第四章 血刀 -7-
口から血が溢れた。気管のどこかに重大な損傷を受けてしまったのか、息をすることさえままならない。
「抜かなければ、再生は出来ないよね?」
突き飛ばそうとする蒼汰に対し、六花は刀を更に深く突き刺す。
「――っがぁ……っ!!」
口から血をぼたぼたと零しながら、蒼汰は呻く。既にもはや痛みの感覚さえ薄れていた。
蒼汰と六花ではポテンシャルに差があり過ぎる。ましてや、ほとんど同格であるティアとカレンデュラにも、今ではエネルギーの差や負荷のかかり方という違いがある。
どんなに気迫や覚悟で塗り固めたところで、七峰蒼汰では天宮六花に届かない。
攻防の終焉がこうなるのもまた、必然と言えた。
壁の代わりに一面に張られた強化ガラスは、斬られたり躱されたりした弾丸を浴び続け数え切れない穴が開き、無事な部分でさえもヒビによって真っ白になっていた。――それはつまり、それだけの銃弾を放ったにもかかわらず、六花には傷一つ付けられなかったということだ。
それでもなお抗おうと、血だらけの手で蒼汰は黒い柄を握る。それはもはや、修羅のようですらあった。
「……もう、やめてよ……」
その掠れるような声は、眼前の六花のものではなかった。
それは、蒼汰が誰よりも愛する少女のものだった。
「もういい……っ。これ以上、蒼汰くんが傷付く必要なんてない……っ!」
蒼汰の鼓膜に、彼女の頬を伝った滴が地面を打つ音が響いた。
悲痛に顔を歪めて、囚われた夏凪奏は、それでも蒼汰を頼ろうとしなかった。
「これは、わたしの罰なの……っ。わたしが、全部、全部蒼汰くんに押し付けてしまった罰なの。だから、お願いだから、もうやめて……っ。これ以上蒼汰くんが傷付くのなんて、わたしには耐えられないから……っ」
その懇願に、蒼汰は思わず笑みを零した。
まるで青に染まるみたいに、世界が一転して穏やかに見えた。
「……そうだね、奏」
そう呟いて、蒼汰は無理矢理に力を込めて六花を蹴り飛ばす。刀が引き抜かれた胸へ、血が飛び散るより速くどこからともなく蒼い粒子が集まって、瞬く間に傷を塞いだ。
「その言葉は、きっと奏の本心なんだと思う。――あぁ、だから良かった。奏の声が聞けて」
無邪気な笑みを浮かべて、血まみれの少年は答えを得た。
「だって、奏が望んでいないのなら、僕が君を『護りたい』と思うのは、僕自身の意志だっていう証明なんだから」
蒼汰が銃口を向けるより早く突進する六花に対し、彼は身を傾けるだけでその斬撃を躱し、腹部に殴りつけるように銃口を当てる。
引き金を引く前に身を捩られたが、脇腹に銃撃を喰らわせることは出来た。
「……僕は、確かに人形だ」
左脇腹に手を当て呻く六花に、蒼汰はそれ以上追撃せずに語りかけた。
「奏が願わなければ、生まれることさえ出来なかった。今もなお、ティアによってその命を繋いでもらっている。――それでも」
銃を握り、前を向く。
ただ今までと同じように、優しげな顔だけがあった。
「僕は僕だ。たとえこの身が人形と同じだとしても、僕の中にある心は、僕だけのものだった。だから待っていて、奏。――僕が必ず、君を護るから」
たった一つ、それだけを信じる。
作られているかもしれない。身体と同じように、この心だって、奏の為に最も適した形にされているのかもしれない。それでも、そうじゃない部分が確かに残っている。なら、それだけは蒼汰が、蒼汰だけが持つものだ。
たとえティアが何人、何十人と奏の為の人形を用意したとしても、決してそれらと同じには染まらない。
「……なるほど。自分の存在には命の有無さえ関係ないってことかな。うん、その考えには共感できるかもね」
初めての被弾だと言うのに、痛みに悶える様子もなく――どころか堪える様子もなく六花はそう笑っていた。
「似ているんだろうね。私は君に」
六花はそう言いながら、刀を構えた。
「災害ってさ、大災厄だけじゃないでしょう? 十年くらい前だったかな。私もそれで、全てを失った。危うく命さえも失うところだった。――それを助けてくれたのが、カレンなんだ」
唐突に始まった昔話に、しかし蒼汰も耳を傾けた。
いま撃ってしまうことは容易い。けれど彼女の在りようを知らなければ、彼女にいくら銃弾を叩き込んでも、這い上がってくるような気がしたのだ。
「カレンと契約することで、私は命を得た。孤独になった私に、カレンだけがいてくれた」
