呼んでいる海辺
終章 呼んでいる海辺
一
ひどい悪夢を見て、目が覚めた。飛び起きたイルシンは、自分が何故か医務室の寝台に寝ていることを見て取った。腕端末を見ると、基準時間二一五八時を示している。この地表基地の感覚で言うなら、真っ昼間だが、寝台は帳布で囲われて薄暗さが保たれていた。全身に汗を掻いている。誰かを両腕で抱えて守ろうとして、できなかった。夢にはよくあることだが、何故か、体が動かなかったのだ。
(夢、だよな……?)
妙に現実的な感覚があった。しかし、誰を守れなかったのか、詳細が全く思い出せない。
(ああ、駄目だ、忘れちまう)
夢の風景は急速に遠ざかっていく。掴もうと伸ばした手を擦り抜けて行くかのように、或いは掴んだ手の中で形を失うかのように、掻き消えていく――。
不意にカーテンを開く音がした。目を向けると、親友の顔があった。
「ああ、目が覚めた?」
「なあ、何でおれは医務室にいるんだ?」
イルシンの問いに、カーテンの内側へ入ってきたヴァシリは、軽く眉をひそめて答えた。
「覚えてないの? きみ、先行偵察の任務中に倒れたんだよ。エステベス兵曹長が気を失ったきみを連れて帰ってくれたんだ」
聞き慣れない名だと思った。
「エステベス兵曹長?」
「大丈夫?」
ヴァシリは益々眉をひそめる。
「五日前にこの基地に配属されて、四日前からきみと一緒の特務班になって、一緒に先行偵察任務に就いてた、精神感応科攻略部隊のエステベス兵曹長だよ」
「精神感応科攻略部隊?」
驚くべき人事だが、全く覚えがない。
「悪い。分からねえ」
「そう。やっぱり、記憶に抜け落ちがあるみたいだね。先行偵察に行ったプエブロ・ヌエボ開拓場跡で、何らかのテレパシー能力での攻撃を受けたんだろうな。でも、心配しないで。失ったとしても、ここ何日間か分の記憶だけだって、エステベス兵曹長が請け負ってくれてるから」
「そうか……」
確かに、自分が誰かも、ここがどこかも、ヴァシリのことも、覚えている。ただ、そのエステベス兵曹長とやらのことは、全く思い出せない。
「そいつの言うことは、信用できるのか?」
問うと、ヴァシリは苦笑いした。
「まあ、きみにとっては、精神感応科兵なんて、皆『くそ野郎』だろうけど、信用できると思うよ」
「そうだな、あいつらは……」
くそ野郎だ、と言おうして、イルシンは口を噤んだ。何故か、心が痛む。精神感応科兵に対して、以前のような嫌悪を感じないばかりか、切ないとでも言うような感情が湧いてくる。
(何だ、これ……)
愕然として、イルシンは胸に手を当てた。湧いてきた感情で、胸が苦しくなる。訳が分からない――。
ならば、問題の核心を知っていると思われる相手に訊いてみるしかない。
「――そいつ、今、どこにいる?」
イルシンの問いに、ヴァシリは少しばかり困ったような顔をして答えた。
「さあ、きみと二人きりの特務班だから、先行偵察任務の報告の後は、特に任務はないんじゃないかと思うけど……。待ってたら、見舞いに来るんじゃないかな?」
「いや、こっちから捜しに行く」
きっぱりと告げて、イルシンは起き上がった。何故か、居ても立ってもいられない焦燥感があった。
エステベス兵曹長というらしい相手は現在、待機中か休息中のはずなので、とりあえず部屋へ捜しに行こうと、医務室と同じ居住区画内の、士官室が並んでいるほうへ走る。部屋の扉の前まで一息に走り、ノックしようとしたところで、手が止まった。部屋の扉にある氏名板は真っ白で、氏名がない。
「あ?」
思わず声が出た。そう言えば、そのエステベス兵曹長の部屋がどこか聞いていなかったのだ。では自分は、何故ここまで、迷わず走ってきたのだろう。左右の扉の氏名板を見ても、エステベス兵曹長などという氏名は記されていない。
「おかしいな……」
もう一度、ノックをしようとした扉を見る。この扉の前に、以前にも立ったことがあるような、ここまで何度も歩いたような気がする。
「何なんだ……?」
この部屋の前を離れがたいような気さえする――。急に吐き気がして、イルシンは口を押さえた。何も食べていないので、胃液が出て来るだけだが、胸が気持ち悪い。頭に霞がかかっているような感覚とともに眩暈がして、イルシンはその場に屈み込んだ。胸も頭もぐるぐるしている。
「エステベス兵曹長の部屋はあっちだけど……って大丈夫? やっぱりまだ寝てないと!」
妙に遠く、霞の向こうからヴァシリの声がした。イルシンを追いかけてきたのだろう。
「悪い、医務室に……」
連れて戻ってくれ、と最後まで言えたかどうか分からないまま、イルシンは意識を手放した。
すぐ目の前にいる小柄な誰かを、抱きかかえよう、つれて逃げようとして、できない。体が重くてできない。何度もその名を呼び、叫んで、目が覚めた。また、カーテンで仕切られた医務室の一角の、寝台の上だった。
(おまえ、一体誰なんだ……)
散々夢の中で呼んだ名が、思い出せない。イルシンはじっと天井を睨んだ。先行偵察先のプエブロ・ヌエボ開拓場跡で、自分に何が起こったのだろう――。
「起きてる?」
カーテンの外から、ヴァシリの声がかかった。
「ああ」
イルシンが答えると、細くカーテンが開いてヴァシリが顔を覗かせ、言った。
「エステベス兵曹長がお見舞いに来られたんだけど、気分は大丈夫? 話はできるかな?」
「大丈夫だ」
むしろ、願ってもないことだった。イルシンは上体を起こし、ヴァシリと入れ替わりにカーテンの内側へ入ってきた少年を見た。頬にかかる癖のない艶やかな黒髪、浅黒い肌、端正な顔立ちに、容易に感情を窺わせない漆黒の双眸、そして、精神感応科攻略部隊所属であることを示すダークグリーンの軍服。見覚えは――ない。
「見舞いに来るのが遅くなって済まなかった。報告書を作るのに少し手間取っていた」
十代に見える少年は、寝台脇の椅子に腰掛けながら詫びた。その、上官としての口調にはっとして、イルシンは右手を額に翳して敬礼した。エステベス兵曹長は、自分の上官なのだ。
「いえ、情けなくも昏倒、昏睡しておりましたので、お気遣いは無用です」
「情けなくはない」
少年は階級に相応しい深みのある声で言う。
「精神攻略技――テレパシー能力による精神攻略をまともに受ければ、誰でもそうなる」
「じぶんは、テレパシー能力で何かされたのですか!」
自分に何が起きたのか、核心に迫る話に、イルシンは身を乗り出した。
「ああ」
エステベス兵曹長は、真っ直ぐにイルシンの双眸を見つめる。
「おれはそう感じた。ただ、正確なところは分からない。これからの検査で徐々に明らかになるだろう。だから、暫くの間は、安静にしていろ」
真摯に告げられた言葉は、イルシンの欲しい答えではなかった。イルシンは低い声で問うた。
「夢に、誰かが出てくるんです。おれの目の前にいて、倒れそうで、守らなきゃいけなくて、でもおれは――じぶんは、動けなくて、助けられない。あれは一体、誰なんですか……?」
「今の段階では、何とも言えないな」
年若い兵曹長は、顎に手を当て、考える顔をする。
「過去の記憶の再生かもしれないし、精神攻略技によって、記憶の再編が行なわれた可能性もある。とにかく、今後の検査、調査を待て」
「……了解」
イルシンは項垂れた。結局、まだ何も分からないのだ。
「体は大丈夫なら、少し基地内を散歩でもしてみたらどうだ?」
ふと優しい口調でエステベス兵曹長が言った。顔を上げると、それまで硬い表情をしていた少年が、仄かに笑んでいる。
「こんなところにいたら、おれでも気が塞ぐ。当分任務はない。検査の時以外は自由だ」
「ありがとうございます」
心から礼を述べたイルシンに、エステベス兵曹長は椅子から立ち上がりながら言った。
「また何か気になることや思い出すことがあったら、腕端末で通信してくれたらいい。おれも、暫くは任務がない」
「了解」
敬礼したイルシンに軽く敬礼を返し、少年はカーテンの外へ出て行った。
「散歩か……」
一人になった空間で、イルシンは呟いた。それもいいかもしれない。腕端末を見ると、〇三〇三時だった。この基地では、丁度夜前線に追い越される、夕方の時間帯だ。
医務室から出て、通路の突き当たりにある展望室へ向かった。途中、やはり、無意識に走っていった、あの氏名板に氏名のない部屋が気になったが、首を振って通り過ぎた。
展望室には、茜色の光が満ちていた。地平線と水平線の向こうに消えようとしている恒星が、最後の光を放っているのだ。幻想的だった。美しかった。その茜色の光が、どんどんと弱まり、紫色へ、藍色へと変化していく。やがて、全ては夜季の闇に呑まれていくのだ。不意に物悲しさが胸の中に膨れ上がって、イルシンは大きな窓に歩み寄り、強化硝子に手を当てて、食い入るように、まだ僅かに残った茜色の残照を見つめた。
「消えるな、消えるなよ……!」
自分でも意味不明の言葉が口から迸った。自分の中に僅かに残った何かが、残照とともに、夜季の闇の中へ消えてしまいそうに感じる。必死に抗い、思い出そうとしたその先に、ふと、懐かしい声とともに断片的な言葉が蘇った。
――「……共通語で夕という意味で……」
かっとイルシンは両眼を瞠った。そうだ、共通語で夕という意味の名だった、あの小柄な誰かは。
(共通語でダスク、共通語でダスク……)
もう少しで、手が届く。
(共通語でダスク……)
念じるように繰り返し、記憶を呼び覚ます。呼び易い、短い名だった。柔らかい音で、小柄な姿にぴったりの――。
「――ユウ! カヅラキ・ユウ!」
ついに、その名に辿り着き、叫ぶと同時に全てを思い出して、イルシンは喘いだ。
「おまえ、今どこにいるんだ――」
もしかしたら、あのまま――。悪い予想を振り払うように駆け出し、イルシンは先刻は通り過ぎた部屋――ユウの部屋へ行って、扉を叩いた。
「おい、ユウ! いるんだろ、ユウ!」
返事はない。やはり、氏名もない。
(医務室の、おれからは見えねえところにいたのか?)
