第二章 友達 -4-
ブルー・アルカディアは竜との共生を目指した島だが、表向きの『技術保全』という目的もしっかりと全うされている。
その一つとして、環境に優しい技術の開発がある。ただのガラスやカーテンにさえ光が漏れないよう一工夫あり、夜の街でも絶景の満天の星を見られるようになっている。もちろん昼も、十二分に美しい、抜けるような青空が堪能できた。
そんな理由もあり、この島の学校は本島と違う点が一つある。すなわち、屋上の開放である。
せっかく芸術的なまでの空を用意したのだから、それを満喫せずにどうするかということなのだろう。通常はかなりの確率で閉鎖されている屋上だが、この島では先端技術によって安全が保障されており、島内のどの学校でも安心して誰もが行き来できるようになっている。
当然、春や秋になれば校内でも一、二を争う人気のスポットでもある。――しかし残念ながらと言うべきか、夏や冬は最新の空調が整っている教室で過ごす人ばかり、というのが実情だ。風が抜けるので夏の屋上はそれほど暑くないのだが、それは実際に行ってみた人でなければ知らない。
蒼汰たちの学園では普通の教室のあるA棟と、それと反対にある特別教室ばかりのB棟がある。夏で特にB棟の方の屋上となれば、使用する人など皆無とさえ言っていい。
そんな訳で。
七峰蒼汰と夏凪奏は、人気のない屋上でいつも通り昼食を取っていた。
「やっぱり蒼汰くんの方が料理上手なのかな……」
「奏の料理の方が僕は好きだけど」
真剣に悩んでいる奏に、蒼汰は苦笑いで返す。
一つ学年が上で当然蒼汰ともクラスの違う奏だが、昼休みは彼と過ごしている。正確に言えば、奏が学校内で誰かと過ごすのはこの昼休みだけだ。
授業はどうにか教室で受けられるようになったが、休み時間は誰とも喋らない。友達一人作ることさえ、奏には苦痛なのだ。
三年前の東霞の大災厄で、家族も友人も全てを失くしてしまった。彼女は失う痛みを知り過ぎてしまったのだ。誰かと繋がれば、いずれは別れなければならない。その事実だけが奏の脳に焼き付いている。それも、夥しいほどの数が、知り得る最も凄惨な別れ方で。
蒼汰がいなければ、彼女は笑みを浮かべられない。
いつもは、それでも笑うだけいいと思っていた。蒼汰が同じ学校に入るまでは、どうにか受験して受かったこの高校でさえ奏は休みがち、行っても保険室までだったのだ。学校で笑顔を浮かべられるのなら十分すぎるとも考えていた。
けれど、それは蒼汰がいなくなった瞬間に壊れてしまう。蒼汰は彼女を支えてきたのだが、それはつまり、彼女がただ彼に依存しているということに他ならない。
だから蒼汰は、胸を罪悪感で満たしながらも、ある決意をしていた。
「……ねぇ、奏」
蒼汰の呼びかけに、奏は無邪気な顔で小首を傾げていた。ずっと不安を取り除き続けてくれた彼から、僅かとはいえ突き離されるなどとは思ってもいないのだろう。それが分かっていながらそんな真似をしようとする自分が、どうしようもなく酷い人間に思えた。それでも、彼女の為に蒼汰は乾いた口をもう一度開いた。
「……友達を連れてきたんだけど、いいかな」
その言葉で、一瞬、奏の瞳に暗い色が差した。不安と恐怖が入り混じる、潰れた葡萄みたいな色だった。――もしも三年かけて積み上げた蒼汰との信頼がなければ、その顔が立て直されることはなかったかもしれない。
「……どうして?」
「奏とも、友達になってほしいから。――それに、僕以外とも、奏がちゃんと喋れるようになってほしいから」
真っ直ぐな問いかけに、蒼汰は精いっぱいの誠意をもって答えた。特課に入ったことが影響しているとはいえ、そこにある想いまでは嘘ではない。
けれど、胸が軋む音は鳴り止まない。その音に締め付けられるように頭が痛む。
よほど奏には甘くなっているのだろう。彼女が不安な顔をするだけでこんなにも辛いとは、蒼汰は想像だにしなかった。
それでも、奏の為を思えば引き下がれなかった。何か行動をしなければ、きっと奏は変わらない。ずっと蒼汰に依存し続け、ずっと大災厄に縛られ続けてしまう。
彼女への想いだけを乗せて、ただ蒼汰はじっと奏を見つめた。不安がないと言えば嘘になるけれど、奏なら分かってくれると信じて。
「……分かった。そうだよね。蒼汰くんの言うことだもんね」
そんな蒼汰の視線に負けたのか、奏は頷いてくれた。
いきなりトラウマに打ち勝て、なんて無茶を頼んでいる。それを「分かった」で済ませようとしてくれている。その彼女の強さに、ただただ蒼汰は息を呑んだ。
「……けど、ちょっとだけ、いいよね?」