その言葉に、蒼汰はある意味で納得してしまった。
戦いの最中で六花に抱いた同族嫌悪。
それは間違いなどではなかった。
命をくれた相手に全てを捧げようとするその意志だけを、六花と蒼汰は同じくしている。
「だから私の全てはカレンの物。私は、カレンの為だけに存在する」
カレンデュラに死ねと言われれば、きっと彼女は喜んで命を差し出すだろう。
それはあまりにも危うい存在理由だった。
――いや。
そこにはもう、天宮六花は存在などしていない。
彼女の意志は、心は、とうに葬り去られている。
「さぁ、続きを始めようか。互いに自己を犠牲にした上で相手に尽くそうとしているんだ。譲歩も諦観もあり得ない」
六花の言葉に頷き、蒼汰も照準を彼女の額に合わせた。
話し合うことは何もない。話したところで、どこにも折り合いなどないのだから。
ならば。
撃つしかない。
「僕は僕の為に、奏を護る」
「そう。なら、君という存在はもう終わりよ」
六花が地面を蹴った。その衝撃で、床のタイルが割れて捲れ上がる。
「――ッ!?」
とっさに後方へ跳び退って振り抜かれる刃の威力を殺す蒼汰だったが、それだけではとても足りなかった。一閃払う度に、手がじんじんと痺れる。
筋力増加。蒼汰とティアが得意とする、互いのタイミングを完全に一致させられるほどの信頼関係を築けなければ行えない、曲芸のようなスキルだ。
それを、六花はこの場でやってのけた。
「驚くようなことじゃないでしょ」
振り下ろされる刃を弾く蒼汰に、しかし六花は意に介さず幾度となく刃を振り下ろす。
「蒼汰くんはティアが生み出した存在だからこそ、呼吸を合わせるという最難関をクリアできてしまっている。――でも十年もカレンと契約している私なら、そんな裏技みたいな方法を使わずともこれくらいのことは出来るよ」
何倍にも威力を増した六花の斬撃に、蒼汰は苦悶の表情を浮かべるしかなかった。
「――シッ!」
反撃として蹴撃を繰り出す蒼汰だが、当たる前に六花は後方へ跳んで回避する。そもそもの反射神経自体が、蒼汰よりも遥かに上だった。
後方へ跳んだ状態から、無理やりに一瞬で蒼汰へ突撃する。その刹那だけでトップスピードに達した六花の斬撃に、蒼汰が間に合うはずがない。
首よりも上――こめかみを真横に狙ったその一閃を、蒼汰は弾くのではなく、半ば転ぶような形で躱す。
散々の攻防のせいで砕けたガラスやタイルが散乱しているからか、背中が引き裂かれるような感触があった。その痛みに僅かに呻きながら、蒼汰は弾丸を放つ。
だが、六花は仕切り直すかのようにそれを躱し、五メートル近い間合いを取った。
「腕や胸なんかは簡単に斬れたんだけどね。やっぱり、頭を斬られるのは危険だって本能的に理解しているのかな」
「……どういう意味?」
「そのままよ。君が傷付く度ティアは再生をしている。正確に言えば、欠損個所のみ自分が生み出した状態を再現しているってこと。――じゃあ、脳が破壊されればどうなると思う?」
六花の問いに、蒼汰は考えるまでもなく答えに気付いた。
この三年間蓄積された全てがリセットされる。つまり、蒼汰は記憶を失う。
「不死身ではあるけれど、何もかもを忘れた状態じゃ夏凪奏を護るなんて思考は得られない。実質的な敗北だよ」
それは、蒼汰が唯一誇っていた優位性を奪われたも同然だった。
六花に対し全てにおいて劣る蒼汰は、その無限の再生力だけを武器に戦い続けた。人間であれば死んでしまうような状況でさえ蒼汰なら戦えた。
その弱点を暴かれた今、蒼汰の勝機はほとんど潰えていた。
「その頭蓋を斬り飛ばして、私はそれを勝利の華にしよう」
直後、また六花は突進してくる。
露骨に頭を狙う斬撃ばかりだった。だからこそまだ捌けているが、六花の動きの方が速い。防ぎ切れなくなる時は着実に迫っている。
――とても、追いつけない……ッ! せめて六花が動揺でもしたら……ッ。
これだけの高速戦闘になれば、僅かな精神の不調が大きく影響を及ぼすことも考えられる。
だが、六花は言った。自分はカレンの為だけに存在する、と。
自己を放棄しているような彼女に、いったい何をどうすれば動揺を与えられるというのか。
そのときだった。
思考が微かに、何かを捕える。
――違う。六花にもまだパーソナリティは残っている。
その証拠が、目の前の黒い刀だ。
六花はカレンデュラに何かを願い続けている。それを叶えたのがこの姿だ。
