第三章 人形 -1-
熱い何かが頬を掠める。
とっさにその場からサイドステップで離れると、自分が立っていた場所に三本もの矢が突き刺さった。冷たい汗を背中に感じながら、蒼汰は前を見る。
「反応が遅いよ!」
セーラー服に身を包んだ天宮六花の怒号が飛ぶ。同時、彼女が引いた弓から矢が放たれた。
「ティア!」
叫びながら蒼汰は左手を前にかざす。瞬間、そこに透明なガラス板のようなものが形成され、向かってくる矢を逸らすように受け流した。
再度矢を番える瞬間を狙い、蒼汰は横へ走りながら右手の銃を六花へ向ける。しかし蒼汰が引き金を引くよりも早く、彼女の手元に光が集まるように生み出された矢が射られた。
回避も防御も間に合わない。
見事に、その矢は蒼汰の着ていたカッターシャツの袖だけを射貫いた。
「はい、残念でしたー」
弓を降ろした六花は、楽しげに微笑んでいた。しかも汗一つ掻いた様子はなかった。
対して蒼汰の方は、だらだらと汗を流し肩で息をしている。その上で、負けているのだ。
ここは、《セントラル・ブルー》にある特課の為の鍛錬場。
広い体育館のような造りになっているこの施設で、蒼汰は特課の一員として動けるようになるべく訓練を積まされていた。
「今日の鍛錬はここまで――」
「もう一回、お願いします」
背中を向けた六花に、蒼汰はもう一度声を張る。
いつもは六花が終わりと言えばそれで蒼汰は喜んでいた。疑似戦闘である分、ここでの体力消費は並の運動を遥かに超える。今だって普段に比べて疲労が軽い訳ではない。むしろここ一週間繰り返した訓練で疲れが蓄積しているせいか、身体はずっとだるく感じている。
それでも今日はまだ続けなければいけない理由があった。
「おいおい、無理は禁物だぜ?」
声と共に六花に握られていた弓が青く光り、彼女の手を離れて収束する。
そこに現れたのは、二メートル近い大男のサジタリア・ブルーだった。
「遊戯みたいな戦闘訓練だけどよ、疲労は溜まるんだ。休みはきちんと取らねぇと。――何か理由があるのかい?」
「……来週の今日、まぁ土曜日ですね。その日一日、休みを取りたいんです」
「へぇ、何の為に?」
やはり理由を言わずに済ませるのは無理か、と蒼汰は諦めて隠さず答えることにした。
「……奏と、遊びに行く約束をしまして」
「ほほう」
素直にそう言うと、六花はうんうんと頷いていた。理解してくれた――ようには、残念ながら見えなかった。
「有給取得には半年は働いて貰わなきゃいけないんだけど。その前に女の子と遊びに行く為に休む、なんて理屈が本当に通用すると思う?」
「思わないので、せめて今週の内に頑張っておこうかと」
奏と約束してからの一週間、色々とスケジュールを調整したのだが、どうしたってこの特課の仕事が割り込んでくるので遊びに行く日がなかった。
となれば直談判しかない。それが今のこの状態だ。
「分かったいいよ、と言えないのは分かるよね?」
「重々承知です」
「ならそうだな。――次、私に一本取れたら、でいいかな」
さらりと六花はそう言った。しかし、彼女から溢れ出る気迫には全く勝たせる気が感じられない。
「ルールは特殊なものはなくて、相手の服を傷つける、もしくは銃口なり矢尻を直接突き付けた方の勝ち。さっきまでと同じだね」
「……それ以外に選択肢は?」
「ないね」
はぁ、と蒼汰はため息をつく。
今までこの方式の鍛錬で、蒼汰が六花に勝ったことは一度もない。日々の疲れも溜まっているし、今日だって既に三連戦の三連敗を終えた後だ。蒼汰の疲労度はもうピークに近い。
こんな状態で勝てるとは流石に思えなかった。――けれど、奏との約束がかかっている以上、退く訳にもいかない。
「ティア、頑張ってもらっていい?」
「お主も大概じゃなぁ……」
呆れたように、蒼汰に握られている銃が答える。
「まぁ、契約者の望みを叶えるのがわしら竜じゃからな。――勝利を望まれれば、全力で捧げねばなるまい」
完全に無機質な銃と化しているが、蒼汰にはティアが不敵な笑みを浮かべているとはっきり感じられた。
「サジ。学生気分が抜けない新人には教育が必要だよね」
「六花よぉ、お前もまだ学生だろ……? まぁ、女の為なんて抜かす男にはこの俺が直々に男気ってものを見せてやるか」
何故かサジまでやる気になって、意気揚々と弓の姿になっていた。せめて彼の意欲が減じていれば勝機はあったのだが、と思わず蒼汰は歯噛みする。
青い、美しい弓だった。
和弓ではなくアーチェリーのボウのような大きく力強いフォルムをしているそれは、実用性と美しさの両方を体現しているように見えた。
「水竜ノ矢。敵を一匹残らず射貫くという願いの契約から作られた、私とサジの武器。――さっきまではただの矢をつがえて威力を落としていたけど、本気を出そうかな」
そう言って、彼女は軽く弓を引いた。番えられた矢の先端に、何かが収束していく。
瞬間、天宮六花が矢を放った。
微かな飛沫と共に、蒼汰の足元に深く鋭い穴が開く。
「……っ」
思わず蒼汰は息を呑んだ。
先程の矢とは比べ物にならない。身体に当たれば、刺さるのではなく貫通する。
「これがサジの能力。水を生み出して、矢の先端から高圧水流として噴出させることで、全ての物質を貫通してみせる。――今さら新人の後輩君に負ける訳がないよね」
「……六花さん、ちゃんと前に僕は言ってますよね?」
それでも、蒼汰は笑っていた。
見せつけられた現象、力量差を前にしても、六花と水竜ノ矢から感じる裂帛の気合いに気圧されずに。――たとえそれが作り物だとしても、ハッタリ程度の意味はある。
「僕は奏を護る為にこの弾丸――蒼竜ノ弾丸を求めたって。奏との約束が懸かっている以上、この銃で負ける道理はありません」
蒼汰の想いに応えるように、握った銃から熱が溢れ出る。
些細な理由かもしれない。
他の誰かからすれば鼻で笑われることだとも思う。
それでも、七峰蒼汰に取って夏凪奏との約束以上に大切なものなどありはしない。




