第二章 友達 -7-
蒼汰の背が見えなくなっても、奏は呆然と立ち尽くしていた。
獅子は我が子を千尋の谷に落とす、とは言うが、まさか獅子とはほど遠い彼が、こんな風にいきなり友人の輪の中に放り込むとは。奏はしばらくの間、状況すら理解できずにいた。
「……あのー、大丈夫ですか? 奏さん?」
そっと覗き込むように声をかけて来た美海の顔に驚いて、奏は「ひうっ」と小さく怯えて後ずさってしまう。
「あ、ゴメンなさい、怖がらせちゃいましたか……?」
「当たり前だろ、お前に睨まれるとかA級ホラーも真っ青――っげふッ」
少し傷付いてしまったような顔をしていた美海だったが、光輝が呆れ顔でそんな悪口を言うとその表情が一変した。むしろ元気が出たように本当に怖い顔で彼を睨みつけて、彼の顎に脳を揺さぶるような一撃を見舞っていた。
「睨んでないわよ、人聞きの悪いこと言わないでくれる? 奏さんが本当に怯えるでしょ」
「人聞きを気にする前に、まずはそのドツキ漫才にしても笑えないツッコミをやめた方がいいって何遍も言ってんだろ……?」
急所に打撃を喰らいながらなおもそんな毒を吐く光輝に、美海は白い目を向けている。
その慣れた友人同士が作る喜劇みたいな光景に、思わず奏も笑みを浮かべた。温かくて、眩しくて、胸が詰まるようだった。
「……やっと、笑ってくれたみたい」
そんな奏の様子に、美海も笑みを零す。
その言葉で奏も気付く。彼女なりに、奏の心の壁を少しでも崩そうとしてくれていたのだろう。見れば、光輝の方も似たような安堵の表情を浮かべている。
「ご、ごめんね。気を使わせちゃって……」
「いやいや、謝らないで下さいよ。――私、普通に奏さんと仲良くなりたいだけですし」
そう言って、美海は一歩奏に近づいた。それでもまだ距離はあるが、彼女はあえてこれ以上は踏み込まないようにしてくれたようだった。
そういう距離感を察するのが、とても上手い子なのだろう。でなければ、あの蒼汰が奏と彼女たちだけにする訳がない。
「あの、聞いてもいいですか?」
「な、なにを……?」
真剣なまなざしを向ける美海の様子に、思わず奏は身構えてしまう。流石にいきなり三年前のことを掘り起こしはしないだろうが、それにしてもこんな真面目な顔で聞かれるようなことに思い当るところがない。
びくびくとする奏に、美海はその問いをぶつけた。
「その髪、トリートメントは何を使ってるんです?」
「…………へ?」
予想の斜め下を行く他愛もない問いに、思わず奏は呆けてしまった。
「トリートメントですってば。髪、すごい綺麗じゃないですか。茶髪ですけど、地毛ですか? 染めてるっぽくはないですよね」
「あ、うん。染めてはないよ。シャンプーとかは、あの赤いボトルのシリーズのやつで……」
「あぁ、あれですか! やっぱりそっちの方が髪にはいいのかなぁ」
そう言いながら、美海はくるくると短めの自分の髪を指先で弄んでいる。だが、彼女の髪質だって人を羨む側ではなく、むしろ羨まれる側であるように見える。
そんな風に思っていながら、しかし口は簡単には動いてくれない。その程度の簡単な感想や称賛さえ、奏は人に伝えることに怯えてしまうのだ。
思わず黙ってしまうが、奏はそれで終わらせまいと息を吸った。
このままただ無口で過ごしていても、それは今までと変わらない。
何の為に、蒼汰が彼女たちを自分に紹介したのか。
『僕以外とも、奏がちゃんと喋れるようになってほしいから』
彼は確かにそう言った。
ならば、それはきっと奏が為すべきことなのだ。このまま彼女たちの心遣いのままに、ただ相づちを打っているだけでは駄目だ。
「そ、その……。は、葉月ちゃんの髪も、十分、綺麗だと思うよ……?」
