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第四章 血刀 -8-


「……私、は……」


 刀を取ることもせず、六花はただ呆然と立ち尽くしていた。


 揺れているのだ。

 心を捨て去り、痛みの全てを遠ざけようとしていたのに。

 それでもまだ、この苦痛だらけの世界に戻ろうとしている。


「私は、まだ、誰かと――……」


 言葉を、繋ぐ。

 彼女の本当の願望を、その言葉は浮き彫りにしようとする。



 ――はずだったのに。



「ふざ、けるな」


 そんな中で、震える声がした。

 低い、野獣のような声だった。

 怒りを滾らせ、全てを否定する、凶悪な何かだった。


「なんで、殺さないの……ッ! アタシからティアを奪った奴らだよ!? 早く切り刻んでよ! その為に契約したんでしょ!」


 漆黒の刀が、黒い少女へと姿を変えて怒号を飛ばす。

 募りに募った苛立ちが、ついに抑え切れなくなって爆発していた。


「殺すんだよ! 全部殺して、アタシはティアとの世界を取り戻す! 早く願ってよ、六花! 目の前の敵を斬りたいって! ぐちゃぐちゃに切り刻みたいって! アタシの為に!」


「――それは契約じゃない。カレンデュラ。お主は六花に欲望を押し付けておるだけじゃ。ただ身勝手に、自分の思い通りにならないものを排除する。それでは子供と変わらんよ」


「何を言ってるの!? 意味が分かんないよ! だって、だってティアはアタシといるべきなんだよ!? 竜は人を喰らって、利用して、殲滅する為にある! 人と手を取り合うだなんて、ティアの方がおかしいよ!」


 駄々っ子のようにカレンデュラは叫び続ける。もはやティアの言葉でさえ届きはしない。

 そして、バツン、と何かが切れるような音がした。


「ティアをおかしくした人間を、アタシがみんなみんな殺す! 一人残らず切り刻む! だから願ってよ、六花ァ!!」


 カレンデュラの全身から、黒い霧が溢れ出る。それは自身を刀に変えるときよりも何倍、何十倍と大きく、密度の濃いものだった。

 それが六花の身体を包む。

 同時、彼女が悲鳴を上げた。


「――ッァァアア!?」


 絶叫が響く。だが、黒い霧に覆われていてその中を見ることが蒼汰たちには出来ない。


「何が、起きて……」


 呆然と立ち尽くす蒼汰の横を、まるで弾けるように黒い霧が駆け抜けた。

 そして、蒼汰は愕然とする。

 その霧の軌跡を形づくるように、展望デッキの床タイルがばっさりと切断されていたのだ。


「あやつ、もしや無理やりに力を引き出しておるのか!?」


 ティアが即座に答えに辿り着く。だがその声音は、ただ驚愕と畏怖に染められていた。


「そんなことが出来るの……?」


「契約者を省みなければ、あるいは。断ち切るという願望自体を増幅させて、刃の形ではなく概念のままに具現させておるようじゃが……っ」


 それが、あまりに無謀な戦い方であることは一目瞭然だ。

 霧の奥から続く六花の悲鳴が、見えずとも伝えてくれる。


「あの状態では、長く保たんぞ……っ」


 ティアがそう呻くのとほとんど同じタイミングで、闇よりも黒い霧が奥にいる六花の手元へ集まっていった。

 六花の手には刀が握られていた。離すことを許さないとでも言うように霧がその両手を包み込み、なおも溢れ出たその黒いオーラが刀身に纏わりつき、その何倍も巨大な刃を形作らんと揺れ蠢いていた。

