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帰ってきた子供

 海が、光っていた。

 暗い海の向こう、右側の――西側の水平線が、仄かに茜色を帯びて明るい。あちらに昼が去り、夜が訪れるのだ。だが、それとは別に、海が光っている。うねる波の下にいる無数の小さなモノ達が、光を放ち、岸辺に立つ者の姿を青く柔らかく照らし出している。

 小柄で華奢な姿をしたその者は、こちらに背を向け、ほっそりとした両腕を広げて、纏った白い服を正面から大きく風にあおられながら、大海原へ何かを捧げるかのように佇んでいる。

 不意に、白い服が動きを止め、その者の細い輪郭をなぞるように静まった。海から吹き続けていた風が止んだのだ。夜と昼との狭間、凪の時間の到来だ。

【何度隔てられても、どんな彼方からでも、どんなに嫌われようとも、何度でも何度でも――】

 不思議な声で話しながら、その者がゆっくりと振り向く。

【手を伸ばしたい。出会いたい。分かり合いたい。どんなに隔てられても、どんな隔てを超えてでも、あなたの許へ行きたい。あなたへ辿り着きたい。あなたに触れたい。そう思うのは、おかしいでしょうか……?】

 真面目に、困ったように問いかけてくる、その顔をよく見ようとして、目が覚めた。

(誰だったんだ……?)

 知っている相手ではない。男か女かすら、はっきりとしなかった。けれど、妙に懐かしいような、慕わしいような相手だった。

(ああ、駄目だ、忘れちまう――)

 夢の風景は急速に遠ざかり、現実が圧倒的に迫ってくる。

(……さっさと起きて、仕度しねえとな)

 石一信(ソク・イルシン)は、枕元に置いた腕端末の時計を見た。表示されている時間は、人類(ザ・ヒューマン)宇宙(カインド・スペース)基準暦に準じた基準時間で、二三四二(ふたさんよんふた)時。八時間の休息終了まで、後二十分弱だ。次の八時間の待機の間に、食事や書類仕事を済ませなくてはいけない。その後は、八時間の勤務だ――。


      * * *


 太陽系時代の地球文明期、宇宙文明期、人類宇宙時代の分散文明期を経て、人類は、人類宇宙時代集合文明期を迎えた。各宙域(リージョン)、各有人惑星間の経済・文化交流により、人類はかつてないほどの繁栄を謳歌することになったが、反面、文化摩擦や、経済格差、疫病の伝染など、交流に伴う問題も起こり、人類宇宙規模での争いを引き起こす元ともなった。人類宇宙基準暦五二四年から断続的に十年間も続いたスヴェトラーナ紛争や、五四〇年から五四三年にかけてのエデン内戦、五四五年から五四六年にかけてのサン・マルティン封鎖、五五三年のバー・レーン事変は、それらの中でも顕著なものである。そして、基準暦五五四年。人類宇宙は、様々な問題を抱えつつも、人類(ザ・ヒューマン)宇宙(カインド・スペース・)(アームド・サービスズ)の活躍により、とりあえず、平穏の内にあった――。



第一章 帰ってきた子供


     一


 低い位置から照る陽光が、頬に暖かく当たっている。昼夜境界線(ターミネーター)の近くに、今、自分達はいる。迎えの地表運搬車(ヴァン)が来るまでに、少し間があるということだった。カヅラキ・ユウは、物資の運搬を任務としている他の兵士達から離れて、風が吹いてくるほうへ顔を向けた。

 懐かしい匂い、死の臭いだ。

 懐かしい砂埃だ。乾き切った風だ。

 懐かしい空気だ。血の色の夕焼けの大気、迫り来る闇の夜の大気だ。

 懐かしく、そして恐ろしい記憶の地だ。

――「きみの精神(こころ)が、そう望むなら」

――「暗黒(やみ)が来る。何もかもを呑み込む暗黒(やみ)が――」

――「ここに、植物(みどり)を育てよう」

――「きみ達は、この未来(さき)を生きてくんだから」

――「精神(こころ)を澄ませて聴いて。大地(ほし)が、歌ってる」

――「(みんな)、ちゃんと、希望(ゆめ)を持って、生き続けて」

――「ぼくは、時の流れの中の過去(むかし)にずっと在り続けてる」

 懐かしい友の声が、耳の奥に温かく、つらく蘇る。

 ユウは、おもむろに、大気に両手を広げた。

 ここに――この大気の中に、(みんな)いる。きっと、「おまえ」もいる。

 父よ、母よ、友よ、惑星(サン)マルティンよ、自分は帰ってきたのだ。

 不意に、鼻の奥がつんとして、両眼が熱くなった。

 ユウは、目から溢れ、頬を伝う涙を感じながら、ただじっと、懐かしい大気を、そのざわめきと囁きを感じ続けた。自分は、この日のために、生きてきたのだ。帰ってくるために、全てと向かい合うために、生き続けてきたのだ。

「ただいま、(みんな)

 万感を込めたユウの呟きは、風に運ばれ、大気に溶けていった。


          ○


 精神感応科兵が異動してくるという、その噂は、瞬く間に、人類宇宙軍惑星サン・マルティン地表基地内を駆け巡った。

「あり得ねえ……!」

 ソク・イルシンは、食器が跳ねるのも構わず、立食用(テーブル)を叩いた。

「精神感応科兵なんて、くそ野郎だ! はっきり言って、覗き屋だろが! 人の心ん中、覗いて仕事する奴なんかと、一緒にいられるかってんだ!」

「けど、処罰規定か何かで、任務外じゃ精神感応(テレパシー)能力使えないようになってると思うよ?」

 立食用卓を挟んで向かいに立った金髪の青年――同い年で同じ地表制圧科陸戦部隊所属のヴァシリ・クズネツォフの指摘にも、イルシンは納得がいかない。

「そんなの、こっそり破ってても分かんねえんじゃねえのか? それに、何で、こんな辺境の、それも地表基地なんかに、選良(エリート)の精神感応科兵なんかが来るんだよ?」

 精神感応科兵は優遇されている。その事実は、人類宇宙軍の常識だ。人類宇宙軍では、精神感応能力者(テレパス)優遇制度を設けて、精神感応科の規模の拡大を図っているのだ。優遇制度の内容としては、第一に、昇進の速さがある。

 テレパスと認定されれば、人類宇宙軍の士官学校である人類宇宙軍学園高等学校に、特別枠で入学を許可された上、一律に下士官の最下階級(クラス)である二等兵曹の階級を与えられるのだ。その後、単位を落とさず順調に進級していけば、上等兵曹になれ、三年で卒業できる。それから更に努力を積めば、短期間で、兵曹長になることも、下士官階級を抜け出して士官階級になることも可能なのである。学園の中等学校卒業で、二等兵から地道に這い上がって漸く上等兵になっているイルシンやヴァシリとは違うのだ。

