第三章 人形 -6-
すっかり日も沈み、さっきまであんなに赤かった空はもう真っ黒に塗り潰されていた。
スーパーの自動ドアをくぐり外へ出た蒼汰は、湿った空気を感じた。
「雨でも降るのかな……。早めに帰ろ」
夕焼けを見ていたときまでは晴れていたはずだが、確かに空には雲がかかっているようだ。いつも見えるたくさんの星がほとんど見えやしない。
奏は先に家へ帰っている。今日は徹底的に持てなすと決めていた以上、買い物は一人で済ませてしまいたかったからだ。
雨が降り出す前に、と両手に買い込んだものの入った袋を提げた蒼汰は早足で歩き始める。自動配送サービスに任せても料金がかかる訳でもなし別にいいのだが、この程度の距離なら届くより先に自分が家に着く。
周りにいるのは会社帰りのサラリーマンか、遅くまで部活をしていた高校生たちくらいだった。しかしどちらも数は多くない。少し近道をしようと公園を抜けようとすれば、あっという間に誰もいなくなった。
暗い公園というのは、男子高校生にとっても中々恐怖を駆り立てるような場所だった。街灯もありはするのだが、夜空の為に上方向には光を漏らさないような工夫がなされているせいで、明るさが少し足りない。
雨が降り出しそうだからという理由とは別に、蒼汰は更に足を速めて公園を抜けようとした。
もう十二分に暗かったし急いでいたのだ。だから、それは本当に偶然だっただろう。
公園の隅に、一人の少女が佇んでいるのを見つけることなど。
幼い少女だった。ティアのように小学校低学年程度の見た目で、髪は黒いボブカットでくせ毛だった。身を包んでいるのは、ゴスロリ調のドレスだろうか。普段着でも許される大人しめのデザインで、彼女にはよく似合っていた。
けれど、蒼汰はどうしてもそれを可愛いとは表現できなかった。それは美しくあったとか、そんなプラスの意味ではない。
紅い瞳を光らせた彼女のどこか狂気的な笑みが、蒼汰の心を冷たく包んでいたからだ。
通り過ぎようか、とも思ったが、それより先に彼女の方が蒼汰に気付いたようだった。近寄ってきた彼女は蒼汰の顔を覗き込み、鼻をひくひくとさせて何かの臭いを嗅いでいた。
「……どうしたの?」
意味が分からず蒼汰が問いかけた次の瞬間、彼女の口が三日月のように吊り上がり、狂気が爆発したようにその不気味な笑みが広がった。
「キミがティアの契約者なんだ? いいないいな、ティアと契約だって。羨ましいなぁ」
刹那、蒼汰は真後ろへ跳んだ。持っていたスーパーの袋など放り捨てている。それと同時、その袋が弾けて消えた。――否、何かに切り裂かれ、薙ぎ払われたのだ。
「すごいすごいすごい! アタシの攻撃を避けた!」
幼く舌たらずな声で、しかし彼女は大層喜んでいた。
全身から冷たい汗が噴き出す。蒼汰はただ目を見開いて、恐れ戦くしかなかった。
なぜなら。
嗤う彼女の右手が太く膨れ上がり、真っ黒い鱗に覆われていたから。
「黒竜……ッ!?」
理解が追いつかない。だがしかし、目の前の少女は嘲笑うように十メートル近く跳躍する。
真上から振り下ろされたその爪を転がるように躱し、蒼汰は地面を蹴って彼女と大きく距離を取る。視線の先で、蒼汰が立っていた地面を彼女の爪が抉っていた。もしも六花との戦闘訓練がなければ、反応できずに八つ裂きにされていただろう。
「二回目! すごいすごい! 本当にすごい!」
竜らしい鱗で覆われた腕を人のそれに戻し、猿のおもちゃのように彼女は手を叩いて喜んでいた。今の一撃で、蒼汰が死んでいたっておかしくなかったのに。
「次はどうかな!」
歓喜に声を震わせながら、目の前の黒い少女は漆黒の爪を夜空に振りかざした。
しかし。
「一人で良く堪えたな。流石はわしのパートナーじゃ」
聞き馴染んだ声がした。それと同時、ガラスを引っ掻くような耳障りな音が炸裂する。あの黒い爪は、まるで盾に阻まれているかのように蒼汰の目の前で静止していた。
そして、蒼汰の真横に、ふわりと闇夜に光る蒼い髪があった。
「ティア……」
それは、蒼汰と契約を交わした青竜――レシュノルティア・ブルーの姿だった。
彼女が蒼汰の前に透明の盾を生み出し、敵の攻撃を防いでくれたのだ。
「ティア、ティア、ティア! 会いたかったよティア!」
