終わる旅路
第四章 終わる旅路
一
「宇宙門って、いつ見ても不思議だよね」
士官室の壁画面に映した、メインランド宇宙門に、ユン・セスは両眼を細める。宇宙の闇に半ば溶けるようにして浮かぶ、巨大な円形の鏡のような物体。
「まるで鏡みたいに全て映して、でも、触れようとすると、全て飲み込んで、あっち側へ吐き出す。ホセは知ってた? 宇宙門は元々、全てをただ素通りさせてしまう、本当に見えないものだったって。それが、ある時、接近した宇宙船に偶然テレパスが乗ってて、何かを感じてそっちを見たら、急に鏡みたいな形態に変化したって。知的生命体同士が出会ったら、まず相手の動きを真似て反応を見る。それが挨拶の始まりらしいけど、宇宙門もきっとそうだったんだよ」
「他の宇宙門でも同様の変化があり、同時に門としての機能が発生したと学びました。しかし宇宙門の解明はまだ進んでいません。利用はできても、人類は宇宙門の全容を掴んではいない。分かっているのはただ、知性を持った生命体が存在する惑星の近くにあるということだけです」
ダークグリーンの軍服の上に宇宙服を着ながら、生真面目に答えた十五歳の少年――ホセ・エステベスに、セスは、労わる目を向けた。
「知性を持った生命体の存在が欠かせない……ね。これは、ぼくの仮説だけど、宇宙門は、もしかしたら、ぼくらのテレパシー能力に似たものなのかもしれないね。宇宙門は、三次元の物理法則を超えてるけど、ぼくらの能力だって、いや、もっと言えば、人間の精神は、三次元を超えてるところがあると思うし」
テレパシー能力は、一度関係した二つの量子が、空間的にどれほど離れても、片方の状態がもう一方に瞬時に反映されるという現象で説明される。宇宙門の原理も、基本的には同じだろうと、セスには思えるのだ。そしてどちらも、三次元に時間を加えた四次元か、或いはそれより上の次元でのみ、成立するはずだ。
「興味深い仮説です。ただ、相当な〈出力〉がないと、宇宙門規模のものは創れないと思いますが」
ホセは淡々と応じた。こういった理論に興味がない訳ではないだろうが、今は目前に迫った任務に集中したいのだろう。セスはもう一言だけ付け加えて、任務に話を戻すことにした。
「ぼく達人間だって、一グラム当たりで言えば、基準時間で毎秒、典型的なG型主系列星の約一万倍ものエネルギー変換をしてるんだけどね」
人類の故郷たる太陽系の太陽も、人類宇宙の首都惑星メインランドがその周りを回っている恒星ティアドロップも、人類が見上げている恒星は全てG型主系列星だ。それらの恒星を、ある意味、遥かに上回るエネルギー変換をして、一人一人の人間は生きているのである。
「まあ、そうだったらいいなって話。でも、惑星サン・マルティンにも宇宙門があるということは、知性を持った生命体がいるということで、それがつまりはUPOってことかな――。きみにとってもぼくにとっても、あそこはあまり嬉しくないところだけど、今回は、きみが貧乏くじだったね」
「任務の内容としては、攻略部隊所属のじぶんが適任です」
「それはそうだけど、お父上の、きみへの期待が大きいってことだろうね。こんなところまで、第三秘書官のぼくに見送りさせるぐらいだし」
「じぶん一人のために、申し訳ありません」
「いいよ。ぼくもきみが心配だし、メインランド宇宙門は勝手知ったる前の職場だから」
宇宙門で宙域から宙域への通信を中継する任務は、精神感応科諜報部隊が担っているものであり、セスもペドロ・エステベス大将の第三秘書官になる前は、メインランド宇宙門に配属されていたのだ。
「さて、仕度も整ったようだし、行こうか」
セスは、先に立って、居室として与えられている士官室から出た。ホセは、身の回り品を詰めた鞄を持って、後からついて来る。通路を行き、エレベーターを使って、戦艦クレオパトラの擬似重力空間の居住区画から無重力空間の格納庫へ、二人は粛々と向かった。
格納庫には、戦闘艇が並べて格納されている。その中の単座式の一隻が、ホセに割り当てられたものだ。ホセはここからメインランド宇宙門へ入り、サン・マルティン宇宙門から出て、惑星サン・マルティンの静止衛星軌道上にあるサン・マルティン宇宙港へ行き、後は宇宙連絡船に乗り換えてサン・マルティン地表へ降りるだけなので、単座式戦闘艇で充分なのである。
「では、行って参ります」
単座式戦闘艇の前で、改めて敬礼したホセに、セスも敬礼を返した。
「任務の成功と貴君の無事を祈る。古い友達に、宜しく頼むよ」
セスが最後に付け加えた言葉に、ホセは長い睫毛を微かに震わせ、それから踵を返して戦闘艇の操縦席へ収まった。セスは格納庫の待機室に入り、窓越しに、ホセが搭乗した戦闘艇を見守る。出会う前は、憎悪していた相手。出会って付き合う内に、憎悪よりは、同情を覚え始めた相手。今でも、セスの、ホセに対する感情は複雑だ。
(きみは、いつまで、お父上の言いなりの人生を歩むんだろうね……?)
管制官の指示に従い、滑らかに戦闘艇は発進していく。ホセ・デ・サン・マルティン・エステベス・タカギは、攻略部隊兵というだけでなく、戦闘艇の操縦や格闘技など、軍人として様々な分野に高い能力を有している。まさに今回のような任務に打ってつけの人材だ。
(あそこには、きみのような境遇の人を恨んで死んだ人がたくさんいる。そんな人達が、あそこを政争の舞台にして、きみを呼んでるのかもしれない。過去の亡霊に捕らわれないように、気を付けて)
「いってらっしゃい」
出庫する単座式戦闘艇に敬礼を送りつつ口の中で呟くと、ユン・セスは格納庫を後にした。
〈よい航宙を!〉
戦艦クレオパトラの管制官に決まり文句で送り出されたホセは、次にメインランド宇宙門の管制官と通信回線を繋ぎ、その指示に従って戦闘艇を進める。
〈宇宙門進入角度、貴艇基準、上下角マイナス三・五度、水平角プラス一・九度修正されたし〉
「了解。本艇基準、上下角マイナス三・五度、水平角プラス一・九度修正」
復唱しながら、ホセは艇首の向きを微妙に修正した。宇宙門への進入角度は、その鏡のような面に対して垂直と決まっている。
〈速度良好。そのまま進入されたし。幸運を!〉
こちらも決まり文句で送り出され、ホセは宇宙門の面に映った自ら操縦する戦闘艇にそのまま突っ込むように、静かにゆっくりと宇宙門を潜った。
通過はほんの一瞬、波立ちもしない極薄い水の膜を通り抜けるようにして潜った先には、また宇宙が広がっている。但し、先ほどまでいたメインランド宙域ではなく、サン・マルティン宙域である。戦闘艇のすぐ背後には、今出てきたサン・マルティン宇宙門が静かに浮かび、眼前には、惑星サン・マルティンが、ところどころに青い湖があるだけで後は茶色い沙漠の北半球と、殆どが青い海の南半球という、特異な姿を晒している。
(あの時と、同じだ――)
九年前に、静止衛星軌道上の宇宙港から見た姿。直後、輸送用の簡易減圧室に監禁され、罪悪感に打ちひしがれながら後にした、あの時と何一つ変わらない姿だ。あそこに眠る人々は、誰も自分を許さないだろう。それでいい。誰もホセ・デ・サン・マルティンを許さなくていい。否、許してはならない。けれど、ただ一人のこの空間で、一言言うくらいは、許されるだろうか。
「――ただいま」
ホセは、万感を込めて、口の中で呟いた。
○
医務室の自動扉を通った視線が、照明の落とされた薄暗がりの中、手元の腕端末で時間を確認した。基準時間〇二五四時。基準時間で毎日、〇九〇〇時から十二時間弱をかけて夜前線を追い越して、二一〇〇時頃に最も明るい時間帯を迎え、その後、惑星の自転によってまた夜前線に追い越されるサン・マルティン地表基地においては、夕方とも言うべき時間帯だ。視線は、次いで、ユウが寝る寝台の隣に、長椅子を置いて寝ているイルシンを見下ろした。
(部屋にいないと思ったら、こんなことになってるなんてね。ここまでイルシンを手懐けて、満足?)
心の中で思っているだけだというのに、ヴァシリ・イワノヴィッチ・クズネツォフは、明らかに問うている。答えるべきか否か、ユウが目を閉じたまま迷っていると、更に音にならない問いは続いた。
(きみは、ずっと、おれを避けてたよね? イルシンには目を合わせる振りをするのに、おれにはちっともだった。気付いて、調べて、知ってたんだろう? ここで死んだニコライ・クズネツォフ――ニコライの父さんは、おれの父の弟で、惑星スヴェトラーナから開拓途上惑星サン・マルティンに入植したんだって。ニコライが、封鎖の間、きみ達生き残った子供の殆どをまとめて、生き延びさせたことは、おれも知ってる。きみは、ニコライの従兄っていうおれの素性を知って、怯んでたんだよね? ニコライを死なせて生き延びたきみ達を、おれが、良く思わないだろうって)
【それは、少し違う】
ユウは、精神感受技〈通信〉で静かに返事をした。この青年には、答えが必要なのだ。
【あなたにどう思われようとも、それはあなたの自由だから、それでいい。わたしが恐れたのは、潜在意識ででも、あなたに、ニコライを重ねてしまうこと。物腰も、物言いも、イルシンの視覚を通して見る外見さえ、ニコライに似てる――似せてるあなたに、ニコライを重ねてしまったら、あなたにニコライを求めてしまったら、わたしは、ニコライをもう一度裏切ることになる。そんなことになったら、もう、わたし自身がわたしを許せない。だから、あなたを避けてた】
(そう……。それが本音なんだ)
ヴァシリは、じっと、ユウの「寝顔」を見つめる。
(そして、イルシンは、きみにとって、利用し易い存在だった訳だ。それで、どうするつもり? ここまでイルシンを振り回しておいて、まさか、イルシンに、軍を裏切らせる気じゃないだろうね? そんなことしたら、おれが、きみを許さないよ?)
