第三章 人形 -10-
コンビニから出てきた美海に半ば引きずられるようにして、蒼汰は一つの家の前に来た。途中で「迷惑になるから」と断ろうとしたが、それを声に出す気力さえ残ってはいなかった。
今の蒼汰の目の前にあるのは、よくある二階建ての一軒家だ。別段大きくもないが、決して小さくはない。普通で平凡で、それ故にどこか温かみがあった。
「ただいまー」
門を抜け、美海は扉を開けて帰宅の挨拶をしていた。その当然の光景が、蒼汰には輝いて見えた。――それが羨望と嫉妬だと気付いて、また胸が苦しくなる。
「おかえりなさい。――って、あらまぁ! 美海ちゃんが男の子を連れてくるなんて」
リビングらしきところから顔を覗かせた、若々しい女性は蒼汰の顔を見るなり頬を染めていた。口に出したら美海に怒られるだろうが、美海によく似て可愛らしい人だった。
「何を期待してるのか知らないけど……。ちょっと何か、家出? みたいな感じで、とりあえず今日だけこいつ――蒼汰をうちに泊めたいんだけど……いい?」
「あらあら。お父さんが知ったらラリアットされるわよ、その子。今日は出張でいないけど」
どんなお父さんなんだろうかと恐怖を覚える蒼汰を余所に「隠し通すし、バレたら私が全力のローリングソバットをお父さんにかますから問題ないわ」と美海は答えていた。
「まぁお母さんは大歓迎よ。蒼汰くん、だっけ。ご飯まだなら作ってあげるから。美海ちゃんもまだなら一緒に食べる?」
「なんで娘の私の方が後回しなのよ……。まぁ、食べるけど、とりあえず先に蒼汰を風呂に入れるから。泥だらけだし」
「はいはい。じゃあ用意しとくわね。あぁ、お風呂はちょうど沸いてるから」
鼻歌交じりにリビングに戻る母親に美海はため息をついて、何かを諦めたように靴を脱いだ。
「ぬれ鼠だけど、まぁ床くらいは後で拭くしそのまま上がってきて。お風呂場に案内するから」
まだ状況が呑み込めない蒼汰を引っ張って、美海は脱衣所に彼を放り込んだ。
「脱いだ服はそのまま洗濯機に入れといて。その洗濯機、泥まみれでもちゃんと流せる最新タイプだから。替えの服はあんたが風呂に入ってる間に持ってくる。下着はさっきコンビニで買ったから気にしないこと。あぁ、シャンプーとかは好きに使っていいけど、お父さんの黒いボトルに入った育毛用とか加齢臭防止とかのやつは高いからやめといて」
捲し立てるように言うだけ言って美海はぴしゃりと脱衣所の扉を閉めていた。取り残された蒼汰は、ただぽつんと立っていた。
さっきまであんなに悲嘆に暮れていたのに、どこか日常に帰って来たような感覚があった。問題を棚上げにしただけだとしても、少し気が楽になったのは確かだ。
雨に晒されじっとりと冷たくなった衣服を脱ぎ捨て、蒼汰は素直にお風呂を借りた。
自分の家以外の風呂場というのは随分不思議な感覚で、毎日美海が使っていると考えると顔が少し赤くなる。
ぶんぶん頭を振りつつシャワーで雨と余計な思考を流してから、薄緑の湯船に身体を沈めた。
冷えて縮こまった身体は、次第に解けるようだった。けれどいつも感じる、芯まで温まる心地よさはいつまで待っても訪れなかった。
湯が温い訳ではない。傍の端末に表示されている温度は、むしろ蒼汰の家より二度ほど高い。
体表は熱くなって、額にじわりと汗は滲む。けれど、身体の奥はずっと冷え切ったままだ。
「……僕が、人じゃないからか」
自分が人形だと自覚して、途端に身体の組成でも変わったか。
まるで全身ががらんどうになったような空虚な冷たさが、ずっとくすぶっている。
美海と話をして少しはマシになったような気がしたが、結局、自分は人間ではないのだと思い知らされる。
濡れた髪から伝った滴が、頬の上に落ちた。
たっぷり三十分ほど風呂を借りて、蒼汰は浴室を出た。
「……いや、替えの服ってこれ?」
籠の中にあったのは、コンビニで買ったと思われる袋に包まれたままの黒いトランクスと、何度か着たと思われるTシャツとハーフパンツだ。てっきり美海の父の服を貸してもらえるのだろうと思っていたのだが、もっと若々しいデザインだった。――と言うか、一度か二度、蒼汰も目にしている。
「これ美海のじゃ……? いや、ほとんど身長は同じだけど……」
いいのだろうかと少し葛藤のあった蒼汰だが、借りる上に泊まらせてもらう身で文句も言えず、渋々袖を通した。
