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終章 消失 -2-


 奏があのまま学校に向かってくれていれば、おそらくはもう会わずに済む。


 大災厄で人との別れの辛さを知ってしまった奏に、必要以上にそれを思い出させないように。自然と、ふっと消えるように傍からいなくなろうと心に決めていた。


 しかし、きっとそうはならないと予感していた蒼汰は、ぶらぶらと街を歩いていた。

 ただ散歩がしたかった訳では、決してない。

 これは、ある種の清算だ。


「時間は……あんまりないか」


 自分の手を見下ろす。

 鼓動に合わせるように、血が引いていくタイミングでほんの僅かに透明になっていた。三日前から、次第に酷くなっている。それも等差的ではなく加速度的な変化だ。

 ぎゅっと拳を握る。自らの身体を強くイメージして形を保ち、また蒼汰は歩き出した。


「――あぁ、そう言えば、初めてティアに会った日はここでアイスを食べたっけ」


 駅前の広場が目に入り、思わず蒼汰はひとりごちた。

 朝と言うこともあって、広場の方に人気はない。アイスクリーム屋もまだ閉まっているし、竜が大道芸をやっていた場所も閑散としている。

 背にしたバス停前では、ここらのいくつかの学校の制服が入り乱れて、何気ない会話に花を咲かせながら学校へと向かっていた。

 ふとその会話に耳を傾ければ、《セントラル・ブルー》の話題があった。


「今は展望台に入れないから、流石に夕日は見られないか」


 あの日、奏と共に見た夕焼けをもう一度見てみたかったが、それは無理そうだった。――そもそも、きっと、その時間まで自分の身体が維持できないだろう。


「さて、次はどこに行こうかな」


 一つ一つ、それが最後になると知りながら、蒼汰は思い出の場所を目に焼き付けていく。



 ――それから、蒼汰は出来る限り多くの場所を見て回った。


 いつも奏と買い物をするスーパー。

 たまにしか行けない安いファミレス。

 ついこの前に初めて行ったばかりの遊園地。

 今では立ち入れないから下で眺めるだけの《セントラル・ブルー》。

 初めて泊まらせてもらった美海の家。


 どれもこれもが、蒼汰にとってかけがえのない記憶だった。それを見るのが最後だと思えば、なおさらだ。

 胸の奥底で渦巻く感情を、撫でるように手を当ててなだめる。今さらそんな感情を自覚しても、どうしようもない。だから、諦観と共にそれを受け入れようとした。


「――最後はやっぱり、ここだよね」


 そう言って、蒼汰はかしゃりと音を立ててフェンスに背を預けた。


 風が吹き抜ける。

 学校の屋上には、見事なまでの晴天が広がっていた。雲一つないとはよく言ったもので、まるで澄んだ水面のような蒼穹が広がっていた。


「なのに、何で来ちゃうかな」


 誰かがここに駆けてくる気配がする。思わず顔がほころんでしまいながら、彼はその方向――屋上と校内を繋ぐ扉を見つめた。

 蹴破るような勢いで、そのドアが開け放たれる。

 サイドテールにくくった茶色の髪が、切れ切れの呼吸に合わせて可愛らしく揺れる。黒く大きな瞳は僅かばかり潤んでいて、整った顔は、ほんの少しだけ痩せたように見えた。


「――おはよう、奏」


 とびきりの笑顔で、蒼汰は挨拶を交わす。あんな書き置きをしたとは思えない、いつもの変わらない蒼汰だった。――本当は、奏はここに来てしまうだろうと、どこかで分かっていたから。