【イルシンのことは、きちんと守る。わたしの命に替えても】
(……その言葉、この先何があっても、絶対に違えてはいけないよ。とりあえず、今はきみを信じよう。きっと、ニコライが信じた、きみだから)
ヴァシリは、静かに医務室を去っていった。その気配が遠退くのを感じながら、ユウは寝返りを打って、イルシンの寝息に耳を澄ませた。
八年前、ニコライを失うと分かった時、アサは最後までそのことを受け入れなかったが、自分はすぐに、では、どうするべきかと、思考を切り替えてしまった。冷徹に、合理的に、ニコライがいなければどうするかを考えてしまったのだ。それは、ニコライに対する何よりの裏切りだった。ニコライは、あんなにも、ユウのことを気遣い、導いてくれたというのに。
(わたしは、合理的なわたしが嫌いです。アサのように一途になれないわたしが嫌いです。イルシン、わたしは、あなたを利用してるわたしが嫌いです。でも、わたしは、このようにしか、生きられない……)
こんな自分のことを、イルシンは大切に思い始めている。自分が、イルシンに〈精神攻撃抗体〉を持たせるために、サン・マルティンの悲劇の記憶を〈入力〉し過ぎた上、ずっと共に行動しているせいだろう。
(わたしは、あなたの優しさを利用してる。わたしは、あなたに会うべきじゃなかった……)
幾ら凝らしても、目の前のイルシンを見ることもできない両眼から、涙が溢れる。自己憐憫の醜い涙だ。体が極限の疲労状態にあるせいか、恐ろしく寂しく、切ない気持ちが無駄に溢れてくる。
(イルシン、すみません、付き合って貰うのも、後少しだけです……)
規則的で穏やかなイルシンの寝息が、ユウの心を、少しずつ落ち着けてくれる。
(イルシン、それまでだけ、傍に……)
ユウは、寝台のぎりぎり端まで、イルシンのほうへ寄って、再び眠りに落ちた。
○
サン・マルティン地表基地左舷の展望室からは、海がよく見える。
チャン・レイは、厳格な表情の下に嫌悪を滲ませて、惑星サン・マルティンの唯一の海――南海を睨む。
基準時間〇三二六時。基地前方の遥か先、地平線と水平線が接した辺りへ没した日輪からの残照は、最早、西の空を僅かに茜色や群青色に染めているのみで、こちらまでは届かない。けれど、海は、淡く、青白く光っている。夜前線でだけ見られる、光る海。海面付近に棲息している生命体が、青白い光を放っている。この基地は、この現象を継続的に観察するために、基準時間で毎日、夜前線と抜きつ抜かれつする生活を送っている。
(奴らの、あの、光を利用する性質さえなければ、奴らに人工ウイルスが感染して生まれたUPOにも、殺機構が有効に作用したものを……!)
ある波長の光を当てれば、あの人工ウイルスは死ぬように設計されていた。だから、少々の手違いで保管庫や密閉容器から漏れ出してしまっても大丈夫だと、研究者達は胸を張っていたのだ。当時、研究施設の責任者だったチャン・レイは、その言葉を疑いもなく信じていた。
(全て、不測の事態だった。あの生命体さえいなければ……!)
一年間に渡ったサン・マルティン封鎖の後、人類宇宙軍は、UPO調査の一環として、本格的に、この惑星の生命体の研究を開始した。同時に、封鎖下で生き残った子供達に備わったテレパシー能力を研究成果として認め、テレパシー能力の軍事利用を加速させたのである。チャン・レイは、その流れに乗って、再びサン・マルティン地表に降りた。正確には、シュヴァリエ大将によってそう配属された。彼の罪は、シュヴァリエ大将によるUPO調査の中で明らかとなっていたが、軍内部でも公にされることはなかった。
チャン・レイは、ゆっくりと南海に背を向けた。多くの人々を殺したUPOは、嫌悪の対象だ。だが、過去の罪を暴かれる訳にはいかない。あれは、彼の罪だが、シュヴァリエ大将が、軍組織の一部を使ってその隠蔽を行なった以上、既に軍の罪なのだ。
人類宇宙の秩序を維持してきた人類宇宙軍が罪を犯したとなれば、人類宇宙の秩序が大いに乱れかねない。どこかで連盟脱退運動や紛争や内戦が起こるかもしれない。今更、そんな事態を引き起こす訳にはいかない――。
背後に広がる海とは別の、遥か彼方の惑星の波立つ海が、脳裏に蘇る。爆撃によって荒れ狂い、浮かんでいた都市を、住んでいた人々を、彼の家族を、全て飲み込んだ暗い海。
(人類宇宙軍こそが、この人類宇宙の人類の平和を、秩序を守っているのだ。軍に助けられたわたしが、軍の足を引っ張る訳にはいかない)
チャン・レイが人類宇宙軍に命を救われたのは、あの海に浮かんでいた十五歳の時だった。
惑星桃源を経済的に支配するツォン財閥が、惑星スヴェトラーナ政府からの借金返済が滞ったことに対し、その海洋の一部を差し押さえると宣言して、タオユアン宙域とスヴェトラーナ宙域の間に起こった戦争。スヴェトラーナ紛争と呼ばれる戦争の渦中に、かつてレイはいた。
基準暦五二四年から十年間に渡り断続的に続いた紛争は、民間人――特に、ツォン財閥の事業でタオユアンからスヴェトラーナの当該海洋に入植していた人々に多くの犠牲を出し、その中には、レイの家族も含まれていた。そして、いつまで経っても解決せず、徒に犠牲を増やすばかりだったあの紛争に、人類宇宙中の批判が集中し、それまで大きな力を持たされていなかった人類宇宙軍が組織的に増強されて、解決へと力を振るったのである。その作戦を最前線で指揮したのが、当時既に大尉だったマルセル・シュヴァリエだった。家族の中でただ一人生き残ったレイは、その後、迷うことなく人類宇宙軍に入った。
(今の地位を失ったとしても、おれは、軍を守る。そのためには、今回の運用試験によって、精神感応科兵の欠陥が明らかとなり、残念な結果に終わったという脚本になっても、仕方がない。軍にとっても、シュヴァリエ大将にとっても、そのほうが浅い傷で済む――)
副司令官のジャスミン・シュヴァリエ中尉に必要以上の協力を求めることはすまい。下手に巻き込まないほうが彼女のためだ。彼女は彼女の判断で動くだろう。それで彼女が自分を切り捨てる判断をしたとしても、恨みはしない。結果として、自分の半生を捧げてきた人類宇宙軍という組織を守り、シュヴァリエ派を守ることができるのならば。
サン・マルティンの海は相変わらず青白い光を放ってたゆたっている。カヅラキ・ユウが〈高出力〉で能力を使用する時に体から発せられる光と、同じ色の光。忌まわしい光。
チャン・レイは眼差しを険しくして顔を上げると、重々しい足取りで司令官室へ戻って行った。
二
側面鏡の中、夕季の日差しを受けて、小さめの回転翼が六つあるヘリコプターの長い影が、沙漠の凹凸の上を、滑ってついて来る。そこから転じられた視線の先、ヘリコプターの左舷の向こうには、どこまでも続く海原がきらきらと広がっており、前方には、やはり果てしなく見える沙漠の起伏がある。操縦桿を握るイルシンの視覚を通して、そんな地表を眺めていると、不意に、耳の奥に、懐かしい声が蘇った。
――「ここに、植物を育てよう」
あれは、小さな脱出を経て、第二の「基地」とした洞窟を整え終え、その中で基準時間の一晩眠った後だった。皆を洞窟の前に集め、足元の土を愛しげに触りながら、明るい決意に満ちた顔で告げたニコライ。あれで、皆、新しい希望を持てたのだ。
(そう、希望――)
ニコライは、最期まで、皆に希望を持たせようとしていた。
ニコライとずっといると泣いたアサを、未来を生きてと諭し、ユウには、大地の歌について教え、そして、息を引き取る直前に、皆に遺言した。
――「皆、ちゃんと、希望を持って、生き続けて。ぼくは、時の流れの中の過去に、ずっと在り続けてる。きみ達とぼくが生きた時間は、ずっと続いてて消えないから、未来への希望も、消さないで」
夜明けの静かな青い世界の中、紡がれた貴い言葉は、これまで何度、ユウを導いたことだろう――。
頬を涙が伝うのを感じながら、ユウは、イルシンの目が捕らえたものを同じく見た。前方の沙漠の起伏の向こう、幻のように、古い建物群が姿を現し始めていた。
ヘルメットを被って後ろの座席に座ったユウは、イルシンの視覚を通して、近付いてくる懐かしいはずの開拓場を見ているのかいないのか、口を閉ざしたきりだ。精神感受で話し掛けてくることすらない。
――【あたしは、あのエドウィン・ローランドって奴が気になるから、行かないわ】
そう告げて、おしゃべりなアサが基地に残ったので、久し振りの静寂であり、居心地が悪い。
(ヘリ酔いしてないか?)
操縦席に座ったイルシンは、ヘルメットのバイザー越しに前方の開拓場を見つめたまま問うた。
【はい、大丈夫です】
返事は、どこか虚ろだった。やはりまだ、体調が優れないのかもしれない。この先行偵察に出る前に、体調についての確認はしたのだが、本人が良好と言い張り、基地司令官チャン・レイ少佐もそれを認めたので、こうしてヘリコプターで出てきたのだ。或いは、別の理由もあるのかもしれない。
(そう言や、今日、また精神感応科兵が赴任して来るんだったな? 明日の全体礼で着任挨拶らしいが、知ってる奴なのか?)