「まあね、それはぼくも疑問だけど。何で、こんなところに精神感応科兵なんか寄越すんだろうね、お偉いさん達は」

 緑色の双眸でちらと宇宙の彼方を見遣ったヴァシリは、ふと気付いた顔をして、声を潜める。

「もしかしたら……、あれに関係してるのかも。ぼく達の行く先行く先に、幽霊が出るって、あれ」

 サン・マルティン地表基地は移動要塞だ。惑星サン・マルティンの地表を基準時間の毎日移動している。その移動の行程で、何度か、幽霊としか思えない子供が目撃され、同時に基地の機器が原因不明の故障・損傷に見舞われるという、怪奇現象が起きているのだ。

「幽霊対策に、精神感応科兵か。それが本当なら、いいかもしれねえな。ありゃ、サン・マルティンの悲劇で死んだ子供の幽霊だって話だからな……」

 イルシンも声を潜めて言った。

 人類宇宙基準暦五四五年から五四六年、即ち基準暦に準じる基準時間で九年前から一年間に渡って、開拓途上惑星サン・マルティンは完全封鎖された。その封鎖によって生じた犠牲者数は、一万二千五百三十四人。封鎖開始時にサン・マルティンにいた人口一万二千五百四十七人の内、約九十九・九パーセントもの人々が亡くなったのだ。生き残ったのは、単純な引き算に拠れば、たったの十三人である。サン・マルティンの悲劇として知られる、人類宇宙史の汚点の一つである。

 封鎖の理由は、謎の病原体だった。

 UPOショックと呼ばれた、九年前の悪夢。イルシン達は十二歳だったが、あの出来事は時代を語る共通の体験として、鮮明に記憶している。発見当初、(アン)確認(アイデンティファイド)病原(・パソジェニック)(・オーガンズ)、略してUPOと呼ばれた病原体と、開拓途上惑星サン・マルティンで蔓延が確認された病原体とが同一のものだと知れた時には、既に遅かった。仮称だったUPOが一般名称として定着してしまった病原体は、惑星サン・マルティンと宇宙船(スペース・シップ)を介して交流のあった人類宇宙にばらまかれてしまっていた。そして人々は、その病状と死亡率の高さに、震え慄いたのである。

 人類宇宙全体を守るためだったとはいえ、人類宇宙連盟からの指令を受けて、実際に封鎖を行い、惑星サン・マルティンの地表にいた人々を閉じ込めて見殺しにしたのは、人類宇宙軍である。あの悲劇で死んだ子供の幽霊が本当に出るのなら、それを鎮めるのもまた、人類宇宙軍の役割であろうと、イルシンには思えた。

「子供の幽霊ですか……。会ってみたいです」

 不意に、子供の声に割り込まれて、イルシンはびくりとした。同じく、びくりと肩を震わせたヴァシリの肘の辺り、立食用の高い卓の上に漸く出る感じで、子供の顔が覗いている。耳が出るくらいに短く切った癖のない淡い茶色の髪、色の薄い肌、あどけなさの残る凹凸の少ない顔立ち、とろんとした些か垂れ目気味の大きな両眼、灰色がかった水色の双眸。やや色素の薄い、東アジア系の顔だ。そして、イルシン達と同じように軍服を着用している。肩章はないが、上着の裾が長く、襟章は半月が三つ。上着の裾が長いのは、二等兵曹以上であること、肩章がないのは、少尉未満であることを示し、半月が三つというのは、上等兵曹であることを示す。イルシンとヴァシリが纏う上等兵の軍服――上着の裾は短く、肩章もなく、襟章も三日月が三つ――とは一見して異なっている。しかも、その軍服の色は、コバルトブルーという、どこの部隊か見覚えのないもの。イルシンとヴァシリが着ている地表制圧科陸戦部隊を示すモスグリーンの軍服が圧倒的多数を占める中で、明らかに浮いている。

「おい何だ、その軍服は? 軍隊ごっこ用か? 子供がどうやって基地へ入ってきた?」

 イルシンが手を伸ばして襟首を捕まえようとすると、子供はひょいと一歩下がって避け、真っ直ぐな眼差しを上げて言った。

「静止衛星軌道上のサン・マルティン宇宙港(スペース・ポート)から、降下部隊に宇宙連絡船(スペース・シャトル)で物資と一緒に地表の引き渡し地点(ポイント)まで送って貰って、こちらの基地から地表運搬車で迎えに来て貰い、普通に基地門(ベース・ゲート)から入ってきました」

 確かに、UPOが蔓延して開拓場が壊滅したこの地表に、そうそう子供がいるはずはない。地表駐在定点観測員が家族連れで来ていたら、子供もいるかもしれないが、希な話だ。

 子供は申告を続ける。

「身分照合も受けてます。じぶんは、今度こちらに配属された精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹です。全体礼での着任挨拶まで時間があるので、軽く食事をしてきたらいいと言われて来たら、あなた方が興味深い話をされてたので、つい口を挟んでしまいました。異動した時は、やはり、まず人間関係作りが大切だと、教官殿や先輩方に言われて来たので……」

 今度は、イルシンが一歩下がる番だった。精神感応科と聞いて、忽ち嫌悪感が背筋を這い登る。四階級も上の相手でなければ、近付くなと叫びたいところだ。

「大丈夫です。いきなり心を読んだりはしませんよ」

 心を読んだように、子供――カヅラキ・ユウは言った。その灰色がかった水色の双眸が、妙に冷静で無表情なのが不気味だ。

「こちらの方が仰ってた通り、精神感応科兵は、人類宇宙軍法規第五章軍員規程第四節服務規定第二十一条及び第九章懲罰規程第二節処罰規定第十五条により、任務外では、絶対に能力を使えないようになってますから」

(能力使ったか使わなかったかなんて、周りには何にも分かんねえんじゃねえのか?)

 イルシンは、心の中で呟いてみた。使えないと言っている以上、イルシンの心の呟きが分かったとしても、相手は何も言えないはずだ。だが、子供は更に言った。

「本当に、上官からの命令がない限り、或いは軍の非常事態宣言のレベルC以上が発令されない限り、テレパシー能力は、一切使えないんです」

「いえ、彼は何もそんな、疑っている訳ではないのであります。軍規は絶対ですし」

 ヴァシリがイルシンとカヅラキ・ユウの間に入るようにして、一生懸命に話す。

「ただ、精神感応科の方とは、滅多にお会いしないので、じぶん達も知識が不足しておりまして……」

「だから、じぶんが派遣されました。精神感応科と、他の科との連携を深めるというのが、軍のこれからの方針です。それと、テレパシー能力自体についても、協力して、理解を深め、知識を増やさないといけません。じゃないと、何の謎も解けない……」