「蒼汰、くん……」


 今にも泣き出しそうな、けれど、安堵に包まれた顔で奏はその名を呼んだ。

 彼女が、彼に贈ったその名を。


「なんで、どうして……」


 とうとう零れた涙を拭いながら、奏はただ問いかけていた。

 その様子を、蒼汰は少し離れたところからじっと眺めていた。

 そして、言わなければいけない言葉を口にする。



「……僕はもう、存在できないんだよ」



 時間が止まったような気がした。

 風が抜ける音しかないこの静寂が、痛い。

 奏の安心した表情は、一転して驚愕と恐怖に変わっていた。


「どういう、こと……?」


 三日間、考え続けて用意した、最期の時。

 間違わないように、すがりつかないように、蒼汰は落ち着いた声を必死に作った。


「この前の戦いで、僕は力を使い過ぎた。ティアも僕の身体を維持し、再生を続けながら戦っていたんだ。もう限界だった。――あれから、日に日に僕の身体は薄れていた」


 視線を落とせば、今も自身の身体の輪郭がぼやけ揺れていた。


「一度、僕という存在を消さないといけないんだ。ティアを休ませないと、結局彼女が倒れて僕は消える」


「じゃあ、休んだらまた戻ってくるんだね……?」


 一瞬またほっとした様子だったが、蒼汰は首を横に振った。

 また時が止まったように奏が硬直する。


「ティアの力でもう一度人形を作っても、それは僕じゃない。僕が蓄えた記憶は僕だけのもので、一度消してしまえばリセットされる」


 その言葉で、奏は思い出したように暗い顔に戻った。

 あの戦いの最中で、天宮六花が蒼汰の頭部を狙ったのも同じ理由だ。再生は出来ても、それはあくまで「ティアが作った時の七峰蒼汰」をトレースしているにすぎない。

 蒼汰が自分自身で積み重ねてきたものは、ティアの能力を持ってしてもコピーできない。


「だから、お別れなんだよ。奏」


 告げる。

 それで奏がどんなに悲しむかは分かっている。


 しかし、言わなければいけない。

 奏がここに来た時点で、彼女もまた、きっと心の奥底では覚悟を決めているはずなのだ。

 だったら、それに応えなければいけない。


「大丈夫。奏にはもう、僕みたいな人形は要らないよ」


 彼女はもう一人じゃない。

 少ないけれど、友達も出来た。美海と光輝なら、蒼汰だって安心して奏を任せられる。

 立ち上がれば、あとは進むだけだ。きっと瞬く間に、彼女は大災厄の前と同じように友人に囲まれた生活を送れるようになる。


 ここで明るく、別れを言って終わりにしよう。そう蒼汰は決めていた。

 彼女だって、蒼汰がいてはいけないことを理解しているはずだ。いつまでも蒼汰に甘え続けてはいけないことを分かっているはずだ。


「……いや、だよ……」


 なのに、奏はかぶりを振った。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、嗚咽を漏らす。


「蒼汰くんじゃなきゃ、駄目だよ……」


「そう言ってもらえるのは、すごく、すごく嬉しいよ。――でも、駄目だってば」


 駄々をこねる子供をあやすように、蒼汰は言う。

 それで奏が納得するはずもなく、彼女の語気は次第に荒くなっていった。


「蒼汰くんが消えちゃうくらいなら、わたしは他のものを捨てる……っ! そうすれば、蒼汰くんはずっといてくれる――ッ!」


「そんな悲しいことを言わないで。――お願い、だから」


 今のは感情に任せて、口を衝いて出ただけだろう。蒼汰の浮かべた悲痛そうな顔を見て、彼女は自分の放った言葉の意味を遅れて理解したようだ。

 それはつまり、美海や光輝を切り捨てるということだ。――天宮六花がそうして、痛みから逃れたように。

 それが奏の本心ではないことくらい、誰にだって分かる。


「ティアは……っ? そうだよ、ティア! どこにいるの!?」


 途方もない焦りを隠すことも出来ず、ヒステリックに叫びながら奏は辺りを見渡す。

 その声に応えるように、物陰からティアが姿を見せた。

 澄んだ青い髪をなびかせ、真っ白いワンピースに身を包んだ可憐な少女の姿だった。――しかし、その目元は幾重にも重なった濃いくまで覆われて、今にも倒れてしまいそうだった。


「ねぇ、ティア! 助けてよ、蒼汰くんが……っ」


「済まぬ……。わしにも、これ以上は……」


「ならわたしも全てを注ぐ! 蒼汰くんがカレンデュラっていうあの竜を倒したときみたいに! わたしの命がどうなったって――」


「奏!」


 ふらふらとまともに立ってもいられない小柄な少女にすがるように詰め寄っていた奏に、蒼汰は声を飛ばす。

 もう、見ていられなかった。

 限界まで力を使い続けて死にそうになっているティアも。

 その様子にさえ気づかない――あるいは気付かないふりをしてでも泣き喚く奏も。


「もう、いいんだよ。もう、どうしようもないんだ……」


 奏の中で徐々に蒼汰を必要とはしなくなっている。美海や光輝という友達を得たことで、大災厄のときに彼女が感じた孤独の恐怖は薄れてしまっている。

 願いが薄れれば、力は発揮されない。


 そしてその上で、ティアにはもう力を行使し続けるだけの余裕がない。それだけの無茶を、蒼汰はあの戦いで重ねさせてしまった。積もり積もった負荷がティアの竜としての演算領域を圧迫し、世界を騙すことが出来なくなった。

 エネルギーの供給もなく改竄力もなくなったいま、七峰蒼汰という存在はこの世に具現できなくなった。たとえどちらかの要因が回復したところで、始まった崩壊はもう止まらない。


