第二章 友達 -8-
夏らしくなかなか沈まなかった太陽も、既に空をオレンジに染めていた。
そんな橙色の世界の中で、七峰蒼汰はコソコソとマンションの一室の扉を開けた。
「た、ただいま……」
恐る恐る、あるいはびくびくした様子で蒼汰は帰りの挨拶をする。普段の学校帰りなら、挨拶をしたって返事はない。しかし今日は違う。
六花に呼び出された為に、いつも一緒に帰っている奏を美海たちに押し付けてしまった。しかも忘れ物と言っておきながら、二時間半も遅れて帰って来たのだ。
夜中まで飲み会をしていた旦那さんはこんな気分なんだろうな、と現実逃避気味に勝手なシンパシーを感じながら、蒼汰はそっとリビングの様子を窺う。
「おかえりー、蒼汰くん」
返ってきたのは、ほわほわとした優しげな声だった。ちゃんとリビングの中を見れば、Tシャツホットパンツのいつもの部屋着で、奏はクッションを抱えてテレビを見ていた。
「遅くなってゴメンね……。ちょっと急に別の友達に誘われてしまいまして……」
「大丈夫だってば。遅くなるってメールも貰ってたしね」
屈託のない笑顔で、奏はそれを受け入れてくれていた。怒っている様子はない。しかし、だからこそ、罪悪感と不安が更に増していく。
「あの、お土産は買ってきたので……」
そっと蒼汰は携えていた紙箱を差し出す。それを見た瞬間、奏の顔が喜びと驚きに染まった。
「うわぁ! 《セントラル・ブルー》のケーキ屋さんだね!」
とてとてと素足で奏は駆け寄って、その箱を受け取った。もちろん中身も本物だ。特課の給料から考えれば安い買い物ではあるが、今までの生活からすれば超が付くほどの高級品である。
「……ところで、もしわたしが怒っていたとして、ケーキで慰めるつもりだったの?」
「そう訊かれると辛い……」
単に「手ぶらは不味い!」と思っただけなのだが、こういう罠があったことに蒼汰は肩を落とした。夜中に嫁に怒られている駄目な旦那の図に、今の自分が完全に重なっている気がした。
「しょうがない人だなぁ、蒼汰くんは。別に何も怒ってないけれど、ケーキに免じて許してあげたことにしよう」
楽しそうに笑いながら、奏はケーキを冷蔵庫にしまう。「ご飯の後に食べようね」と笑っていたので、本当に怒っていないようだ。
「もうご飯出来てるよ。カレー好きだよね?」
「あぁ、うん。ありがとう……。でも、そう簡単に認められてしまうと余計に申し訳なくなるなぁ……」
「いいからいいから」
奏はそう言いながら先に着替えてきなよ、と送り出してくれた。いっそ怒ってくれたり拗ねてくれたりすれば気も楽なのだが、奏が本気でそうしたことを蒼汰は見た覚えがなかった。
「僕がよそっとくね。奏は先にテーブルで座ってて」
ささっと着替え、手洗いうがいも済ませた蒼汰はキッチンに入ってカレーをよそい始めた。本当は料理を作った人が配膳までするのがこの家の暗黙のルールなのだが、今日これ以上奏に働かせることは、蒼汰の精神衛生上よろしくなかった。
「……遅くなったことは、いいんだけどさ……」
そうして蒼汰が準備を始めていると、クッションを抱いたままキッチンの入り口に立つ影があった。当然、奏だ。
「急に友達を紹介されたり、帰りは蒼汰くんだけいなくなってて……。それはちょっとわたしも辛かったなぁ、って……」
うっすら、本当に僅かに瞳を潤ませて、奏は呟くように言った。
その姿を見て、蒼汰はようやく自分のしたことの酷さを知った。
奏に何の相談もなく、彼女に心の準備をさせる余裕さえ与えずに、いきなり友達を紹介した。彼女にとってそれが、深い深い心の傷を抉るという行為であると知りながら。
しかも、自分がいずれどうなるか分からないからという、あまりにも身勝手な理由だけで。
それでも彼女は頷いてくれたというのに、自分は何をした?