 カヅラキ・ユウの言葉の最後のほうは、急に声が低くなったのでうまく聞き取れず、ただ「謎」という単語だけが、イルシンの耳に残った。

「ええと……、それで、何か、注文しましょうか」

 ヴァシリが、気を遣ってか、必死な雰囲気で訊くと、カヅラキ・ユウは、ふっと表情を綻ばせて、卓の上に置かれたメニュー端末に目を遣った。基地の生活は夜も昼もない三交代制。八時間勤務と八時間休息、八時間待機である。接触(タッチ)画面(スクリーン)を備えたメニュー端末からは、朝食、昼食、夕食、デザート、夜食、ここで用意できる全ての料理と飲み物が、いろいろな分類で検索し注文できるようになっている。ただし、酒類(アルコール)はない。酒類を手放せない人間は、人類宇宙軍には入れない。

「バンブー・ケーキ……」

 画面に触れるまでもなく、カヅラキ・ユウは呟いた。触れられるまではメニューの宣伝を繰り返している端末画面が、丁度、淡い緑色のケーキを映していたのだ。即座に、ヴァシリが反応した。

「ああ、それは最近、この基地の培養室で栽培され始めた食用竹を材料にしたケーキで、竹の繊維のセルロースを半分ほど分解してグルコース、つまりブドウ糖にして使っているらしいですよ」

「……美味しそうですね」

 意外に意欲的なところを見せて、カヅラキ・ユウは、端末画面の注文アイコンに左手を伸ばした。が、卓の中央に置いてあるメニュー端末の画面に、あと僅かなところで指先が届かない。本当に背が低いのだ。年齢は、十歳程度に見える。けれど、人類宇宙軍学園高等学校には、人類(ザ・ヒューマン)宇宙(カインド・スペース)連盟(・リーグ)が定めた就業年齢条令下限の十三歳以上でないと入学できない。上等兵曹ということは、二等兵曹、一等兵曹という昇進過程を考えると、十五歳にはなっているはずだ。しかし、そうだとしても、まだ十代半ばである。

(二十一歳のおれ達から見りゃ、まだまだ餓鬼だってことだな)

 イルシンは無言で、注文アイコンに触れてやった。ここ十年ほどでテレパシー能力研究が飛躍的に進んだため、テレパスだと認定される子供が急増しており、規模の拡大を図る人類宇宙軍精神感応科においては、その影響が顕著に表れて、低年齢化が進んでいるという話は聞いたことがある。

「ありがとうございます」

 カヅラキ・ユウは少し驚いたような顔で、礼を述べた。

「で――、ここでは食べにくいと思うんですが……」

 イルシンが暗に別の卓へ行けと言うと、カヅラキ・ユウは目を瞠って、ぱあっと顔を輝かせた。

「じゃ、一緒に、カウンター席へ行きませんか。じぶん、一度、ああいう席で食べてみたいと思ってたんです!」

 イルシンもヴァシリも、四階級上の相手に、一人で行けとは言えなかった。

 自動機械(オートマトン・)給仕(ウェイター)に運ばれてきた、ほんのり緑色のふわふわしたケーキを、幸せそうに頬張るカヅラキ・ユウの両隣で、イルシンとヴァシリは、それぞれ立食用卓から自分で運んできた、パンとソーセージ入りクロレラ・コンソメスープを啜る。二人にとっては朝食だ。これから八時間の勤務である。その前に、一日一回の全体礼がある。そこで、カヅラキ・ユウの着任式があるのだろう。

「あ、言うの忘れてました」

 バンブー・ケーキを大方食べ終えたカヅラキ・ユウが、不意に声を上げる。

「任務の時以外は、敬語、使って下さらなくていいです。じぶんも慣れてないし、こんな年下の相手に、嫌でしょう?」

 それは、願ったり叶ったりである。

「――本当に、いいのか?」

 イルシンは、既に敬語ではない言葉で念押しした。

「はい」

 カヅラキ・ユウは嬉しそうに頷いた。

「じゃ、そろそろ時間なので……」

 腕端末を見ながら、ヴァシリが椅子から腰を浮かした。時刻は人類宇宙基準時間で〇七二八(まるななふたはち)時。人類宇宙の首都惑星本土(メインランド)の標準時間が、即ち人類宇宙基準時間であり、人類宇宙軍は、全て、その基準時間に従って動いている。全体礼は毎日、基準時間で〇八〇〇(まるはちまるまる)時からである。

「そうですね」

 バンブー・ケーキを綺麗に食べ終えたカヅラキ・ユウも椅子から降り、三人は食堂から出た。基地内のあらゆるサービスは無料なので、支払いの必要はない。

「すみません、お手洗いの場所、教えて下さい」

 後ろから来るカヅラキ・ユウに訊かれて、イルシンは歩きながら振り向いた。

「ああ。おれも行くからついて来いよ」

 もう完全に友人口調だ。我慢して付き合っているのだから、ぶっきらぼうで済むのはありがたい。

「じゃ、ぼくも親睦を深めに、一緒に」

 ヴァシリがおどけて言い、三人でトイレの入り口まで行った。だがそこで、ふとカヅラキ・ユウが離れていくので、イルシンは足を止め、声をかけた。

「おい、どっち行くんだよ。トイレはここだぜ?」

 カヅラキ・ユウは、きょとんとした顔でイルシンを見上げ、答えた。

「でも、そこ、男性用トイレですよね」

 イルシンは、目の前に立つ、自分の胸までの身長しかない、やや色素の薄い東アジア系の子供を、まじまじと見下ろした。カヅラキ・ユウが爪先を向けた先には、女性用トイレの(マーク)がある。

「は?」

 イルシンが聞き返すと、カヅラキ・ユウは、初めて眉間に微かな皺を寄せ、言った。

「じぶん、女です」

「――は?」

 もう一度、イルシンが間抜けに聞き返した時には、最早カヅラキ・ユウは女性用トイレの中へ姿を消していた。

「……そう落ち込むな、ぼくも分からなかったから」

 ヴァシリが、ぽんとイルシンの肩を叩いて、慰めの言葉を寄越した。



(詐欺だろ……!)

 イルシンは納得がいかなかった。軍には、髪の短い女などたくさんいる。化粧をしていない女もだ。服装にしても、男女ほぼ同じデザインの軍服である。だが、ここまで完全に間違えたことなど、一度もない。

(色気とか仕草とか声とか……、普通、何かあるだろ……!)

