第一章 弾丸 -4-
漆黒の翼は、まだ数十メートル先にある。だが、一直線にこちら目がけて飛んでいるのに疑う余地はない。
「予想以上に早い対応じゃな……ッ。走るぞ!」
ティアが言うまでもなく、蒼汰はとっくに駆け出していた。こんなところで竜と戦闘になれば、奏を巻き込んでしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。
全速力でマンションの階段とエントランスを駆け抜け、そのまま外へと飛び出した。ばさりと羽音がする。もうかなり近くまで黒竜が迫っているのだろうが、不思議なことに影はない。
「向こうも大事にはしたくないようじゃな。鳥とごまかせる程度にダウンサイジングしておる」
振り向くでもなくティアは看破していた。あるいは、竜の特性として肉眼以外から情報収集する術があるのかもしれない。
「近くに暴れても大丈夫な場所はあるか?」
「……確か、向かいのマンションの地下なら駐車場があったはずだよ。あっちは社員寮で、平日の今の時間帯なら車に用がある人はいないはず」
人工島である為、当然ブルー・アルカディアは地下設備があまり充実していない。しかし、それでも地下一階程度までの深さなら利用可能だ。土地も広大ではなく高さも制限されている為、ブルー・アルカディアのマンションの二つに一つくらいは地下駐車場がある。
「そこにおびき寄せるの?」
「竜が暴れているなど、誰かに見られると不味いじゃろう。出入り口を封鎖しておけば他に誰も入らん。階段の前後にある火災用隔壁の間に黒竜を挟めば、多少は時間も稼げるしな」
ティアに従って、背後に確かに黒竜の気配を感じながらも蒼汰は駐車場へと向かった。
階段を駆け降り中に入ると、ティアは入り口付近にあった基板に手を触れた。それだけで竜特有の超常現象で操作されたのか、即座にいま通った階段や遠くのどこかで隔壁が降りていく。瞬く間にこの地下駐車場は誰も入れないように鎖された。
ほとんどそれらが降りると同時に重たい衝撃がその扉を叩き、幾度となく鈍い音が響いた。どうやらあの竜が身体を元のサイズに戻した上で隔壁を破壊しようとしているようだが、今のところヒビが入るような様子もない。
この手の隔壁は火災用ではあるが、防火シャッターではなく簡易的なシェルターにもなるようにと試験導入されているもの。いくら竜でも、そう簡単に壊せやしないはずだ。
「ここで迎え撃つんだね」
「……そうしたいのは山々じゃがな。わし一人じゃ竜を屠るには力が足りん」
駐車場の奥まで行って隠れながらも、憎々しげにティアは言った。不遜な言葉遣いとは裏腹に、その顔には確かに焦燥のようなものが見えた。
「青竜は黒竜よりも圧倒的に数は多い。にもかかわらず、我らには黒竜を倒す力はない。それは慢性的なエネルギー不足が原因じゃ」
ティアの言葉に、蒼汰は歯噛みした。それは、蒼汰にだって分かる話だったからだ。
竜は人と契約を結ぶか、直接喰らわなければ、基本的にはエネルギーを得られない。しかし契約による影響が完全には解明されていない為、前者を成した竜は少ない。後者の選択も共生を選ぶ青竜には取れない。
故に彼らは、この島が開発した特殊なエネルギー食料を摂取してどうにか生命を繋いでいる。それは人間に例えれば、水とサプリとショートブレッド状の栄養調整食品だけで生き延びているようなものだ。生活するエネルギーは得られても、それを超える活動には足りない。
「あの黒竜、おそらく今の時点で二人は人を喰っておるじゃろ。流石のわしも、受け止めるだけならまだしも、反撃に打って出る余力はないぞ」
そう言っている間にも、ガンガンと響く隔壁を鳴らす耳障りな音の中に、ヒビが入るような異音も混じり始めていた。これでは、保ってあと数分と言ったところか。
「じゃあ、どうするんだ……」
その蒼汰の言葉は、どうしても疑問形にはならなかった。