願望が残っているのなら、それは自分を物だと言った彼女が捨て切れなかったものだ。
「……どうして、刀を選んだの?」
激しく火花が散る中で、蒼汰は口を開く。剣を受ける度に舌を噛んでしまいそうになりながら、それでも、彼女の瞳を見つめて蒼汰は言葉を紡ぐ。
「あなたが全てを失ったとき、どうしてあなたは『断ち切る』という願いを選んだ?」
「……何の話?」
蒼汰の意図が読めない六花は、その口さえ閉ざそうと刃を振るう。だが、確かにその剣閃は鈍っていた。
「あなたは、何を斬りたかった?」
その言葉が、決定打になった。
六花は完全に間合いを読み違え、斬撃は何もせずとも蒼汰の鼻先を掠めただけに終わった。
致命的な隙を突くように、蒼汰は六花の右脚を狙った。避ける余裕さえ与えず『撃ち貫く』という願いを具現した銃弾が筋肉と骨に致命傷を与え、機動力を奪う。
「……うるさいな」
「やっぱり。あなたは間違えているんだよ、天宮六花。あなたは自身の願望を、完全に勘違いしている。――いや、そう気付いていながら、気付かないふりをしているのか」
その蒼汰の言葉に、六花はあからさまに眉をひそめた。
きっと、彼女は自分でもその感情の根源が何を意味しているのか、欠片ほども理解していないのだろう。――いや、あるいは、未だに理解を拒んでいるのか。
だが蒼汰は気付いてしまったのだ。分かってしまったのだ。
その存在を、感情の正体を、蒼汰は誰よりも見てきたのだから。
だからもう、彼の目には、天宮六花という存在が敵に見えなくなってしまう。
「……幕を引こうよ、天宮六花。――あなたは僕に勝てない」
「……言ってくれるね」
チキ、と刀が構えられる。
全身の毛が逆立つような、おぞましいまでの殺気が彼女から溢れ出る。
「カレンの為に、私は君を殺す」
刹那。
六花の姿が消え、その刃は蒼汰の首元にあった。
「……それが、間違っているって言っているんだ」
なのに、蒼汰はそれを躱した。今までのように弾きさえしない。完全に、蒼汰は六花の動きを見切っていた。
「――あなたは、確かに似ているよ」
声と共に、マズルフラッシュが絶え間なく辺りを照らす。
六花はその銃弾全てを斬って捨てた。躱そうにも、先程蒼汰が付けた足の傷がそれを許さない。能動的な突進だけならまだしも、反射的な回避行動では、無理やりであろうとその速力を引き出すことは出来ない。
引き金を引くときの発火炎と、銃弾を斬ったときの火花が二人の間で間断なく弾け続ける。
「でも、それは僕じゃない。――あなたが似ているのは、奏だ」
蒼汰の言葉に、六花の表情が大きく傾いだ。
銃弾の一発が斬り損なわれて、彼女の頬を掠める。
「全てを失くし、孤独になったあなたは、断ち切りたいと願った。失う痛みから逃れる為に、二度とこんな思いをしないで済むように、他者との繋がりを断ち切りたいと願ったんだ」
その声に呼応するように、一際大きな銃声が響いた。
今度の六花は正面からそれを斬り裂いたはずなのに、その銃弾には刀を跳ね上げさせるほどの威力があった。
しかし、六花の回復も早かった。
隠し切れない動揺を隠そうともせず、そのまま彼女は突進した。耐え切れなくなった脚から血が噴き出すことにも、彼女は気付かずに。
刀が蒼汰を襲う。
だが、それは透明な盾に阻まれた。
絶対切断という付加能力を持っているにもかかわらず、だ。それはつまり、彼女の中で願いの力が弱まっているということ。
昨日カレンデュラとの戦いの最中で蒼汰の弾丸が防がれたのや、今こうして蒼汰の弾丸が貫けず切り裂かれ続けたのと、同じ理由だ。
しかし六花はそれに気付いていながら、それでも気付かないふりをし通す。
「それは憶測だ。私はあの日、ただ無駄なしがらみを――」
「ならどうして、サジさんにまで牙を剥いた」
その言葉で、六花の表情は更に大きく揺らいだ。
既に感情の水面は、溢れる寸前まで来ている。
「カレンデュラの望みには関係ない以上、殺す必要性がない。今までみたいにこっそり隠れていればよかった。なのにあなたは殺そうとした。――彼との、繋がりを感じてしまったから」
「黙れ!」
「あなたは孤独になるのが嫌で、怖くて堪らなくて、孤独でい続ける道を選んでしまった」
「偉そうに、見透かしたような物言いはやめてもらえるかな!」
刀を振り上げ、六花は言う。