 地表制圧科空戦部隊のスカイブルー、陸戦部隊のモスグリーン、潜水部隊のマリンブルー、建設部隊のレモンイエロー、通信科通信部隊のエメラルドグリーン、医療科外科部隊のオフホワイト、内科部隊のローズピンク、心理部隊のライトブルー。全体礼のため、講堂一杯に並んだ各色の軍服の列の中から、イルシンは、壇上に出てきたカヅラキ・ユウを睨んだ。コバルトブルーの軍服を着た子供は、涼しい顔で、基地司令官に紹介されている。やがて、カヅラキ・ユウ自身の挨拶になった。

〈皆さん、こんにちは〉

 マイクロフォンを通して、緊張感の欠片もない声が響く。

〈ただ今、御紹介頂いた、精神感応科診療部隊所属カヅラキ・ユウ上等兵曹です。じぶんは、この惑星で暮らしていたことがあるので、今は、懐かしい気持ちで一杯です。高等学校を卒業したばかりで、右も左も分かりませんが、御指導御鞭撻のほど、宜しくお願いします〉

 敬礼して下がるカヅラキ・ユウを、イルシンは凝視していた。その袖を、隣に並んだヴァシリがつんと引っ張る。

「あの子……」

 囁かれて、イルシンはゆっくり頷いた。「この惑星で暮らしていたことがある」というカヅラキ・ユウの言葉は、重い。

(成るほど、あいつがここへ来たのには、そういう事情がある訳か……)

 基準時間で九年前のサン・マルティンの悲劇当時、カヅラキ・ユウはまだ一桁の歳だったはずだ。

(UPOに感染した人間は全員、片っ端から隔離病棟に放り込まれ、サン・マルティンは惑星丸ごと封鎖された。地表の人間は全て、見殺し状態だった――)

 軍学園中等学校でも学んだ、残酷な史実。

(サン・マルティンの悲劇の生き残り組か、サン・マルティンを偶然出ていて生き延びた組か……、どっちにしても、しんどいな……)

 背負った十字架が、さぞ重いことだろう。しかし、この惑星サン・マルティン出身だとしても、精神感応科兵が、たった一人ここで、一体どんな任務を担うのだろう。人類宇宙軍総本部は、一体どういう思惑で、サン・マルティン出身の精神感応科兵を里帰りさせたのか。まさか、本当に「幽霊」対策だとでもいうのだろうか。全体礼が終わり、ヴァシリとともに基地制御(コントロール・)(ルーム)に向かう途上でも、そんな疑問が、ぐるぐるとイルシンの頭の中を回り続けた。

「おい、イル、ぼうっとするな、毎日やってることでも、気を抜くと、しくじるぞ!」

 司令官補佐であり、直属の上官である陸戦部隊一等兵曹のダグラス・マクレガーに野太い声で怒鳴られて、操縦席に座ったイルシンははっと目を瞠り、改めて操縦桿を握り直した。基準時間〇九〇〇(まるきゅうまるまる)時。惑星サン・マルティン地表基地では、毎日恒例の、移動開始時刻だ。

 サン・マルティンは、公転面に対し地軸がほぼ垂直で、自転周期が公転周期の約二分の一、即ち、恒星救世主(エル・サルバドル)を一周する間に自身は二回自転するという惑星で、一日と一年が同じであり、基準時間の約二年にも及ぶ。そのため、サン・マルティン標準時間は定められず、基準時間がそのまま用いられ、同じ場所に定住すれば、一年間が昼で一年間が夜という日々になる。だが、惑星サン・マルティン地表基地には、毎日昼と夜が来る。基地自体が、移動することによって――。

「各員、配置につきました! 移動準備完了!」

 基地の各部からの連絡を受け、通信席に座った通信科通信部隊所属タイラ・ハル一等兵が報告した。理知的な黒髪美人は、今日も溌剌とした声だ。

「よし」

 司令官補佐席に着かず、太い両腕を組んで仁王立ちしたダグラスが頷き、司令官席を振り返る。その席に座る厳しい面持ちの壮年の男――惑星サン・マルティン地表基地司令官チャン・レイ少佐も頷き、そして命じた。

「零時の方向へ、微速前進」

「零時の方向へ、微速前進」

 復唱して、イルシンは操縦桿を押す。機関(エンジン)音が低く轟き、重々しく、ゆっくりと、基地が動き始めた。

夜前線(ナイト・フロント)まで、二十八キロメートル」

 左隣の副操縦席に座ったヴァシリが現在位置を報告した。いつも通りである。直径一キロメートルの平たい円形をした惑星サン・マルティン地表基地は、最下部に取り付けられた百基の巨大キャタピラを稼動させて、基準時間で毎日、赤道付近を夜から昼へと、十二時間弱かけて、昼夜境界線の夜前線を追い越して移動し、昼を迎えて停止する。但し昼と言っても、夜前線からそう離れていないので、一日の区分で言えば夕方だ。そしてまた惑星の自転により、夜前線に追い越され、夜を迎えるのだ。惑星サン・マルティンの自転速度が極端に遅く、昼夜境界線の赤道における速度が基準時間の時速で約二・三キロメートルであり、また、海が南半球に集中していて、赤道付近から広く北半球の大部分に至るまでが陸続きになっているために、可能となる生活である。

「方向固定、時速五キロメートルで前進」

「方向固定、時速五キロメートルで前進」

 イルシンは司令官の指示に復唱で応じ、基地の移動速度を時速五キロメートルまで上げる。これも、いつものことである。

「では、後は任せる。何かあれば、わたしの腕端末へ通信せよ」

 チャン・レイが席を立ち、制御室から出て行ったのも、いつも通りだった。基地司令官には、司令官室でこなさなければならない膨大な事務仕事があるのだ。それから暫くは、静かな時間が過ぎる。方向も速度も固定しているので、自動操縦状態だが、惑星の地表は決して平らではなく、様々な不測の事態も発生するので、操縦席を離れる訳にはいかないのだ。

「――発進の時以外は、結構振動も少なくて、静かなんですね」

 不意に背後から言われて、イルシンはびくりと振り向いた。操縦席のすぐ後ろに、いつの間にか、カヅラキ・ユウが立っている。

「おま……」

 おまえ、何でこんなところに、と言いかけて、イルシンは言葉を飲み込んだ。今、カヅラキ・ユウが任務中だとしたら、友人口調はまずい。それに、事情を知らない人間が周りに大勢いる。

「今日一日は自主研修で、基地内のあちこちを見聞して来いとの、基地司令官の御命令なんです」

 またも、心を読んだように、カヅラキ・ユウが答えた。

(こいつ……、本当に心読んでないんだろな……?)

