニ、ニィニ、ニィィ!」
「やめろ、ワイバーン掴んでた汚い手で傷口に触ろうとすんな! バイ菌が入ったら大変だろ! 止血するのが……先……だ?」
ミートの働きのお陰で相棒がワイバーンの袋叩きを止める。
手放されたワイバーンは一瞬だけ宙を漂うと、ぺちゃんという音をたて地に落ちた。それは巨大な魔物が地に伏せる際の音にしては微妙だ。
だが、そんなことを気にしている暇は俺にはなかった。
再び止血のために手拭を左手に取った。その時、俺は目撃した。
そして目が点になる。
大小様々なマカロニが肘側の傷口から伸び、ピョコピョコと周囲を見渡す動きを見せる。
右見て、左見て、右。横断歩道を渡る子供のように。
その後、肩側から同じようにして伸びてきたマカロニと結合した。
うん、マカロニじゃないな。ピンク色の表面からして血管なのだろう。
しかし、その奇妙な光景はまだ続くようなのだ。
保健体育の授業で一度だけ使われた人体模型。その筋肉によく似た筋の通った赤い肉が肘側と肩側から迫り出し、マカロニと同様に結合した。
筋肉を追い掛けるように、その表面に白い膜のようなものが被さる。そして白い膜を更に追い越す勢いで肌色の膜がやってきた。
「ニィニ! ニィィニニィ!」
「えーと……」
なんだろう? 物凄く腑に落ちないのだけど、傷口は塞がった。




