第四章 血刀 -3-
それは、蒼汰とサジが接触するほんの少し前のことだった。
「……んで、奏さんは起きてるか?」
「まだ眠っておるようじゃな。起きても、布団から出てくるかどうかは分からんが……」
泊まってまで美海からの要請を全うした光輝は、朝一にティアに奏の様子を尋ねていた。
「結局、昨日の夕飯はあんまり食わなかったしな……」
奏はあれから、ずっと口を閉ざしている。多少のリアクションは見せるが、気力や活力と言ったものは一滴も残さず抜け出てしまっているようだった。
「心配をかけるようで済まんな。せっかく夕げも用意してもらったと言うのに」
「気にしなくていい、俺が好きでやってんだから」
そう言ってのける光輝に、ティアはふむと頷く。
「……お主、モテるじゃろ。そんな言葉はなかなか言えんぞ」
「生憎、見た目だけで十分モテてるんだよ。……だからまぁ、そういう人の側しか見ない連中とは仲良くしようと思えねぇし、ちゃんと中を見てくれる奴は、それなりには大事にしようと思ってんだ。恋人とか友達とか関係なくさ」
照れた笑みを浮かべながら、少し逃げるように光輝は朝食作りに入った。
――良い友達を持ったな。
ティアは、素直にそう思った。それは奏に対してでもあり、蒼汰に対してでもある。
ここまで他者を思いやってくれる者はそういない。――だからこそこんなにも素晴らしい友人たちに、これ以上の迷惑や心配をかけ続ける訳にはどうしてもいかなかった。
「……わしもわしで、元の仕事をせねばなるまい」
光輝の様子を見て、ティアも自分の気を引き締め直していた。
想定外のことはたくさん起きたが、昨日の夜、カレンデュラと接触できたことは非常に大きい。今までは足取り一つ掴めなかったが、これで彼女を追い詰めることも出来るはずだ。
カレンデュラは、昔から短絡的な思考をしている。子供のような思考回路のまま大人になった、と言おうか。かつてティアたちが元の世界にいた頃から、カレンデュラは何度も自分勝手な行動を起こして来た。その上、罠を仕掛けられれば容易く引っ掛かる始末だ。
竜がこの世界に逃げ込み、ティアが人を護る為にカレンデュラと対立することを選んだその時点で、全ては終わるはずだった。ティアが彼女を討伐することを望んだのなら、力量はともかく、そう長くかからず決着はつくはずだったのだ。――かつての短絡的なカレンデュラであったなら。
今までのカレンデュラなら、ティアが細工をすれば容易く網にかかる。しかし、予想に反して三年もの間カレンデュラは姿を見せなかった。
それは彼女が成長したから――ではない。
カレンデュラが今なお逃げおおせているのは、彼女が契約者を手に入れたからに違いない。それも、恐ろしく頭が切れる。いったいどこで見つけたのか、青竜の中でもトップクラスの実力を誇るティアさえ出し抜く狡猾な人間だ。並大抵のことでは尻尾を捕まえることも出来ないだろう。
その確証を得たのは、最近のことだ。
ティアが蒼汰と出会ったときのこと。街で暴れていた黒竜――アフェランドラは、非番のティアが近くにいて、他の特課の人間がすぐには駆け付けられない位置で暴れていた。
そして、同時に人を払う結界も使われていた。安全に、そして余計な波紋を広げることなくティアだけをおびき寄せようとしているのが丸分かりだ。――人ではない蒼汰が結界の中に飛び込んだことは、想定外であったのだろうが。
あれはおそらく、ティアの契約者を炙り出そうとしていたのだろう。あの状況ではティアは契約者に頼る必要があった。もしも奏との契約が戦闘に使えるものであったなら、間違いなくティアは罠にかかっていたはずだ。
「策を練る必要があるな」
カレンデュラがその契約者の言うことを聞かず、独断専行してくれたのはある意味で救いでもある。もう彼女が我慢できないと言うことは、このまま契約者と別れるか、あるいは、無理やり策もなくティアとの接触を図るしかないと言うことになるからだ。
行動が読めれば、対応は取れる。
しかし戦闘になればティアには契約者――蒼汰の助力が不可欠だ。
「問題は山積みじゃがな……」
ふぅ、とティアがため息をつくと同時、インターホンが鳴った。