 疑問がふつふつと、心の中に湧いてくる。だが、カヅラキ・ユウはイルシンの胸中など全く知らない様子で、制御室の前面の大画面へ顔を向けた。夜前線からそう遠くはないので、明るい星が瞬く空はまだほんのりと群青色だが、地上は既に闇に没している。暗視カメラからの映像は、そんな夜の地表を、鮮明に浮かび上がらせている。砂と岩ばかりの、荒れ果てた大地だ。

「相変わらず、星しかない夜季(やき)ですね……。月の一つでも、あればいいのに」

 カヅラキ・ユウが、ぽつっと呟いた。一年が一日である惑星サン・マルティンの季節は、それぞれ、朝季(ちょうき)昼季(ちゅうき)夕季(せっき)、夜季というのだ。基準時間でそれぞれ約三百三十日間という長い昼季と夜季の狭間に、それぞれ三十日余りの短い朝季と夕季が訪れる。そして、カヅラキ・ユウの言う通り、惑星サン・マルティンに衛星――月は存在せず、その夜季、空にあるのは遠く瞬く星々のみである。サン・マルティン封鎖下で、殆どの人が死に絶えたのも、この夜季の間だったと聞いている。長い長い夜は、人々に、絶望をもたらしたのだ。

「――上等兵曹殿は、封鎖の時、ここにおられたのですか」

 問いは、半ば無意識に、イルシンの口から飛び出した。左隣のヴァシリ、右隣のタイラ・ハル、後ろの席に座ったダグラスが、一斉に、ぎょっとした様子で、イルシンを凝視するのが分かった。

「はい、いました。もう少しで、死ぬところでした」

 答えは、さらりと返ってきた。カヅラキ・ユウは、大画面を見つめたまま、無表情である。下手な労いや慰めの言葉などかけられない顔だった。誰も口を利けず、制御室が沈黙に支配されて暫く。カヅラキ・ユウ自身が、はっと気付いたように、口を開いた。

「あ、気を遣わないで下さい。すみません。ちょっと、他のところも見てきます。お邪魔しました」

 そそくさと、カヅラキ・ユウは制御室から出て行った。出入り口の自動(ドア)が静かに閉まった後、更に数瞬待ってから、ヴァシリが深呼吸した。タイラ・ハルも、恨めしそうな目で見てくる。ダグラスは、直接的にイルシンの頭を小突いて言った。

「おまえ、もう少し頭使ってしゃべれ。餓鬼とはいえ、上等兵曹殿に向かっていきなり。こっちの寿命が縮むかと思ったわ!」

「すいません」

 イルシンは素直に謝った。自分でも、何故いきなりあんな立ち入ったことを訊いてしまったのか、分からなかった。


     二


 のろのろと動き続ける惑星サン・マルティン地表基地内のあちこちを一人で巡りながら、ユウは、脳裏に刻み込まれた光景を思い出していた。

 不気味なほど美しかった夕焼け空の下、道路にも、建物の中にも、累々と大人達の屍が横たわっていた夕季。

 やがて、全てが夜季の闇に飲まれていった。

 幼い子供達の足では、この基地のように定期的に移動し続けて、恒星――日の光が届くところへ留まり続けることなどできなかったし、もしできたとしても、開拓のされていない荒野を延々と、食糧を確保しながら移動し続けることなど不可能だった。

 闇の中に何の保護もなく放り出された子供達は、或いは寒さに身を寄せ合い、或いは食べ物を巡って争って、獣のように生きていた。

 あれは、正しく終末の光景だった――。

 不意に、寒気を感じて、ユウは通路を歩く足を止めた。凍りつくような記憶からくる寒気ではない。今現在、何かが起ころうとしているのだ。

(迫ってくる。「おまえ」か――?)

 ユウは、先ほどまでいた基地中央部の制御室へと、駆け出した。


          ○


 最初に異変に気付いたのは、イルシンだった。操縦盤に、速度の不具合を示す点滅ランプが点ったのだ。

「七十七番と七十八番のキャタピラの動きが悪い。まだ全体の速度が落ちるほどじゃねえが……、タイラ一等兵、担当整備班に連絡して調べさせてくれ」

「了解」

 タイラ・ハルが通信機に向かって呼びかけるのを聞きながら、イルシンはヴァシリに問うた。

「原因は、何が考えられる?」

「地面は、今のところ比較的平らだしね。地面への圧力を調整する油圧とかに問題が発生したのかな? でも、だったらそう表示されるはずだし……。それとも、表示ランプに繋がるケーブル系統のほうが故障したのかな……?」

 ヴァシリの推測に、イルシンが考証を加えようとした時、タイラ・ハルが緊張した声で報告した。

「おかしいです。七十一番から八十番担当の第八整備班と、連絡が取れません!」

「タイラ一等兵、すぐに、司令官にその旨報告せよ!」

 ダグラスが怒鳴るように命じるのとほぼ同時に、制御室の自動扉が開いた。佐官であることを示すアイボリーブラックの軍服の裾を翻して入ってきたのは、司令官チャン・レイ少佐である。まるで、この事態を知って現れたかのようだ。

「非常事態宣言レベルCを発令する。タイラ一等兵、全基地に通信!」

 チャン・レイは、司令官席へ向かいながら、厳しい口調で命じた。

「了解。非常事態宣言レベルC発令を全基地に通信します!」

 タイラ・ハルが復唱し、警報ボタンを押して短く警報を鳴らした後、一斉通信ボタンを押して、マイクロフォンに向かう。

「総員に告ぐ。非常事態宣言レベルC発令! 総員に告ぐ。非常事態宣言レベルC発令! 各員持ち場で、非常事態に備えよ!」

 タイラ・ハルの声が基地中に響き、惑星サン・マルティン地表基地は、一瞬で緊迫に包まれた。最早、居ても立ってもいられない。

「ヴァシリ、ここを頼む」

 イルシンは操縦席から立ち上がり、ダグラスのほうを向いた。

「マクレガー一等兵曹殿、七十七番、七十八番キャタピラへ行かせて下さい!」

 普段なら肝の座ったダグラス・マクレガーが、躊躇して、チャン・レイを振り向いた。何故、突然、非常事態宣言の、それもレベルCの発令なのか、ダグラスにも分からないのだろう。しかし、七十七番、七十八番キャタピラと、第八整備班に何かが起こっていることは確かで、それを、チャン・レイは非常事態宣言レベルCの状況だと判断したのだ。朴延徳(パク・ヨンドク)、ヘレン・ブルック、マティアス・ハイネケン、アンドレ・トラヴァース。第八整備班の面々の顔が脳裏を過ぎる。

「司令官、行かせて下さい! ここでは状況が分からず、対応が遅れてしまいます! 第八整備班を助けに行かせて下さい!」

 今度は直接、チャン・レイに向かってイルシンが叫んだ時、また自動扉が開いて、カヅラキ・ユウが姿を現した。走ってきたのか、肩で息をしている。

「司令官、補佐が要ります。ソク上等兵をじぶんに同行させて下さい」

 早口で求めたカヅラキ・ユウに対し、チャン・レイは即座に答えた。

「許可する。第八整備班と合流し、速やかに事態に対処せよ」

「了解」

 素早く敬礼したカヅラキ・ユウは、イルシンに視線を転じ、命じた。

「ソク上等兵、ついて来い。今から、わたしの指揮下に入れ」

「了解!」

 イルシンは敬礼し、再び制御室から出て行くカヅラキ・ユウを追う。コバルトブルーの軍服の裾を翻して通路を走りながら、カヅラキ・ユウは言った。

「問題の場所へ、じぶんが最短の時間で着けるよう、案内して下さい。じぶんはまだ、この基地には不案内なので」

 周りに誰もいないせいか、カヅラキ・ユウの言葉遣いは敬語に戻っているが、今はそんなことに突っ込んでいる暇はない。

「了解」

 イルシンは応じて、カヅラキ・ユウの先に立ち、通路を走り始めた。自動歩道、自動階段(エスカレーター)昇降機(エレベーター)、緊急避難用通路や脱出口、果ては荷物運搬用台車まで、あらゆる物を利用して進む。この基地は、イルシンにとって、直径一キロメートルの円形に広がった巨大な家だ。どんな細かい通路も知り尽くしている。

