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第三章 人形 -8-


 いったいどんなやり取りがあって、どんな道を通ったのかも覚えていなかった。

 ただ蒼汰は、ティアを引き連れてマンションの自室の玄関の前に立っていた。


 雨を吸ったシャツからぽたぽたと滴が落ちて、コンクリートの廊下に染みを作る。たった一メートル後ろでは、まさしくバケツをひっくり返したように雨が降り続いている。じきに雷鳴も聞こえてくるだろう。


 何故、帰ってきたのだろうか。

 そんなことを蒼汰は思った。


 この薄い扉の向こうにあるのは、今まで通りの幸福な世界ではない。この扉を開ければ、ヒビだらけのガラスの上に立っている蒼汰は、奈落の底へ突き落されるだけだ。

 救いの手は、どこにもありはしない。

 このまま背を翻して逃げ出したとしても、誰も咎めはしないだろう。


 そう思うのに、手は自然とドアノブにかけられた。逃げたくないとか、真実を知らなければとか、そんな格好のいい考えではない。――ただもう、どうでもいいと投げ出しているからだ。

 金属製のノブは外気で冷え切っているはずだが、温度を感じることなく蒼汰はそれを回した。


 真っ直ぐ続く廊下の先に、ほのかにリビングの明かりが見えた。けれど、この幸せだった空間へ入ることを拒んでいるのか、蒼汰の足は根が張ったかのように動かなかった。


「あ、おかえり。遅かったね」


 明かりの奥から聞こえるいつも通りの奏の声が、心に開いた大穴を淵から崩していく。


「雨も降ってきてたし濡れたよね。いまタオル、を……」


 がちゃりとリビングの扉を開けて玄関に来た奏は、そこで言葉を詰まらせた。


 蒼汰がずぶ濡れになっているからか?

 それとも、蒼汰が見ず知らずの青い髪の少女を連れているからか?


 きっと、どちらも違う。

 見知ったティアの姿を見つけ、隠し通して来た真実が暴かれたことを悟ったからだ。


「ティア、って言うんだ。こんなに可愛い見た目だけど、すごく強い竜なんだってさ」


 乾き切った笑みを浮かべて、蒼汰はそう言った。彼女がティアと何の繋がりもないと、そう思っていたかった。それが何の意味もない、ただの醜い悪足掻きだと知りながら。


「ゴメン、なさい……」


 奏は眼を見開いて、いやいやをするように首を振りながらよろけていた。手に持っていたタオルが、ぱさりとフローリングの上に落ちた。


「何で、謝ってるの……」


 問う必要がないことは、蒼汰が一番分かっている。それは彼女を傷つける行為であることも。

 それでも、否定が欲しかった。

 しかしいくら待っても、そんな言葉が奏の口から出ることはなかった。

 ぎっ、と食いしばる力に歯茎が耐え切れなくなって、口の中に血の味が広がった。こんなにもこの身体は生物らしいのに。そんな思考が過った途端、万力で締め付けるように頭が痛んだ。


「……奏。もう、言うしかあるまい」


 ティアの言葉に、奏が肩を大きく震わせる。瞳いっぱいに涙を溜めて、小さく、本当に微かに首を縦に振っていた。


「今のお主に説明を強いるのは、流石に酷じゃろう。わしが代わる」


「何を言ってるの、ティア……?」


「……聞け、蒼汰」


 突き付けられた刃のようなティアの言葉に、蒼汰は息を呑んだ。


「わしは、わしたちは、お主に謝らねばならないことがある。それは、三年前――大災厄での出来事について、じゃ」


 きっとそうなのだろうと、もう蒼汰にも分かっていた。けれどこうして正面からその名前を出されて、動揺を抑えることは出来なかった。


「……分かった」


 胸に手を当て、荒れる鼓動が僅かばかりでも落ち着くのを待って、蒼汰はそう答えた。

 覚悟が出来た訳ではない。けれどもう、今さら後には引けなかった。

 蒼汰の返答に頷いてから、ティアはゆっくりと語り始める。


「……三年前のあの日、カレンデュラはわしを黒竜の側に引き込む為に、戦争を仕掛けようとした。竜が街一つを潰し、たらふく人を喰らえば引き金には十分だと考えたんじゃろう」