走って戻った医務室にも、隅から隅まで捜したが、カヅラキ・ユウはいなかった。医療科外科部隊や内科部隊所属の兵士達に訊いても、それどころか、並べられた寝台に寝ている他の兵士達に訊いても、誰も、カヅラキ・ユウを知らないという。
「何で知らねえんだ! 昨日、先行偵察に行くまで、ここにいたじゃねえか!」
恐ろしい不安を覚えながら、顔見知りの内科部隊兵の胸倉を掴んだところへ、騒ぎを聞きつけたらしく、ダークグリーンの軍服を着た少年が現れた。
「やめないか、ソク上等兵」
低い声で窘められて、イルシンは内科部隊兵から手を離した。
「悪かった。けど、誰もカヅラキ・ユウを、あいつを知らねえなんて、そんなはずはねえんだ……」
まるで、カヅラキ・ユウの存在そのものが消えてしまったかのような――。そう、イルシン自身も、彼女のことを忘れていたのだ。自分にだけでなく、この基地で、何かが起こっている。
「あいつが無事なのかどうかだけでいい、教えてくれ……! あんたなら知ってるだろ……!」
「大分混乱しているようだな。まずは割り当てられた寝台へ戻れ」
じっと見上げられ、淡々と指示されて、イルシンは大人しく、カーテンで囲まれた寝台へ戻った。この少年は、きっと誰よりも多くを知っているのだ。
寝台に腰掛けたイルシンは、椅子に座って沈痛な眼差しを向けてきた少年に懇願した。
「頼むから、教えて下さい。カヅラキ・ユウは、どこにいるんですか? あなたと同じ精神感応科の、診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹は、どこに行ったんですか?」
ホセ・エステベスは、静かな口調で丁寧に説明した。
「生憎、精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない。おれは、精神感応科兵を全員知っているから、それは確かだ。だが、民間人のカヅラキ・アサなら、知っている。彼女は、サン・マルティンの悲劇の生き残りであり、惑星メインランドの軍病院に収容されていて、救出された時から八年間、ずっと昏睡状態にあった。そのため、長らく、双子の妹のカヅラキ・ユウだとされていたが、つい昨日、覚醒して、姉のアサのほうだと判明した。昏睡状態だった間も、彼女の脳活動は活発な状態にあって、その脳活動を調べた研究者達は、彼女を自我分裂型――つまり、二重人格のテレパスと診断している。そして、恐らく、この基地に現れていた『幽霊』も、おまえがいると思い込まされていた『上等兵曹』も、彼女のテレパシー能力が生んだものだ。この基地に配属されたおれの任務は、『幽霊』と『上等兵曹』の正体を見極めることだったが、結論は、それでほぼ決まりだ」
憐れむように告げられた内容に、イルシンは居た堪れなくなり、立ち上がった。
「あいつが……、あいつは、いなかったって言うのか」
「精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない」
ホセ・エステベスはきっぱりと繰り返した。イルシンは、その横を擦り抜け、カーテンを引き開けて医務室から走り出ると、通路を走った。足は自然、ユウの部屋の前で止まる。冷たい扉を、がん、と叩いて、イルシンは呟いた。
「おまえ、まさか、本当に、ここにはいなかったのか……?」
――「じぶんの父と母も、この凪の大気を感じながら、じぶんとアサの名を考えたのかなと思います。ユウというのは、共通語で夕という意味で、アサというのは、共通語で朝という意味ですから」
訥々と語ったユウの声が、耳の奥に残っている。これも、二重人格のテレパスだという、アサのテレパシー能力が生んだものなのだろうか。
「くそっ!」
それから数時間、イルシンはありとあらゆる基地内の人間に、カヅラキ・ユウについて問い、基地内の記録にも片っ端から当たったが、誰もカヅラキ・ユウを知らず、カヅラキ・ユウが基地にいたことを示すものは、何もなかった。部屋も、無人の空き部屋として、施錠されていることがはっきりした。カヅラキ・ユウの存在自体が消えているのだ。そして、その代わりのように、精神感応科攻略部隊所属ホセ・エステベス兵曹長がいる。サン・マルティン地表基地に配属されて来た精神感応科兵は、彼一人ということになっている。配属前、精神感応科兵が来ると基地中で噂になっていたのも、全てホセ・エステベスということになっている。チャン・レイのほうは、通常任務のシフトを普通にこなし、現在は待機中だと、誰もが口を揃えて言う。アサも、全く姿を見せない。
(本当に、おまえはいなかったのか……?)
命に替えてイルシンを守ると言い張るユウを、両手で抱えて逃げようとしてできなかった、あの悪夢は、現実ではなく、幻影に過ぎないのか。カヅラキ・ユウ上等兵曹という少女自体が現実には存在せず、全てはただの白昼夢だったのか。カヅラキ・ユウ上等兵曹の実在を求めるイルシンの言動は不審がられ、とうとう、絶対安静を言い渡されて、医務室から出ることを禁じられた。
○
副司令官室の机の向こうに座った上官は、入室したホセを見つめて開口一番言った。
「ホセ・エステベス兵曹長、いえ、《完全なる盾》と呼ぶべきでしょうか」
能力名を呼ばれて、ホセは微かに顔をしかめて答えた。
「それは暗号名でもあるので、通常はエステベス兵曹長とお呼び下さい、シュヴァリエ中尉殿。それから、着任以降、一度も御挨拶に伺わなかったこと、お許し下さい」
「それは仕方ありません。わたくしも含めた、当基地の全員の意識が混濁している中、動かなければいけなかったあなたは多忙過ぎたし、事後処理もまだ半ば。それに、わたくしとあなたは、表向き、そう親しくする訳にはいかないのですから」
複雑な表情で述べた女性を、ホセもまた複雑な思いで見つめた。チャン・レイは、ずっとマルセル・シュヴァリエとペドロ・エステベスの政争がこの基地に持ち込まれることを恐れていたことだろう。だが、二人の大将は、実のところ、今回のことでは結託しているのだ。
「そのことで、まずは確認させてほしいのです。わたくしも、《潜る鯆》の技の影響で、今回のことに関して記憶が混乱していますから」
ジャスミン・シュヴァリエの前置きに、ホセは素早く提案した。
「それは重要事項ですので、どうか声に出さず、頭で思うに留めて下さい。じぶんの能力使用さえ認めて頂ければ、精神感受技〈通信〉で、会話が可能です」
「認めましょう」
ジャスミンは頷くと、頭の中で言葉を紡ぎ始めた。
(あなたが当基地へ着任したということは、わたくしのお父様と、あなたのお父様との間で、取り引きが成立したということですね? 互いの弱味を握り合った上で、表に出さない、と。わたくしのお父様の弱味としては、チャン・レイ達の罪を隠蔽したこと。あなたのお父様の弱味は、恐らく、権力を乱用してあなたを封鎖直前にこの惑星から脱出させたこと、でしょうか)
さすがに、一部記憶が消えていても、ジャスミン・シュヴァリエはしっかりしている。従来の情報から、ペドロ・エステベスの弱味を、正確に察することができている。
【その通りです】
ホセは〈通信〉で肯定した。マルセル・シュヴァリエがUPO誕生の真実を隠蔽したのと同じように、ペドロ・エステベスは自身が強行させた息子の不名誉な脱出の事実を隠蔽したのだ。今でも、鮮明に覚えている。自身が保有しているかもしれないUPOを他者へ感染させないよう、コンテナの形をした簡易減圧室に監禁されたまま輸送され、父の故郷たる惑星淡水の海にある軍病院の隔離病棟へ入れられ、検査を受けた。陽性と判定されると、体内のUPOが――今思えば、細胞小器官化するまで――感染力を失うまで、隔離され続けた。けれど表向き、ホセは、運良くサン・マルティン封鎖の直前に、父の故郷たる惑星マル・ドゥルセへ引っ越したことになっているのだ。
【父は、サン・マルティン病が報告され、軍による封鎖の動きがあると知ってすぐ、ありとあらゆる軍内の伝を使って、おれを脱出させました。そして、その事実を隠蔽しました】
(随分と正直に教えてくれるのですね)
苦笑したジャスミン・シュヴァリエに、ホセは真顔で伝えた。
【いずれシュヴァリエ大将から伝わることですし、隠すのは公平ではないですから】
ただ、父にとって予想外だったのは、UPOに感染したホセがテレパスになってしまったことだろう。お陰で、テレパス優遇策を推進し、精神感応科の拡充を狙うシュヴァリエ大将と敵対しにくくなってしまい、今回のような結託をする羽目にもなったのだ。
(わたくしの父は、今回のことで、UPO調査に関しても、精神感応科兵運用試験に関しても、興味深い、満足の行く結果が得られたと喜んでいるでしょう)
ジャスミン・シュヴァリエは、硬い面持ちに戻り、話を進める。
(けれど、現場はそれだけでは片付きません。チャン・レイ少佐とソク・イルシン上等兵を、どうするつもりですか?)
