第三章 人形 -9-
降りしきる雨の中だった。
日向光輝はようやくの帰路についていた。
「美海め……。自分のストレス発散に俺を付き合わせやがって。七時間歌いっぱなしとか馬鹿じゃねぇのか?」
ぶつぶつと文句を垂れ流し、光輝は小石を蹴飛ばしながら歩いていた。
「どうせなら幼なじみじゃなくて、もっと可愛い女子が相手だったら良かった」
そんな愚痴が聞こえたのか、ポケットの中で携帯端末が震え出した。思わず「すみません!」と謝ってしまった光輝は、本能的にその着信の相手を理解していたのだろう。
「……やっぱり美海からか」
少し冷静になった光輝が恐る恐るその着信に応える。さっき別れたばかりだから、大方は忘れ物か何かだろう。間違っても光輝の悪口を超能力で聞いていた訳ではあるまい。
「もしもし。俺の声を四六時中聞いてないと寂しいとか言い出す気か、キモイぞ」
『はぁ? あんた頭お花畑か。そんな訳ないでしょ』
軽い冗談で挨拶すると、酷い罵詈雑言が返ってきた。
「じゃあ何の用だよ?」
『……なんて、説明したらいいのかな。私にも状況がよく分かってないんだけど。――ただ、さっき蒼汰を保護したのよ』
「……どういうことだ?」
『分かんないんだってば。奏さんと喧嘩したっぽいけど、もっと深刻な感じで。びしょ濡れの上に泥だらけだし、家にも帰りづらいって言うから今日はうちに泊めることにした。今はちょっと買い物しなきゃいけないからって言って、蒼汰を外で待たせて私はコンビニの中よ』
「……俺ん家の方が良くないか?」
『いま奏さん一人でしょ。あんた、様子見て来てあげてよ。その為にあんたに電話してんのよ』
「それこそ男女逆だろ」
『私、奏さんを前にしたらかなり問い詰めるかもしれないから。あんだけ蒼汰がボロボロになった原因を、聞かないで済ませられないと思う。それはあんまり良くないでしょ? ――それに、あんたは好きでもない人に手を出すタイプじゃないしね』
美海と奏がかち合ったらキャットファイトは必至だろう。それを彼女自身が自覚しているから、この役割分担なのだ。
「……拒否権ねぇのかよ」
『拒否したければどうぞ。――あと、万が一ではあるけど、手を出したら殺す』
そう言い残して、美海は一方的に通話を切った。絶対に光輝がこの頼み事を無視したりしないと分かっているからこその対応だろう。
「……俺はお前の奴隷じゃないぜ?」
通話の切れた携帯端末に吐き捨てながら、結局光輝は蒼汰の暮らすマンションへ向かった。
土砂降りの雨をくぐり抜けて、光輝は見慣れないマンションのエントランスに立っていた。
「一回奏さんを送っただけなのによく覚えてたな、俺……」
自分の記憶力の良さに驚きつつ、部屋番号は郵便受けから調べインターホンを鳴らした。
美海の話を聞く限り、この時点でもう奏が出ない可能性は十分にあった。奏とは短い付き合いだが、代わりに蒼汰とはそれなりに深い付き合いだ。
蒼汰が奏を支えて来ている。むしろ、彼女の柱となっていたのは明白だ。そんな彼と喧嘩をした彼女が失意に暮れる様は容易に想像が付く。
彼女が応答しなければどうしようか、と光輝は半ば真剣に悩んでいた。
しかしそれは、杞憂で済んだ。
十コールほど鳴ってからではあるが、通話が繋がった。
『……はい。夏凪です』
返って来た声は、奏のものだった。だが、光輝は面食らった。
こんな声は知らない。
いつもだって、光輝や美海の前ではびくびくしていた。どこか怯えているようで、明るい声とは言い難い。だが、こんな恐怖と絶望だけに塗り潰された声では決してない。
酷く掠れていて、聞こえないくらいか細くて、ともすればそのまま道を踏み外してこの世からいなくなってしまいかねないような、そんな恐ろしいほどの儚さがあった。