今日の全体礼で、正式に告知があった。噂通り、攻略部隊所属で、ホセ・エステベスという兵曹長らしい。
【はい、同期生です。エステベス大将の御子息ですよ】
答えたユウの「声」に、微かに複雑な思いが混じった気がした。軍学園時代に、何か確執があったのか、それとも、大将の息子という立場に、思うところがあるのか。イルシン自身は、エステベス大将など、雲の上の存在なので、どうでもいいのだが。
(歳は近いのか?)
【同い年です。十五歳で、兵曹長。まさしく、出世頭ですね】
今度は疑いようもなく皮肉の混じった、しかも寂しげな調子だったので、イルシンは眉をひそめた。ユウがそんな感情を表すのは珍しい。
(そいつのこと、嫌いなのか)
【いえ……、ただ、お互いに、難しいんです。じぶんは、サン・マルティンの悲劇の生き残り組ですが、あちらは、サン・マルティンを出ていて生き延びた組なので。高等学校では、結構顔を合わせてたんですけれど、どう口を利いていいのか、お互い分からず……といった感じでした。この間お話しした、ユン・セス先輩なんかは、そういうところ、とても上手で、ホセとも、少なくとも表面上は明るく話してましたけれど】
(そりゃ、屈託なく話せっていうほうが、難しいだろ……)
相槌を打ちながら、ユウが無口だったのは、その攻略部隊兵のせいかと、イルシンは納得しかけた。だが、すぐにユウが告げた。
【それもないとは言いませんが、やはり、緊張してるんだと思います。プエブロ・ヌエボ開拓場に行くのは、封鎖を解くために全力――〈最大出力〉で能力を使って気を失った、あの時以来ですから】
伝えようと思った以上のことを読まれていた事実より、ユウが緊張しているという、その事実に、イルシンは居た堪れなくなった。
(でも、いつかは、行かなきゃならない。行けるなら、行くべきだ。少なくとも、おれはそう思って、人類宇宙軍に入ったし、サン・マルティン地表基地配属を希望した)
強い調子で、イルシンが常々思ってきたことを告げると、ユウは不意に、くすりと笑い、答えた。
【やっぱり、あなたは、重大局面では、ポジティヴなんですね。ありがとうございます。ここに帰って来たくて来たんだということを、緊張の余り、危うく、忘れるところでした】
(本気で忘れたいことは、忘れりゃいい。けどな、おまえにとって惑星サン・マルティンは――プエブロ・ヌエボ開拓場は、本気で忘れたいところじゃねえはずだ、とおれは思う)
【――その通りです】
ユウは、微かに震える「声」で、はっきりとイルシンの推測を肯定した。
やがて、沙漠の起伏が開けて、海に面した古びた建物群が迫ってきた。サン・マルティンの悲劇の地、プエブロ・ヌエボ開拓場。
イルシンは、被ったヘルメットの通信機に告げた。
「こちらプエブロ・ヌエボ開拓場先行偵察班。基準時間一五二七時、プエブロ・ヌエボ開拓場上空に到着。これより着陸する」
〈了解。充分に気を付けられたし〉
サン・マルティン地表基地のハルの声の返信を受けて、イルシンは操縦桿を動かし、ヘリコプターをゆっくりと降下させる。降下地点は、海岸沿いに設けられた学校の運動場だ。
砂煙を巻き上げてヘリコプターを着陸させ、イルシンが機関を停止させると、ユウは待ちかねていたように扉を開け、外へ、地上へ降り立った。
後を追って外へ出たイルシンは、思わず目を細めた。風が強い。海から、絶え間なく風が吹き付けてくる。その風を華奢な全身に受けて、ユウは、古びた開拓場の建物を見つめ、立ち尽くしている。裾の長い軍服が、風を孕んで、まだ万全でない小柄な体をふらつかせた。
「おい……」
ヘルメットの通信機を通して基地に聞こえてしまうことを失念し、思わず声をかけたイルシンを振り向いて、ユウは微笑み、伝えてきた。
【この学校には、結局、七ヶ月しか通えなかったんです。もっと通って、音楽会とかも、したかったな……】
うまく慰める言葉が見つからず、イルシンが何も伝えられずにいると、ユウは無言で先に立ち、夕季の長い影を引き摺って、街中へと歩いて行った。
「こちら先行偵察班。今から、市街地跡へ入る」
ヘルメットの通信機を通して報告し、イルシンも後に続いた。
亡骸は、封鎖が解かれた後、全て回収され、葬られたので、残っているのは、ただ、物だけだ。けれど、大して整理もされずに残っている物達は、そこに暮らしていた人々のことを、如実に伝えてくる。古びて、ぼろぼろになりながら、持ち主達の在りし日のことを伝えてくる。街路に残る、靴、鞄、傘、自走車。飲食店内に残る、皿、杯、ナイフやフォーク。オフィス内に残る、机や椅子。それぞれの家の窓から覗く、散らかった室内の、食卓や家電製品、服や布団。混乱と絶望の痕跡は、古びて尚、生々しい。
(安らかに、なんて、とても言えねえ……)
故郷の、惑星パールにUPOが蔓延した時の混乱と恐怖が、まざまざと思い出される。
(軍は、許されねえことをした……)
イルシンが項垂れて顔も上げられなくなった頃、前を歩くユウが、不意に足を止めた。海のほうへ顔を向け、耳を澄ますような仕草をしてから告げた。
【呼んでる――】
(誰がだ?)
問うたイルシンに答えず、ユウはまた歩き出す。街を突っ切り、海辺の公園から階段を下りて向かった先は、砂浜が続く海岸だった。波が穏やかに打ち寄せては引いて行く、その白い砂浜へ、やはり先に立って足跡を残しながら、ユウは問うてきた。
【見えますか?】
(何がだ?)
先ほどと同じような問いを返したイルシンは、けれど、すぐにその答えを得ることができた。砂浜の向こうに、自分達と同じように波打ち際に佇んでいる人影がある。やや長めの癖のない黒髪を幾筋か首筋に垂らし、白いTシャツを着て黒い七分丈のズボンを履いた、東アジア系に見える、細身の小柄な少年――。
(あいつは――)
ディープ・ブルー。人間を装うことすらできる、UPOの意思そのものだという存在。
【こんにちは。待ってました、ユウ。それに、イルシン】
不思議な「声」で、ディープ・ブルーは、向こうから挨拶してきた。
○
【十五歳のつもりでも、やっぱりまだ七歳だよね、《囁く鯨》。おれのこと、人類宇宙軍の兵士だと信じて疑わなかったんだ。半日? 一日? どれだけこの基地の兵士達の頭の中を調べても、おれの正体なんて誰も知らないよ。少なくとも、きみに思考を読まれるような、テレパスじゃない人達は】
先制攻撃に、結局エドウィン・ローランドの正体に辿り着けなかったアサは、険しく顔をしかめた。エドウィン・ローランド――否、それが本名でないことは分かる、分かるが、本名は探り当てられないほどに、テレパシー能力を使うことに長けている――は、操縦席の背後に立った彼女には目もくれず、真面目にサン・マルティン地表基地を操縦しながら、堂々と精神感受技〈通信〉を使っている。《囁く鯨》という暗号名は、八年前、彼女が惑星メインランドの軍病院で診察を受けた時に与えられたものだ。――そう、思い出した。自分は、ちゃんと生きて、この惑星を脱出したのだ。助けを呼ぶために能力を使い過ぎ、危篤状態に陥ったユウとともに、惑星メインランドの軍病院まで連れて行かれたのだ。けれど、自分は、自分の意思は、ニコライから離れることを、ニコライを置いて行くことを、拒否した。だから――。
【何で、その名を知ってる?】
【きみこそ、ちゃんと思い出した? この暗号名が、記憶回復の〈鍵〉になるとは聞いてたけど】
癖のある栗毛を耳にかかる程度に切った少年は、密やかに微笑む。
【実際、どのくらい覚えてて、思い出せるのかな?】
問うてはいても、答えなど、待ってはいない。この少年は、こうして精神感受で〈通信〉しながら、同時に、もっと深くアサの意識を探っているのだ。そして、アサはそれを防げない。アサは、彼の意識など微塵も探れないというのに。それほどに、能力の差がある。
【おまえは、〈精神攻撃抗体〉を持ってるの? それとも、隠してはいても、精神感応科兵なの?】
【どっちも外れ】
まるで面白がっているような調子で、正体不明の少年は答える。
【人類宇宙軍の兵士じゃないんだから、精神感応科兵っていうのは、可能性からもう除外して貰わないとね。〈精神攻撃抗体〉を持ってる訳でもないよ。おれは、先天性精神感応能力者だから、改めて〈精神攻撃抗体〉なんて持たなくても、彼らから攻撃されたりしない。最初から、彼らと分かり合えるんだ】
【けれど、おまえはテレパシー能力の訓練を受けてる。そうじゃないと、そんなに上手く使えないはずよ】
【御明察。じゃあ、ヒントをあげるよ。もうそろそろ、ばらしてもいい頃合いだしね】
意味深長な前置きをして、十八歳という年齢にだけは嘘の感じられない少年は、告げる。
【人類宇宙軍は、独立した組織じゃない。何かの下部組織だよね? それと今、おれがしてることを考え合わせたら、分かるよ。もうこれ、答えみたいなものだけど】
そこまで教えられれば、アサにも分かる。
【そうか、おまえは人類宇宙連盟警察局の――】
人類宇宙軍は、人類宇宙連盟の下部組織だ。そして、連盟には勿論、軍が暴走しないための機構が存在する。それが、連盟警察局だ。
【正解。おれは、連盟警察局捜査課の捜査官だよ】
あっさりと、少年は正体を明かした。
【連盟警察局に、テレパスがいるなんて、知らなかったわ】
負け惜しみになると知りつつ、口を尖らせて伝えたアサに、少年は、表情を変えず、器用に意識でだけ笑った。
【精神感応科のある軍を捜査するのに、テレパスがいなきゃ困るだろう?】
正論だ。だが、そんな話は聞いたこともない。