「僕は消えるよ。本当は黙って行くつもりだったけど、ちゃんと最後に伝えられて良かった」


「そんな風に言わないでよ!」


 奏が叫ぶ。

 蒼汰の言葉を遮ってまでそんな大声を出したのは、初めてのことだった。


「そんな風に、受け入れないでよ……っ」


 絞り出すような声だった。

 綺麗に別れようと、笑顔でさよならを言おうと思っていたのに、途端に痛みと苦しさが胸の中央から溢れ出そうになってしまう。


「生きたいんでしょう……っ。だったら、ちゃんとそう言ってよ! 作った笑顔なんかいらない! 格好つけた『さよなら』なんてもっといらないよ!」


 ぐっと、蒼汰は思わず歯を食いしばった。喉の奥までせり上がった想いの塊が、今にも噴き出してしまいそうだったから。

 けれど、どんなに堪えたって意味はなかった。

 奏のその泣きながらの叫びに呼応するように、蒼汰もまた涙を零す。


「あぁ、そうだよ……っ。生きたいに決まってるだろ。何をどうやったって、三日三晩寝ずに考えたって、そんなの、受け止められるはずがないだろ……っ!」


 こんなはずじゃなかったのに、と、どこか冷めた気持ちが蒼汰を見つめていた。

 もっと綺麗に、笑顔で迎える別離を求めていた。奏に自分への感情を断ち切らせて、前を向いてもらおうと。そうすることで自分の仮初の命にも意味があったのだと思おうと。

 そう、決めていたのに。


「どうして、僕が消えなきゃいけない……っ。どうして、僕は人じゃないんだよ……っ! 分かってるよ、僕は僕だ! その言葉だけあればいいって思えたよ! でも、こうして消えなきゃいけないって突き付けられて、その言葉だけじゃ足りないんだって気付かされた……っ」


 蒼汰の叫びは、そこで終わった。

 胸に当てた握り拳から、微かに、蒼い粒子が漏れていることに気付いてしまったから。

 もう、時間は残されていない。


「う、そ……」


 その現実に打ちのめされたように、奏はまた涙を零す。


「……駄目だね。笑顔で、消えようって思っていたのに……」


 不意に冷静に戻った蒼汰が、自分の涙を拭いながら呟く。

 ありったけを曝け出して、蒼汰は少しだけすっきりした。

 言ったってどうにもならないことがある。頑張ったって覆らないことがある。だから、蒼汰は悔やまないと決めた。それは形が違えど、逃避だからだ。

 だから、これで構わない。


「奏はすごいね。僕がどんなに隠したって、見破って、掻き乱しちゃうんだから」


 腫れて赤くなったことが分かる目をこすりながら、蒼汰はそれでも笑顔を向けた。今度のそれは、もう作り物じゃなかった。

 心の底から、蒼汰は笑みを浮かべる。

 今この瞬間に消えてしまうことが、どんなに恐ろしいとしても。

 これだけ惜しんでくれる人がいるのだ。

 幸せを感じたっていいだろう。

 たとえこの身体は作り物でも、この心もこの絆も、偽物ではないのだから。


「……泣き止んでよ、奏。このままじゃ心残りが出来ちゃうじゃないか」


 優しく、蒼汰は語りかける。

 けれど、奏の涙は止まらない。


「嫌だよ……。だってまだ蒼汰くんに言わなきゃいけないことが、たくさんあるんだよ……?」


 拭う端から溢れる涙を散らして、奏はゆっくりと蒼汰に近寄ろうとした。

 信じたくもない現実を前にして力が入らないのか、ふらふらと頼りない足取りだった。あるいは、涙で視界が霞んで歩くこともままならないのか。


「まだ、わたしはちゃんと謝ってないんだよ……。ずっと蒼汰くんに嘘をついてたこと……。蒼汰くんにだけ辛い思いを押し付けたこと。まだ、何も謝ってない……っ」


 たった十メートルにも満たない距離が、途方もなく遠く感じられた。

 けれど、蒼汰の方から彼女に近づくことはもう出来なかった。

 蒼い粒子は拳だけでなく全身から溢れ始めている。手足の輪郭はうすくぼやけ、少しばかり透明になってしまってさえいた。一歩を踏み出すことさえ、この身体ではもう――……


「わたしは、お礼も言ってない……っ! ずっと、ずっとわたしを支え続けてくれたことも! 連れ去られたわたしを助けてくれたことも! 美海ちゃんや光輝くんと出会わせてくれたことも! わたしは、何にも、何にも言えてない……っ!!」


 消えていく。

 けれど、満たされていく。


「十分だよ、奏。その言葉だけで、ちゃんと、僕には伝わっているから……」


 そっと、蒼汰は瞼を閉じる。

 こんなにも偽りだらけの世界の中で、それでも、蒼汰は幸せを噛み締める。

 最後の最後に見るものが、奏の姿であることが、どうしようもなく嬉しかった。

 だから、心からの言葉を残す。

 届くかどうか分からない、微かな声で。



「ありがとう――……」



 奏の指先が、蒼汰の胸に届く。

 瞬間、解けるように彼の身体は全て粒子となった。

 崩れるように奏はその場に倒れる。必死に粒子を掻き集めようと手を動かすが、それはただ空を切るばかりだった。

 嗚咽を漏らし、溢れ出る涙もそのままに呆然と空を眺める奏を、一陣の風が撫でる。


 蒼穹の彼方へ、蒼い粒子は昇っていく。

 最後の煌めきを、少女の瞳に焼き付けるように。


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