水色の澄んだ双眸に見据えられて、ホセは説明した。
【チャン・レイ少佐については、自動機械兵士の記憶情報があるので、ソク・イルシン上等兵の銃殺刑を命じたことが明白であり、軍事裁判は免れません。その上で、UPOによる精神汚染の結果の心神耗弱を申し立てる予定です。《潜る鯆》の独自精神攻略技のために、彼自身に、既にその当時の記憶がないので、問題はありません。因みに、《潜る鯆》の独自精神攻略技による他の兵士達や宇宙港職員達の断片的記憶喪失も、同じくUPOによる精神汚染で説明する予定です】
(UPOは随分と悪者扱いですね。ディープ・ブルーという名だったかしら――「彼」は、それで怒らないのですか)
【「彼」に、名誉というような概念はないので、それは問題ないようです】
(そうですか。でも少し安心しました。心神耗弱が認められれば、軍事裁判でも執行猶予となって、軍病院へ入院ですね)
真に安堵した様子でジャスミン・シュヴァリエは微笑んだ。
(本気で、チャン・レイ少佐を心配していたのか)
結託した二人の大将にとって、チャン・レイは、カヅラキ・ユウを試すための――精神感応科兵運用試験の「材料」でしかなかったが、ジャスミン・シュヴァリエにとっては、違うようだ。多少の驚きを覚えたホセに、続けてジャスミン・シュヴァリエは問うた。
(では、ソク・イルシン上等兵については?)
【彼の処遇は、ディープ・ブルーとの関係性と彼自身の能力次第だと、先ほど、速達回線で、父の第三秘書官から連絡がありました。予想外の事態であり、能力的にも、まだ信用できないので、致し方ありません】
速達回線とは、宇宙門に配属された精神感応科諜報部隊兵同士が〈通信〉で情報を伝達していく人類宇宙最速の通信手段である。ペドロ・エステベス大将の第三秘書官であるユン・セスは、諜報部隊所属でもあるので、速達回線を使えるのだ。
(つまり、今はまだ保留中という訳ですか)
【はい。事態は流動的です】
(そうですか……)
ジャスミン・シュヴァリエは、今度は沈んだ顔をする。その表情を微動だにせず見つめながら、かなり感情豊かな人なのだと、ホセは自分と同じく人類宇宙軍の大将を父に持つ女性への認識を改めた。
(同情が過ぎると、呆れるでしょうけれど)
自らの榛色の髪に指先で触れて、一瞬視線を泳がせたのち、ジャスミン・シュヴァリエはホセに真摯な眼差しを向ける。
(彼に、真実を告げてはいけないのでしょうか。彼女のことは、彼にとって、とてもつらいことですし、彼女の望みを裏切ることにもなるのかもしれませんが、このままでは、あまりに酷です)
【彼は、その権限を与えられていません。彼女――カヅラキ・ユウに関することは、現在、機密扱いとなっていますから】
(……分かりました。では、できるだけの善処を頼みます)
ジャスミン・シュヴァリエは、微かに肩を落としつつも、軍人の顔に戻った。
「了解しました。失礼致します」
ホセは声に出して言うと、軍靴の踵を鳴らして敬礼し、回れ右をしてシュヴァリエ中尉の居室を出た。ホセも、あのソク・イルシンの様子を見ていると、胸が締め付けられて、つい真実を教えたくなる。だが、それは、現在の状況では、許されないのだ。
(ユウ、おまえが、生きてさえ、いてくれたら……)
ホセは俯いて、重い足取りで自室へ向かった。
二
【「事態は流動的」か】
冷ややかな言葉で始められた〈通信〉に、自室として与えられた士官室に入ったホセは、苦い顔をした。
【〈盗聴〉していたんですか】
【攻略部隊兵のきみの意識を〈盗聴〉なんてできないよ。ただ単に、シュヴァリエ中尉の意識を〈走査〉しただけだ。こちらにはその権限があるからね。それはそうと、彼の能力については、確定的だろう?】
指摘されて、ホセは溜め息をついた。元々この〈通信〉相手に隠し事はできない。
【はい。彼にはテレパシー能力があります】
ホセは淡々と告げた。
〈記憶喪失〉はカヅラキ・ユウ――《潜る鯆》の独自技なので、詳しくは分からない。けれどもホセが感じた通り、《潜る鯆》はソク・イルシン経由でこの宙域にいる全ての人間に精神攻略を仕掛け、自分に関する記憶を消したということで間違いないようだ。勿論、テレパスであるホセとこの〈通信〉相手は精神攻略を跳ね除けたので、その影響はないが、イルシンもまた《潜る鯆》のことを覚えている――正確には思い出すという、予想外の事態が生じたのだった。
最初、〈記憶喪失〉がイルシンに充分に効かなかったのは、《潜る鯆》の〈出力〉不足が原因だと推測した。だが、調査を進めるにつれ、《潜る鯆》は、この惑星にいる、UPOを始めとする生命体全てのテレパシー能力も借りて〈記憶喪失〉を使っており、その〈出力〉に、不足はないと分かった。ならば、何が原因か。二番目に疑ったのは、《潜る鯆》がやはり土壇場で記憶を消すことを躊躇ったのではないかということだった。しかし、それも、《潜る鯆》の〈出力〉規模――恐らくは〈最大出力〉を精査した結果、彼女の覚悟は本物だったと断ずるしかなかった。では、最後に考えられるのは――。ホセは、目を閉じてイルシンを感じる。まだ詳しい検査はされていないが、それでも、残るはその可能性しかない。イルシンは、ナチュラル・テレパスなのだ。ホセや《潜る鯆》のようにUPOに感染されて能力を得たアンナチュラル・テレパスや、この〈通信〉相手――暗号名《遍在する悪夢》のように遺伝的に恵まれたナチュラル・テレパスほどの力はないにしろ、テレパスなのだ。そして、《潜る鯆》の〈記憶喪失〉に対して抵抗し、自らの記憶を守ったのである。きっと、《潜る鯆》のテレパシー能力に刺激を受けて、一般的な検査では見つからないくらい僅かだった能力が開花したのだろう。皮肉な話だ。結果、ホセが行なったことは二つ。一方では、事実と調査結果をありのまま且つ迅速に、大将たる父に報告し、他方で、精神攻略技〈修正保存〉を用いて基地の全員にホセ・エステベスに関する記憶を上書きし、同時に精神攻略技〈深層占有〉で数人の兵士を動かしてデータ改竄を行なうことで、精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という存在の痕跡を完全に消した。そもそも、精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹などという存在は、架空のものだったから、これでいいのだ――。
【ここから先の彼の処遇は、上層部が判断することになります。近い内に、上層部から指令が届くでしょう。ですが、少なくとも、彼の現在のテレパシー能力程度では、機密情報を――《潜る鯆》のことを知ることはできません】
【それで、あんな適当な説明をした訳か。カヅラキ・アサが二重人格テレパスとか、よくもあんなでたらめが出てくる。もしかして、最近流行りの《随意多重人格》から思いついたのかな?】
事実なので、ホセは否定しなかった。《随意多重人格》は、ここ数年で急に確認され始めた精神感応能力だ。自分に〈別人格形成〉という精神攻略技を用い、目的に応じた別人格を設けるのである。本来の人格は、〈統括者〉として全ての記憶を持つが、任務中は殆ど表に出ない。
【何でもいいけど、あんな説明だけで検査や調査が続く間放っておかれて、彼が精神に異常を来たしたら、おれがカヅラキ・アサに恨まれる】
相手は今、待機中のはずだが、自室にでもいるのか、〈通信〉を短く切り上げる気はないらしい。ホセは溜め息をつき、せっかくなので、この相手が担当していることについて問うた。
【カヅラキ・アサは、直接、ソク・イルシンに真実を伝えようとはしないんですか】
【彼女――《囁く鯨》には、自分が生きてることを思い出させた。そのせいもあるし、《潜る鯆》のこともあって、もうここにはいられないみたいだ。ずっと姿を見てないよ。ただ、ソク・イルシンのことは、彼女から頼まれてるし、おれとしても寝覚めが悪いから、もう少し気を遣ってやってほしい】
確かにあのでたらめな説明は、イルシンの負担になっているだろう。だが、イルシンが騒ぎ回ったせいで動揺している周りの兵士達のために、あの説明は必要だったのだ。周りの兵士達に聞かせるために、ホセはわざわざ医務室で説明したのである。
【おれも、できることなら、何とかしたいとは思います。ですが、現状、これがおれにできる精一杯です】
【つまり】
にやりと笑うような調子で、《遍在する悪夢》は応じる。
【ソク・イルシンが、機密情報を得られる程度のテレパシー能力を発現すればいい訳だ】
【どうやってですか】
【そういうことを可能にできそうな存在がいるだろう?】
【ディープ・ブルー……!】
確かにあの存在なら、対象に実際に感染することで、そのテレパシー能力を飛躍的に上げることができるだろう。
【おまえなら頼めないか? ここに来てすぐ、〈交信〉したんだろう?】
【それは――、おれの一存では決められません――】
ホセは顔をしかめた。自分は、あくまでエステベス大将の命令の下で動いているのだ。
【まあ、おまえならそう言うと思ったけどね。ディープ・ブルーが勝手にしたことにすればいいんじゃないか?】
《遍在する悪夢》らしい気軽な調子の提案に、ホセは首を横に振った。
【無理です。上級者の命令に反する行為は、一切できません。〈催眠暗示〉には、逆らえない】
【《潜る鯆》のようにはいかないか。仕方ないね……】