 ティアが言葉を区切ると、髪や服が吸った雨水の滴り落ちる音だけがそこにあった。その音が、やけに肌に突き刺さる。


「それが東霞の大災厄じゃ。傍観者を気取っておったわしは、その光景を前に絶望と後悔を知った。わしがカレンデュラを止めねば、と思った。――しかしとうに衰弱しておったわしにそんな力はなく、あやつが人を貪り喰らうのを、ただ眺めるしかなかった」


 たん、とティアが厚い扉に背中を預ける音がする。右手で左の二の腕を爪が食い込むほど握り締め、それでも彼女は言葉を続けた。どこか、泣きそうにも見えた。


「家が潰れ瓦礫の山から這い出た人間を、まるで蟻でも見るように眺め、カレンデュラは喰らった。得た力を試すように炎を撒き散らして人を殺し、生き延びた者もまたそのまま喰らった。何度も、何度も、何度も。わしの制止など意に介さずにな」


 それはどれほどの惨状だったのか。その片鱗しか見ていない蒼汰でもイメージくらいは出来る。しかし、その原因を作った彼女が、いったい何を思ったのかまでは想像できない。


「わしは、カレンデュラを止める為に契約を交わすことを決意した。酷く身勝手であるとは理解しておったよ。じゃが、それ以外にあやつを止める術をわしは持っておらなんだ。――そしてわしは、災厄の中心地で、全てを失った少女に声をかけた」


「…………、」


「初めの彼女の願いは『失った家族を返して』じゃった。しかし、わしにもそれは出来ん。契約を以ってしても、死者を蘇生することは不可能じゃ。それを告げたときその少女は、なら、ともう一つの願いを口にした」


 驚くこともなかった。ただ蒼汰は酷く揺れる視界でティアを見つめ、続きを待った。


 ――いや、本当は待ってなんかいなかった。


 心のどこかではずっと、今すぐにでも逃げ出したいくらいだった。

 それでも、ティアは続けた。


「何があっても自分を支えてくれて、絶対に傍を離れない新しい家族が欲しい、と」


 息をすることがこんなに難しいのか、と蒼汰はどこか乖離した精神でそう思った。

 酷く大気が粘ついていて、肺がまともに回らない。いっそ、辺りの酸素が軒並み焼き尽くされてしまったようですらあった。


「エネルギーを得たわしはカレンデュラを撃退した後、供給される全てのエネルギーを使ってその契約を遂行し続けておる。少ないエネルギーで願いを叶え、大きなエネルギーの供給を得るという契約の根底を無視してはおるがな」


 次いで紡がれた言葉は、途方もなく重たいものだった。


「そうして生み出されたのが、お主じゃよ。――七峰蒼汰」


 ――あぁ、やっぱりか。


 そんな風に蒼汰は思った。


「は、はは……」


 自嘲気味な笑いが、勝手に零れ出る。

 それは自分の耳にも気味が悪く聞こえた。


「はは。なるほどね。奏の望みから生み出された僕だから、奏は僕には心を開いていて、僕は奏の傍にいることが唯一の存在理由だと思っていた訳か。てっきり恐怖で記憶喪失になったとばかり思ってたけど。そりゃ記憶もないよね。その日の、その瞬間まで、僕は存在すらしていなかったんだから」