【まあ、極秘のことだけど。だから、こうしてスムーズに捜査できる】
【あたしにばらしてよかったの?】
【これから、多分、一悶着ある。そこに、きみを巻き込みたくはないからね。きみはそうは言っても、貴重な存在なんだ。きみが他の兵士達にばらそうとするのくらい、おれは止められるしね】
能力の優越を説かれて腹が立ったが、より重大なほうを、アサは問うた。
【一悶着って?】
【UPOの因縁に縛られた人達の確執と、過去の清算】
やや抽象的に告げた少年の意識からは、笑いが消えていた。
【ユウは、大丈夫なの?】
【彼女は、精神攻略技〈催眠暗示〉で縛られてる。そして、きみも。その呪縛が、懸念材料だね】
軍に入ったユウが、〈催眠暗示〉で縛られていることは知っていた。だが、まさか自分まで、そんな呪縛にかかっているとは、知らなかった。
【あたしも、縛られてるの……?】
驚いたアサに、少年は、言葉でなく、情景を送ってきた。体を触れてもいないのに、情景を〈通信〉できるのは、高度な精神感受技だ。
情景は、診察室のようなところで、虚ろな表情をした子供が、椅子に座らされ、医師のような人物から、〈催眠暗示〉をかけられているところだった。情景の端に、不自然に日時の数字が表示されているので、記録映像をそのまま記憶したものだと分かる。〈催眠暗示〉をかけられている子供は間違いなく幼い頃のアサで、暗示の内容は単純だ。
――【おまえに新しい名を与える。《囁く鯨》だ。《囁く鯨》と呼ばれて命じられたことには、全て従え。従わなければ、おまえという存在は消えてしまう。だが、再びこの名を呼ばれるまでは、この名のことも、ここにあるおまえの体のことも忘れていろ。《囁く鯨》よ、おまえは、おまえの望み通り、葛木朝として、惑星サン・マルティンの地表にいるのだ。これまでのように、断続的にではなく、継続的に】
訳が分からない。
【何で、こんな暗示をあたしに……?】
【UPOとの窓口として。UPOができる元となったウイルスを創ったのは、軍、引いては連盟だけど、でも、惑星サン・マルティンに元々いた生命体に、そのウイルスが遺伝子を提供して突然変異した結果できたUPOのことは、分からないことだらけだった。だから、そのUPOの意思を、おれ達人類に分かる言葉で伝えてくれる存在は貴重だったんだ。きみの意識は、この〈催眠暗示〉をかけられる前から、時々サン・マルティン地表に飛んでて、「幽霊」として目撃されてた。そして、まだ謎が多かったUPOについて、色々と口走ってた。それで、軍の研究者達は、きみにこの〈催眠暗示〉をかけたんだ。きみは彼らの思惑通り、それからは惑星サン・マルティン地表に留まり、「幽霊」として現れ、訪れた者達、特にテレパスには、UPOに関する多くの情報をもたらしてきた。UPOには、ここの海水由来の水から感染することも、〈精神攻撃抗体〉を持つ――「友」になりさえすれば、攻撃されないことも。それで、防護服も着用されなくなった。この惑星の水にさえ気をつけていればいいんだから】
そんな自覚は全くなかった。自分はただ、ニコライのために、人類宇宙軍を憎み、襲っていただけだ。ディープ・ブルーの助けを得ながら――。
【ほら】
栗毛の少年は、鋭く指摘する。
【UPOの意思であるディープ・ブルーの存在と力を、軍――連盟が知ったのも、最初は、きみを通してだったんだよ。ディープ・ブルーという名まで伝えて貰ったのは、つい先日だけどね。きみの他にも、情報源はいるんだけど、いつまでも七歳のきみが一番、口が軽かったんだ】
【あたしの意識を幼いまま、この惑星に閉じ込めて、利用してたって訳……!】
【ここに残ったのは、きみが望んだことだよ。むしろ、きみの肉体を維持し続けた軍に、感謝したほうがいいと思うけど? それに、きみが窓口になることは、ディープ・ブルーも望んだことなんじゃないかな。「彼」――と言うべきなのかどうかは分からないけど、これまでの経緯を考えれば、「彼」も、人類との対話を望んでる気がするよ、おれは】
確かに、ディープ・ブルーには、そういった節がある――。アサは、黙らざるを得なかった。
【まあ、ホセが来たら、全て上手くやるよ】
急に優しく、少年の「声」が響いた。
【ホセ・エステベスと、親しいの?】
【向こうはそうは思ってないけどね。テレパシー能力の訓練で、何度か顔を合わせたから。何しろ、彼は攻略部隊兵だからね、おれに劣らない訓練を受けてる。それに彼は、ユウの同期生でもある】
【そうだったわね……】
アサは、ホセ・エステベスの意識を探った。何を思っているかは、目の前の栗毛の少年同様、さっぱり探れないが、既に、この惑星の大気圏の中にいることは分かる。
【ユウにだけは、ちゃんと幸せになって貰わなきゃ、あたし、嫌なのよ……】
【そういう考え方、きみ達双子は、よく似てるよ】
呆れたように、連盟警察局の少年が告げた直後、通信席のタイラ・ハルの声が響いた。
「宇宙連絡船より通信。予定通り、現時刻一五四六時を以って大気圏突入を開始するとのことです」
「無事を祈る、航空高度に達した時点で、再度連絡されたし、と返信を」
すかさず司令官席からチャン・レイが応じた。
「了解」
答えて、タイラ・ハル一等兵は、通信機に向かって、「宇宙連絡船、こちら地表基地」と名乗った後、一言一句同じように話す。その様子を横目で見ながら、栗毛の少年はアサに、囁くように伝えてきた。
【いよいよ、ホセが来るよ】
三
【あなた方の言葉で、おれのことを表現するのは難しいですが……、おれは全てのUPOの意思の集合であり、UPOは全て、おれそのものです。この姿は、おれの「声」を初めて認識した人間――ニコライが、おれの「声」から想像したものです。気に入ったから、ずっと使ってるんですが、多分、あなた方にとっても、何も姿がないより、このほうがいいでしょう?】
切れ長の両眼で、ユウとイルシンを見据え、ディープ・ブルーは淡々と告げた。小柄で華奢、且つ知的なその外見が、イルシンの警戒心を緩め、同時に、怒りを掻き立てた。
(おまえが、ここの人達を殺したのか)
直接的な問いに、ディープ・ブルーは、表情を変えもせず、答えた。
【ええ。彼らが、おれを勝手に体内に取り込み、免疫機構で攻撃してきたので、おれも反撃しました】
(殺さない方法はなかったのか?)
【ありましたが、その時は、殺さないでおく必要を感じませんでした。でも、今は、あなた方に興味を持ってます。おれを体に住まわせてる人間達や、おれに話し掛けてきたニコライのお陰で。だから、もしあなたがおれの一部を体内に取り込んだとしても、あなたを殺さずに脱出しようとするか、共生するか、あなたが嫌がるなら、おれの一部が死ぬほうを選ぶでしょう】
ディープ・ブルーにとっての単体のUPOは、人間にとっての一つの細胞程度のものなのだろう。イルシンが納得したところで、ユウが問うた。
【あなたが、さっきから言ってる「ニコライ」というのは、ニコライ・ペトローヴィチ・クズネツォフのことですか?】
ディープ・ブルーは頷いた。
【ええ。彼は、周り中の人間をおれに殺されながら、おれに敵意を向けませんでした。ただ、「何故殺す?」と訊いてきたので、「攻撃されるから」と答えたら、「ぼくはきみを攻撃しない」と言いました。そして、確かに彼はおれを攻撃せず、受け入れた。だから、おれも彼を殺さなかったんです】
(「友」になったのか……)
イルシンは、つい先日アサに聞いたことを思い出した。そこへ、ユウが付け加える。
【ずっとテレパスの研究に携わってきた精神医学者が発表した論文にあります。人間の精神には、七歳で意識境界面が完全に形成される、と。〈精神的半透膜〉は、この論文をヒントに創った技なんですが、意識境界面とは、自己というものを定義付けし、他者と明確に分ける意識上の境界面のことです。因みに、意識境界面が完全に形成された後からテレパスになることはできず、意識境界面形成の前期段階でテレパシー能力が発現すれば自我不確立型テレパスになり、意識境界面形成の後期段階でテレパシー能力が発現すれば自我確立型テレパスになるそうです。サン・マルティンの悲劇で、六歳以下の子供がUPOに殺されなかったのは、この意識境界面がまだ形成途中だったので、UPOを「敵」と見なさず、自分の一部として受け入れることができたからなんです。そうして、その子供達は、当初、研究者達が意図した通り、後天性精神感応能力者となった。じぶんも、アサも、そうなんです。でも、ニコライは……】
【そう、彼は僅かなテレパシー能力を持つ平均的なナチュラル・テレパスでした。だからこそ、彼にはおれの「声」が聞こえ、おれの意思が感じられた。でも逆に、彼にはもう意識境界面がほぼ形成されてたので、おれと自分とを同一視することはできず、アンナチュラル・テレパスになることはできなかった。その代わり、彼はおれを「友」とした。つまり、自力で、あなた方の言う〈精神攻撃抗体〉を持ったのと同じ状態になった訳です。それから、おれと彼は、折に触れて接触してましたが、彼は、栄養失調による衰弱で死にました】
ディープ・ブルーが突きつけた事実に、ユウの表情が硬くなる。そう言えば、先ほどから、ユウはずっと目を閉じている。今は、イルシンと目を合わせる振りをする必要がないということか。
【少し歩いて構わないなら、彼の墓参りをしませんか? ユウの望みは、それでしょう?】
ディープ・ブルーが、まるで人間のような気遣いを見せて、提案した。
【負ぶって貰っても、いいですか?】