苦笑するような言葉を最後に、《遍在する悪夢》のほうから〈通信〉は切られた。
(当たり前だ)
ホセは寝台に腰掛け、唇を噛んだ。カヅラキ・ユウが用いたのは、生涯でたった一度しかできない禁じ手なのだ。何しろ、それで、人生は終わってしまうのだから。
(それでもおまえは、ソク・イルシンのために、彼の人生を守るために、命を賭けたのに……)
自分は、彼を充分に守れない――。
【人間というのは、実に奇妙な生き物ですね】
唐突に涼しい「声」がして、ホセは目を瞠った。「声」と同時に、眼前に、やや長めの黒髪を首筋に垂らし、切れ長の目をした細身の少年が現れたのだ。
【ディープ・ブルー――】
その姿は、あの丘の上に現れたもの、そしてその「声」は、あそこまでホセを導いたものだった。少年の姿を装った存在は、整った顔をしかめて見せる。
【言葉というものがあって、お互いの意思を伝え合うことができるのに、望みを、願いを、共有できない。確かに、おれのテレパシー能力に比べれば、言葉というものは不充分かもしれませんが、それにしても、もう少し分かり合えても良さそうなものなのに。そして、逆に分かり合えないなら、敵と見なせばいいのに、互いを思い合ってることも多々ある。実に奇妙です】
突き放すような口調ながら、どこかしら真剣に悩んでいる風情のこの生命体は、妙に人間臭くて、微笑ましい。ホセは微かに苦笑して問い返した。
【誰と誰のことを言っているんだ?】
【あなたとペドロ・エステベスもそうですが】
さらりと痛い前置きをしてから、ディープ・ブルーは本題に入る。
【石一信は、何故、あんなに苦しんでるんですか? 記憶が戻ったんですから、ユウが彼を守るために、自分で死を選んだことは分かってるはずなのに……。彼の記憶が消えなかったのは、ユウにとっても誤算で、残念ですが、でも、周りの人間達からユウに関する記憶は消えたままで、彼が守られてることには変わりない。これは、ユウの望みが叶ったということであり、彼にとっても、喜ぶべきことじゃないんですか?】
ホセは目を瞬いた。ユウがいなくなったことに傷付き混乱しているイルシンの気持ちは、ディープ・ブルーには理解できないらしい。どれほど人間のように見えようとも、やはり異なる生命体ということか。
【個々の存在としての意識ではなく、集合体としての意識を持っているおまえには、分かりにくいかもしれないが、おれ達人間は、親しい誰かがいなくなったら、寂しいし、悲しいんだ。そういう事実は、とても、受け入れ難いんだよ】
ホセ自身、このサン・マルティンに住んでいた当時の友人知人を、全て失った。封鎖の直前に、父親の権力乱用で脱出したという罪悪感も大きく、今でも、じっくり向き合うには重過ぎる事実だ。だからこそ、自分は、軍務に全てを捧げ続けているのかもしれない。贖罪というにはおこがましい、多忙への逃避――。
【「個々の存在としての意識」……「いなくなった」……、成るほど】
ディープ・ブルーは、装った姿で、顎に手を当てて考える顔をする。そういう人間臭い仕草は、一体どこから学んでくるのだろう。ホセが本気で疑問に思った時、ディープ・ブルーは顔を上げて確認した。
【つまり、イルシンは、ユウの望みを共有できず、ユウがいなくなったと感じて、苦しんでる訳ですね。おれには、理解し難いですが】
何が理解し難いのだろう。顔をしかめたホセに、ディープ・ブルーは提案する。
【それなら、おれが、ユウと会わせれば、イルシンは落ち着きますね】
【だが、ユウは……あいつはもう……】
ホセは顔を歪めて俯いた。自分は、ユウを助けられなかった。〈催眠暗示〉には、勝てなかったのだ。瀕死のユウを、自分が乗ってきた宇宙連絡船の救命函に入れ、生命維持だけは果たしたが、できたのはそこまでだった。ユウの心臓は、決して自ら動こうとはせず、意識も戻らない。ただ、救命函の機能によって生かされているだけの植物状態と化しているのだ。
【それに、今、あいつの体は、惑星メインランドの軍総本部にある軍病院に置かれているはずだ……】
意識が戻らなかった場合には、UPO感染者であり、〈催眠暗示〉に逆らった初の精神感応科兵という、貴重な生体標本となる予定で、宇宙連絡船であのままサン・マルティン宇宙港へ運ばれ、そこから宇宙門を経由して、惑星メインランドへ移送されたのだ。
【何の問題もありません】
ディープ・ブルーはさらりと告げる。
【精神というものは、時間や空間の制約を受けるものじゃありませんから。幸い、今、イルシンは眠ってるようなので、あなた方の言う「夢」でユウと会わせることができるでしょう】
【何故、石一信を助けるんだ?】
ホセは、去ろうとするディープ・ブルーに慌てて問うた。すると、少年の姿を装ったモノは、ホセの視覚から消えながら、ふっと微笑んで答えた。
【おれは、あなた方の「友」ですから】
三
海が、光っていた。
どこかで見たことがある情景だと、イルシンは思った。いつかどこかで、確かに自分は、この情景を見たことがある。
暗い海の向こう、右側の――西側の水平線が、仄かに茜色を帯びて明るい。あちらに昼が去り、夜が訪れるのだ。だが、それとは別に、海が光っている。うねる波の下にいる無数の小さなモノ達が、光を放ち、岸辺に立つ少女の姿を青く柔らかく照らし出している。その青白い光は、彼女が〈高出力〉でテレパシー能力を使っている時に体から発せられる淡い光と、同じだった。
【今では、かなりUPOと交じり合ってるようですが、彼らが、この惑星の原住民です。陽光を吸収してエネルギーにしてるので、普段は皆で潮の流れに乗ってるだけですが、夜前線が来ると、コロニー単位で昼半球へ移動するんです。その時、コロニー内で役割分担した互いへのコミュニケーション、つまりエネルギー伝達が活発化するんですが、その分、エネルギー変換の反応から散逸する光も増えて、こうして光るんですよ。本当は、昼季の場所でも周りが明るくて分からないだけで、多少は光ってるんですけれどね。何故、昼前線に追いかけられるほうでなく、夜前線に追いかけられるほうの生活を、サン・マルティン地表基地は選んだと思います? 夕季にだけ鮮明に見られる、この現象を継続的に観察するためなんです。ほら、「温かい海へ行こう」って皆で歌ってる。これが、この惑星の――大地の歌の主旋律なんですね。でも、それだけじゃない――】
小柄で華奢な姿をした少女は、こちらに背を向け、ほっそりとした両腕を広げて、大気に溶け混じるように深呼吸する。
【海自体も、岩も、砂の一粒一粒でさえ、歌ってる――。皆、エネルギー――気――、意識というほどじゃないけれど、精神を持ってて、歌ってる――。これが、この惑星の、大地の歌――。こうしてディープ・ブルーの力を借りると、とても鮮明に聴こえます】
成るほど、意識を澄ませば、遠く近く、不思議な音程で響く歌が、辺りを満たしているのが分かる。
【ニコライも、あの時、ディープ・ブルーの力で、この歌を聴いてたんですね。そして、この大地の一部になって、一緒に歌ってる……。父様や母様、皆と一緒に……】
柔らかな「声」に、少し涙が混じった。纏った白い服を正面から大きく風にあおられながら、少女は、大海原へ向かって手を広げ、全身で歌を浴びて佇んでいる。白い服は、過去の情景で見た白いワンピースがそのまま大きくなったもののようだ。その白い服が、ふっと動きを止め、少女の細い輪郭をなぞるように静まった。真正面の海から吹き続けていた風が止んだのだ。夜と昼との狭間、凪の時間の到来だ。
【この海辺は、狭間です。このまま海へ進めば、父様や母様、ニコライのいるところへ行けます】
背を向けたまま、少女は決定的なことを告げる。
【でも、何故か、わたしはまだここにいる――】
自問するような硬い「声」に、イルシンは居た堪れなくなって駆け寄ろうとしたが、あの時と同じように、体が動かない。そこへ少女は言葉を継ぐ。
【何度隔てられても、どんな彼方からでも、どんなに嫌われようとも、何度でも何度でも――】
話しながら、少女はゆっくりと振り向く。
【手を伸ばしたい。出会いたい。分かり合いたい。どんなに隔てられても、どんな隔てを超えてでも、あなたの許へ行きたい。あなたへ辿り着きたい。あなたに触れたい。そう思うのは、おかしいでしょうか……?】
真面目に、困ったように問いかけてきた、その顔が懐かしい。
【おかしくなんかねえよ。それはむしろ、おれの気持ちだ】
イルシンは、必死に訴える。
【ユウ、おまえがいなくなるのは、嫌だ。頼むから、おれの前から、消えないでくれ】
イルシンの、心の底からの言葉に、こちらへ完全に向き直ったユウは、大海原を背に、寂しく微笑んだ。
【あなたは、いい人です。生い立ちから人柄まで、最初から、よく分かってた。だから、わたしはあなたに接近してしまったんです。あなたのその気持ちも、わたしが、あなたを利用するために、いろいろとやり過ぎてしまったから生まれたものです。あなたは、UPOに親族を奪われた被害者で、同じUPO被害者のわたしに、同情したに過ぎません。あなたは、とても優しい人ですから。あなたが、『未知』は『敵』じゃない、UPOは『友』になり得る存在だ、と言ってくれたこと、とても嬉しかった。これからの人類宇宙に必要な人を、わたしは守ったと、誇りに思ってます】
【これからの人類宇宙に必要なのは、むしろおまえのほうだろ……!】
泣いてしまう「声」で、イルシンは懸命に説得した。だが、ユウは首を横に振った。