目の前の黒い少女は、ティアの姿を見て歓喜に震えている。理由はまるで分からないが、それはもはや、狂喜とさえ言って良かった。
「三年ぶりじゃな、カレンデュラ・ダーク」
「カレンデュラ、だって……ッ!?」
ティアの言葉に、蒼汰は驚愕を隠せなかった。その名前は、特課として探して来た、凶悪な黒竜のものだったのだから。
「だーく? あぁ、そうかそうか。ティアたちはアタシたちをそう呼ぶんだっけ」
とぼけた様子の彼女は、その歪んだ笑みをティアに向け続けていた。
しかしティアはそれを無視して蒼汰に語りかけた。
「済まんな。カレンデュラがお主に接触する可能性があったから、勝手に後をつけさせてもらっておった。文句は後で受け付ける」
そうバツが悪そうに言うティアに、しかし蒼汰は文句を言う気にはなれなかった。
初めてティアと会ったとき、蒼汰はティアと一緒になってカレンデュラ一派の黒竜を撃退している。ティアでなくとも、カレンデュラの接触を懸念するのは当然だ。事実、こうして目の前に現れているのだから。
「さぁさぁさぁ! もういい加減アタシと一緒になって人間と戦争しようよ! そんな人間と過ごすだなんて、ティアらしくもないよ」
「……貴様がわしをどう思ってきたかは知らんがな。今のわしは、人を護る側じゃ。今さら変わりはせん」
たった二週間の付き合いとはいえ、一度も見たことのない冷たい瞳でティアはその少女――カレンデュラ・ダークを見据えていた。
「貴様はここで殺すぞ」
ぞくり、と。
パートナーであるはずの蒼汰でさえ背筋が震えるほどの殺気が、ティアの全身から溢れ出る。
「戦えるの? ティアと? いいねいいね、最高だね!」
そんな殺気の嵐の中、カレンデュラは笑って言った。その目を爛々と輝かせて、心の底からティアと対峙するのを楽しんでいるかのように。
「……蒼汰。手を貸してもらうぞ」
「分かってるよ。――あの子は、危険だ」
狂気に揺れる紅蓮の瞳は、放っておいたら取り返しのつかないことになると思わせるには十分すぎた。
蒼い自動小銃に姿を変えたティアを空中で掴み、蒼汰はカレンデュラに銃口を向ける。それに呼応するように、目線の先にいる黒い少女の巨大な爪が光る。
「行くよ!」
歓喜に声を震わせ、カレンデュラが大地を駆けた。
一足飛びではない故にその軌道は蛇行し、照準が定まらない。二、三発撃ってはみたが、全てカレンデュラの横をすり抜け、緑化の為に用意された周囲の林の中に吸い込まれていった。
「くそっ」
即座に迎撃から回避へ切り替え、蒼汰は六花との勝負で見せたように真上へ跳んだ。ティアが生み出した透明の盾を足場に更に疾駆して、そのままカレンデュラの頭上を過ぎ去る。
「すごいすごいよ、ティア! 人間に空中歩行させるなんて!」
「貴様にも契約者がおるじゃろ。そいつにさせてやれば良い」
銃口から声を出してティアが答え、カレンデュラの頭に弾丸を放つ。
しかしカレンデュラは腕で頭を覆い、分厚い鱗はその弾丸を容易く弾いた。
「この前の黒竜は貫いたのに……ッ!」
「お主の願いの力が弱いからじゃ。この銃弾――蒼竜ノ弾丸は『撃ち貫く』という願望を元に生成される。ちゃんと願え。この戦いで敗北すれば、奏も死ぬかもしれんのじゃぞ」
ティアの忠告の直後、カレンデュラの爪が蒼汰の頬を掠めた。蒼汰は空中に立っていたと言うのに、彼女は垂直跳びだけでこの距離を詰めていたのだ。
冷たい汗が背筋を伝う。その感覚は二週間前の黒竜と戦ったときにも似ているが、違う。
あのときはただ漠然とした恐怖を感じていたが、今は特課として鍛錬を積んだ上で、このカレンデュラが途方もなく強いことを感じ、抱いた恐怖だ。
それは鋭く、胸を突くような恐怖だった。
原因がはっきりしていて、それを自分ではどうしたって覆せないことが明確に分かっているから、決してその恐怖から逃れることが出来ない。
蒼汰は己の震えを打ち消すように、引き金を引き続けた。無数の弾丸でカレンデュラを退けながらどうにか地面まで駆け下り、両の足で大地を踏み締める。
「貴様の契約者はどこだ」
「今はいないよ? だってアタシが勝手に来たんだもん」
きょとんとした顔で彼女は言う。事もなげに、迫る弾丸全てを弾きながら。