「……光輝です。蒼汰と何かあったみたいだって聞いて、美海から様子を見に行って来いって」
『光輝くん……。ごめんね。何でもないよ。大丈夫だから、帰って』
それが大丈夫な者の出す声なのか。
そう言ってしまいたくて、それでも光輝はぐっと堪えた。
「駄目です」
『……光輝くん……?』
「そんなの、ほっとけないでしょ。鍵を開けてくれるまでここで何時間だって待ちます。それでも無理なら、大家さんとか守衛さんに言って無理やり開けてもらいますよ」
『…………、』
無言だけがあった。
それから一度通話が切れ、三十秒ほどしてマンション内へ続く扉が開いた。入れ、ということだろう。
それに従い階段を上がり、夏凪・七峰と掲げられた表札のある扉の前に立つと、まるで見計らったかのようにそれが開けられた。
開けたのは奏でなく、蒼い髪の幼い少女だった。ただ、さっきまで雨に打たれていたのか全身ずぶ濡れになっていた。
見たことのない少女に戸惑う光輝だったが、相手は差して気にせず「入ってくれ」と言って光輝を部屋へと上げた。
そして、玄関に立った光輝は言葉を失くした。
廊下に虚ろな目で奏が座り込んでいたからだ。
「すまんな。さっきからこの様子じゃ。ほとんど口を利こうとせん」
何だよこれは、と光輝は声に出さずに呟く。
慰めるなど出来る訳がない。そう直感した。話しかけるだけでも、こちらの心が挫けそうになるのが目に見えている。
「……よし。その前に、お前の名前は?」
気持ちを切り替えて、光輝は蒼い髪の少女の方を向いた。
「レシュノルティア・ブルーじゃ。ティアで良い。一応お主よりは年上じゃが敬語も要らん。世話をかけておるしな」
その名前に――すなわち竜であることにもまた驚いたが、蒼汰と奏が喧嘩をしたという時点で天変地異レベルの出来事だ。もう今更驚くことが一つや二つ増えたって、と思い直して光輝は咳払いをした。
「それで、奏さん。これ、どういうことですか?」
「本当に、何でもないの。……ただ、蒼汰くんが、わたしを見限っただけ」
「蒼汰が……?」
いよいよ意味が分からなくて、光輝は首を傾げるしかなかった。相手はあの七峰蒼汰だ。見ている側が甘ったるくて吐き気がしそうなくらい、奏にべったりだったのに。
「わたしは、蒼汰くんに酷いことをした。許してもらえないことも、分かってる。だからもう放っておいて……」
それだけ言って、奏はまた膝を抱えて黙りこんでしまった。
これは駄目だと、光輝は思った。
ここにはもう生気がなかった。ただ最近自己紹介をし合っただけの光輝では、こんな泥の中から引きずり上げられる力がない。奏を慰めることも出来ない。ただ、せめてこの場でいつも通りに明るく振る舞うことくらいが精一杯だ。
「……ティア。お前びしょ濡れじゃねぇかよ。床とかは俺が拭いとくから先に風呂入って来い。――出来れば、奏さんも一緒に入れてやれるか? その間に俺は飯を作っておくから」
「……済まんな、迷惑をかける」
「全くだ。一段落したら蒼汰ともども何か奢ってもらうからな」
そう言いながら光輝は傍に落ちていたタオルを拾い上げ、軽く叩いて埃を落としてからティアの頭にかぶせた。
「……もしかしたら、このままになるやもしれんが」
そんな声が、小さな少女の口から漏れた。
奏の様子に気を取られていたが、彼女も彼女で相当以上に傷付いているように見えた。彼女が、奏と蒼汰がこんなことになった原因の一端なのかもしれない。
だからティアは、蒼汰と奏がこのままになってしまうかもしれないことに恐怖しているのだろう。
だが。
「絶対に戻ってくるよ」
断言すらした。
何も知らない光輝は『知らない』ということを理解していながら、それでもただ慰める為の言い訳でもなく、彼の心底からそう言った。
「あいつは、そういうやつだから」