借りたシャンプーも美海のもので纏った服も美海のもの、という現状はどうにもくすぐったいようにも感じたが、結局は表面的なものだ。心の奥底で渦巻く苦悩や恐怖に比べれば取るに足らず、すぐに気にならなくなって脱衣所も後にした。
「……お風呂、ありがとうございました」
リビングに顔を出すと、美海の姿はなく、いたのは彼女の母親だけだった。温かいみそ汁の香りが鼻の奥をくすぐった。
「あらあら。美海ちゃんの服だけどサイズぴったりみたいね。まぁうちのお父さんの服じゃ流石にサイズ絶対合わないしねぇ」
「そうなんですか?」
「そうそう。高校時代はバスケ部のセンターで、大学時代はアメフト部でディフェンスタックルやってた、って言ったら分かるかな。ものすごくガタイが良くて格好いいんだから」
二メートル近い身長で体重は百キロを超える巨漢、というのがいま蒼汰の描いた美海の父親像だ。そんな人の服を小柄で華奢な蒼汰が借りるのは不可能だろう。子供が大人の服を着るような情けない格好が目に浮かぶ。
「……もし泊まった上に美海の服を借りてるのがそのお父さんに知れたら、大変なことになりそうですね……」
「まぁその前に美海ちゃんが止めてくれるから安心して。うちの人ったら、娘にベタ甘だから」
くすくすと笑う美海の母の姿に、蒼汰はどこか遠い風景を重ねていた。
家族の談笑。それはたった昨日まで自分が奏としていたもので、けれどずっと偽られていたもの。そして、これから先も手に入れられないものだ。
胸が不意に苦しくなって、蒼汰は俯いた。きっとすぐに表情にも出て、美海の母親を心配させてしまうから。
「美海ちゃんは二階の部屋にいるから。ご飯が出来るまでそっちにいるといいわ」
「……はい」
答えて、蒼汰は目を伏せたままリビングを出た。
二階だという美海の部屋へ向かう途中にも、既に蒼汰の思考は冷え切ってしまっていた。
どんなに走ったって、どんな会話をしたって、蒼汰は奏を忘れられない。自分がただの人形でしかないという事実は、背中から心臓の辺りをごりごりと圧迫する銃口のようだった。逃げることは許さないと、無言のままに告げられている。
二階に上がり、美海の部屋をノックする。返事があったので、出来る限り心配させないような笑顔を取り繕ってからドアを開けた。
勉強机に座って携帯端末をいじっていた彼女と目が合う。制服から着替えて、今の蒼汰と似たり寄ったりの部屋着だった。
「……お風呂、ありがとう。この服も」
「思ったより似合ってるわね。それユニセックスだし、もう着てないやつだからそのままあげようか? 半分そのつもりでそれ選んだんだけど」
「いや、流石に女の子から服はもらえないよ。ちゃんと洗濯して返すから」
「そう。――あぁ、座る?」
美海はベッドの上に置いてあったクッションを一つ取って蒼汰に投げ渡した。
「さっきうちのお母さんが変なこと言ってたけどさ、気にせず泊まっていきなさいよ」
「うん、大丈夫。流石に自分でも、まだ帰れる状態じゃないのは分かってるから。ただ少し、美海のお父さんに会うのは怖くなりそうだけど」
「あー、まぁ、傍から見れば怖い人かもねぇ……」
呆れたようなため息をつく美海に、蒼汰は苦笑いと共に軽くフォローを入れる。
「でも、お母さんはいい人だったよ。快く世話を焼いてくれるし。――そう言えば、どことなく親戚のおばさんにも似てたなぁ」
脳裏にふと過ったのは、去年まで奏と自分を世話してくれていたおばさんの姿だった。
自分にも家庭があるだろうに「対人恐怖症なんだから、いきなり大人数は駄目よね」とか言って、たった一人でこの島まで来て二人の世話を焼いてくれた。
面倒事だってたくさんあったはずだ。義援金やら生命保険やらがあったとはいえ、金銭的にも苦しかったに違いない。奏はいつまで経っても心を開かなくて、結局、奏の高校進学と同時におばさんは家に戻ってしまったのだが、今でもずっと心配してくれている。
そんな、とても優しい人だ。
あの人にも、いつか奏の笑顔をちゃんと見せてあげたい――
「――――ッ!?」
ばっ、と蒼汰は口を覆った。
何を考えても結局奏のことにしか繋がらない自分の思考回路が、どうしようもなく恐ろしくなった。まるで自分の心までをも人に操られているような、そんな恐怖だ。
「……大丈夫?」
自分でも青ざめているのが分かるが、美海に心配をかけまいと慌てて笑顔に戻した。
