第百三十一話
俺の前に鎮座する麦粥からは湯気と共に、なんとも懐かしい香りが漂ってきた。
その香りの正体は何か? と、木のスプーンで器の底を漁る。
すると、カクカクとしたサイコロ状の白っぽい穀物らしきものが姿を現す。
スプーンを口にではなく、鼻へと近付けて匂いを嗅いだ後、口へと運ぶ。
舌の上で謎の物体を転がす。その内、何粒かを噛み砕くと肉肉しいスープの味に負けることはなく、穀物らしい独特の香りが口一杯に広がった。
「これは蕎麦だ!」
蕎麦の実の実物は見たことはないけれど、蕎麦殻の枕を愛用していた俺にはわかる。破れた枕から溢れ出た蕎麦殻が確かこんな形をしていた。半割れだったけど。
しかも、この香りだ。間違え様がない。
まさか、こんな所で蕎麦に出会えるとは思いも寄らなかったよ。
ただ、残念なのは殻を剥かれただけの実のままだということ。麺に加工されていれば、感動は一段と大きかっただろうに。
でも、まぁこれはこれで美味しい。出来るなら、お替りしたい!
いや、これからバザールに向かうのだ。俺だけがお替りして、時間を浪費するのはマズいよな。ここは考え方を変えるべきだ。
「ライアン。これ、なんていう植物か、わかる?」
汎用スキルの『通訳』は万能ではない。
何度か相手の言葉が『通訳』されなかったことがあるし、俺の言葉も相手に通じなかったこともある。だからこそ、薬師で植物に詳しいライアンに訊ねてみた。
「ん? それはたぶん山麦だな。先代勇者の農業改革で随分と役に立ったという話だぜ」
マジか? サイトウさん、やるじゃん。
蕎麦って何だったか? 休耕作物? 救荒作物?
まぁ何かしらの利用方法があって、蕎麦を使ったのだろうな。
でも、出来れば麺にするところまで指導してほしかったなぁ。
俺は兄貴みたいに蕎麦打ちをやったことがない。それに兄貴の蕎麦打ちは、俺の留守中に行われていたから、その工程がどのようなものかが判然としない。
但し俺は蕎麦打ちは未経験だけども、うどんなら数回打ったことがある。蕎麦は格段に難しそうではあるが、試してみるのも良いだろう。
◇
所変わって、この空間の中央に集中しているバザール。
各露店には、洞窟内だけど庇のようなものが掛けられている。
売っている物が主に食料品だから、埃をかぶることを避けているのだろうな。
俺の右手で帝国金貨を一枚握っている。先々代の皇帝の横顔が描かれているのが帝国金貨の特徴だ。
勿論、リスラより託された俺の当面のお小遣いである。
金貨一枚あれば大抵のものは買える。特にこの周辺にある食料品や日用品を扱う店舗なら、十分に事足りる。
武具に関しては別だ。武具だと金貨が百枚単位で飛んでいくからな。
盾を買う費用と、出来れば弓を買う費用はミラさんに直談判して捻出するしかない。そこまでリスラにお願いするのもどうかと思うのだ。
この金貨一枚も、相棒が『収納』を取り戻せたら必ず返すつもりだ。
「おい、干しブドウ見つけたぞ!」
「目敏いというか、よく見つけたな」
俺はリスラや子供たちとは別行動で、ライアンとタロシェル君と三人でバザールを徘徊していた。
ライアンに四六時中付き添うキア・マスはリスラに連れられ、子供たちのお守に参加している。タロシェル君は女ばかりになることを嫌がり、俺とライアンの元に残ったのだ。
「陶器でもガラスでもいいから、何か器も必要だよな?」
「あぁ、そうだね」
ライアンの目当ては間違いなく、ブドウ酵母でつくるパンだ。
先日試作した酵母種は相棒に『収納』されていて取り出すことが出来ない。
ステータスプレートを取り出した時のような自傷行為は、如何にライアンであっても許容できないらしい。当然、俺もあれを再びやれと言うつもりはない。
「おいしいの?」
「ああ、うまいぞ! ふわふわだ」
「ふわふわ」
一度目はミラさんに捨てられ、二度目は成功したけど取り出せず、これで三度目か。酵母液が出来るまではほぼ放置だけど、ある程度の温度が必要になるんだよな。
「ある程度の温度が必要なんだけど……」
「んなもん、鍛冶場の隅にでも置かせてもらえよ! なぁ、タロシェル」
「うん、楽しみ」
ライアンがタロシェル君にふわふわパンの布教を終えていた。いいや、これは洗脳に近いかも?
「ほら魔王、山麦もあったぞ。この大きな麻袋一つで銀貨三枚か、随分と安いな」
「俺、金貨しかないんだわ。ライアン、建て替えといて」
「仕方ねえか、あとでちゃんと返せよな!」
リスラから預かった金貨はそう簡単に使えない。金貨は銀貨百枚に相当するから、余程の大店でもない限りは嫌がられるのだ。
蕎麦の大袋は相棒に持たせた。小麦であれば銀貨十枚は余裕で超える金額なんだけど、流石に蕎麦は安いらしい。
これならライアンの好きなオートミールも蕎麦掻で代用できるのではないだろうか? ひょろ長いオーツ麦、所謂燕麦でも小麦より安いとはいえ、蕎麦に比べれば高価だからな。
問題は麺つゆだ。
鰹節は流石に無理だろうけど、魚の干物でもないかな? 小魚を確保できれば茹でて、煮干しを作るのもアリなんだけど、醤油がないとどうにもならないか……。
俺が手を出せる発酵ものはブドウ酵母が精一杯。しばらく出汁は肉にして、塩で味付けするのが無難かな?
とりあえず、ライアンの石臼で挽いてから考えよう。