ユウは振り向き、この開拓場へ来てから初めて目を開いて、灰色がかった水色の双眸をイルシンへ向けた。危うい制御で、辛うじて平静を保った顔。断れる訳がない。
(ああ、勿論だ)
イルシンは答えた。
○
「宇宙連絡船より通信。航空高度に達したとのことです」
通信席に座ったタイラ・ハル一等兵の声が制御室内に響いた。
「了解した、予定通り合流地点へ向かわれたし、と返信を」
チャン・レイは重々しく命じた。
「了解。宇宙連絡船、こちら地表基地、了解した、予定通り――」
タイラ・ハルが再び一言一句違えずに通信機に向かって話すのを聞きながら、チャン・レイは眉間に皺を寄せた。
ここからが、本番だ。
ホセ・エステベスを通常通り着任させてしまえば、ディープ・ブルーの存在なども明るみに出て、きっと何もかも手遅れになってしまう。チャン・レイには、精神感応科攻略部隊兵を甘く見るつもりは毛頭ない。シュヴァリエ中尉の提案では上手くいく可能性は低いのだ。独断専行を、後で責められもするだろう。だが、このサン・マルティン地表基地が政争の場になってしまえば、今まで、シュヴァリエ大将の庇護の下、隠されてきたことが暴かれてしまう。そうなれば、人類宇宙軍という組織は、二分され、下手をすれば、外からの圧力で縮小されかねない。
(その前に、厄介な口を全て封じるしかない)
ディープ・ブルーとコミュニケーションを取り、軍総本部へ、或いはエステベス大将側へ報告できるカヅラキ・ユウ、ソク・イルシン、そしてホセ・エステベス。三人ともの口を封じる作戦。チャン・レイの決意は既に固まっていた。だからこそ、カヅラキ・ユウとソク・イルシンを、このタイミングで先行偵察に出したのだ。間もなく、自分は八時間の休息に入る。ホセ・エステベスは大気圏内に入った。そこで、実行する。基地も開拓場へ向けて走行し続けているので、彼我の距離も縮まっている。休息の間に、そして、基地が到着する前に、事は成し遂げられるだろう。
やがて、待機中の面々が、交代のため、制御室に集まってきた。基地副司令官のジャスミン・シュヴァリエ中尉も現れた。
基準時間一六〇〇時。いつも通りなら、報告と敬礼による勤務の交代が行なわれるその時、チャン・レイは司令官席に備え付けられたマイクロフォンを取って立ち上がり、全基地へ、厳かに告げた。
〈たった今、先行偵察先で、ソク上等兵が「敵」に通じたと、カヅラキ上等兵曹から精神感受で報告があった。この事態に対し、非常事態宣言レベルAを発令する。カヅラキ上等兵曹には既に、ソク・イルシンの銃殺刑の執行を命じた。理由は、人類宇宙軍法規第九章懲罰規程第一節処罰規定第八条[人類宇宙軍法規に対し重大な違反をした者は、銃殺刑に処す]である。同細則で、「重大な違反」の内容については、[作戦行動に支障を来たす命令違反、或いは敵対組織への内通]と定められている。ソク・イルシンの場合は、「敵対組織への内通」即ち、UPOとの過度な接触である。以降、当基地は、カヅラキ上等兵曹の任務遂行を支援する〉
「そんな……そんなはずありません!」
驚きゆえの凍りついたような静寂を破り、悲痛な声を上げたのは、副操縦席から立ち上がったヴァシリ・クズネツォフである。
「あいつが……そんなことをするはずはありません! あいつは……本当にUPOを憎んでるんですから……!」
通信席のタイラ一等兵も大きく頷いている。司令官補佐のマクレガー一等兵曹も、悲痛な眼差しでこちらを見ている。彼らも同じ気持ちなのだろう。この基地制御室の中の規律を保つためには、今少しの説明が必要らしい。レイは淡々と告げた。
「わたしもその点を買ってソク上等兵をカヅラキ上等兵曹と組ませ、特務班としてUPO調査の任務を与えていたのだ。だが、残念ながらソク上等兵は、精神感応でUPOに取り込まれた。最早彼は、われわれの知る彼ではない」
だが、クズネツォフ上等兵は更に食い下がった。
「それでも! 銃殺刑というのは、重過ぎます! しかも、何の事情も聞かずにその場でとは! われわれはそこらの単なる武装集団じゃない! 人類宇宙軍なんですよ?」
「だからこそだ」
冷然と、一段高い司令官席から、レイは青年上等兵を見下ろした。機会を逸すれば、全てが水の泡となってしまう。十五歳の時の自分の周りにあった全てが、あの波立つ海に消えたように。ここで問答をしている暇はない。急ぐのだ。
「人類宇宙全体の平和と安寧のために、人類宇宙軍は組織として強固でなければならない。軍規違反を少しでも見逃せば、人類宇宙軍という組織はすぐにその使命を果たせなくなるだろう。われわれは人類宇宙全体のために、甘さを捨てなければならない。特に、UPOはまだまだ未知の『敵』なのだ」
「……――了解しました」
暫く黙った後、クズネツォフ上等兵は、意外にあっさりと引き下がった。交代の副操縦士も来ているので、これ以上抗弁するならクズネツォフを拘束させようと思っていたレイは、意表を突かれながらも、次の指示を出した。
〈各班は、全てのシフトの兵士で任務を分担し、戦闘に備えよ。基地は方向そのまま、時速を三十キロメートルに上げて前進! 加えて、宇宙連絡船に通信。UPOによる精神汚染が発生、宇宙連絡船は、直ちにプエブロ・ヌエボ開拓場跡へ向かい、ホセ・エステベス兵曹長はプエブロ・ヌエボ開拓場跡に到着し次第、UPOと過度な接触を持ったソク・イルシン上等兵への銃殺刑執行を支援せよ、と〉
「方向そのまま、時速を三十キロメートルに上げて前進」
操縦席のローランド一等兵が冷静に復唱して、操縦桿を動かす。ぐうんと加速していく基地内が、ざわめきに満たされていく。そのざわめきに、タイラ・ハル一等兵の乾いた声が重なり始めた。
「宇宙連絡船、こちら地表基地。UPOによる精神汚染が発生、直ちに、プエブロ・ヌエボ開拓場跡へ向かい、ホセ・エステベス兵曹長は――」
通信内容が、これまで同様一言一句違えられずに伝えられるか聞きながら、レイはマイクロフォンを置き、司令官席に再び腰を下ろした。横の副司令官席には、ジャスミン・シュヴァリエ少尉が来て、レイに敬礼し、腰を下ろした。その敬礼に応じて、一瞬視線を交わしてから、レイは前方の大画面を見据える。自分は、後戻りできない一歩を踏み出したのだ――。
○
【こんなの、全部嘘じゃない! ユウはそんなこと報告してないし、何で、あいつがディープ・ブルーに通じたなんてことになるのよ!】
憤慨するアサに、エドウィン・ローランドを名乗る少年は、操縦席に座って硬い表情をしたまま答えた。
【ただ、現状において、誰もそれを証明できないってことが重要なんだよ。少なくとも、「過度な接触」っていう点においては、そう言われても仕方のない接触の仕方をしてると思うし】
【でも、あいつは別にディープ・ブルーの言いなりになってる訳でも、軍に敵対しようとしてる訳でもないのに!】
【ここから先、彼がどう考え、どう行動するかは分からないけどね。どっちにしろ、司令官閣下はそんなこと問題にしちゃいない……】
【そう、あいつとユウと、ホセって子を陥れるための狂言。でも残念、あたしが全部ばらしてあげる――】
【駄目だよ、《囁く鯨》】
連盟警察局の少年は、穏やかに、困ったようにアサを止めた。途端にアサは、チャン・レイの思考を読むことができなくなった。周りにいる兵士達の思考も読めない。精神干渉も、何故かできる気がしない。ユウに〈通信〉を試みたが、それもできない。今していたこと、しようとしたことが、何もできない。ぞっとして、アサは栗毛の少年を見た。操縦桿を握った少年は、相変わらず他の兵士達同様、驚き緊張した面持ちを保ったまま、意識にだけは余裕を漂わせて、告げた。
【あっちはホセに任せて、きみはここにいるんだ。そのために、おれはきみを引き付けたんだから。チャン・レイには、しでかして貰ったほうが、おれとしてはやり易いんだよ】
少年の表層意識の底辺には、軽い調子の表面とは裏腹の、冷然として揺るがない意志が横たわっている。――敵わない。
アサは、自分の意識から、吸い取られるように気力が失われていくのを感じながら、遠く、チャン・レイが、ソク・イルシン銃殺刑の支援班を編成するよう命じるのを聞いた。
○
開拓場から出て、予想外に柔らかな大地に、ユウの体重も上乗せした足跡を刻みながら、イルシンは、かつての「小さな脱出」を噛み締めるように、ゆっくりと歩いていった。やがて、その目の前に、それまでの大地の起伏とは異なる小高い丘が現れた。実際には、初めて見る、だが、見覚えのある丘。その滑り易く硬い表面を一歩一歩登って辿り着いた、海を一望できる頂上に、石を僅かに積んだだけの墓はあった。そこから見下ろせる窪地には、ぽっかりと洞窟が一つ口を開けている。以前、ユウに見せられた過去の情景に出てきたものと同じだ。ただ、ユウが見ていたものより、全てが小ぢんまりとして見えた。開拓場からの道程もそうだ。もっと、情景の中では、荒野の奥地へ歩いて行ったような感覚があったが、実際歩いてみると、ユウを負ぶって歩いても大して疲れもせず、開拓場からさほど離れていないことが分かった。丘の頂上から、開拓場の端の建物群が存外近くに見えるのだ。
(それでも、七歳以下のユウ達にとっては、過酷な道程と生活だった……)
表情を暗くしたイルシンの背から降り、墓への数歩を歩きながら、ユウは告げた。
【でも、つらいことばかりじゃなかったです。皆との生活には、楽しいこともあり、何より、未来への希望があった……。それもこれも、全て、ニコライのお陰でした】
そうして、ユウは、おもむろに墓の前にしゃがむと、積まれた石をどけ始めた。
(一体、何するつもりだ……?)