「大丈夫。公園で転んだときに、ほっぺの内側でも噛んだのかな」
苦しい言い訳だとは理解している。けれど、美海ならばそんな言い訳を並べた理由まで察してくれると思っていた。
「……で、何があったの?」
けれど彼女は、察した上で、踏み込んできた。
人の心の深淵を土足で踏みにじることになるかもしれないと理解して、それでもなお。
「大したことじゃないよ。ちょっと奏と喧嘩してさ。喧嘩なんて三年も一緒にいて初めてだったから、動揺しちゃって」
蒼汰はいつも通りの笑顔を、完璧にトレースしてみせた。自分が人の形をしたただの物だという事実のおかげで感情そのものがどこかへ追いやられたのか、案外簡単に上手くいった。
美海は小さくため息をつき、立ち上がってベッドに腰掛けた。それも、蒼汰の真横に。
「そんなんで、ごまかされると思う?」
ドキリとした。
公園で美海が自分を見つけたときの格好を考えれば、そう容易には有耶無耶に出来ないだろうとは思っていた。だから適当にごまかし続けて、煙に巻こうと思っていた。
けれど、美海の瞳は違う。
まるで全てを見通してしまったかのような黒い眼に、吸い込まれてしまいそうになる。
「言いたくないなら聞かない、なんて優しいセリフは期待しないでよ。ごまかそうってことは、私や光輝に心配をかけるだろうから、傷つけたり軽蔑されたりするかもしれないから、とか思って口を閉ざそうとしてる。――でもだったらそれは、なおさら言わなきゃ駄目」
声は真剣そのもので、けれど、彼女の顔はいつもと変わらない笑顔だった。教室で見るのと変わらない明るいもので、その輝きだけで蒼汰が作り上げた心の壁を容易く砕いてしまう。
「自分だけで抱えると、その重みで潰れちゃうわよ。人なんて、自分たちが思ってるよりずっと脆い。迷惑でも何でも誰かと分け合わないと。その為に友達がいるのよ」
「……潰れないよ」
ぽつりと、思わず言葉が漏れた。
「潰れる訳がない。だって、だって僕は……」
こんなことを、美海にまでぶちまける気はなかった。隠し通して、いつ訪れるとも分からない折り合いが自分の中で付くまで、ずっと抱え続けると決めていたのに。
けれど自分が限界にいたのだと気付いたときには、既にダムは決壊してしまっていた。
「僕はそもそも、人ですらないんだから」
こんな言葉で何かを理解できるとは思えない。きっと美海の顔は怪訝な表情で満たされているだろう。しかし蒼汰はその顔を見ることさえ出来ず、じっと俯いて視線を床に固定するしかなかった。――それでも、言葉を止める気にはなれなかった。
「どういう、こと……?」
「比喩じゃないよ。僕は、人じゃないんだ。大災厄のあの日、奏が竜に願い、契約して生み出された人形なんだよ。この身体もこの心も、全部全部、奏の為だけに作られた偽物なんだよ」
不思議と、涙は零れなかった。胸は今にも捻じれ引き千切られそうなのに、眼はすっかり乾いていてひりひりとした痛みさえ感じた。
もう自分は人間ではない。いや、そもそも人間であったこと自体がない。
自分の意志でやったと思ってきたことは全て、奏の手から伸びる糸に操られていた。
どこにもパーソナリティなんて存在しない。ただ、それだけの話。
「奏が願いを捨てればその瞬間に僕は消えるだろうし、逆に彼女が願い続ける限り僕は死ぬことが出来ない。そんなの、人って呼べる訳がないよね」
自分の全てがたった一人に握られるなど、ペットやおもちゃと変わらない。――いや、それどころか、死ぬことも壊れることも出来ないという時点で、それよりももっと酷い。
いったいどうして、自分がこんな目に遭っているのか。
気付けば、砕けそうなほど歯を食いしばっていた。
権力や富を求めた訳じゃない。不老不死になりたいと願った訳でもない。何かの代償ではなく、自分が誕生した瞬間にその理不尽は始まっていた。
こんなことに、どうやって納得しろというのか。
嗄れた声で蒼汰が喋っている間、美海はずっと黙っていた。
友達が人ではないという事実に驚愕し、恐怖し、言葉を失くしたのだろう。このまま逃げ出されたって仕方ないとさえ思う。あるいは、全く信じることなく蒼汰のことを馬鹿にしているかもしれない。
しかし、美海の反応は蒼汰の予想の全ての外れたところにあった。