【わたしは、人類宇宙軍の道具でしかなかった。けれどあなたは、こうしてディープ・ブルーの助けまで得てる。あなたは、凄いです】
灰色がかった水色の双眸に真っ直ぐ見つめられて、イルシンは戸惑った。
【「ディープ・ブルーの助け」?】
【はい】
頷いて、ユウは嬉しげに説明する。
【今、あなたとわたしは、ディープ・ブルーの力によって、こうして会えてます。わたしも、ここまで来て初めて、鮮明に理解しましたが、わたし達の個々の意識は、海に浮かぶ氷山なんです。水面上に出ている氷山の一角が、顕在意識とも呼ばれる表層意識。水面下に沈んでいる氷山の部分が、潜在意識。そして、その氷山を浮かべている海が、集合的無意識です。心理学でよく示される模型ですが、つまり、互いに手を伸ばしたい、触れたいと願えば、集合的無意識を介して緩やかに繋がってるので、〈出力〉さえ足りれば、こうして会うことができるんです。これは、人類が今理解してる物理法則を超えてる、宇宙を渡る力です】
【宇宙を渡る力……】
イルシンはユウの言葉を反芻した。不意に、自分を内包する、とてつもなく大きく深いものが感じられたのだ。
【はい、時空を超える力です。そして本当は、知性がある――つまり、ある程度の意思疎通能力がある生命体は皆、多かれ少なかれ、この力を――テレパシー能力を持ってるんです。UPOだけでなく、この惑星の原住民も、人類もです。人類も皆、テレパシー能力の素養を持ってるんです】
【人類も、皆……?】
愕然とした思いで、イルシンはユウを見つめた。
【はい】
ユウは波に素足を洗われながら、語る。
【わたしは、この惑星に帰った時、ここに父や母や友達、皆がいると感じました。それは、勿論、皆であった分子や原子、陽子や電子の一部がここにあるからというのもありますが、それだけじゃなく、微かに聴こえた大地の歌から、宇宙の広がりと同時に繋がりを感じて、意識の奥底で繋がった皆が、時空を超えて――宇宙を渡って、傍にいてくれる感覚を得たからだと思います。皆々、繋がってるんです。それなのに……、お互いに手を伸ばせば、会えるのに、分かり合えるのに、特に自由に動く体があると、自我が――独自性が消えてしまいそうで怖くて、離れたがる、個を主張したがる。分かり合いたい、離れたい、その繰り返しが、太陽系時代の地球文明期、宇宙文明期、人類宇宙時代の分散文明期を経て、集合文明期を迎えてる、人類の歴史の真実なんだと思います】
感慨深く述べたユウに、イルシンはもどかしく問うた。
【その、会えるってのは、夢でとか、幽霊になってとか、そういうことなのか? おまえは、やっぱり、もう……?】
ユウは微笑んだまま頷いた。
【わたしは、〈催眠暗示〉を破るために、死を受け入れました。後は、この海の中へ行くだけです。肉体は、なくなります】
【行くな!】
イルシンは怒鳴った。どうすれば、ユウにかけられた〈催眠暗示〉は解けるのか。どうすれば、本当の意味で、〈催眠暗示〉を破ることができるのか――。
【――あなたになら、可能ですよ】
不意に、ユウとは異なる「声」――あの「少年の声」がした。目を上げると、ユウより少し向こう、淡く光る浅瀬の中に、ディープ・ブルーが佇んでいるのが見えた。少年の姿を装ったモノは、切れ長の両眼にイルシンを捉え、断言する。
【あなたはナチュラル・テレパスで、その能力は、《強制的精神感応》とでも言うべきものです。だからこそ、ユウの〈記憶喪失〉を受けても、対抗して精神感応を行なって、辛うじて記憶を繋ぎ止めたんですよ。それに、以前にも、この惑星に降り立ったユウの潜在意識に精神感応して、この光る海の〈予知夢〉を見たでしょう?】
指摘されて、漸く、イルシンは、この情景を以前、夢で見たことを思い出した。ディープ・ブルーは、更に指摘する。
【ただ、あなたの能力は、まだ弱い。ユウを助けるには、もっと能力を高める必要があります】
【どうすればいい?】
即座に問うたイルシンに、人間ではない存在はさらりと答えた。
【おれを、体内に受け入れれば、能力の大幅な底上げができます】
【イルシン、駄目です!】
波打ち際から、ユウが叫ぶ。
【そんなことをすれば、あなたは、永遠に軍に身柄を押さえられることになる! 絶対に駄目です! わたしのことは、もう本当に忘れて下さい!】
イルシンは、にやりと笑ってユウの真剣な顔を見つめ返し、言った。
【精々高く売り付けてやるさ。おまえの命に比べりゃ、安いもんだ】
【交渉成立ですね】
ディープ・ブルーが、微笑んだ。
○
イルシンははっと目を開けた。
「ユウ!」
鋭く呟いた声が、そのまま自分の耳に響いた。現実だ。カーテンで囲まれた、最早馴染みの医務室の寝台に、自分は寝ている。
(夢、なのか……? おまえ、どうなったんだ……)
自分は、ただ、都合のいい夢を見ただけなのだろうか。やはり、自分の知っているカヅラキ・ユウは、どこにもいないのだろうか。無力感や脱力感、喪失感が堪え難いほどに押し寄せてきて、イルシンは、半ば現実逃避で枕に顔を埋めた。
ヴァシリが医務室に駆け込んできたのは、その約九時間後、一六三二時のことだった。
「イルシン、起きてる?」
親友のいつもより焦った声が、カーテンの向こうから聞こえて、悶々として九時間を過ごしたイルシンは上体を起こした。カーテンを開けて入ってきた同い年の青年の白い頬が、赤く上気している。
「ちょっと前に総本部からの指令が届いたんだけど、大変だったよ。チャン・レイ司令官が更迭されたんだ。UPOの精神汚染を受けてたらしいんだけど。でももう一つ驚いたのが」
言いながら、ヴァシリは自らの腕端末を操作し、画面に、明日の全体礼の次第を出した。そして、中の一つを指差す。
[地表制圧科陸戦部隊所属ソク・イルシン上等兵を、精神感応科諜報部隊所属へ転属とし、兵長へ昇進させる辞令交付式]
異動に関する情報が、事前に全体礼の次第に明確に示されることは珍しいが、そこには確かに、イルシンの諜報部隊への転属が示されていた。
「おれがテレパス?」
イルシンは、俄かに夢の情景が現実味を持って蘇るのを感じた。
――【あなたはナチュラル・テレパスで、その能力は、《強制的精神感応》とでも言うべきものです】
確かに、ディープ・ブルーがそう告げたのだ。自然、顔に笑みが浮かぶ。
「おれも、くそ野郎達の仲間入りって訳か」
つまり、あれは夢ではなく〈通信〉で、現実なのだ。ならば、自分は、ユウを救うことができる。
「すぐに、エステベス兵曹長に会えるか?」
気が急くまま問うたイルシンに、親友は心配する顔で答えた。
「多分、事が事だから、時間ができ次第、向こうから来て説明してくれるとは思うけど……、文句でも言うつもり?」
「いや、ただ、聞きたいことがあるだけだ」
ディープ・ブルーのことを言うのはさすがにまずいので、イルシンが言葉を濁すと、親友は複雑な表情で寂しげに言った。
「そう。精神感応科への転属は、納得してるんだ……。何でそんなに簡単に納得できるのか不思議だけど……、ぼくの知らないところで、いろいろあったんだね」
「いや、まあ、何と言うか……」
口篭もってイルシンに、ヴァシリは精一杯という感じの笑顔を見せて応じた。
「いや、ごめん。困らせる気はなかったんだ。昇進おめでとう。また何か、昇進祝い考えて贈るよ。じゃ、また」
軽く手を振って去るヴァシリの、悄然とした背中をカーテンの向こうへ見送った後、イルシンは寝台の上で起き上がったまま、忙しく頭を巡らせ始めた。自分とて、転属して親友と離れることは寂しいが、それ以上に、今はカヅラキ・ユウのことが気に懸かる。ホセ・エステベスは、はっきりと、「精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない」と明言した。人類宇宙軍の名簿は公にされていないとはいえ、極秘事項でもない。大将の息子であり、兵曹長たるホセ・エステベスが、調べればすぐ分かる嘘を吐くとも思えないが――。
「入るぞ」
唐突に、そのホセ・エステベスの声が聞こえ、カーテンが開けられた。ヴァシリが言った通り、急いで説明に来てくれたらしい。浅黒い肌の少年兵曹長は、寝台脇の椅子に座ると、すぐに話を切り出した。
「もう既に知っているかもしれないが、おまえは、明日の〇八〇〇時を以って、精神感応科諜報部隊へ転属となり、同時に兵長へと昇進する。何故そうなったか、情報を開示する許可が下りたので、これから知らせる。暫くの間、黙って聞け」
そうして、次に響いてきたのは、空気振動を介さない「声」だった。つまり、それだけ極秘の内容だということだ。
【まず、精神感応科への転属で分かるように、おまえにはテレパシー能力があると認められた。悪いが、おれはこの基地内の〈通信〉は全て〈傍受〉している。それで、おまえが九時間前に〈通信〉していた内容及び、その〈通信〉先についても、ある程度掴んで、軍総本部に報告した。結果、おまえの異動と昇進が異例の早さで確定した訳だ。おまえの能力は脅威だ。その能力をすぐにでも掌握したいというのが軍の本音だ】
(ユウは、今、どうなってるんだ)
イルシンは、最も知りたいことを問うた。
【救命函の中で、無理矢理生かしている状態だ】
少年兵曹長は率直に告げる。
【精神感応科諜報部隊所属葛木夕上等兵曹は、軍にとっても貴重な存在だからな。そう簡単に死なせはしない】
(「諜報部隊所属」……?)