だがその動きに、先程までの洗練されたものは感じられなかった。針の穴を通すような正確さも、放たれた矢のような速さも、何もかもがない。ただただ空虚な斬撃だった。
「それは繋がりを知っているみたいな口ぶりだね! 心も体も、全部全部偽物の分際で! いったい何を知っているっていうんだ!」
言葉だけが空回りして、六花の刃はもう蒼汰には届かない。ただの足捌きだけで容易く躱せるし、蒼汰が掌打を打ち込めば簡単に吹き飛んでいった。
「……そうだよ。僕は偽物だ。奏に作られた人形でしかなくて、本当の命なんて持ってない。――でも、それでもいいって言ってくれた人がいる。僕を待ってくれている人がいる。なら僕は、きっとその人たちとは本当に繋がっているんだよ」
「知っているなら、邪魔をするな……っ」
獣が唸るような声で、六花は一足飛びから刺突を放つ。切断力が落ちていようと、突き技は群を抜いた殺傷力を持つ。透明な盾を貫き、その刃は蒼汰の左肩までをも破壊した。
「ぐぁ……ッ」
「知っているんなら分かるでしょう! それを失う痛みが! 腹を抉られるよりも、腕を斬り飛ばされるよりも! どんな肉体的な痛みも比べ物にならないほどのあの苦痛が!!」
無造作に刀を引き抜き、六花はそのまま乱撃戦に持ち込む。
銃身で剣閃を防ぐ度に、眼底を突くような激しい火花が飛び散った。
防ぎ損ねた斬撃は幾度となく蒼汰の身を裂き、血飛沫が舞う。
即座に治るはずだった傷は、なかなか塞がらない。おそらくはもうティアにそれだけの余裕がないのだろう。これ以上は、ただの牽制の斬撃ですら命に届き得る。
それでも、蒼汰は抗った。
「――だから、あなたは願ってしまったんだね。初めから手に入れなければいい。失うものがなければ、その痛みを感じないで済むから。そうやって、あなたは自分の世界に逃げ込んだ」
まだ、言葉を紡ぎ続ける。烈しい剣閃の隙間を縫うように。
自らの血で頬を濡らしながら、それでも。
彼女の心は死んでいない。だから、繋ぎ止めるなら今だ。
その考えに、打算がないとは言わない。彼女が本当に全てを捨ててカレンデュラに尽くしてしまえば、おそらく蒼汰の腕では届き得ない高みにまで上り詰めてしまう。奏を護ることも出来ず、蒼汰の存在は消し飛ばされる。
「いい加減に、前を見ろ……っ!」
だと言うのに、気付けば蒼汰は声を荒げていた。六花の刀を弾く力もまた、増している。
自分でも、どこかそれに驚いた
客観的で冷静な判断で、六花を救おうとしていた面だってあったはずなのに。
その声はどこまでも激情的だったから。
「逃げるだけじゃ、何も変わりはしないんだよ」
いったい誰に向けての言葉なのか、自分の中でも倒錯していた。
だがそれでも、その言葉はとめどなく溢れてくる。
「嫌なことから逃げて、閉じ籠っているのは楽だよ。いずれは時間が解決してくれるって、そうやって周りにも自分にも言い訳を重ねていれば、ずっと楽でいられる。何も解決していなくても、記憶が薄れて、思い出さなくなって、乗り越えた気分でいられる。――でもそれじゃ、駄目なんだよ……っ」
自分の頬を熱い滴が伝う。
その言葉は六花に向けたものであり、奏に向けたものでもあり、そして、自分にも向けられていた。
自分の過去に、境遇に、嘆いているだけじゃ変わらない。
それでは、絶対に笑顔は取り戻せない。
昨日この場所に奏を連れてきたときに、彼女は蒼汰にお礼と共に笑顔をくれた。けれど、どうしてもその顔には陰りがあった。
後ろめたさがあったのかもしれない。あるいは、蒼汰という存在自体が、奏に大災厄を思い出させてしまったのかもしれない。
でも、どちらでも関係ない。
本当の笑顔を、まだ取り戻していないことに変わりはないのだ。
「向き合うしかんだよ。戦わなきゃいけないんだよ」
たとえ一瞬であろうと、たとえ髪の毛ほどの隙間であろうと、緊張を緩めてしまえば即座に頭蓋を砕かれる。そんな苛烈を極める剣閃と銃弾の応酬の中で、それでも蒼汰は六花の攻撃を防ぎ、往なし、躱し続けた。
「僕は戦う。前を向いて、もう逃げも隠れもしない。そう決めたんだ。――だって僕には、ちゃんと笑顔で話したい人がいるから」
振り下ろされた斬撃を、蒼汰はグリップで殴りつけるように逸らした。
振った腕を無理やりに締めて放った銃弾は、同様に構えていた六花に斬り裂かれると同時、しかし彼女の手からカレンデュラの刀を弾き飛ばす。
中空で何度も円を描き、床に落ちたそれはカラカラと転がった。