「……ゴメン。私は蒼汰の言っている意味を全部は理解できない。だから、蒼汰がどれくらい悩んでいるかも分かってあげられない。分かち合おうとか言ってたのに、本当にゴメン」
囁くように言いながら、彼女は自分の胸にそっと蒼汰の頭を抱き寄せた。
とくん、とくん、と、穏やかなリズムを刻む鼓動が耳を包み、子供をあやすように撫でられた手から、ぬくもりが染み込んでくる。
――どうして、そんな……。
美海の優しさに戸惑って、蒼汰はそのまま動けなかった。ただ、じっと美海の言葉と鼓動だけを聞いていた。
「正直な話、そんなことを言われてもすぐに全部を信じるなんて出来ない。蒼汰が嘘をつくなんて思っていないけれど、だけど、ずっと友達だったやつが突然人じゃないなんて言われても納得できないってことは、蒼汰も分かってくれると思う」
不思議と、美海の言葉はすんなりと頭に入ってきた。それも、心地よくさえあった。
たった数瞬前まで、あんなにも全身が固まっていたのに。気を抜けば吐いてしまいそうなくらい気持ち悪かったのに。そんな感覚は全て消えていた。
「……私はさ」
蒼汰を抱き寄せたまま、彼女はそんな風に呟いた。
「どんな蒼汰でもいいって思ってるの。安易な慰めじゃなくてね。だって別に、人間だからあんたを好きになった訳じゃないし。人間かどうかなんて、この際どうでもいいじゃない。誰も自分が人間だと自覚して生きてる訳じゃないんだから」
「そんなの――……」
「暴論だって思う? でも世界中探したら、人間だと思っている誰かはロボットかもしれない。誰かに作られたことが問題だって言うんなら、普通の人だって育った環境で思考も影響は受けるでしょ。完全にオリジナルの人間なんていやしないわよ」
彼女は、何も変わらなかった。
美海に戸惑いがない訳ではない。彼女が蒼汰の境遇を百パーセント理解できているなんて思えない。それでも、蒼汰の告白は少なくない衝撃を与えたはずだった。
なのに、彼女の声音に演技などなかった。彼女は心の底から、今までと同じように蒼汰と寄り添おうとしてくれている。
「あんたは奏さんに作られたんだって、そう思ってるみたいだけどさ。でも、蒼汰が奏さんの為にしか存在しないっていうのだけは、嘘だって分かる。もし本気でそう思ってるんなら、それはあんたが間違えてる」
どこまでも、どこまでも優しかった。言葉一つ一つは鋭く、蒼汰の胸の奥へと滑りこんでくるのに、それは彼に安らぎを与えてくれるようですらあった。
「だって蒼汰は私と、光輝と、他のクラスメートとも友達じゃない。みんなと笑っていたことのどこが、奏さんの為だったって言えるの? ――それは全部、蒼汰が蒼汰自身の為に、そうしたいと願ったからでしょう?」
じわり、と、空洞になっていた胸の中心から何かが溶けていく。
ただ惑い続ける蒼汰に、美海は彼が求めていた答えを教えてくれた。
「だから、きっと全部が全部作りものじゃない。蒼汰が何よりも大切にしてるその感情だって、まだ本当に偽物だって決まった訳じゃないでしょう?」
そっと美海が、蒼汰の目元に触れた。涙を拭われたのだと知ってから、ようやく自分が涙を流していることに気付いた。
人形で、自分の意志さえ存在しないはずなのに。
それは確かな、心の欠片だった。
自分は生きているのだと胸を張って答えられる、小さくて、けれど何よりも大きな証だ。
「――だから、きちんと答えを探しておいで。逃げ出さないで、奏さんと、きちんと向き合って。あんたのその大事な気持ちは作り物なんかじゃないって、胸を張っておいで。私はここで、何があっても蒼汰をずっと待っていてあげるから」
湯船につかっても冷え切っていた身体が、途端に温かさに包まれる。美海の胸の鼓動が全身に伝播して、気が付けば、蒼汰は小刻みに震えていた。
嗚咽が漏れていた。
嬉しいのか苦しいのか、原因は自分でもさっぱり分からない。しかし何かが溶け出すように、あるいは何かを吐き出すように涙と声が溢れ出る。
みっともないと思っているのに、どうやってもそれは止まろうとはしなくて、ただ子供のように美海にすがりついた。
「……大丈夫。私は、蒼汰の傍にずっといるよ。蒼汰がどんな境遇だったとしても、あんたは私の友達なんだから。――だから、今はおやすみ。ゆっくり、ね……」
そっと瞼を閉じれば、波のようにまどろみが押し寄せる。
温かい腕に抱かれながら、蒼汰の意識は明るい世界へ落ちていった。