驚いて問うたイルシンに構わず、ユウは石を取り除け終わると、今度は素手で土を掘り始めた。
「おい、待て、墓を暴く気か……!」
思わず声に出してしまってから、イルシンは慌てて口を閉ざした。被ったヘルメットの通信機に声が入って、基地に聞こえてしまったはずだ。だが、基地からは何の応答もなかった。
(妙だな……? 意味は分からなくても、多少は聞こえただろから、問い合わせぐらいしてきてもいいだろに)
腕端末を見れば、一六一一時。勤務交代の一六〇〇時が過ぎて、タイラ・ハルではなく、別の通信部隊兵が制御室の通信席に座っている時間だ。いつも交代の時だけ目にする男の顔を思い浮かべて、イルシンは胸中で毒づいた。
(ハルと違って、いい加減な奴だ)
イルシンが一人で焦ったり腹を立てたりしている間にも、ユウは両手を土まみれにして、懸命に掘り続けている。
【ここの気候は、一年を通してとても乾燥してますから、結構そのまま残ってますよ。まあ、だからこそ、海のすぐ傍に開拓場を作らざるを得なくて、至極容易に、おれが生まれたんですけど】
傍観しているディープ・ブルーが、告げるともなく告げた。
やがて、イルシンの恐れていたことが起きた。まずは、臭いがした。幾ら乾燥していても、全く臭わないということはないのだ。そして、ぼろぼろになった布に包まれた左右の手が、鈍い光沢を放つステンレスのハーモニカとともに、最初に土の下から現れた。
「ああ……!」
ユウが、溜め息のような、泣き声のような、ただ感情が揺れるままの声を出し、胸の上で組まれているらしい、その両手に額づく。
「ニコライ、やっと、わたし、帰って来た」
嗚咽の下から言うと、ユウは体を起こし、血の滲む手で、丁寧に、出てきた両手の周りを掘り進める。胸、肩、首、最大限丁寧に優しく土を取り除けて、布に覆われた顔が出てきた。覆っている布を、そうっと、ユウは剥がす。そこに躊躇いはない。きっと、ずっと長い間、こうすることを考えてきたのだ。
現れた顔は、ディープ・ブルーが告げた通り、本当によく残っていた。肌の色こそ変色していたが、ニコライの、気品に満ちた美しい顔立ちは、やや頬がこけ、唇が乾燥している以外、ユウから〈入力〉された情景に出てきた顔、そのままだった。金髪も、そのまま残っている。閉じた瞼には、睫毛もあって、まるでたった今閉じられたようだ。
「ニコライ、ただいま。置いて行って、ずっと待たせて、ごめん――」
七歳で別れた少年の両頬をそっと両手で包んで、ユウは囁き、それから身を引いて、溢れる涙を袖で拭った。乾燥して残っていた亡骸に涙を落とさないよう、最大限配慮しているのだ。
(ここに、アサも来たらよかったのにな……)
自分も目頭が熱くなるのを感じながら、何となく思ったイルシンに、ユウが答えた。
【アサは、なかなかここには来られないでしょう】
意外にしっかりした調子に、イルシンは鼻白む。ユウは、しかし、説明を加える前に、再び最大限丁寧に、ニコライ・クズネツォフの亡骸を元通り布で包んで、優しく土を被せ始めた。それは、掘った時同様、厳かな儀式のようで、イルシンは、じっと見守って立っていた。完全に土で覆った上に、ゆっくりと石を積み終えたユウは、立ち上がり、イルシンを振り返る。真っ直ぐイルシンに向けられた見えない両眼には涙が残っていたが、表情は、今までになく、すっきりとしていた。
【アサが警戒してた相手は、連盟警察局の捜査官です。訓練中に見かけたことがありますし、能力も高そうでしたから、まず間違いないでしょう。そう簡単に探れはしません。でも、アサがここに来なくて、よかった。今から、わたしがすることを、止められませんから】
ユウの一人称が、上官として話している訳でもないのに、「じぶん」から「わたし」に変わったまま戻らないことに、イルシンは眉をひそめた。軍人としてではなく、私人として何かをするつもりだろうか。それに何故、連盟警察局の捜査官がサン・マルティン地表基地にいるのだ。
【いろいろ、あなたにも調べるのを手伝って貰って、漸く、謎が解けてきたんです】
ユウは感慨深げに告げ、静かにそこにいる存在に意識を向けた。
【ディープ・ブルー、二つだけ、確認させて貰ってもいいですか?】
【幾らでも】
黒髪を海風になびかせる、そんなことまで視覚的に装って見せながら、少年の姿をしたモノは頷く。
【おれは、そのために、この惑星で、ニコライの傍で、あなたを待ってたんですから。ここに至り、この場で、あなたがその結論を導き出すと、予知できたので】
【全てお見通しなんですね……】
ユウは目を伏せてから、問うた。
【まず一つ目。アサの生存が隠され、アサの意識がずっとここにいたのは、アサの意志でもあり、そして、軍の意図でもあったんですね? そして、それを、あなたが手助けした】
【おれは、アサが望んだから、そうしたまでです。アサにとっての最優先事項は、ここにいることでしたから】
【やはり、そうですか。そんなに早く解明できるはずもないUPOについての情報が、封鎖解除後の資料の中に、一気に増えているのは、アサを通じてあなたが教えたからなんですね】
【アサの存在意義を作っておかないと、軍が管理してる彼女の肉体が心配でしたから】
ディープ・ブルーを「友」とした者は、最強かもしれない。ただ聞くばかりのイルシンは思った。
【お陰で、わたしは姉に再会できました】
感謝を伝えたユウに、ディープ・ブルーは表情を変えずに返した。
【おれは、あなた方の周りにいた人間達を大勢殺したから、そんなふうに思わなくていいですよ】
【それは、あなたのせいじゃない】
ユウは強い調子で否定した。夕季の、赤色を帯びた日差しが、横から、その凛とした顔を照らしている。
【ディープ・ブルー、これからも、姉をお願いします】
(これからって、おまえ……)
せっかく再会したというのに、何をまた別れるようなことを、と質そうとして、イルシンは、上空の音に気付いた。ヘリコプターの回転翼音だ。
「こちら先行偵察班。何故、ヘリコプターがもう一機来ている?」
通信機で問うたが、やはり応答はない。どうやら、通信が切られている。本格的におかしい。
「一体、何が起こってるんだ……?」
不信感も顕に呟いたイルシンに、ディープ・ブルーが直接答えた。
【あなたがおれと過度な接触をしたとして、チャン・レイという人間が先ほど、あなたの銃殺刑を決定したんです。ユウに、その実行を命じるという形で。あのヘリコプターには、それを支援するための「道具」達が乗ってます。ただ、チャン・レイの企てとしては、ユウがその妨害をするだろうから、同じく軍規違反で銃殺。ホセ・エステベスについては、その現場にわざわざ居合わせるように仕組んで、チャン・レイの命令に不服を唱えさせ、抗命罪で惑星メインランドへ強制送還、ということのようです】
さらりと告げられた内容に、イルシンは瞠目した。
「は? 何でおれが銃殺刑なんだ? おまえと「過度な接触」って、それは、任務としてやってんじゃねえか! それに、何で、ユウやホセ・エステベスまで……!」
最早、使いものにならない通信機を気にする必要もない。イルシンが叫ぶように問うと、今度はユウが、冷徹な表情と「声」で答えた。
【チャン・レイ司令官には、隠蔽しなければならない過去があるんです。それを探るのが、今回の、じぶんの極秘任務でした】
「『極秘任務』? 何だ、それは?」
ひやりとする言葉に、イルシンが問うと、ユウは中空に視線を据えたまま告げた。
【《潜る鯆》という、じぶんの尤も顕著な能力は、相手に気付かれず、その潜在意識を探れるというものです。それで、じぶんはこの惑星に降りてからずっと、UPO誕生について、それに関わった疑いの濃厚なチャン・レイ司令官の潜在意識を、探ってたんです】
背筋の凍る告白に、イルシンは言葉を失う。そんなイルシンを他所に、ユウは再びディープ・ブルーへ問うた。
【二つ目の確認です。人類に強いテレパシー能力を持たせる人工ウイルスは、故意に、ばらまかれたんですか? チャン・レイ司令官の潜在意識でも、そこだけは曖昧だった。それは研究者がやったことで、彼が直接やったことじゃなかったので】
恐ろしい話ばかりだ。イルシンは混乱しながら、ユウの横顔を凝視した。既にUPOが軍の人工ウイルスを元にして生まれたことはアサから知らされた。だが、それが偶然でも事故でもなく、故意なのだとしたら――。
【ええ。故意でした】
ディープ・ブルーの答えに、イルシンは地に膝を着きそうになった。軍は、自分達の所属する組織は、一体、何ということをしたのだ――。
【クヌート・アヒレスという軍所属の研究者が、飲料水用の貯水槽に入れたんです】
ディープ・ブルーは、全てを見てきたように語る。
【開拓場の水道網の一斉点検が、全てを引き起こしました。クヌート・アヒレスは、資格を持ってるということで、飲料水用貯水槽の点検と清掃に応援要員として参加し、水溶性のカプセルに入れて密かに持ち込んだ人工ウイルスを、飲料水に入れたんです】
「何で、そんなことを……!」
うめいたイルシンに、ディープ・ブルーは静かな眼差しを向ける。