「ここです」

 制御室を出てから二分と経たない内に、イルシンはカヅラキ・ユウを第八整備班待機所へ連れて行くことに成功した。だが、待機所内には誰もいない。修理に出払っているのだろうか。そうだとしても、腕端末は各員が携帯しているはずで、連絡が取れないというのはおかしいのだ。

「あっちは何番ですか?」

 カヅラキ・ユウが、待機所周辺の床に等間隔で並んだ乗降口(ハッチ)の一つを指差し、硬い声で問うた。

「七十九番です」

 イルシンはカヅラキ・ユウの顔を見ながら答えた。異変があるのは七十七番と七十八番である。しかし、カヅラキ・ユウの顔に迷いはない。

「開けて下さい」

 イルシンは、素早く七十九番キャタピラへ降りる階段の入り口を開けた。そこへ、すっとカヅラキ・ユウが足を入れる。

「ここからは、後ろからついて来て下さい」

 短く命じて、カヅラキ・ユウは先に階段を下り始めた。

 感知式照明(センサー・ライト)が点くはずが、階段は二人が入っても真っ暗だった。

「手動で灯り、点けられませんか? できれば、視覚情報が欲しいんですが」

 手探りでそろそろと進みながら、カヅラキ・ユウが言った。イルシンは入り口脇の接続機構(スイッチ)を触ってみたが、反応はない。照明(ライト)自体が壊されているのかもしれない。

「小さな灯りになりますが」

 断って、イルシンは軍服の隠し(ポケット)から小型懐中電灯を取り出し、階段の先を照らした。小型とはいえ、光量は充分だが、何しろ、照らせる範囲が限られる。

「充分です。じぶんが指示するほうを照らして下さい。とりあえず、今は進行方向を」

 カヅラキ・ユウは指示して、小型懐中電灯が照らす先へと、更に階段を下りていった。

 惑星サン・マルティン地表基地を支える百基のキャタピラは、全て同じ構造になっている。油圧で伸び縮みする太い円形の支柱の先に左右で対になったキャタピラがあり、地面に対する支柱の伸縮と三六〇度の回転、キャタピラの回転速度を操作して、地面を進む構造だ。階段は、その支柱の中を通って、キャタピラ本体の内部へと通じている。懐中電灯が照らす光の円が、階段の終わり、キャタピラ内部の床を照らした時、カヅラキ・ユウが今までになく真剣な口調で言った。

「一つ、約束して下さい。声が、空気振動を介さず、直接頭の中で響いても、決して驚かず無視すると。じぶんからの指示は、声に出すか、身振りでしますから」

「それは一体、どういうことですか」

「そういう相手だということです」

 硬い声で答えると、カヅラキ・ユウは、キャタピラの奥へ進んだ。

 ガチャン、カチャンと音がした。金属がぶつかる音だ。人の息遣い、足音もする。複数の人間が、前方にいる。

「第八整備班の方々ですね?」

 カヅラキ・ユウが問うたが、返事はない。カヅラキ・ユウはすぐイルシンに求めた。

「彼らを照らして下さい」

「了解」

 イルシンが向けた小型懐中電灯の光の円の中に浮かび上がったのは、正しく、パク・ヨンドク、ヘレン・ブルック、マティアス・ハイネケン、アンドレ・トラヴァース。第八整備班の四人だ。そして四人は、キャタピラ内の機器を、破壊している。

「おまえら、何やってんだ!」

 思わず叫んだイルシンの目の前に、さっとカヅラキ・ユウの手が伸びた。黙れという合図だ。イルシンは目の前の小柄な後ろ姿を見つめ、歯軋りしながら口を閉ざした。今は、精神感応科兵の、この子供に頼るしかないのだ。

 カヅラキ・ユウは、口の中で、呪文のように、暗号のような言葉を唱え始めていた。

「〈標本抽出(サンプリング)〉。〈ライブラリ照合〉。〈一致〉、サン・マルティンA型。〈解毒剤(アンティドート)検索〉」

 一体、何を言っているのか、イルシンには分からない。だが、精神感応科診療部隊特有の用語だろうことは、すぐに察しがついた。

「〈検索〉終了。〈ヒット〉、対サン・マルティンA型〈解毒剤〉友情(フレンドシップ)。〈対象(ターゲット)〉、第一(ナンバー・ワン)から第四(ナンバー・フォー)。〈投与(アドミニストレーション)〉!」

 カヅラキ・ユウが何かを宣言した直後、四人の体が震え、動きがぎこちなくなった。破壊活動をやめ、手を止めて立ち尽くし、ぼうっとした眼差しで、イルシン達のほうを見る。

「効果あり。〈診療〉完了。第一から第四〈夢遊病(スリープウォーキング)〉」

 更に唱えたカヅラキ・ユウに応じるように、四人は虚ろな表情のまま、ゆっくりと歩き出した。カヅラキ・ユウとイルシンの横を通り抜け、階段を上がっていく。

「おい!」

 呼び止めようとしたイルシンの袖を、カヅラキ・ユウが引いた。

「彼らには、医務室へ行くよう指示しました。大丈夫です」

 いつそんな指示を出したのか。そもそも、一体何が起こったのか。イルシンがまじまじとカヅラキ・ユウの顔を見つめた時、不意に、頭の中で「声」がした。

【そんな子供を信じていいの?】

 思わず辺りを見回したが、誰もいない。

「どうかしましたか?」

 カヅラキ・ユウが眉をひそめて問うてきた。その問いに被せるように、また頭の中で「声」が響いた。

【その子供は、嘘を吐いてるわ。その子供は、ずっと能力を使ってる。ずっとおまえ達の心を読んでるわよ】

「何……を……」

 初めての事態と告げられた内容に、イルシンは喘ぐ。カヅラキ・ユウが鋭い目をして言った。

「『声』が、聞こえるんですね?」

 それで分かった。これが、聞こえても、驚かず無視しろと予め言われていた、空気振動を介さない「声」なのだ。

「一体、何なんだ、これは……?」

「ちょっとの間、我慢して下さい。これが一番手っ取り早くて強力で確実な方法なので」

 カヅラキ・ユウはイルシンの問いに答える代わりに、いきなり両手を伸ばしてイルシンの軍服の襟を掴み、ぐいと引き下ろした。

「うおっ」

 引っ張られて上体を折り曲げたイルシンの目の前に、カヅラキ・ユウの顔がある。小柄な精神感応科兵は、少し背伸びをするようにして、驚くイルシンの額に自分の額を押し当て、呟いた。