カレンデュラは、蒼汰に僅かでも隙が出来れば即座に間合いを詰めてその太く鋭い爪を振るっていた。何度もその爪が掠め、滲んだ血で出来た赤いラインを頬に何本も生み出していた。
「ずっとずっと。ずーっと。すぐにティアとその契約者に会わせてあげるって言われて待ってたのに、全然進展しないから約束破っちゃった」
そのカレンデュラの言葉に、蒼汰は何かが引っ掛かるのを感じた。
しかしそれを詮索するより先に、彼女の爪が目の前に迫る。咄嗟にティアが透明な盾でそれを防いだが、あまりの威力に盾は砕け、蒼汰は後ろへ下がらされた。
「なるほど。今は貴様に契約の脅威はない訳か。ならば尚更、ここで仕留めねばなるまい」
「それはヤだよ。だってアタシはティアと喧嘩するよりも、ティアと一緒になって人を殺す方が好きだもん。前の世界みたいにさ、こっちでも何人殺したか競い合おうよ!」
「――ッ」
その言葉に動揺したのは、蒼汰だった。
ティアが竜であり、かつての世界で前線に出て戦っていたことは蒼汰も知っている。そしてその世界で殺し合っていたのは、竜と人であったことも。それはつまり、ティアは誰よりも多く人を殺して来たということだ。
理解はしている。しかしこうして事実を突きつけられれば、心を揺さぶられる。今は心を託して戦えるティアにそんな面があったと、自分が勝手に思いたくないだけなのかもしれない。
「気を抜くな蒼汰!」
ティアの怒号ではっと我に返る。瞬間、カレンデュラの口から火炎が放たれた。
爪にばかり集中していた蒼汰を嘲笑うように、それが身を包む。ティアが障壁を展開していなければ即死していたに違いない。
叱責で気を引き締め直し、蒼汰は銃口をカレンデュラに向けた。眼前の彼女の瞳が、暗闇の中で紅く不気味に光る。
カレンデュラの攻撃を、蒼汰とティアは障壁と銃弾による迎撃で防ぎ続ける。しかし、反撃に出る余裕を完全に失ってしまった。
元々、竜が契約なしに使える攻撃や防御の手段の種類は非常に少ない。それは彼らが竜であるが故に、想像力が欠如しているからだ。彼らがデフォルトで使うのは、火炎を吐くことと透明の盾を展開することくらいだろう。しかしその障壁は、酷く脆い。
あの正体はただの空気だ。竜が演算によって世界に干渉し、指定した一部の空気分子の位置座標を限定する。自身の分子運動は生きているが、外部からの攻撃に対しては一切動かなくする訳だ。
つまりその盾は、竜が演算力だけで維持している。強度を保てるかどうかは竜に余力があるかどうかにかかっているのだ。
だからこうして、ギリギリの攻防が続けば生み出す度に盾の強度は下がっていく。
「あは! だんだん盾が壊れる回数が増えてきたよ!」
まるでモグラ叩きでもしている気分なのか、楽しそうにカレンデュラは言う。
このままでは、防ぎ切れずに殺されるのも時間の問題だ。そう判断し、蒼汰は一度後方へと跳び、距離を取り直した。
幾重にも重なったマズルフラッシュが、弾丸を弾く度に爪から散る無数の火花が、暗い夜を赤く染め続ける。
蒼汰とティアも、カレンデュラも、全く傷つくことなく時が過ぎていく。
曇っていた黒い空からは小さな滴が落ちて来ている。
冷たく、その雨は辺りから温度を奪い去っていく。
「ティア、ティア、ティア! 最高だよティア!」
「わしは最低の気分じゃよ、カレンデュラ……ッ!」
いったい、どれほどの応酬があっただろうか。このまま永遠に続くのではないかと思うほど、ティアもカレンデュラも、一歩も譲らなかった。
――だが、その終焉はすぐに訪れる。
飽きたように、カレンデュラの顔から笑みが薄れた。
「……終わっちゃったよ、ティア」
唐突に呟いたかと思えば、カレンデュラはその手を降ろした。
その隙を見逃すまいと引き金を引こうとした蒼汰だったが、異変があった。
トン、と。
まるで後ろから小突かれたように、蒼汰が前へよろけた。
「……え?」
何が起きたのか、理解が追いつかない。だが引き金にかけた指の力は勝手に抜け、目の前に浮かぶ歪んだ笑みが更につり上がっている。
腕がだらりと下がるその手前――胸の辺りで何かにぶつかった。それを認識すると同時、口から鉄臭い液体が溢れ出た。
そして蒼汰はようやく、異変の正体を知る。
真っ黒い円錐状の何かが、蒼汰の胸を貫いていた。