【ああ。彼女は諜報部隊兵だ。診療部隊所属というのは、この基地で諜報活動をするための、偽の肩書きだった。だから、「精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹という人間はいない」んだ】
さらりと説明して、ホセ・エステベスは椅子から立ち上がる。全く、食えない少年だ。
「さて、行くぞ。おまえは、明日の辞令交付式の後、すぐにメインランドへ出立だからな」
「どこへ、行くんですか?」
面食らって問うたイルシンに、ホセ・エステベスは軽く眉をひそめて言った。
「海辺だ。『夢』の最後に、『彼』から言われていただろう?」
あの「夢」すら、〈盗聴〉されていたのかと、イルシンは驚きつつ立ち上がった。
○
「夢」の中と同じ、凪の時間の海辺に着くと、停めた小型浮上艇からホセが先に降りた。続いてその後部座席から降りたイルシンは、ホセを追って、波打ち際へ歩く。サン・マルティン地表基地に配属されてはいても、一度も近付くことのなかった海。近付くことの許されなかった海。そこでは、「夢」の中同様に、青白い光を発するUPO達が波間でたゆたっていた。
――【本当は、ユウからの口付けが良かったんでしょうけど、今は無理なので】
そんな前置きをしてから、ディープ・ブルーはイルシンに教えたのだ。
――【この惑星の海水を飲めば、簡単におれを体内に取り込むことができます。この惑星でおれを取り込んでから惑星メインランドへ行けば、丁度おれがあなたに定着した頃にユウと出会って、おれが底上げした能力で、彼女を助けられるでしょう】
「覚悟は、いいか?」
ホセ・エステベスが、真剣な眼差しでイルシンを見据えて確認した。
「そんなもの、とっくに決めています」
短く答えて、イルシンは波打ち際に膝をついた。実のところ、まだ少し、気持ち悪いという感情が残っている。だが、ユウの命には代えられない。イルシンは両手で青白く淡く光る海水を掬って、口に含み、ゆっくりと飲み下した。体温より少し冷たい海水が喉を下り、食道を通り、胃の腑へと落ち――。暫く待ってから、特に大きな変化はないのかと、拍子抜けした思いでイルシンが立ち上がった時、それは、聴こえ始めた。
歌だった。言葉としては聞き取れないが、旋律があり、思いが伝わってくる。
【温かい海へ行こう――。温かい海へ行こう――。一緒に行こう――。一緒に行こう――】
それは、「帰っておいで」という言葉にも似た響きで、イルシンを包み込んだ。大海原から立ち昇り、大気へ広がる歌。そして、その歌に、砂も石も、惑星全体が、唱和しているのだ。
「大地に満ちる歌……」
呟いたイルシンに、同じ歌を聴いているのだろう、ホセが無言で頷いた。
四
夜半球の闇の中から昼半球へと、夜前線を追って、サン・マルティン地表基地は力強く動いて行く。隣の操縦席では、エドウィン・ローランドと名乗る《遍在する悪夢》が、生真面目に前方を見つめ、時折微調整する程度に、操縦桿を動かしている。そんな、まだ新米の操縦士をうまく演じている《遍在する悪夢》に、そうとは知らず優しい眼差しを向け、起伏に対する注意喚起をしたり、適度に会話したりしているヴァシリ・イワノヴィッチ・クズネツォフ。その奥底から、本来の人格〈統括者〉は、じっと外を眺めていた。別人格のヴァシリは、《遍在する悪夢》のことも、本来の人格のことも知らない。だからこそ、自然に振る舞える。だからこそ、長期間の潜入捜査にも耐えられる。それこそが、《随意多重人格》という自分の能力。演じている《遍在する悪夢》とは根本的に異なるのだ。
(ニコライと同じように賢く、優しく)
それが、〈統括者〉がこの基地潜入用に創った別人格の設定だった。或いは、本物のニコライは、《遍在する悪夢》の演技など見抜けるほどに、もっと鋭かったかもしれない。だが、〈統括者〉がまだ子供で、別人格など持たず、ただのヴァシリであった頃、幼い従弟は、賢さの片鱗は見せても、どちらかと言えば、争いを好まず優しい、どこにでもいそうな子供だった。その従弟が、サン・マルティン封鎖を生き延びた十三人、正確にはカヅラキ・アサも含めた十四人の内、十三人を率いていたリーダーだったという。
(でも、おまえ自身は死んだ。おまえが生きてたら、おれもこんなところにはいなかっただろうに)
テレパシー能力は幼い頃から持っていたが、人類連盟警察局捜査課捜査官になり、人類宇宙軍地表制圧科陸戦部隊所属という偽の肩書きを得て、この惑星サン・マルティン地表基地に潜入したのは、ニコライが過ごした場所を見、何故幼くして死ななければならなかったのかを知るためだった。
(誰も彼も、この惑星に呼び寄せられて来たみたいだな、ニコライ……?)