「〈接触(コンタクト)〉開始」

 瞬間、瞼の裏で青白い火花が散るような感じがして、イルシンはぎゅっと目を閉じる。頭の中の暗闇で、何かが起こった。

【おまえは今、どこにいる? おまえは誰だ? まだ見つかってない生存者なのか? おまえはわたしを知ってるのか?】

【あたしはあんたをよく知ってる。あんたもあたしをよく知ってる。あたしはずっとここにいる。あんたはあたし達を捨てて逃げた。あたし達を見捨てた。あたしはずっとあんたを待ってたのに。許さない】

【やっぱり、アサ……! わたしはおまえに会うために帰ってきたんだ】

【なら、一人で、あたしに会いに来い。そいつらは信用できない。そいつらは敵だ。軍は、敵だ――】

 「声」が響き合い、同時に、ちらちらと何かが見える。すさんだ顔をした幼い子供達。荒れ果てた街。倒れた大人達。真っ赤な夕焼け。闇の中、炎に照らし出された顔、顔、顔――。

(カヅラキ・ユウ?)

 カヅラキ・ユウだと思われる、そっくりな顔立ちの幼い子供が何度も見えた。そして、カヅラキ・ユウの、静かな声が、今度は確かに耳から聞こえた。

「〈接触〉終了」

 次いで、カヅラキ・ユウの額が離れ、掴まれていた襟も離された。

「何なんだ、今のは……」

 頭の中がぐるぐるとして、酔ったように気持ちが悪い。額を押さえて座り込んだイルシンに、カヅラキ・ユウは硬い口調で言った。

「上官として命じます。じぶんの指揮下に入って以降、今までの一切のことを、口外することを禁じます。……すぐに医療科内科部隊から人を寄越して貰いますから、ここでじっとしてて下さい」

 そうして、カヅラキ・ユウはカツカツと軍靴を鳴らし、イルシンの横を通り過ぎて、階段へ足を向けた。

「待てよ……!」

 イルシンは、目を押さえ、しつこく残る眩暈に耐えながら、声を上げる。

「一つだけ、教えろ」

 軍靴の音が止んだ。

「おまえ、非常事態宣言が出される前から――ここに来た時から、ずっとテレパシー能力を使ってたのか? いきなり心を読んだりはしないとか、軍規で禁じられてるとか言っときながら、使ってたのか? おれ達の心を読んでたのか?」

「……機密事項です。答えられません」

 それが、答えだった。再び軍靴の音を響かせ、階段を上がっていくカヅラキ・ユウを、イルシンは渾身の眼差しで睨み付けたが、すぐに吐き気に襲われ、下を向いて口を押さえた。


     三


「――報告は、以上です」

 直立不動で淡々と告げたユウに、司令官室の執務机の向こうのチャン・レイは、疲れた目を向けた。

「つまり、それは、UPOなんだな?」

「正確には、UPOに感染された患者、です」

「つまりは、UPOの力だろう。ソク上等兵は、この件がUPOに因るものだと気付いているか?」

「今はまだ気付いていません。〈通信〉で御報告した通り、じぶんが秘密裏に行なっている能力使用については、知ってしまったようですが」

「その件については、出頭させて、わたしから説明し、口止めした上で、協力を命じよう」

「申し訳ありません」

「UPOのせいだろう。仕方あるまい」

「……はい」

 答えた声が沈んだ。イルシンに嘘が知れた時、予想していた以上に心が痛んだ。精神感応科兵とその他の兵との間を繋ぐ。それが、一人きりで配属された自分の命題の一つだというのに、これでは溝が深まるばかりである。ソク・イルシンには、完全に嫌われただろう。目の前のチャン・レイ司令官は、能力を使った〈通信〉という連絡手段にも表面的には不快感を示さず応じてくれているが――。けれど、どう思われようと、しなければならないことがある。

(じぶんの任務の最優先事項は、UPOについて――その誕生の謎と動向の謎について、調査すること)

 自分は、そのためにこの故郷に帰ってきた。惑星サン・マルティン地表基地に出る「幽霊」として報告された、あの存在と対峙する覚悟で、帰ってきたのだ。

(そして、「おまえ」は、やっぱり、まだここにいた。ずっとここにいると言った、あの夜明けから、ずっと――)

 ユウを物思いから引き上げるように、チャン・レイが事務的な口調で指示を下した。

「報告は電子文書の形で再度行なうように。宛て先は司令官専用端末だ。本惑星におけるUPOの調査は続行。能力の使用も引き続き許可する。何かあれば、これまで同様すぐに能力を用いて報告せよ」

「了解しました」

 敬礼して、通過者を識別する自動扉を通り、退室すると、ユウは踵を返し、自室へ見舞い道具を取りに行った。第八整備班の四人と、それにソク・イルシンも、既に医務室で診察を受けている頃合いだ。チャン・レイ司令官から命令が下るにしろ、まずは自分から、改めての謝罪と協力の要請をしておきたいと思うのだった。


          ○


 何やら小さな籠を持って医務室に入ってきたカヅラキ・ユウは、相変わらずの表情に乏しい顔で、寝台(ベッド)脇へ近づいてきた。大きな両眼の、灰色がかった水色の双眸が、じっとイルシンを見つめてくる。

(いつもいつも、何でこんなにじっと見てくるんだ、こいつは)

 思いながら、イルシンは敢えて口を開かなかった。思っていることが全て読まれていたのだ。向こうが何か言わない限り、わざわざ口を利いてやる気が起きなかった。そんなイルシンの思いも読み取ったのかもしれない。カヅラキ・ユウは唐突に言った。

「不快でしょうが、この林檎を剥く間だけ、許して下さい」

 そして、寝台脇の椅子へ腰掛けると、持って来た籠を寝台脇の小卓に置き、中から小刀(ナイフ)と金色に輝く林檎を取り出す。この基地内でも生産されている黄金林檎(ゴールデン・アップル)という品種だ。その金色の皮を、カヅラキ・ユウが、やや不器用な手つきで剥き始めると同時に、空気振動を介さない「声」が、イルシンの頭の中に響いた。

【能力使用について、隠してたことは謝ります。ただ、後でチャン司令官から説明がありますが、じぶんに、これからも協力してほしいんです】

(はあ? 誰が!)

 イルシンは、頭の中で毒づいた。周囲には聞こえていないのだから、敬語もくそもない。が、黄金林檎に目を落とすカヅラキ・ユウの横顔は、どきりとするほど悲しげになった。

【すみません。でも、お願いします。能力使用について、既に知ってしまったあなたなら、説明の手間が省けますし、協力者は、やはり必要だと、先刻実感したので】

(何で必要なんだ? おまえ、何でも自分でしちまえるだろが!)