もう分かっているのだ。
ティアが何を求めているか。
「わしと契約を結べ、蒼汰」
全てを断ち切るように、ティアは言う。
「この島には、黒竜を秘密裏に討伐する組織がありはする。じゃがそれの到着まで保たせられんのは明白じゃろう。そうなれば、今のわし一人ではお主を守ることも出来んぞ」
その言葉を、言われるまでもなく蒼汰は理解していた。ティアは言葉を濁してこそいるが、このままでは死ぬということを。
「……だけど、契約は出来ない」
耳はあの黒竜が迫る音で満たされている。それでも、蒼汰には唇を噛んでそう答えるしかなかった。
「何故じゃ。確かに契約は半永久的なものになるが、お主に害はない。契約は我ら竜が人の心の内にある願望をその特異な力を以って叶え、出来た心の隙間に我らの存在を据えるというものじゃぞ。むしろメリットさえあると言っていい。この状況で断る理由があるか?」
ティアの言葉は、決して嘘ではない。
竜の欲するエネルギーは、この世界ではどうやら人の精神的なものに置き換えられる、というのはこのブルー・アルカディアでは常識だ。
そして、人は自分の願いには知らず知らずのうちに大きなエネルギーを注いでいる。夢を叶える力を蓄えている、と言い換えてもいいだろうか。
竜はそれを世界の改竄によって叶えることで、そこに注がれるはずだったエネルギーを今後貰い続ける。それが契約だ。人の願望は精神的エネルギーだけでは叶えられないが、竜ならば容易く外部の世界に干渉して叶えられる。Win-Winの関係の完成だ。
「分かっている。けど僕じゃ、ティアと契約者にはなれない」
蒼汰には、契約を交わせない理由がある。
それはあまりに根本的であるが故に、蒼汰の意志ではどうしようもない。
「……どういうことじゃ」
「東霞の大災厄って、知ってるよね?」
蒼汰の問いかけに、ティアはゆっくりと首肯した。
「……もちろん。三年前に本島で起きた謎の災害じゃな」
「そう。そして僕はその生き残りだ。――その災厄で僕は家族と記憶を失った。僕は全てをあの日に捨てたんだよ。恐怖はもちろん、きっと大切だったはずの願いさえも」
蒼汰の中には何も残っていない。がらんどうの、人の形をしたただの殻だ。
「僕には、君に叶えてほしい願いと呼べるものがないんだ」
ちっぽけなものならこの三年で多少は出来た。けれどその程度の願いでは、ティアの望むだけのエネルギーを供給できない。
人として大事なものが、彼には欠けているのだから。
家族を取り戻したいと思ったことさえなかった。失った記憶にも興味がなかった。
そんな人間に、いったいどんな望みを持てと言うのか。
「……理解した」
短くそう言って、ティアは拳を握った。
「ゴメン。狙われているのは僕なのに、巻き込んでしまった挙句に力にもなれなくて」
「謝る必要はない。そもそも敵はわしの同胞じゃぞ? むしろ謝罪するべきはわしの方じゃろ」
くくく、とティアは笑っていた。
とっくにヒビだらけになった隔壁一枚壊れれば、それでもう死んでしまうかもしれないのに。
「安心せい。お主はわしが護るよ。――叶えたい願いが一つもないなんぞつまらん人生じゃ。せめてそれが出来るまでは、生きて貰わんとな」
不敵に笑うと、ティアはコンクリートの地面を蹴った。
それと同時、まるで図ったかのように隔壁が崩れ落ち、あの三メートルもの巨躯を誇る黒竜が乗り込んできた。
低い唸り声が、この地下駐車場に反響する。
黒竜はそのままの勢いで突進するようにこちらに向かってくる。両手の爪は血に飢え鈍く光り、その爬虫類のような口は愉悦に歪んでいた。
空気を引き裂き――いや、空気を叩き割りながら黒竜はその腕をティアに目がけて振るう。常人なら掠っただけで致命傷になるような、そんな常軌を逸した腕力だった。
しかしティアはまるで恐れる様子もなく、黒竜が振るった太く鋭い爪をその華奢な腕一本で受け止めていた。