 何がそんなにおかしいのか、どこかが狂ったみたいに笑いが止まらない。

 その笑い声はきっと、心が引き裂かれる音だった。次第に声が大きくなるにつれて、胸が鋸みたいなもので無理やりに切り刻まれるように激痛が走った。


「あぁ、ひょっとしてここ最近身体がずっと重かったのも、それが原因なのかな。特課の訓練じゃなくて、奏に友達が出来たから。――奏が、僕を必要としなくなったから」


 何だそれ、と蒼汰は小さく呟く。

 奏の為と思って美海や光輝を紹介し、奏が二人と仲良くなって喜んでいたのに。それがまさか自分を殺すことと同義だったとは、いったいどんな皮肉か。

 ひとしきり笑って、粘ついた空気の中で必死に息を吸って、どうにかこうにか呼吸を整えた。乾き切った喉はくっついて、ひりひりとした痛みがあった。


「……ふざけないでよ」


 そして、そんな言葉が漏れ出た。


「そんな話を、信じろって?」


 息を吐く度、声を出す度、どうしようもない熱さが背骨の奥から溢れ出る。行き場を失くしたその力が、今すぐにでも全身の皮膚を貫いて飛び出してしまいそうなほどに。


「……何で、ずっと黙ってるの?」


 虚ろな目で、蒼汰の視界は縮こまっている少女を映していた。

 ずっと守り続けると、彼女の為なら全てを捨てられると、蒼汰がずっと思ってきた少女だ。


「言ってよ」


 ずぶ濡れの体のまま、ゆっくりと蒼汰は奏に近づいた。足取りはどうしようもなく重くて、ふらふらと頼りのないものだった。


「嘘だって、言ってくれればいいんだよ……。ティアの言葉は全部嘘だって、僕はちゃんと生きてるって。造られた人形なんかじゃない、人間だって、そう言ってくれれば……」


 蒼汰が一歩近づく度に、彼女の瞳には恐怖が増していった。けれど、彼女の眼は蒼汰を映さない。蒼汰からも、現実からも目を逸らしてしまっている。


「ゴ、メン……っ」


 カタカタと、何かに怯えたように彼女の全身は震えていた。


「なんで、謝ってるの? そうじゃなくて、違うって言ってくれれば――ッ!」


 気付けば、蒼汰は彼女の腕を掴んでいた。今までずっと優しく触れてきた彼女をこんなに乱暴に掴んでいたことに、自分でも驚いた。


「やめろ、蒼汰……っ」


 ティアの手が蒼汰の腕に触れる。一瞬正気に戻った蒼汰は、そこで、言葉を失った。

 目の前には、恐怖と悲痛のたった二色に塗り潰された奏の顔があった。

 その姿を可哀そうだと思ったから何も言えなくなった、という訳ではなかった。そんな優しさで蒼汰が止まったのではない。


 理由は単純だった。



 蒼汰の頭に、「奏を慰めなきゃ」なんていう思考が過ったのだ。



 自分の全てを否定するような真実を前に、蒼汰には奏を感情の赴くままに怒鳴り散らしたって誰も文句を言わないかもしれない、そんな状態なのに。

 普通なら考えられないような自分の心理状態に、怖気が走った。


 こんなにめちゃくちゃな状況で、自分の全てを差し置いて、優先順位の第一位に夏凪奏の存在が割り込んできた。

 その事実こそが、もう、七峰蒼汰という存在が奏の為だけに作られたということを、何よりも証明してしまっている。


「――――ッ!!」


 気が付けば、蒼汰は奏とティアに背を向け、玄関の扉を体当たりでもするように押し開けて、全力で走り出していた。

 背中に「蒼汰くん!」なんて言う奏の声を聞いて、後ろ髪を引かれそうになった。そんな自分に、どうしようもない気持ち悪さを感じた。

 その恐れからさえ逃げるように、ただただ地面を蹴り続けた。雨水を大量に吸い込んだ靴のせいで何度も滑りそうになったのも気にせず、一心不乱に、彼女から離れようと足を動かした。


