第百八十五話
二対の影が草原の上を舐めるように、俺の視界の左端からライアンの下へと向かっている。
シギュルーの行動は、その何者かの存在を察知したからこそのものだろう。
俺は視線を上方に向け、天を仰ぐ。
かなり上空に現れたのは二頭のワイバーン。ベルホルムスへの道中でシギュルーとやり合った幼体とは比べ物にならないサイズ。間違いなく成体だろう。
豆粒にしか見えないライアンと比較すると、その大きさは胴体だけでも十倍以上はある。これに長い首と長い尻尾が加わるのだ。脅威以外の何物でもなかった。
ライアンまでの距離は約三百メートル。
ライアンとシギュルーだけで二頭を相手取るのは危険すぎる。俺と相棒も加勢するべきだ!
だが、ミートを呼び寄せて戦車で移動するのはマズい。ミートを守り通せる自信がないのだ。
俺も相棒も今までワイバーンは景色の一部としてしか認識しておらず、交戦経験が皆無。相手がどのような行動を取るか、不明な点が多い。ミートには現状のまま、木陰に隠れていてもらおう。
俺が覚悟を決め、移動を開始しようとした矢先、俺と相棒が吸血しているサイまでもを覆い尽くす影が差した。
「ニイィィィィッ!」
「なんだ!?」
太陽は俺の後方にあり、影はそちらから迫って来ていた。
振り返ると同時に背負っている盾を外し、両手に持つ。
「こっちもかよっ!」
太いというよりもゴツい両足の鍵爪が俺目掛けて落ちてくる途中だった。
今にも迫りくる鉤爪に対し、相棒は右の触手で頭部を咥え込んだままのサイを盾にした。俺も両腕の脇を締め、盾の柄を固く握りしめる。
――ガガンッ
――クシャ
――グルアァァァァッ!
向かって右の鍵爪は相棒がサイで受け、俺が構える盾は左の鍵爪を受けた。
その直後、左斜め上から長い首を振り回すように大口を開けた頭部が降ってくるが、相棒の左の触手がワイバーンの喉元を掴んで噛みつきを阻止。
だが、喉元を掴む左の触手が本来なら吹き飛ばされていた俺の身体を固定したため、俺は吹き飛ばされずに済んだ。
ただ、吹き飛びはしなかったものの、俺の身体は宙に浮いていて突撃を受け止めた衝撃は逃げ場を失ってしまう。
盾から俺の腕を伝った衝撃は、お腹と背中の辺りから抜けていく。腹筋はそこそこ鍛えてあったつもりだけど、息が詰まる。
「カハッ!」
眩暈を起こしそうな程の衝撃が一気に駆け抜けたが、何とか堪えきった。
でも! 安心するにはまだ早い。
鉤爪、噛みつきとは時間差で右から尻尾が迫るのが視えた。
咥えていたサイを開放した右の触手が、振り回すように迫ってくる尻尾に巻き付いて動きを止める。
間一髪のところで助かったかと思いきや、相棒が巻き付いた尻尾の影からもう一本の尻尾が襲ってきた。
「尻尾二本あるとか反則だろ! って、言ってる場合じゃねえ! 『氷壁』」
地に足さえ着いていれば、屈むことで避けられるのだけども! 現状、足首と膝を曲げたところで姿勢は全く変わりそうにない。
盾を! と思って見れば、ワイバーンの鍵爪が突き刺さってるし……。
それに『H2O』で悠長に水を集めている暇などない。
だからドケチ魔術ではなく、師匠に教わった魔力で物質そのものを創り出す魔術のマイナーチェンジを右掌に込めて使う。
本気も本気、残存魔力量の半分以上を込めた渾身の『氷壁』だ。
出し惜しみしてたら死んじゃう! けど、気絶してもたぶん死んじゃうから全魔力は突っ込めないというジレンマ。
しかし、迫りくる二本目の尻尾を垂直に受けることはできない。俺の魔力量は他の魔術師に比べると著しく少ない。だから、魔術の強度もそれなりでしかない。
尻尾の先端に垂直に受けると間違いなく砕ける。それはイコールで何の役にも立たないことを示す。
だから俺は、『氷壁』が展開された右手を二本目の尻尾の軌道を逸らすように斜めに傾けた。
――ギシィィィィ
『氷壁』の最も厚い部分が上手く尻尾の側面を滑らせる。ほんの少しだが尻尾の軌道を逸らすことに成功する。
しかーし、魔法陣が現出している正面こそ分厚い『氷壁』であっても、魔法陣から離れるほどに薄くなるのは必然。尻尾を滑らせている間に、その『氷壁』の薄い部分は削り取られ砕け散ちる。
巻き込むように振り回されている尻尾の軌道は、少ししか逸らせていないにも拘らず、だ。だが、もう魔術でどうこうしている時間も無い。
俺は咄嗟に、首を左面方に倒すことで尻尾の軌道から逃れた。ただ、首を曲げた反動で右肩が少しだけ跳ね上がってしまった。
ふと、右上腕の腕鎧と革鎧の右肩の部分を引っ張られるような感覚を覚える。
首を前に倒したまま、俺が視界の端に捉えたのは腕鎧と革鎧の肩バッドが吹き飛ぶ瞬間だった。
俺はミラさんが負傷した一件以来、手間を惜しまずに鎖帷子と鎧下の双方を身に着けることにしていた。
鎖帷子は対人戦での刃や魔物や獣の爪を防ぐために。鎧下は関節部に布を多重に巻き付けて鎧のズレを防ぐと共に関節部を補強しつつ、下着同様に汗の吸収を助ける。
その鎖帷子、鎧下、腕鎧、鎧の肩パッドのいずれもが何の抵抗もなく、障害にすらなっていない。
猛毒が宿る尻尾の先端の直撃こそ避けられたようだが、尻尾の側面にある鋭い刃状の鱗に因って上腕の腕鎧と革鎧の肩パッドはいとも簡単に引き千切られている。
鎖帷子と鎧下と、防具に守られていたはずの右上腕の筋肉があっさりと削ぎ取られ、鮮血の飛沫と共に宙を舞い、視界の外へと誘われた。
「いっ! たあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああ――」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
それにも増して、傷口が焼けるように熱い!
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!
もう痛いのか、熱いのか、意味が解らない!
「ニィィィヤアアアアァァァァァァァァァァァァァァ――」
俺は一度歯を食いしばろうと試みるも痛みを堪えきれずに叫ぶ。叫ぶことでしか、痛みに抗う術がなかった。
意識が飛びそうになる程の痛みと灼熱を感じながら、俺の叫び声とは別の音が微かに聞こえていた。