そうして集まったソク・イルシンや、カヅラキ・ユウや、ホセ・エステベスの働きで、念願だったUPOの、サン・マルティンの悲劇の真実を知ることができた。けれど、軍も連盟も、今すぐ真実を明らかにしようとはしないだろう。そんなことは分かっている。
(今はただ)
目の前に広がる地平線と左のほうの水平線が明るくなってきた。基地が夜前線に追いついてきたのだ。そうして、昼半球に出る辺りで、漸くこの基地もプエブロ・ヌエボ開拓場に到着する。この基地の巨大さでは、開拓場の中を通り抜けることは不可能なので、その外周に沿って進む予定だ。その途中で、開拓場郊外の丘にある墓にも行ける。昨日の先行偵察で、カヅラキ・ユウとイルシンがわざわざ赴いて、暴いて、確認した墓。イルシンのヘルメットの通信機を通して、カヅラキ・ユウが「ニコライ」と呼ぶ声も聞こえた。間違いなく従弟の墓だろう。
(漸く、おまえに会えることが嬉しい。漸く、おれの人生にも一区切りが付けられる……)
どれほど心が震えても、別人格には全く影響がないのが、この《随意多重人格》という能力のいいところだ。
念願の墓参りの後はどうしようか。
(イルシンの後を追って、異動願いでも出してみるかな)
基準時間で今日の〇八〇〇時の全体礼で、ソク・イルシンは辞令を交付され、その後すぐに、ホセ・エステベスに同行されて惑星メインランドへと出立した。生死の境を彷徨うカヅラキ・ユウがどうなるかはまだ不明だが、能力を増したソク・イルシンは、暫く軍総本部で働くことになるだろう。
先行偵察の日、まだ医務室で寝ているカヅラキ・ユウのところへ、イルシンをどうするつもりなのか問い質しに行ったのは、別人格のヴァシリではなく、〈統括者〉たる自分だった。あの時は、ホセ・エステベスが異動してくるという情報を掴んで、シュヴァリエ派のチャン・レイに加えて、イルシンまでまずいことになりはしないかと焦っていたのだ。それで、敢えて、〈統括者〉たる自分を薄々感じさせ、テレパスであっても精神感応科兵ではない、つまりは、連盟警察局捜査課捜査官という本来の身分を匂わせて、牽制しようとしたのである。
(あれは、全く必要ないことだったが)
カヅラキ・ユウは、その言葉通り、命に替えてもイルシンを守ろうとしたのだ。
(何であれ、〈催眠暗示〉を破ってしまえる彼女やイルシンを、連盟が危険視することは目に見えてる)
うまく理由付けすれば、異動願いは比較的簡単に受理されるだろう。別人格のヴァシリも喜ぶはずだ。
(その方向で、意見具申してみるか)
前方の地平線と水平線の接する辺りが眩しく輝き始めた。この惑星の夕季の、基地にとっては朝日と言うべき、陽光。〈統括者〉は、自ら動くことによって得られる美しい「夜明け」を、じっと見つめた。
○
人類宇宙の首都惑星メインランド。そこに置かれている人類宇宙軍総本部、通称ヘキサゴンの一角にある軍病院の地下の一室に、その生命維持装置は安置されていた。この病院に到着してすぐ、少女の体は、救命函からこの生命維持装置へ移されたということだった。衛生服に着替えたイルシンとホセが部屋に入ると、生命維持装置の周りにいた研究者らしき数人の白衣の男女が一斉に振り向いた。集まる視線をものともせず、イルシンは先に立って進み、大きな棺のような生命維持装置の傍に立つ。透明な蓋を透かして見えたのは、悲しみと怒りを覚える姿だった。
少女は全裸で、頭部、胸部、両腕、下腹部に様々な管や装置を取り付けられ、半透明の液体の中に沈んでいた。痩せて肋骨の浮いた小柄な体が、巨大な機械に繋がれているさまは、ただ痛々しい。
(これじゃ、まるで――)
生体標本。ここへ来る道中ホセから聞かされた言葉が、禍々しく脳裏に蘇って、イルシンは歯を食い縛り、両拳を握り締めた。
「すぐに始められるか?」
横に立ったホセが、イルシンの怒りを鎮めるように静かな声音で問うた。
「はい」
イルシンは答え、生命維持装置に両手を当てて、目を閉じた。
【ユウ】
自らの能力たる《強制的精神感応》を用いた〈通信〉で、目の前の少女に呼びかける。
【ユウ、答えてくれ】
暫くは何の反応もなく、何も見えなかった。だが、必死に求め続けると、唐突に、暗黒の中にいる自分を感じた。
何も見えない。何も感じられない。ただ真っ暗で、何もない。歩こうとしても、方向も、上下すら分からず、広いのか狭いのかも分からない。本当に、何もない。
(これは……)
見えないながらも辺りを見回す内、微かに気配のようなものを感じて、イルシンはそちらを向いた。光がある。近付いて行くと、焚き火が見えた。
【あれ?】
子供の「声」がしたのと、頭上に満天の星空が現れたのとが同時だった。振り返ると、背後に洞窟のような、ぽっかりと暗い空間が口を開けている。自分はそこから出てきたのだ。
【あなた、誰? もしかして、幽霊かな?】
尋ねられて、イルシンはまた前方を見た。満天の星空の下に、焚き火があって、傍に子供が立っている。焚き火を背にしているので表情はよく見えないが、微笑んでいるようだ。
【おれは、生きてる。おまえこそ、誰だ】
イルシンが応じると、子供は興味津々といった様子で歩み寄ってきた。
【なら、ここにはいない人ですね。ここの大人は、皆死んでしまったから】
さらりと言われて、イルシンは愕然として目の前の子供を見た。相変わらず焚き火が逆光になっているので顔はよく見えないが、イルシンの腰くらいの背の高さで、金髪の、まだ幼い子供だ。ただ、話し方はひどく大人びている。
【ぼくは、ちょっと見えたり聞こえたりするんです。あなたみたいに鮮明なのは、初めてだけれど。あ、自己紹介が遅れました。ぼくはニコライ・クズネツォフ。あなたは?】
朗らかに告げられて、イルシンは答える代わりに、うめくように問うた。
【ここは……惑星サン・マルティンの、プエブロ・ヌエボ開拓場の外れか……?】
【そうです。ここに知り合いがいるんですか?】
【いる……はずだ……】
【そう。なら、その子に会いに来たんですね。でも、その子と会えなかったから、ぼくのところに来てしまった訳だ。ごめんなさい、今は寝る時間で、焚き火の当番をしてるぼく以外は、皆寝てるんです。それにしても、こんなところまで意識だけで来てしまうなんて、余ほどその子のことが心配なんですね。それに、とても強い力を持ってる。羨ましいです。ぼくにそれだけの力があったら、この空の上にいる人類宇宙軍に、ぼく達の抗体のことを報せるのに。当番制で焚き火を続けて、生き残ってることを知らせるくらいでは、誰も降りて来てくれない……】
【悪い。おまえ達のこと、本当に凄く助けてやりてえんだが、おれも、何でおれがここにいるのかよく分からねえし、どうやったら、この上空に行けるのかも、分からねえんだ】
イルシンが項垂れて詫びると、ニコライは、小さく首を横に振った。
【あなたが、ここに来てくれただけで、嬉しいです。新しい人に会うのは、本当に久し振りだから。それで、一体、誰に会いに来たんですか?】
【――葛木夕に】
【彼女の親戚か何かですか?】
【いや――。ただ、大切なんだ。助けたいんだ】
言葉足らずになったイルシンの答えに、ふとニコライは笑みを大きくした。
【ああ……、何となく、あなたがどこから来たのか、分かった気がします】
澄んだ大気のような「声」で言って、ニコライはイルシンの手を取り、Uターンさせて、ぽっかりと口を開けた暗い空間――彼らの「基地」である洞窟の中へ導く。
【こっちです。ユウはこっちにいます。こっち――ほら、ここです】
手を引かれ、暫く進んだ暗黒の先には、また光があり、近付いて見ると、明るさを絞った小さな照明器具の周りで、何人かの子供達が毛布に包まって固まって寝ていた。いつか見せられたユウの記憶の中で見知った子供達だ。そしてその中に、お揃いの白いワンピースを着た双子の少女達もいた。二人とも、やつれた顔で、目を閉じている。ニコライが屈んで、その片方の肩を揺すった。
【ユウ、起きて。迎えが来たよ】
【「迎え」って……】
イルシンは驚いて、ニコライを凝視した。何故、そこまで分かるのか。ニコライは、横顔で微笑んだ。
【だって、そうでしょう?】
【――済まねえ……】
イルシンは詫びた。自分は、この少年の運命を知っていながら、助けられないのだ――。
その時、ゆっくりと幼いユウが目を開いた。アサと同じ、薄茶色の双眸。まだ失明していない頃のユウ。
【ユウ】
呼び掛けたニコライに、幼いユウは、起き上がって小さく首を横に振った。
【わたしは、このままここにいる。皆の傍に、ニコライの傍に、ずっといる。今度こそ】
【駄目だよ】
ニコライもまた首を横に振って言い、両手でユウを抱き締める。
【そんなこと、ぼくが許さない。きみは、未来を生きるんだ。この彼と一緒に。きみは、どんな隔てを超えてでも、彼に出会い、彼に触れ、彼と分かり合いたいんでしょう? きみの精神が、そう言ってる】
ニコライの肩越しに、ユウはイルシンを見た。大きなその両眼に、じわりと涙が溢れて零れた。
【でも、わたしは――、わたしに、そんな価値は、ない】
【ユウ】
イルシンは、ユウの言葉を遮ると、奔流のような思いを伝えた。
【もう二度とこんなことがねえように、おまえにしかできねえことがあるはずだ。おまえは、心底テレパス嫌いだったおれを変えた。おまえは、誰とでも一生懸命分かり合おうとしてきた。おまえは、人類宇宙を変えられる。だから、未来を諦めんな。過去の中で寝てねえで、戻って来い。ニコライの代わりにはなれねえが、おれがずっと傍にいて、今度こそ、おまえを守るから……!】
ユウの表情が、堪えきれなくなったように崩れた。とめどなく涙を流すその薄茶色の双眸が、洗われるように、灰色がかった水色へ変化する。同時に、そっとニコライがユウを離した。幼い少年の腕の中から立ち上がったユウは、見る見る十五歳の姿に戻っていく。纏った白いワンピースも、ほっそりした体を包んだまま、ふわりと大きくなる。その少女の背を、後ろで立ち上がったニコライが、とんと押した。イルシンの腕の中へとよろけて、振り向いた少女に、七歳の少年は穏やかに言った。