【その人工ウイルスだけなら、そんなに脅威じゃなかったからです。空気感染はしないように作られてたので、制御はし易いものでしたし、人間に感染すれば、テレパシー能力が発現するかもしれないというだけの危険性でした。しかも、その人工ウイルスには、ある波長の光を浴びると発動する殺機構が組み込まれてたので、不測の事態が生じた場合にも対処できると、その研究者は踏んでたんです。何より、彼は多くの臨床試験がしたくてたまらなかった。当時は、四年に渡って続いたエデン内戦が終わったところで、軍内部では以後の方針を巡って派閥争いが激しくなっており、成果を出さなければ、テレパスを人工的に生み出すウイルスを創るという研究自体、打ち切られる可能性もあったんです。でも、彼の予想を超えた事態が起きてしまいました。開拓場の水道網の一斉点検の中で、海からの取水口にあった濾過機が、現場の作業手順の手違いにより一時停止してしまい、海水が僅かながらそのまま――原住民の生命体を含んだまま、飲料水用貯水槽に送られてしまったんです。そして、おれが生まれました】
【開拓場で用いられるあらゆる水は、全て、海水を逆浸透膜で濾過して賄われてたので、最小のウイルスですら混入は不可能なはずでした】
ユウが硬い「声」で語る。
【一方、海に棲息してる、UPOの元になった生命体は、バクテリアに似てはいても、人体には全く悪影響のないモノでした。けれど、光をエネルギーとして利用し、コロニーを形成して動く際には知性を発揮するその生命体に、人工ウイルスが感染した結果、殺機構の波長の光が効かない、人類を殺す意思を持った病原体――UPOが誕生してしまったんですね、故意と手違いによって】
【その通りです】
ディープ・ブルーは他人事のように肯定した。
【その研究者――クヌートとかいう人は、どうなったんですか?】
問うたユウの「声」には、殺気が滲んでいるように感じられた。しかし、ディープ・ブルーの返答には、その殺気すら凌駕する底冷えがあった。
【おれが感染して殺しました。彼と意識を繋げたので、おれはおれの誕生について知ったんです。彼は、おれに憎悪を向け、凄まじい後悔の念を擁きながら死にました。――あなたが復讐するべき相手は、もういないんです】
【マルセル・シュヴァリエが、その研究者に指示をした訳じゃないんですね?】
【ええ。マルセル・シュヴァリエは、研究施設の責任者だったチャン・レイの報告で、クヌート・アヒレスが独断で人工ウイルスを流出させた可能性を知り、その事実を隠蔽してるだけです】
【それもまた罪ですが、そうですか……】
ユウは、ほうと息をついた。その華奢な肩から、急に緊張が消えたように見えた。だが、上空からは、容赦なくヘリコプターの回転翼音が迫ってくる。イルシンはユウの手首を掴んだ。
「ユウ、とにかく逃げるぞ! ここにいたら、おれもおまえも殺されるんだろ! この丘の向こう側に回れば、一度射線を遮れるから、その間に距離を稼げば、まだ何とか――」
「〈対象〉、ソク・イルシン。〈鈍化〉」
ユウが唐突に唱え、イルシンの体が殆ど動かなくなった。〈鈍化〉というのは確か、体を麻痺させる軍公式の精神干渉技だ。そう、精神感応科兵について調べた時に、見て、覚えた――。
【逃げる必要はありません。今となっては、わたしの目的も、対象も、ただあなたですから】
ヘリコプターの騒音を問題にしない「声」で意味不明のことを告げ、ユウは、ゆっくりとイルシンを見上げた。見えていない双眸が、しっかりとイルシンの顔を捉える。
【精神感応科兵のわたしは、上官の命令に絶対に逆らえないんです】
その言葉の意味するところは、つまり――。
(――おまえが、おれを、殺すのか……?)
イルシンは、凛とした表情を湛えたユウを見下ろし、驚きと悲しみを込めて問うた。
ヘリコプターの回転翼音が聞こえる。見上げると、オフィス街に林立する廃墟のビル群の間に、輸送用の大型ヘリコプターが見えた。開拓場の向こうへ降下していくようだ。
「あそこか」
呟いて、ホセは宇宙連絡船から自分とともに降ろされた小型浮上艇の座席に跨った。
宇宙連絡船が安全に着陸できるような土地は限られている。着陸に適していた合流地点ではなく、急にプエブロ・ヌエボ開拓場跡への降下を命じられたので、操縦士は仕方なく、今は整備されていない、開拓場跡の空港へ連絡船を着陸させた。そしてホセは、命じられた任務のため、一人降り立ったのである。
【カヅラキ・ユウ上等兵曹、状況を報告せよ】
〈通信〉で呼びかけながら、ホセは速度計の針が振り切れる速度で、小型浮上艇を走らせ始めた。
ヘリコプターは、イルシン達がいる丘ではなく、その麓へと降下した。騒音が止み、辺りに静けさが戻る。
「やはり、この丘の急斜面は、重たい装備の自動機械兵士を降ろすには、向いてないようですね」
ユウが呟いた。現れた自動機械兵士達は、扁平な胴体に八本足が生えた蜘蛛型だ。機関銃などを装備して、攻撃対象と攻撃方法を入力しておけば、自動的に任務を遂行する自動機械兵士の中でも、移動速度の速い型だ。人間ではないので、当然、テレパシー能力も効かないはずだ。精神を持たない兵士達は、続々とヘリコプターから降りてくる。数は三十体ほどもいるだろうか。
「あいつらは、おれだけでなく、おまえも殺しに来たんだぞ……!」
イルシンが喘ぐように確かめると、ユウは、やはり無理をしていたのだろう、ひどく消耗して脂汗の浮かんだ顔で、今度は空気を介さずに伝えてきた。
【チャン・レイ司令官は、ある意味正しいんです。わたしという精神感応科兵の運用試験として、これは大事な状況設定ですから。――精神感応科兵でも、諜報部隊兵と診療部隊兵は、精神攻略技を教えられず、例え使えたとしても、使うことを全面的に禁じられてます。これらは、単なる命令じゃなく、精神感応科兵となる際に施される精神攻略技〈催眠暗示〉によってそうプログラムされてるんです。今も、命令違反はできないので、「あなたを銃殺刑にするために、〈鈍化〉を使う」と〈自己暗示〉を――】
そこで、苦しげに顔をしかめてから、ユウは続ける。
【でも、そこに一つ抜け穴があります】
自動機械兵士達が、装備された機関銃の銃口をこちらへ向けて、発砲を始めた。弾が届くには、やや遠いが、射程距離に入られるまで後僅かしかない。しかし、その機関銃の騒音の中、精神感受技〈通信〉で伝わってくるユウの「声」は、空気振動とは全く別の次元で、イルシンに届く。
【「しろ」という暗示は条件反射を組み込むことで比較的簡単にできますが、「してはいけない」という暗示には、「した場合、こうなる」という恐怖の暗示が必要なんです。その恐怖には、やはり、生物が最も恐れる、命を失うということが使われる。けれど、生物は時に、己の命より他を選ぶことがある。その場合、「してはいけない」という暗示は、効かないんです。だから、命令違反ができ、攻略部隊兵じゃないわたしも、一度だけなら、命と引き換えで、精神攻略技が使えるんです】
「おまえ、何をするつもりなんだ……? 『まだ、しなければならないことがあるので』死ねないんだろ……!」
動きにくい口で何とか叫んだイルシンに、ユウは肩で息をしながら言った。
「大丈夫です……。皆にも助けて頂きました。全てうまくいきます」
「『皆』……? 『皆』って誰だ! それよりおれを動けるようにしろ! おまえを抱えてこの丘の向こうへ回れば、まだ逃げ切れる――」
焦るイルシンに、ユウは告げた。
【あなたの御友人達を含めた、皆です。ニコライの眠るこの丘へ、あんな無粋なものでは、近付くこともできません。この丘の麓は、開拓場の大人達が、この惑星用に開発した土壌改良細菌を、わたし達がニコライの指揮の下、大切に蒔いた土地ですから】
その言葉が終わらない内に、発砲しながら前進を始めた自動機械兵士達の八本の足は、イルシンが予想外に柔らかいと感じた、空気を含んだ土に次々沈み込んで、行動不能に陥っていった。重機関銃を装備した一体三百キログラムという重量と接地面の小さな足が、仇となっているのだ。
【その土壌改良細菌は、今や、おれの一部です】
ディープ・ブルーが説明を付け加える。
【ニコライの体を守るため、この丘にだけは一切侵入しませんでしたけど、周りへは九年かけて、相当広がりましたよ】
【この惑星を形作る無機物有機物全て――その皆とわたしが、あなたを守ります、イルシン】
ユウは、脂汗の浮かんだ顔で、不意に微笑むと、格闘技の教練通りの動きで、イルシンに足払いをかけた。〈鈍化〉で動けず、呆気なく後ろ向きに倒れるイルシンの肩と頭を小柄な全身で支えて、そっと硬い地面に下ろし、傍らに座って、ユウは伝えてくる。
【……本当は、あなたともっと分かり合いたかったんですが……、時代がまだ、それを許さないんでしょう。「しなければならないこと」――ニコライのお墓参りを果たすことと、全ての謎を解いてUPO誕生の真実を知ること――は済みました。アサのことは、ディープ・ブルーがこれからも守ってくれるでしょう。わたしの心残りは、もうあなただけです、イルシン。あなたを、これ以上、軍の闇に巻き込みたくはない】
「もう充分巻き込まれてんだよ! おれがおまえを守るから、早く、この〈鈍化〉っての解け!」
【いいえ】
ユウは、静かに告げる。
【あなたの友人と約束したんです。わたしの命に替えても、あなたを守る、と】
○
「何だ、あそこの土は! それに何故、自動機械兵士に、重機関銃など装備させている! 軽機関銃で充分だろうが! 蜻蛉型も、何故投入していないのだ!」