精一杯、せめて思ったことだけはきちんと言葉にしないと。
震える声でそれだけは伝えると、目の前で美海は目をぱちくりさせていた。
何か不味いことを言ってしまったのかなと不安になる奏だったが、そうではなかったようで、美海が急に近寄って奏の手を握った。
「ありがとうございます、奏さん」
満面の笑みを浮かべて、彼女はそれに応える。本当に、奏のそんな言葉でも喜んでくれたのだろう。そのことに、奏も内心胸を撫で下ろした。
人ときちんと話をしたのはいつ以来だろう。世話を焼いてくれた叔母さんにさえ、こんな風に何気ない会話を出来たか記憶にない。だから、奏も心の中では驚きと歓喜が渦巻いていて表情が上手く作れなかった。
「私も女の子ですし、何か相談があったら何でも言って下さいね。蒼汰はいいやつですけど、やっぱり男子ですし。相談しづらいこととかあって当然なんですから」
「え、う、うん……」
何故か力強く力説する美海に、奏の方が思わず身を引いてしまう。友達を作るのがトラウマになっている、とかそんなことは関係なく、急にこれだけぐいぐい来られたら誰だって奏のようになるだろう。
それを察したのか、少し遠目で見ていた光輝がいさめるように美海の頭をぽんぽんと叩いた。
「美海、普段が全然女子扱いされないからって、奏さんが綺麗とか言っただけでそんな急接近するんじゃねぇよ。見ろ、委縮させちゃってるぞ」
「女子扱いしないのはあんただけだから! 蒼汰だって一応はしてくれてるし!」
「……お前、男子から一度も告白されないのに、女子から渡されたバレンタインの本命チョコの数は俺と大差ないだろ」
「何で知ってるの!?」
美海と光輝がそんな言い合いを始めるのを見て、奏はくすりと笑っていた。何となく、自分の言葉が美海の琴線に触れてしまったことだけは奏にも分かった。
少し、でも確実に、二人と仲良くなれたことを奏は実感した。その喜びにも似た感情を零さないように、小さな拳を握り締める。
(大丈夫、昔のことは思い出さない……)
突如訪れる三年前の東霞の大災厄のフラッシュバックも、最近はほとんどない。こうして誰かに近づこうとしても、心臓は暴れるものの記憶に関しては落ち着いている。
ただし、恐怖がなくなった訳ではない。そんなあっさりと全てを乗り越えられているなら、初めから奏は蒼汰と二人で暮らしたりなどしない。
「……怖い、ですか?」
そんな奏の様子に敏感に美海は反応した。きっと、気を遣ってくれているのだろう。
それが分かるから、奏は取り繕って首を横に振ったりはしなかった。
「その、ごめんね……。本当に、少しだけ……」
「謝らなくていいですってば。っていうか、会って初日にここまで仲良くしてくれただけで、私としては大満足ですし」
「だよなぁ。この場に蒼汰がいないのがもったいないくらい」
その光輝の言葉に、奏の胸が本当に小さく軋んだ。
奏にとって蒼汰はどこまでも甘えられる人だ。一歩ずつ、ゆっくりでも構わないと、そう彼が待ってくれているから、奏は頑張れる。いつだって、彼が最初の一歩の背中を押してくれるから、奏は前を向ける。
誰よりも自分を心配してくれるからこそ、自分が立ち直ろうとしている姿を彼に見てほしいと思う。今だって、それが少しだけ残念だった。
「そ、そうだね。また、蒼汰くんと一緒に」
「そうっすね、今度はカラオケでも寄りますか」
「あ、それいいね。約束ですよ、奏さん!」
ふふ、と笑って言う美海たちの言葉に、また奏の胸が高鳴る。
蒼汰以外との約束なんて、本当に何年振りだろう。それを交わしたということが、じんわりと、奏の凍えていた部分を包んでくれる。
それだけで、今は十分だった。