キッチンから離れられない光輝に代わり、ティアがそれに応える。
「どちら様じゃ?」
『私。天宮六花です。ちょっと、上げてもらってもいい?』
モニターの向こうに映っているのは、変わらずセーラー服に身を包んだ黒髪の少女だった。
「……構わんじゃろう。わしは家主ではないが」
逡巡したティアだが、すぐにエントランスのキーを解除し六花をマンションの中へ入れた。周りの情報抑制が出来ない場所では言えないことなのだろう。そうでなければわざわざ家まで訪ねてくる理由はない。
数分で、今度は玄関のチャイムが鳴った。
玄関まで歩いていって鍵を外し、ティアは六花を招き入れた。
彼女の姿を見て、ティアは一瞬眉をひそめた。何も変わった様子はない。きっと、六花自身がそう思っている。
「何か用か?」
「カレンデュラのことについて、少し分かったことがあるから」
そこまで言って、六花は一度言葉を切った。
それは、ティアの後ろに光輝が現れたからだ。
「何だ、お客さんか。はじめまして、蒼汰と奏さんの友達の日向光輝です」
「こちらこそはじめまして。天宮六花と言います。――あの、無礼とは思いますが、席を外してもらってもよろしいでしょうか?」
今から黒竜に関わる話をしようというのだ。六花のその判断は、妥当だろう。
しかし。
「その必要はないぞ、光輝。むしろ、わしの背から動くなよ」
ティアの言葉の意味を把握できない光輝だったが、もしもこの場に蒼汰がいれば、彼はすぐに理解していただろう。
ティアの全身から、紛れもない殺気が溢れ出ているのだから。
「……どういうつもり、ティア」
「それはわしのセリフじゃ。――全身から血の臭いを漂わせて、貴様こそどういうつもりじゃ」
ティアの言葉に、六花は目を剥いた。しかし、それもすぐに立て直される。
「……さっき、黒竜を討伐する仕事が舞い込んできたからね」
「ほう。サジもなしにか。あまりわしを、見縊るなよ?」
ティアが最後まで言い切るが早いか、黒い何かが跳ねるように襲いかかる。
しかし、透明な盾がそれを真正面から受け止めた。
「……察しがいい男の子は歓迎だけど、勘のいい女ってのは質が悪いね」
六花の手に握られているのは、漆黒の刀だった。
柄も、鍔も、刀身も、全てが黒で塗り潰されている。周りの全てを拒絶する色をしたその刀は、禍々しい輝きを返す。
「……黒竜と契約したか。――いや、まさかこれは……ッ!?」
気配を探り、そしてティアはすぐに答えに辿り着いた。
「そうだよ、アタシだよ、カレンデュラだよ、ティア!」
漆黒の刀が吠える。同時、刹那の内に無数の斬撃がティアに襲いかかった。もしもその日本刀の正体がカレンデュラだと気付けていなければ、防御に注ぐ力を見誤って四肢を切断されていてもおかしくなかった。
ティアは盾を切り裂かれることを察知し、もう一枚生み出した空気の盾で刀の腹を挟むようにしてその刃を受け止める。
「っぐ」
「うぉ――ッァ!?」
それでも威力を殺し切れずに、光輝を巻き込んでリビングまで吹き飛ばされていた。
「さて。カレンのお願いだから私はティアを全力で仲間に引き込みたいんだけど。――ティアにその意志はないのかな?」
ゆっくりと近づきながら、六花は言う。
「あるわけないじゃろ……」
立ち上がり、ちらりとティアは光輝の様子を確認する。頭を打ったのか気を失ってはいるようだが、目立つ外傷はない。
「――そうやって、視線を逸らしてていいの?」
その僅かな隙を突くように、黒い切先がティアに襲いかかる。どうにか弾いて防ぐが、後ろにいる光輝を護ろうとすれば、必然的に追い詰められてしまう。
とても反撃に打って出る余裕などなかった。
「貴様ら、何が目的で――ッ!」
せめて言葉だけでも返そうとするのに、それさえままならない。
「目的は一つだよ。ティアを仲間にする。――強いて挙げれば、今はその為の布石かな」
六花は嗤う。
瞬間、刀を握っていない彼女の左手から爆炎が吹き荒れた。
刀に気を取られていたティアには、その発生を止められない。
「くッ!!」
苦しげに呻きながら、防御壁を展開して光輝と自分の身を護る。しかし、煙は晴れることなく視界を奪う。
――どこから来る……ッ?