――何も、していない。
ずきりと、胸が痛む。穿たれたような激痛だった。
「分かってるんだよ? わたしもこのまま蒼汰くんにだけ甘えてたら駄目だって、でも、自分から頑張ろうってする一歩が踏み出せなくて……。だから、蒼汰くんは何も間違ってないし、悪くはないんだけど……」
「ゴメンね、奏。無理をさせるつもりじゃなかったんだ」
よそう手を止め、蒼汰は奏の頭を包むように撫でた。
今さら慰めたって遅すぎるとは思った。けれど、遅くたって伝わることはあるはずだ。何もしないよりは、きっと、ずっといいはずだ。
「ちゃんと一緒に帰るつもりだったんだ。本当だよ? でもどうしても用事が……」
「分かってるんだってば。分かってる、んだけど……」
震え出す声を抑えようとしているのか、クッションを持った奏の腕に力がこもっていた。
心がどこにあるかなんて考えたこともなかったが、やはり胸にあるのだろう。ずきずきと、奏の姿を見ている間中、そこが悲鳴を上げているのだから。
「ゴメン。そして、ありがとう。頑張ってくれて」
撫でる力を強くして、少しでも安心を感じてもらえるように蒼汰は振る舞った。
「僕は記憶を失くしちゃっている。それくらいにきつかったものをずっと奏は背負ってるんだよね。僕はずっと奏は凄いって思っているし、逆に、僕は奏に対してすごく酷いことをしたんだろうなって思う。ゴメンね」
蒼汰の言葉に一瞬びくりと肩を震わせた奏は、そのまま否定するように首を横に振った。
「奏の為だなんて言ってるけど、半分は僕の友達を知ってほしかったんだよ。――だから、もし嫌じゃなかったなら、まだもう少し頑張ってほしい」
無茶苦茶を言っている自覚はある。けれど、この奏の姿を見たって、今さら「じゃあやめよう」なんて言えるはずもなかった。
せっかく始めたから、というのもある。だがそれ以上に、こんなにも奏に無茶をさせてしまう自分だけでは、きっともう支えられないと思ったからだ。
奏はただ頷いてくれた。今まで誰と接してもなかなか心を開けなかったのに。それは、大きな一歩のように思えた。
「やっぱり、奏は強い人だ」
嘘やお世辞ではなく、蒼汰は心の底から奏をそう称賛した。
並の人間なら自ら命を絶ってしまってもおかしくないし、こんなにも優しく温かい心を保って生きているなど信じられないような、そんな壮絶な過去を背負わされてしまっている。
それでもなお、こうして一歩を踏み出せるその力は、蒼汰にさえない凄まじいものだ。
「やっぱり蒼汰くんは、優しくてずるい人だね」
奏はそう言いながら、小さく笑っていた。
目の辺りは少し赤いけれど、その笑顔は安心をくれる。
「ちょっと怒るつもりだったのに、全然、そんな気なくなっちゃった。――あ、カレー冷めちゃうね。早く食べよ?」
奏は少し慌ててカレーの乗った皿をテーブルへと運んでいった。その様子を見て少し安心した蒼汰も揃って席に着き、夕食の時間となった。
「……ねぇ、どっか遊びに行こうか」
食べ始めて少しして、蒼汰はそう提案した。遅くなった罪滅ぼしだとかそういう裏はなく、ただ頑張ってくれている奏を少しでも楽しませたいと思ったから。
ご褒美なんて上げられる立場ではないけれど、何もしないよりはマシだ。僅かでも奏の表情を曇らせてしまったのなら、それを払拭することまで自分の責任だ。他人から甘やかしていると言われたって、それくらいは家族なのだからいいだろう。
「それは、葉月ちゃんとか日向くんも?」
「美海も光輝も呼ばないよ。二人で、奏の好きなところに行こう」
そう言うと、奏はちらりと顔を伏せて、何か考え込んだ様子だった。困ることでもあるのだろうかと蒼汰は首をひねる。
「……でも蒼汰くんは急にフラッとどこかに行っちゃったりするしなぁ」
「うっ」
突然、小さな仕返しと言わんばかりに痛いところを突かれて、蒼汰が言葉を詰まらせる。
「ひょっとしたら、約束しても破っちゃう酷い人なのかな……?」
「もうしません。この約束は絶対守るから!」
意地悪なその笑みには、さっきまでの憂いにも似た暗い色はなかった。いつも通りの奏で、ただただ楽しそうに見えた。
「……本当?」
小首を傾げるように少し上目遣いになった奏のその笑顔の破壊力は、蒼汰にとって絶大で抜群だった。顔が赤くなっていくのを感じながら、蒼汰はカクカクと頷くしかなかった。
「本当、です」
「うん。じゃあ行こっか。嘘ついちゃ駄目なんだからね?」
くすくすと、奏は楽しそうに笑う。本当に一点の曇りもない、可愛らしい笑顔だった。