【きみ達の、宇宙を渡る声で、人類を繋ぐんだ。未来を、頼んだよ】
「声」は途中から、どんどんと遠ざかり、ニコライの姿も、眠り続ける他の子供達と共に、暗黒の中へと急速に消えていく。ユウが、消えゆくニコライを凝視した。きっと、今イルシンに見えているものは、ユウにも見えているのだ。
【ニコライ……!】
悲痛なユウの「声」を最後に、全ては暗黒に呑まれて、見えなくなった。音も聞こえない。だが、腕の中には、確かにユウが感じられる。イルシンは少女を強く抱き締めて囁いた。
【もう二度と、離さねえ……!】
そして、唱える。
【〈対象〉、葛木夕にかけられた〈催眠暗示〉。〈解除〉!】
〈最大出力〉で使った独自精神干渉技は、青白い閃光を伴って、イルシンの意識を一瞬吹き飛ばした。
「おい、大丈夫か?」
耳元で、ホセの声がする。
「心拍、戻りました! 血圧、上昇!」
周りが騒がしい。
「成功したようだぞ……!」
ホセの声が珍しく上擦っている。
「血圧、一〇八~一一〇/五四~五六で安定。意識、覚醒値です!」
その研究者の声に、イルシンの意識も、はっと覚醒した。
「ユウ!」
叫んで生命維持装置の蓋に縋り付くようにして中を覗き込むと、ユウの左手が、ゆっくりと動くのが見えた。
「ユウ!」
手を握れないのがもどかしい。
「この蓋、開けられねえのか?」
傍にいた女性研究者に問うと、周りの研究者と目配せし、生命維持装置の下部にある覆いを開けて、何らかの操作をしてくれた。途端、透明な蓋が向こう側へスライドして開き、同時に半透明の液体の水位が零れない程度に下がって、イルシンとユウを隔てるものはなくなった。
「触っても、いいんだな?」
衝動を抑えながら確認したイルシンに、研究者達は微笑んだり呆れたりした顔で頷いた。ホセも、嬉しそうにしている。大丈夫なのだ。イルシンは半透明の液体へ右手を入れ、ユウの左手をそっと握った。ユウの左手は弱々しく動いて、それでも確かに握り返してくれる。もう、抑えが効かなかった。イルシンは、衛生服が濡れるのも構わず、半透明の液体の中へ左腕を入れてユウの上半身を掬い上げ、その頭を、付けられた装置ごと胸に抱き寄せた。
「あ……」
微かな声が届く。呼吸器に覆われた口が、動いている。
「あ……りが……とう」
空気振動を介したユウの声が、イルシンの耳に、優しく響いた。
○
【カヅラキ・ユウのこともイルシンのことも、うまく運べたのに、あんまり嬉しそうじゃないんだな】
《遍在する悪夢》からの〈通信〉に、人類宇宙軍総本部にある自宅に帰ったホセは、顔をしかめた。
【じぶんには、あなたに一々全てを教える義務はないんですが。それにしても、一体、いつサン・マルティンからこちらへ?】
【仕事柄、情報収集の努力は惜しまないんだ。ここにいるのも、その一環さ】
明るく告げられてしまうと、何となく、隠すのも面倒になって、ホセは素直に吐露した。
【ディープ・ブルーの力を借りた〈通信〉で、時間を超えて、ニコライ・クズネツォフに会いました。彼は、イルシンにただ意識を繋いで〈傍受〉していただけのじぶんにまで、気付きました。じぶんにも向けて、「未来を、頼んだよ」と言ったんです】
【さらっと凄いことを言うな、おまえは。本当に、ディープ・ブルーってのは、何でもありの、最強の存在って訳だ】
驚きを隠さず応じた連盟警察局捜査課の捜査官は、一拍置いてから付け加える。
【それにしても、重い言葉だな。知り合いだったのか】
【はい。同じ学校に通っていました。そう親しい訳ではなかったですが】
ホセは、閉じた瞼の裏に、在りし日の少年の姿を思い浮かべた。ニコライ・ペトローヴィチ・クズネツォフとは、ホセがまだこの惑星に暮らしていた頃、同じ学校に通っていた。ユウとアサが通っていた海辺の学校とはまた別の、街中の学校。学年が違ったので、そう親しくもなかったが、それぞれいろいろな場面で目立っていたので、互いに一目置いていて、機会があれば話もする間柄だった。
【彼が、サン・マルティンの悲劇の最後の犠牲者だと知った時、じぶんは一生を、贖罪に使う覚悟をしました。そして今回思い知りました。彼こそが、ディープ・ブルーと人類とを繋ぐ最初の架け橋で、救世主だったんだ、と】
【確かにな。成るほど、舞い上がってはいられない訳だ。悪かった、邪魔したね】
珍しく親身に相槌を打って、《遍在する悪夢》は向こうから〈通信〉を切った。
○
【きみの妹は、イルシンと同じ作戦班と決まったよ。めでたしめでたしだね】
エドウィン・ローランドを名乗る少年からの〈通信〉に、アサはふんと鼻を鳴らした。ここは、惑星メインランドの軍総本部にある軍病院――つまりは、アサの体がずっといる場所だ。当のユウは、彼女の目の前の寝台で眠っている。暫く救命函や生命維持装置の世話になっていた体は、まだ本調子にはほど遠い。だが、それは、アサ自身にも言えることだった。アサが自分の体で目覚めたのは、つい一週間前のこと。あの、ユウとイルシンが先行偵察に出された日だ。一週間経って、漸く、自走式車椅子に乗って動けるようになった。だから、ユウがこの軍病院に運ばれてきた時も、イルシンによって再び生き始めた時も、その場に居合わせることはできなかった。遠く微かにユウを感じながら、懸命に呼びかけ続けていただけだ。今も、ただ、イルシンが軍務をこなしている間、代わりにユウを見守っているに過ぎない。できることが少な過ぎて、慣れない長い髪と動きの悪い痩せた体が鬱陶しい。その苛立ちまでぶつけるように、アサは応じた。
【何であいつが一緒なのよ。それに、この子がまだ軍にこき使われるなんて、あたしは嬉しくないわ】
【イルシンみたいに大人になってから能力が発現するのは珍しいけど、ユウの〈記憶喪失〉から記憶を守ったり、ユウにかかってた〈催眠暗示〉を破るなんて、諜報部隊向きの立派なテレパスになるよ。妹が助かった上に幸せになれそうで、もの凄く嬉しい癖に】
【当たり前じゃない!】
あの日、連盟警察局捜査課捜査官の、この少年に〈催眠暗示〉を利用されて気力を奪われ、何もできなかったアサは、ただただ、状況を見守るしかなかった。そして、ディープ・ブルーに願った。ユウを助けて、と。ディープ・ブルーは、その願いを聞き届け、ホセ・エステベスと協力して、ソク・イルシンの能力を底上げし、ユウの命を救ってくれたのだ。
――【人間の精神って本当に不思議ですね。確かに死ぬ覚悟をしてるのに、同時に生きたいと思ってるなんて】
そんなことを呟きながら。
【それで、あんたは今どこにいるのよ?】
アサは問うた。ディープ・ブルーの力を借りない限りは、たった一人の能力でサン・マルティン宙域からこのメインランド宙域まで〈通信〉をすることなどできない。
【病院の入り口。これから、花束持って、きみ達二人のお見舞いに行くので、宜しく】
どこにでも入り込める肩書きを持つ少年は、底抜けに明るい調子で答えた。
○
時間も空間も超えた、けれど、確実に今、ここと繋がったある日、ある場所で。
「死ぬのは、嫌だな……」
他の皆が寝静まった夜、第二の「基地」とした洞窟の暗黒の中、口の中で微かに呟いた金髪の少年の意識に、東アジア系の顔立ちをした黒髪の少年の姿が現れた。
【死は、終わりじゃない。ただの区切り。全ては繋がってる】
(頭では、分かってるんだけれどね……。でも、やっぱり怖いし、悔しい。ぼくは、もっと生きたかった)
【なら、感覚で分かればいい。皆繋がってる。死によって、意識が体から離れれば、大いなるたった一つの無意識の中に戻るだけ。宇宙に本当に満ちてるのは、その無意識。ありとあらゆる空間と時間にあり、そしてありとあらゆる空間と時間を繋げてる、その無意識の中に還るだけ。そして、そこから、また何かに、誰かに繋がっていける。強い思いがあれば、生きてる時にも、それができる】
言葉と同時に、感覚が、金髪の少年に押し寄せた。自分という意識が、重い肉体を離れ、どこかへ浮くような、或いは沈むような、引き寄せられる感覚。ひどく温かい中へ、幸せな中へ、懐かしい中へ還る感覚。そして、その先にある、よく知っている相手の、慕わしい感覚。
(ああ、やっぱり、あの時の、あのお兄さんは、未来から来たんだね……!)
自分を包んだ暗黒が薄れ、光が射した気がして、急にわくわくして、金髪の少年は、その慕わしい相手に、自分がたった今得た感覚――発見を伝えた。
【三次元の肉体に合わせて、精神は情報を絞り、余計なことは忘れるようにしてる。けれど、それがうまくできない精神、そう簡単に割り切れない精神は、三次元即ち時間と空間――時空を超えて、過去や未来、この場所とは異なる場所を彷徨って、肉体と乖離してしまう。つまり、強い思いは、宇宙をも渡るんだよ!】
○
目覚めると、しんとした夜の空気の中、傍らで落ち着いた深い息遣いが聞こえた。イルシンだ。寝台脇に置かれた椅子に座っているのだろう。サン・マルティン地表基地でも、何度かあった状況で、懐かしいような、申し訳ないような気持ちになる。だが、今は、もっと別に伝えたいことがあった。
「夢を、見ました」
ユウが口を開くと、イルシンは優しい声で応じた。
「どんな夢だ?」
「ニコライが、いました」
ユウは、鮮明な夢を思い出しながら、話す。
「とても嬉しそうに、わたしに言ったんです。『三次元の肉体に合わせて、精神は情報を絞り、余計なことは忘れるようにしてる。けれど、それがうまくできない精神、そう簡単に割り切れない精神は、三次元即ち時間と空間――時空を超えて、過去や未来、この場所とは異なる場所を彷徨って、肉体と乖離してしまう。つまり、強い思いは、宇宙をも渡るんだよ!』と」
「その通りだな」
イルシンは、そっとユウの額に触れてきて、前髪を撫ぜながら言う。
「あいつは、ずっと未来を見つめてて、きっと、それこそ強い思いで、おれ達にその発見を届けてくれたんだ」
「そうですね……」
ユウの目尻に浮かんだ涙を、イルシンの指が拭ってくれる。その大きな手に、自分の手を重ねて、ユウは、待ち構える軍務の前の、束の間の微睡みの中へ、再び落ちていった。