必死に全神経を尖らせて、煙の中からの奇襲に備える。
しかし六花からの追撃はなかった。
代わりに、小さな、少女の悲鳴が聞こえた。
「しまった……ッ」
慌てて煙を振り払いながら直進する。
六花とカレンデュラの狙いは、初めから奏だった。彼女を拉致する為に、わざわざ血の臭いをさせたままでも部屋に上がったのだ。
「少し、気付くのが遅かったね」
六花の声が遠い。もう既に、部屋の外に出てしまっている。
「夏凪奏は貰って行くよ。返してほしいなら《セントラル・ブルー》までおいで。ティアが仲間になることと交換に夏凪奏は解放してあげる。――この島を一望できるあの場所で、人と決別する。最高の舞台だと思わない?」
「ふざけるなよ、六花! カレンデュラ!」
追いかけようとしたが、既に彼女たちの気配は完全に消えていた。
苛立ち紛れに烈風を起こして煙を吹き散らすが、二人の姿はどこにもない。
「……本当に、ふざけおって……ッ」
激情に任せて壁を殴りつける。壁に穴を開けるが、人の姿をしたその柔らかい手の皮は容易く剥けて血が垂れた。
奏の奪取に向かおうにも、今のままでは自分が引き換えになる以外に方法はない。だが、ティアが仲間になったとしても奏の安全が確保されるかはまた別の話だ。
手詰まりだ。自分だけでは、もうどうしようもない。
全て自分が撒いた種だと言うのに、また無用に周囲を巻き込んでしまった。
大災厄が起きたあの日。もう二度と自分のせいで誰かを傷つけないと、心に堅く誓ったのに。
「――ティア」
うずくまるティアを、その優しげな声は叩いた。
持ち主など、知っている。――自分が引き起こした不幸の付けを全て押し付けた、最もティアが詫びねばならない相手なのだから。
「……蒼汰」
取りすがるように蒼汰の足を掴む。
たったいま駆け付けたばかりの彼は、まだ何も知らないはずだ。言わなければならないことは山ほどある。けれど、口から出た言葉は何の説明でもなかった。
それは紛れもなく、強者足り得た青竜が全てをかなぐり捨てた懇願だ。
「お主に、わしは散々酷いことをした。命を、心を踏み躙るような愚行じゃ。決して許されないとは理解しておる。それでもなお、わしはもうお主以外に頼れるものがない……ッ」
言葉が震える。
その怒りはカレンデュラに対してではなく、自分に向けられたものだった。
自分の無力さが、ただ恨めしい。
「わしが現実から目を背けていたせいで、カレンデュラは大災厄を起こした……。数百もの命が奴の腹に収まる様を、わしはただ見ることしか出来なかった……っ。もうこれ以上は、一人もそんなものは見たくない。誰にも見せてはならん……っ」
いったい自分はどれほどの年月を生き抜いたのか、数えるのさえ止めていた。それくらい、様々なものを見て理不尽にも耐えてきた。
しかし、今こうして流れ出る涙を止めることは、たとえティアにも出来なかった。
「だから頼む。奏を助ける力を貸してくれ、蒼汰!」
その懇願に、蒼汰は微かに微笑んでいた。
答えなど、もう決まっているとでも言うように。