衝撃はそのままティアの身体を素通りし、真下のコンクリートに同心円状のヒビを生み出した。
「よォ嬢ちゃん。鬼ごっこはお終いか? あァ、駐車場で遊んじゃいけねェのは当然か」
黒竜はそこでようやく人語を話した。声帯も人体とは異なっているだろうに、その顎から漏れ出る声は低くはっきりとしたものだった。
「貴様こそ、狂ったふりはもういいのか? 随分と似合っておったがな」
押し潰さんと迫る爪を抑え込んだまま、ティアは事もなげに軽口で返した。
「同胞殺しは黒竜にも重罪なんだが。まァ、あの場に居合わせたのが運の尽きってことだ。諦めてさっさと死ねよ」
「何じゃ、狂ったふりをせんでもただの馬鹿ではないか。――貴様ごときに、このわしが負けると思ったか」
互いに挑発し合った直後。抑えるどころか、その手を弾いてティアは黒竜の腹に掌打を叩き込んでみせた。小学一年生程度の小さな体のどこにそんな力があったのか、それだけで彼女の何倍も大きい竜が吹き飛び、綺麗に並んでいる車がいくつも押し潰された。
蒼汰はただそれを呆然と眺め、やがて、僅かな希望がその顔に差した。
勝てるかもしれない。黒竜とティアの力量差を見て、蒼汰は素直にそう感じた。
――先程ティアがどうして自分に契約を持ちかけたのかなど、すっかり忘れてしまっていた。
「この程度でダメージがある訳ねェだろ。こっちはそれなりに腹が満たされてんだ。――ミンチにされたくなけりゃ大人しくしてな、嬢ちゃん。死体くらいは綺麗な方がいいだろ?」
黒竜はそんな挑発と共に、燃料をだらだらと漏らすひしゃげた車から起き上がる。
その黒く光る分厚い鱗には、傷一つ付いてはいなかった。
「とっととくたばれ、嬢ちゃん」
黒竜が息を深く吸い込み、吐き出す。
瞬間、紅蓮の業火が彼の口元から吹き荒れる。
「流石じゃな。そこらの高校生に計画を台無しにされるような男は、言うことが違う」
それを、ティアは透明な盾を展開して防ぐ。先程の駐車場で見せたのと同じ技だ。
「このわしを相手に、まさかその程度で勝ち誇った気になる――ッ!?」
ピシリ、と。
その透明な盾に見えざるヒビが入る音を、蒼汰は確かに聞いた。
同時、ティアは真横へ跳ぶ。しかし盾を食い破った業火の熱風は彼女の身体を容易く吹き飛ばした。短い悲鳴と共にティアの身体は宙を舞い、車のフロントガラスに叩きつけられ、転がるようにコンクリートに横たわった。
「そんな腹ァ空かした雑な演算の事象改変じゃァ、俺の炎は止めらんねェぞ」
その鋭い牙の隙間からから涎を零しながら、黒竜はゆっくりとティアに近づいていく。しかしティアには一向に起き上がる気配がない。
当然だ。いくら竜と言ったって、所詮は生物。受けたダメージは即座に回復したりはしないし、今の彼女はあの黒竜と違って緩衝にまで気を回すだけの余力はなかった。
「なァ、嬢ちゃんが助かる方法は一つある。分かってんだろ?」
もう一足とない距離まで近づいて、その黒竜は言う。
「……わしに、蒼汰を喰らえと言うか」
ティアの回答を聞いて、ようやく蒼汰は気付いた。
蓄えたエネルギーの差がティアと黒竜の差だと言うのなら、それを覆す手段は二つある。
一つは契約。もう一つは、捕食だ。
竜は人を喰らっても、同様にエネルギーを得ることが出来る。ならば、ここで蒼汰を喰らえば劣勢に立たされている条件はなくなる。
そもそも、ティアが人を喰らい黒竜の側に立てば、この争い自体がなくなるか。
「見縊るなよ、獣風情が」
吐き捨てるようなその言葉は、いやに低い声だった。
「人を喰らって生き長らえるくらいなら、死んだ方がマシじゃ」
ティアの瞳に宿る光は、揺らぎなく強いものだった。
しかしどれほど威勢が良くとも、全身を強か打ちつけているのだ。その顔は苦痛に歪んでいたし、これ以上黒竜と戦うなんて出来る訳がない。