 六花の叫喚は止んだが、それでも未だ何かに蝕まれるように苦しんでいた。歯を食い縛り、目からぽたぽたと涙を零していた。

 もう声を出す力もないらしく、ただ彼女は蒼汰を見つめる。

 それだけで、蒼汰は音のない彼女の言葉を理解した。


「……ティア。六花さんを、助けよう」


 そう蒼汰は言った。

 あれほど命を狙われていたが、もうそんなことは関係ない。

 彼女を見捨てるということは、奏を見捨てることとなんら変わらない。


「じゃが、あの黒い霧が相手では蒼竜ノ弾丸も通じんぞ」


「通すよ。僕の全てを、注ぎ込んででも」


 蒼汰はそう言って、銃を握り締めた。

 蒼い光が次第に漏れ、零れ、溢れていく。

 やがてその粒子は、銃口から蒼汰の全身を包むほどに膨れ上がる。


「――っぐぁ……」


 だが、蒼汰の顔から苦悶の色が垣間見えた。

 自分の中にあるエネルギーの全てを注ぎ込もうとしているのだ。どんなに踏ん張ろうとしても、手足から力は抜けていってしまう。

 血管が締まり、全身から力を絞り取ろうとしているような感覚があった。その壮絶な痛みだけで、意識が朦朧としていく。

 次第に、腕の輪郭がおぼろげになっていく。

 当然だろう。蒼汰の身体は人のそれではなく、奏が願いティアが成形したエネルギーの塊でしかない。それをこれだけ注ぐということは、そのまま自らの命を削るに等しい行為だ。


「もうやめろ、蒼汰! お主が――」


「じゃあティアは、六花さんを見捨てろって言うのか。孤独を恐れ、逃げているあの人を!」


 ここで六花を見捨てれば、きっと蒼汰は奏も救えない。

 似ているからこそ、手を差し伸べなければいけない。

 六花を助けることで、奏にも救いがあるのだと教える為に。

 それだけが、蒼汰の立ち上がる理由なのだから。


「たった一発でいい。これで指が千切れようが、腕が砕けようが関係ない。――誰でもない。僕が望んだ僕だけの願いの為に、僕はカレンデュラを撃ち貫く……ッ」


 粒子は更に光り輝き、圧縮するように銃へと押し込まれていく。

 モーターにも似た高い音が響き渡る。それは周波数を高めていき、一本の音へと変わる。


「ティア――ァァアア!!」


 カレンデュラの咆哮が轟き、黒い霧がそれに呼応して刀に収束していく。

 蒼汰は引き金を引こうと力を込めた。だが、重い。

 閉じ込めたエネルギーの分だけ重さが増したのか、その引き金は異常なほど固かった。グリップとトリガーの間にある空隙が全然縮まらない。


「――っぉぉおおお!!」


 指が引き千切れるような激痛が走る。それでもなお、力を込める。

 ガキン、という音はトリガーからか自分の骨からか。

 紅の火が吹く。蒼汰の全てが込められた一発の弾丸が蒼い粒子を纏い、砲弾のような大きさとなって撃ち放たれた。


 黒い霧の刃と、蒼い粒子を纏った銃弾が激突する。

 烈しい火花と、閃光があった。

 互いの力が拮抗したまま、刃も銃弾も動かない。――あるいは、極限状態の蒼汰の時間感覚の方がおかしくなってしまって、二つが止まって見えているのだろうか。


 回転する蒼い光が、黒い霧を食い破っていく。僅かに優勢に見えた。

 だが、足りない。

 黒い霧を吹き飛ばすだけの威力はあるが、きっと、そこで蒼汰の弾丸は力尽きる。そこまで明確なビジョンが見えた。


 せめて、避けようと思った。

 だがもう既に、足を動かす力さえ残ってはいなかった――……




 それを見て、夏凪奏もまた悟っていた。このままでは、蒼汰が殺されてしまう。

 駄目だ、と、そう思った。

 このまま蒼汰が両断されれば、彼はこの世界から消える。散々、奏が痛みを押し付けた世界から。それはきっと、幸福なことに違いない。なのに、奏はそんなことを認めたくなかった。