サン・マルティン地表基地制御室に、司令官チャン・レイの怒鳴り声が響いた。前面の大画面には、チャン・レイ自身の指示で、一体の自動機械兵士が撮影眼で捉えた状況がそのまま映し出されており、UPOに感染されたというソク・イルシンが、小柄なカヅラキ・ユウによって何らかの手段で足止めされ、やがて足払いされる様子とともに、自動機械兵士達が、空気を含んだ柔らかな土に足を取られ、もたついている様子が見て取れた。
制御室内にいた兵士達は誰も司令官に答えなかったが、その時、自動扉が開いて、勤務の交代で姿を消していたヴァシリ・クズネツォフが再び現れ、大画面の状況を見て言った。
「やはり、あの辺りの土地は土壌改良細菌によって、よく耕されていますね。プエブロ・ヌエボ開拓場にいた皆さんの執念とでも言うべきでしょうか」
亡き人々への賞賛とともに、自動機械兵士への嘲笑が込められた言葉に、チャン・レイは司令官席から立ち上がって、ヴァシリを睨みつけた。
「クズネツォフ上等兵、きさまは、こうなることが分かっていたのか」
そう考えれば、ヴァシリがあっさりと引き下がった理由も納得がいく。だが、返答は、予想を超える内容だった。
「当たり前でしょう。ぼくは、この基地の副操縦士ですよ? 予定進路の状況は調査済みです。だから、ついでに、工作班の連中と協力して、自動機械兵士達に、一番重い装備を着けさせました。装備について、細かいご指示はありませんでしたからね」
「きさまも、銃殺刑になりたいか!」
声を荒げたチャン・レイに、金髪の青年は普段見せない冷徹な表情で告げた。
「自動機械兵士は、初期設定通り、司令官たるあなたの命令しか受け付けず、最後まで忠実でしょう。でも、人間の兵士は、違うんですよ」
ヴァシリの語りに呼応するかのように、また自動扉が開いて、タイラ・ハルやダグラス・マクレガー、整備班の面々や工作班の面々が雪崩を打つように入ってきた。一様にチャン・レイへ鋭い視線を向ける彼らを背景に、ヴァシリ・クズネツォフは宣言した。
「幾ら軍規で縛ろうと、人間は、最後は自分が信じたもののために戦うんです。あなたとイルシンでは、比べようもない。この基地に、あなたの味方はいませんよ」
「少なくとも、わたくしは今も、司令官閣下に従っています」
静かな口調で、副司令官席からジャスミン・シュヴァリエ少尉が言った。
「だが」
ヴァシリは怯まない。
「あなた方の指令を聞く人間は、もういませんよ」
その宣言に抗議する者は、いなかった。
○
「命になんか替えなくていい! 分かんねえこと言ってねえで、早くおれを動けるようにしろ!」
イルシンはユウに怒鳴り、そして自動機械兵士達へ向かっても怒鳴った。
「UPOは、『敵』じゃねえ! 『未知』は『敵』じゃねえんだ! UPOは確かに多くの人間を殺した。けど、おれは過度に接触したから分かる! UPOには意思があって話ができる! 『敵』だったとしても、『敵』をいつまでも『敵』にしとくのか、『友』にできるのか、それが人類全体にとって重要なことだろ! UPOは、人類が宇宙に出て初めて出会った、『友』になり得る存在なんだ!」
自動機械兵士達が得ている映像や音声は、基地へそのまま送信されているはずだ。そこに一縷の望みを託してから、イルシンは再びユウの説得を試みた。
「一旦出た銃殺刑の命令はそう簡単には撤回されねえ! 司令官は、すぐに次の手を打ってくる! それまでに、まずは丘の向こう側へ行くんだ!」
【大丈夫です、全て、消えますから。イルシン、ほんの数日間でしたが、本当に、ありがとうございました。あなたと過ごした時間は、とても、とても、満ち足りてて、幸せでした】
噛み合わない会話も、基準時間にしてみれば、刹那のことだった。傍らに座ったユウは、一瞬微笑むと、それまで開けていた両眼を閉じ、上体を屈めて、動けないイルシンの額に、出会った日と同じように、ひんやりとした額を押し当ててきた。
【皆、力を貸して――。〈対象〉、石一信上等兵及び石一信上等兵と関わった当宙域の全人類。〈範囲〉、葛木夕上等兵曹に関する記憶。――〈記憶喪失〉】
優しい「声」が、その効果を伴って、イルシンの脳へ届く。瞬間、イルシンは、青白い閃光とともに白く拡散していく何かを感じた。抗い切れない。
(ユウ! ユウ! ユウ……!)
懸命に呼びかけながら、イルシンは急速に気が遠くなるのを止められなかった。そして意識を失う直前。触れたままのひんやりとした額を通じて、微かにディープ・ブルーの「声」が伝わってきた。
【あなたも、アサと同じで、ずっとこの惑星に囚われてた。もう、解放されたくなったんですか? もっと前に、額から額や、手から手じゃなく、口から口でこの彼に接触してくれてれば、唾液に混じって上手く感染してあげられたのに。そうしたら、彼をもっと簡単に守ってあげられたのに。本当に、彼に、何も残したくないんですね……】
そう、ささやかな感動以外は何も――。彼は、これで自由だ――。白く拡散していく誰かが、満足げに答えた。
○
「何だ……?」
着陸した宇宙連絡船から降り立ったホセは、夕季の赤く染まりつつある空を仰いだ。大気全体が震えるような、初めて感じる意識が惑星に満ちている。
(これは、まさか、カヅラキ・ユウの独自技か……?)
宇宙連絡船が安全に着陸できるような土地は限られている。着陸に適していた合流地点ではなく、急にプエブロ・ヌエボ開拓場跡への降下を命じられたので、操縦士は仕方なく、今は整備されていない、開拓場跡の空港へ連絡船を着陸させた。そしてホセは、急に命じられた任務のため、一人連絡船から降り立ったのである。
(恐らく〈最大出力〉の、しかも、精神攻略技――)
軍学園で共に学んだ少女の意識は、急速に薄れつつある。ホセは、連絡船から降ろした小型浮上艇の座席に跨り、速度計の針が振り切れる速度で、薄れつつある意識を目指した。
(あいつ――)
もう少しだけ――ホセが到着するまで、待っておけばよかったものを。カヅラキ・ユウなら、この宙域に現れたホセがどこまで来ているか、感じ取れたはずだ。
(死ぬつもりか)
〈催眠暗示〉に抗い、何らかの攻略技を使って――。ホセが到着する前に決着を付けることで、邪魔をさせず、巻き込むこともせず――。
【彼女を、助けるんですか?】
不意に話し掛けられて、ホセは一瞬驚いたが、風防越しに前方を見たまま、すぐに問い返した。
【おまえは、彼女を助けたいのか?】
廃墟と化した街には、多くの物が、悲劇を物語ってそのまま散乱している。それらの持ち主達を殺した生命体は、淡々と答えた。
【彼女は、そんなことを望んでません。でも、彼女の中にも、おれはいます。勿論、あなたの中にも。できるなら、自分を生き延びさせたいと思うのは、自然なことでしょう?】
【――そうか】
結局、全ては、軍の深い闇が招いたことだ。ホセは努めて冷静に告げた。
【〈催眠暗示〉を破った奴を助けるのは、おれにも難しい。だが、最善は尽くす。おれの乗ってきた宇宙連絡船には、それなりの医療設備がある】
【じゃあ、協力します。まずは、彼女が使った技について、伝えておきましょう】
人類と共生し始めた生命体は、真摯な言葉とともに、ホセの脳へ、情景を伝えてきた。
(「〈対象〉、石一信上等兵及び石一信上等兵と関わった当宙域の全人類。〈範囲〉、葛木夕上等兵曹に関する記憶」だと? 無茶苦茶な技だ)
範囲を限った記憶喪失を引き起こす技。どれほどの〈出力〉と精密さが要求されるのだろう。恐らく、サン・マルティン地表基地にいる軍人達も、静止衛星軌道上にあるサン・マルティン宇宙港に務めている軍人達も職員達も、ソク・イルシン上等兵と関わった人間達は、全員、カヅラキ・ユウ上等兵曹に関する記憶を失ったことだろう。暫くはその影響で、意識も混濁し、今頃は昏倒しているはずだ。
(任務よりも、己の命よりも優先して――、そこまでして、ソク・イルシン上等兵を守りたかったのか、おまえ)
ソク・イルシンは、カヅラキ・ユウと行動する内に、ホセも今回の任務直前に詳しく知らされたUPOの真実か、或いはそれに近いことを知ってしまったのだろう。だからこそ、あの少女は、命を賭して、その記憶を全て抹消したのだ。ここから先の、ソク・イルシンの人生を守るために。
(せっかくあの悲劇を生き抜いた、おまえの人生だって、これからだろうに……!)
顔を歪ませ、ホセは自分とも共生している生命体に問うた。
【あいつにとって、ソク・イルシンは何者なんだ?】
【自己より重要な存在】
簡潔に、少年のように聞こえる「声」は答えた。
やがて、開拓場跡を抜け、一人分の深い足跡が続く地面の上を突っ切ると、目の前に小高い丘が迫ってきて、その手前で、十体を越える自動機械兵士達が、土に足を取られてもがいていた。
【ここです】
「声」とともに、小柄な黒髪の少年の姿が、丘の上に見えた。白いシャツと七分丈の黒いズボンを着たその姿こそが、UPOの意思の集合――ディープ・ブルーなのだろう。その足元に、二人、折り重なるように倒れている。ホセは、小型浮上艇を駆って、一気にそこへ登った。
(カヅラキ・ユウ――)
仰向けに倒れている青年兵士を守るように、その上に覆い被さって目を閉じたコバルトブルーの軍服の少女。
鮮やかな茜色に染まった空の下、凪へ向けて弱まっていく風が、動かない少女の柔らかな髪をそよがせていた。