そう呟く奏の指先が、蒼汰のシャツの裾を摘まんでいた。不安を少しでも和らげようとしているのだろう。――人と関われば、蒼汰が耐え切れず失ったその惨劇の記憶を、彼女は思い出してしまう。それはきっと、蒼汰ではもう理解が出来ないほどに辛いことのはずだ。
だから蒼汰はそっと奏の手に自分の手を重ねて微笑んだ。
「大丈夫。二人ともいい人たちだから」
そう言って蒼汰は片手でメールを送る。それからほんの数秒で、ガチャリと屋上の扉を開ける音がした。ドア前で待っていた光輝と美海が、恐る恐るといった様子で入ってきた音だ。
蒼汰の影に隠れるようにして座っている奏を見つけ、美海が問いかける。
「えーっと、その人が夏凪先輩?」
「そうだよ。――悪いけれど、自己紹介してもらっていいかな」
「あぁ、うん。そだね。葉月美海です。蒼汰の友達やってます。部活は女バスに入ってます」
「日向光輝です。美しい日の出の日に、向かうところ敵なしの向かう、光り輝く美貌の光と輝き、で日向光輝です」
意味不明な光輝のナルシスト自己紹介はスルーして、蒼汰は奏を見やる。
「奏も」
奏はこくりと頷いて、深く息を吸ってからゆっくりと口を開いた。
「夏凪奏、です」
精いっぱいの笑顔を作ろうとしてくれていて、それでも声は震えてしまっていて、痛ましいとさえ思う挨拶だった。けれど、二人にはちゃんと伝わっていた。
「夏凪先輩、奏さんって呼んでいいですか? 私はどう呼んでもらってもいいので」
優しい微笑みを絶やさずに言う美海に、奏は小さく首肯した。それ以上のリアクションを今の段階で求めるのは、流石に無理と言うものだろう。
ただ彼女は頑張っているのと同時に、話しかけてくれる人がいることに多少は嬉しく思ってくれているように見えた。目も不安からか伏し目がちだけれど、一割くらいは明るい色味を帯びているようだった。頬が少し赤くなっているのも、きっと気のせいではないのだろう。
「じゃ、とりあえずお弁当食べようか」
蒼汰が言うと、美海も光輝も腰を降ろして弁当を広げていった。二人とも奏の状態は察しがついたらしく、基本的に蒼汰と会話していた。奏も、二人の前だが蒼汰とは出来る限りいつも通りに話そうと努力していた。
三十分ほどで、そんな小さな緊張感を持った昼休みの終わりを告げる予鈴が響いた。
「ふぅ。じゃあ、美海と光輝は先帰ってて。僕は奏を送ってから行くよ」
「分かった」
頷いて立ち去る美海たちを蒼汰は見送る。途中「あんな美人と毎日一緒にいるのか……」という意図の分からない美海の声が聞こえて、蒼汰は首を傾げていた。
ぱたりとドアが閉まる。ややあって、静寂の中で蒼汰は奏の方を向いた。
「……それで、どうだったかな」
「…………怖かった」
「光輝かな。やっぱり背が高いから」
「ううん。そうじゃないの……」
首を横に振って、奏は言う。
「葉月ちゃんも日向くんも、いい子だな、って思ったよ。でも、怖いの……」
ぎゅっと拳を握り締めて、奏はそれ以上何も言わなかった。ただ、最後の声はどうしようもなく震え、掠れていた。
きっと、それは今すぐ解決できる話じゃない。美海や光輝がどんな人間であれ、自分に笑いかけてくれる存在を奏は恐れている。それを失う瞬間がフラッシュバックして、彼女の心をどうしようもなく揺さぶるのだ。
「……じゃあ、もう会いたくない?」
「……、」
優しい声の問いかけにも、ただ奏は黙って俯いていた。否定はしない。けれど、決して肯定もしなかった。
「大丈夫だよ。美海も光輝も、奏の前からいなくなったりしない。――もしそんなことが起こるなら、僕が奏も美海たちも護るから」
その言葉は、安い慰めに聞こえたかも知れない。だが、それは本心だった。
蒼汰がティアと契約した、自分の中にあるたった一つの願望。それが『彼女を護ること』なのだ。それはたとえ何を差し置いてでも絶対に譲ることの出来ない、彼の覚悟だ。
「……信じて、いいの?」
「僕ってそんなに信用ない?」
「……ううん。――うん、そうだね。蒼汰くんだもんね」
そう頷いて、奏は立ち上がる。その瞳にはもう、さっきまでの不安な色はなくなっていた。明るく、まるで朝焼けのようだった。
「ところでさ」
「うん?」
「時間は大丈夫なの?」
奏が問いかけると同時。
キーンコーンカーンコーン、と。
無情にも、授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「…………先生に怒られるね……」
「そうだね。……蒼汰くんもわたしを守って一緒に怒られてくれる?」
「それは一人で頑張って」
「……蒼汰くんのケチ」
ぷぅ、と可愛げたっぷりに頬を膨らませる奏の様子に、蒼汰は小さく笑いながら、奏の手を引いて校舎の中へと戻った。