 彼が、微かに笑みを浮かべて奏の方を見る。


 ――まるで。

 ――奏自身がその斬撃に巻き込まれずに済んで良かったと、そう言っているかのように。


「駄目、だよ……っ」


 ただその笑顔を見ただけ。たったそれだけなのに、奏の胸の奥から、一つの渇望が生まれる。

 そんなものは捨てたはずなのに。もう彼を傷つけたくないと願ったはずなのに。

 それでも、その願いは決して消えてくれない。


「お願い、だから……っ」


 どんな理不尽を、不条理を押し付けたか分からない。それでも彼は、自分の一番大切な人。

 謝らなきゃいけない。償わなきゃいけない。

 でもそれは、彼がいなければいけないのだ。彼が消えた世界では、奏にはその罪を背負うことさえ許されない。


 ――だから。

 精一杯の力を振り絞れ。

 彼と、もう一度話をする為に。

 彼がいなくなることだけは、認めてはいけない。


「わたしを、一人にしないで! 蒼汰くん!!」





 声が、聞こえた。

 ただそれだけで、とうに尽きたはずの力が、まだ微かに湧き始める。

 もう持ち上げることさえままならない腕をそれでも奮い立たせて、銃口を前へと向ける。


 ――力が何だ。


 避ける力もないなら、もう動かなければいい。

 いま必要なのは、引き金を引く指と。

 自分がただ一つ持った、魂さえ捧げられる願望だけ。

 銃を握れ。

 ただ一人、彼女の笑顔を護り抜く為に。


「――ぁぁぁああああああッ!!」


 叫び、そして。

 青より蒼い一つの弾丸が、燐光と共にたった数メートルを駆け抜けた。


 初めに放った弾丸が黒い霧を蹴散らしたところで力尽き、切断されると同時。

 晒されたただの刀の部分に、その二発目の銃弾が食い込んだ。


 甲高く、そして澄んだ音がした。

 漆黒の刃は中腹で撃ち抜かれ、折れて宙を舞った。

 閉じ込められていた黒い力が爆発するように溢れ、やがてそれは、一人の竜の鮮血となった。


「……終わった、ね」


 力尽き、蒼汰はその場に座り込んだ。

 銃と化していたティアも、元の少女へと戻る。


「……お主の負けじゃよ、カレンデュラ」


 汗にまみれた疲労困憊の状態で、ティアはゆっくりと黒い少女へと向かう。

 最後の会話を、交わしたかったのかもしれない。かつては共に戦った仲間だから。

 上半身と下半身を切断された状態で、カレンデュラは倒れていた。竜の生命力だとかはもう関係ない。絶対に、彼女は助からない。


「ティア、アタシのティア……」


 震え揺れる手で、カレンデュラはティアへと手を伸ばす。だが、決してそれは届かない。


「あぁ、また、戦いたいなぁ……。やっぱり、今度はティアと、一緒に――……」


「……この阿呆め」


 無邪気な笑みを浮かべて逝ったカレンデュラの最期に、ティアは震える声でそう呟いていた。

 ややあって、目元を拭ったティアは蒼汰の方を向く。


「世話をかけたな、蒼汰」


「何を今さら。――それより、早く奏を自由にしてあげてよ。僕は、もう動けないから……」


 はは、と蒼汰は力なく笑う。本当なら今すぐにでも奏の元へ駆け寄りたいのだが、こうして座って眼を開けているのでさえ限界に近い。さすがに、立ち上がれもしなかった。


「そうじゃな。礼は、また後でいくらでも時間をかけよう」


 ティアは笑みを浮かべて離れて行き、奏の鎖を解き始めた。

 その間、奏は身動き一つせず、じっと蒼汰の方を見ていた。あんな状態で長い間吊るされていたのだ。普通の身体なら体力など残らないだろう。


「――って、うぁ!? か、奏!?」


 そう思っていた心配の言葉をかけるより先に。

 鎖を外した瞬間、もう我慢できないとでも言うように、奏が飛ぶように蒼汰の首に抱きついてきた。既にそれを支える力もない蒼汰は、そのままばたっと背中から倒れた。


「そう、たくん……っ。蒼汰くん……っ!」


 溢れる涙で喋れもしないのか、奏は子供みたいに泣きじゃくっていた。


 ただ、言葉の代わりに。

 もう失いたくないと。

 そんな想いが、ぎゅっと回された腕から流れ込んでくる。


「……奏が無事で、よかったよ」


 奏の想いに応えるように、蒼汰は彼女の頭を撫でた。

 涙を流しながら笑みを浮かべる少女を見て。

 がらんどうだったはずの蒼汰の胸の奥は、名前も知らない温かさに満たされていた。



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