第百四十六話
「なんで隠す?」
そう言うとライアンが俺の右隣りに寄って来る。
対処方法を考えるのに精一杯な俺は、返答しなかった。
「ん? ……失敗したのか?」
樽と俺の顔を交互に見たライアンが指摘する。
いいや、まだ失敗ではない。これからしっかりと対処すれば、失敗にはならない! 間違いなく、苦しい言い訳でしかない。
額を覆う冷たい汗が眉を伝い目に流れ込み、沁みる。それでも考えることは止めない。
俺の魔術はその場にある物を利用するため、魔術を解除したからといって魔力が霧散して終わりではない。
それは今回の『CO2』にも該当し、俺の周囲に存在する分子を結合した結果である。
今はまだ樽を隔てた掌の先では魔術は作用している。但し、樽の栓を閉じたことで、二酸化炭素を作り出すことは止んでいると考えられる。
魔力を極限まで削った俺のドケチ魔術には、何らかの物質を分解して分子を取り出せるほどの強度は無い、はず。とはいえ、栓を外せばその限りではない。
緊急措置として、相棒に呑み込ませるという恐らく使えない。
パカっと手首の辺りが開いてくれたら有難いのだけど、それが可能ならステータスプレートを取り出す時に自傷する必要はない。以前のような便利な機能は悉く無効となっている。
それにここまでしておいて、なかったこととするのは格好が悪すぎる。なので、俺自身で何とか対処したいという意地がある。
しかし、最悪は樽が破裂するかもしれない。逆に言えば、破裂されさせなければ失敗ではないのだ! ちょっと強引かな?
「ライアン、危ないから俺の後ろに居て。相棒、悪いけど栓を抜いて」
「まぁ、何をしてるか分からないし、好きにしろとしか言えんか」
「ギッギッ!」
「さっき栓をしてもらったばかりだけど、抜く必要があるんだわ。頼むよ。っと、ゆっくりな」
「ギッ!」
相棒の親指と人差し指で栓を摘まむと、左右に回しながら栓を緩めていく。
――シュウゥゥ
炭酸が抜ける音。続いて、パチパチと小さくも弾ける音が聴こえた。
俺が思考している間に炭酸は浸透していたらしい。
相棒はそのまま栓を外した。次だ。
急がないと! 栓が抜かれたことで、再び二酸化炭素の結合が開始される。小さな開口部しかない樽では排気が追い付かずに破裂しかねず、まだ安全には遠い。
樽の中ほどに添わせた俺の右手をゆっくりと上へと移動させる。その際にささくれ立った木材の一部が刺さるが、気にしてはいられない。
血が滲む箇所を相棒が撫でる。「大丈夫?」と心配しているかのようだ。
とはいえ手を樽から離すと、たぶん魔術を解除したのと同じ効果になると思われる。だから慎重に、慎重に移動させていく。
程なく、上端に到着。そのまま今度は穴の位置までゆっくりと右手を持っていく。
穴から気体を引き抜くように、掌を樽の上部から離していく。十分に離れたところで魔術を解除!
「フウゥゥゥ――」
本当に冷や汗ものの大苦戦だった。こういった緊張の伴うパズルのようなものは、得意ではない。好きな人もいるかは甚だ疑問だが。
だが、内容物が噴き出すということもなく、無事に何を乗り越えた。
「なんだ? 何も起こらねえじゃねえか」
肩越しに語り掛けたのはライアンだが、複数の視線を感じる。
振り返ると、馬車に乗り合わせた全員が覗き込んでいた。御者を務めていたはずのミモザさんまでも。
馬車はもうとっくに目的地に到着していたらしい。馬車の制動に伴う振動は、緊張からか一切感じなかった。
「よし、成功だ! ほれ、ライアン」
「もの凄く失敗ぽかったんだが……。これ、飲めるのか?」
「おう、グイッとやれ」
リスラやミモザさんの苦笑は聞き流す。
俺が成功だと言えば、よくわかっていない皆には否定する余地はないはずだ。
「うぉっ、何だこれ? 酒精のないエールみたいだ」
「エールだと? 俺にも飲ませロ! 早くよこせ、ライアン!」
半ば奪い合いに近い形で、ライアンの手から樽をもぎ取ったロギンさん。
しかし、その表情は優れない。酒じゃないからだろう。
「酒精がない。が、これはこれでアリだな。子供たちが喜ぶんじゃないか?」
「どうだろうな?」
確かに子供たちには受けるだろうけど、日本の洗練された炭酸飲料を飲み慣れた俺には美味しく感じないと思う。それに砂糖が結構多めに入っているのが問題だ。
兄貴が炭酸水を使ってガムシロップを作っていたのを、俺は覚えている。炭酸水には恐ろしいほどの砂糖が溶けるのだ。
幼い子供たちは基本、飲料は水しか口にしない。虫歯にならないか、心配だ。
木の枝を叩いて作った歯ブラシで朝晩、歯を磨く習慣はあるんだけど、歯磨き粉はない。塩で磨くという方法は難しい。何せ、塩はそう安いものではないからな。
「開拓団の特産品にすれば良かろう。売れるぞ!」
「柔らかパンと酒精なしエール。麦が取れるまでの繋ぎにするにゃ、足らないだろ?」
アグニの爺さんとライアンで皮算用を始める。どう考えても、ライアンの言う通り不足するのが目に見える。
それに、俺がこき使われる未来しか見えない。
「あっ、これ美味しいですね!」
「ね!」
ロギンさんが手放した樽は、リスラを経由してミモザさんに渡っていた。どこかでローゲンさんも口にしたらしく、腕で口を拭っている。
間接キスなど、こちらでは誰も気にしない。涎がたっぷりと付着していない限りは……。
商売にするかどうかは、また後日考えるとしてだ。
予定地に到着したのだ。実験を始めるとしよう。