 息苦しいのは雨に体温を奪われて肺が上手く膨らまないからか、それとも、もっと別の何かが胸に詰まっているからか。


 がむしゃらに足を動かした。

 誰かとぶつかったような気もするし、何度か車に轢かれそうになったかもしれない。そんなことも分からないくらい、蒼汰は思考を放り捨てて走り続けた。


 そんな走りは、とても長くは保たなかった。十分も走れば力も尽き果てて、足がもつれ、子供のように無様に転んだ。手をつくことも間に合わず、顔ごと倒れ込んだ。

 ぬちゃりとした感覚があった。アスファルトではなく、砂の地面だったらしい。おかげであまり擦り剥いてはいないが、ドロドロに汚れてしまった。


「――う……ッ」


 立ち上がろうとして胃の奥からせり上がるものを感じ、そのまま抗わずに吐いた。夕食も食べていないから、ただ気持ち悪く酸っぱい液体だけが零れた。

 疲れ切り、蒼汰は呆然と座り込んだ。

 ふと、傍にあった水たまりに蒼汰は視線を移す。街灯のおかげで、それは鏡のように蒼汰の顔を反射していた。


「酷い顔だな……」


 自分でそう言ってしまいたくなるくらい、今の蒼汰の顔は見ていられないほど崩れていた。目元は赤く腫れ、頬のあたりはこの短い間にやつれてさえ見えた。泥で顔中が汚れているせいで、余計惨めに感じた。


 ゆっくりと立ち上がり辺りを見渡せば、ブランコと滑り台が見えた。さっきまでカレンデュラと戦っていたところとは違う、もっと小さい公園らしかった。

 ふらふらと歩き、蒼汰は手洗い場で泥を落として口をすすいだ。どうせ土砂降りの雨の中だからわざわざ洗う必要もない気がしたが、口の中の酸っぱさを流すには雨じゃ足りなかった。

 また少し歩き出し、蒼汰は申し訳程度に置いてあった小さなベンチに腰掛ける。


 ――どうしようか。


 彼女のことを考える度に、ずきずきと頭が痛む。奏のいる場所に戻る気にはなれなかった。

 彼女を遠ざけることでどうにか蒼汰は自分を保っている。いつ瓦解するか分からないが、それでも、せめて心に渦巻くこの想いにけじめを付けなければ、どうすることも出来ないだろう。


 ――奏とティアを糾弾することも、和解することも。


「ッ。まだそんなことを……」


 自分の頭を殴りつけて、蒼汰は呻く。

 後者の選択がまだ残っている時点で、自分がどうしようもなく歪んだ存在だと気付かされる。

 思考を断ち切るように星一つ見えなくなった黒い空を見上げてみる。雨は強くなる一方で、弱まる気配はなかった。


 そんな中だった。

 ふっ、と。

 その視界が薄ピンクの何かで遮られた。


「……こんな時間に、びしょ濡れで何してんの?」


 それが傘だと気付くと同時にかけられたその声は、いつも聞いていた声だった。

 振り返った先にいたのは、制服姿の葉月美海だ。


「美海……」


「何よ、その泣きそうな顔。っていうか、ひょっとして泣いてた?」


 心配そうに自分の顔を覗き込んでくる彼女から、慌てて蒼汰は視線を外した。


「美海、まだ帰ってなかったんだ?」


「光輝と一緒にストレス発散にカラオケ三昧よ。おかげでちょっと声嗄れちゃったわ。――あんたこそ、奏さんとデートしてたんじゃなかったの?」


 その美海の問いかけに、蒼汰は声を詰まらせた。返答をしようとしても、上手くごまかせる方法が何も思いつかなかった。


「……家には帰りづらい?」


 その蒼汰の僅かな機微に感づいたらしく、優しげな声で彼女は質問を変えてくれた。それに蒼汰は小さく頷いて答えた。


「……じゃあ、うち来る? っていうか来なさい。そんなびしょ濡れじゃ風邪引くし」


「え、あ、ちょっと」


 蒼汰の返事を聞きもせず、美海は蒼汰の手を引っ張った。


「……一人でいたいのかもしれないけどさ。流石に、私は今のあんたを放っておけないから」


 有無を言わせず歩きながら、美海は小さく微笑みをくれた。

 だがその笑みを前に、蒼汰は喜びと同時に絶望を突き刺された。

 それを嬉しく思ってしまう感情さえ、きっと作られた偽物だから。



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