 イルシンが噛みつくように思うと、カヅラキ・ユウは、淡い色の髪を揺らして微かに首を横に振った。

【いえ、じぶん一人だけでは、何一つ満足にはできません。あなたを連れて行ったのは、信頼できる視覚情報が欲しかったからです。今も、あなたがそこにいないと、この林檎を剥くことすら満足にはできません。じぶんは、目が見えないので。栄養失調で、失明したんです】

 唐突に告げられた新たな真実に、イルシンは反論できなくなった。改めて、カヅラキ・ユウの灰色がかった水色――濁った水色という不思議な色の双眸に、視線が吸い寄せられる。不思議な色をしているのは、眼球がその機能を果たしていないからなのだ――。

(栄養失調……は、やっぱり、封鎖中のことだよな……)

 基準時間で一年間、惑星サン・マルティンは封鎖されていた。その間、地表の人々は、ただ放っておかれた。まだ惑星は開拓途上で、地表に最初に作られた開拓場の街に住んでいただけだった人々。当然、あらゆる物資は不足し、食料も尽きていったのだ。

【だから、お願いします。ソク・イルシン。どうか、じぶんの目になって下さい。じぶんは、この惑星で、しなければならないことがある。そのために、あなたの力を貸してほしいんです】

 ――断れなかった。言葉ではなく、感情が、直接流れ込んできて、イルシンの思考を麻痺させた。煮え滾るようでいて、どこか冷やりとした鋭い感情が、イルシンの感情を圧倒した。

(……分かった。協力する)

 イルシンが、辛うじて胸中で、そう答えると、カヅラキ・ユウは、詰めていた息をそっと吐き出して、伝えてきた。

【ありがとうございます。それじゃ、これから作戦をともにこなしていく上で必要な、じぶんの能力について、説明しておきます。じぶんの精神感応科兵としての暗号名(コード・ネーム)は、《潜る(ダイヴィング・ドルフィン)》といいますが、これは、同時に能力名でもあります。精神感応科には、攻略部隊、診療部隊、諜報部隊があり、じぶんはその中の診療部隊に所属してます。診療部隊というのは、テレパシー能力を用いて、〈対象〉となる人を、その精神、即ち神経系統を通じて診察し、治療することを主な任務とします。じぶんは、先ほど使用したような診療部隊の基本的な技や、あなた方に今使用しているような、大勢の表層意識(サーフェス・コンシャスネス)を〈走査(スキャニング)〉し続ける〈乗波(サーフィング)〉といった技に加えて、〈対象〉の深層意識(ディープ・コンシャスネス)潜在意識(サブリミナル・コンシャスネス)にまで影響を及ぼす技も得意なので、能力名を《潜る鯆》と付けられました。じぶんの、この能力が不快だというあなたの気持ちは、直に感じるので、よく分かります。でも、どうか、受け入れて下さい】

(なら、隠し事は、もうなしにしろ)

 イルシンは、強気で要求してみる。

(おまえが「この惑星で、しなければならないこと」ってのは何だ? あの時聞こえた、おまえのとは別の「声」は何なんだ? おまえが知ってること、全部教えろ!)

 カヅラキ・ユウは、手の中の黄金林檎を見つめる振り(・・)をしたまま、眉間に皺を寄せて、ひどくつらそうな顔になり、搾り出すように答えた。

【どうか、必要ないことは知らないまま、じぶんを受け入れて下さい。お願いします。あなたの負担を、増やしたくないんです】

(ここまで巻き込んどいて、まだそんなこと言うのか?)

【あなたは、踏み込むべきじゃない。じぶんへの協力も、最低限でいいんです】

(勝手だな)

【それは、重々承知してます。でも、今のじぶんには、あなたしかいないんです。これ以上、じぶんの能力使用について知ってる人間を増やす訳にはいかないので……】

(おれしかいないってんなら、尚更教えろ! 負担とか何とかより、気持ち悪い薄皮一枚隔てたような状態で協力して命懸けろって言われるほうが、おれは嫌なんだよ!)

【命を懸けろとまでは……】

(ここは軍隊だぞ! 何甘えたこと言ってんだ! 全て命懸けに決まってんだろが!)

【それはそうですが……】

(いいから早く教えろ! うじうじされっと鬱陶しいんだよ!)

【――理屈が通ってるのは分かりますが……、口が悪いだけでなく、何というか、我が儘な感じがひしひしと伝わってくるんですが……】

(自分の理由だけで動こうとしてるおまえに言われたくねえよ!)

「確かに……」

 溜め息とともに、カヅラキ・ユウは呟いた。そうして、黄金林檎からイルシンへと視線を転じる――振りをする。

【分かりました。お伝えします。じぶんがしなければならないこと、そして、あの「声」が誰のものなのか。全ては、繋がってる話です】

 ユウはおもむろに、剥きかけの黄金林檎と小刀を籠に戻すと、毛布の上に出ていたイルシンの手を両手で握り、呟いた。

「〈入力(インプット)〉サン・マルティンの悲劇の記憶」

「何だ――?」

 イルシンが嫌な予感を覚えて手を引こうとした直後、どっと映像が――否、感情も臭いも音も感触も、何もかもを伴った情景が、握られた手から脳内に流れ込んできた――。



 確かに、「負担」と表現するしかない内容だった。非現実だと思いたくなるほどの、惨状と絶望――。

――【一度に〈入力〉し過ぎましたから、暫くは安静にしてて下さい。また来ます】

 そう伝えながら剥き終えた黄金林檎を、籠から取り出した小皿に乗せて小卓の上に置き、カヅラキ・ユウは病室から立ち去った。残されたイルシンは、黄金の皮を剥がれたその林檎を見つめながら、自らの脳に〈入力〉された内容を、じっと反芻していた。

 葛木夕(カヅラキ・ユウ)は、仕事の関係で惑星サン・マルティンに移住してきた葛木凪(カヅラキ・ナギ)とその妻の葛木雫(カヅラキ・シヅク)との間に生まれた。家族は、両親と双子の姉。姉の名は、葛木朝(カヅラキ・アサ)といい、ユウと本当にそっくりの一卵性双生児だった。ただ、性格は全く反対で、大人しく内向的なユウに対し、アサは活発で外向的。それでも二人は、いつも連れ立って託児所にも学校にも行き、一人になりがちなユウを、アサが引っ張り回して友達の輪の中に入れていた。けれど、平穏な日々は、彼女達が六歳の年の夕季に破綻した。急に体調不良者が急増し、学校が休校となっただけでなく、すぐに外出すら規制されるようになり、恐怖を感じて逸早くサン・マルティンから脱出しようとした人々の大半を押し留めるように、人類宇宙連盟からの通達があり、封鎖が為された。そして、検疫態勢が整うまでの一時的なものだったはずの封鎖が、惑星の行政機関など全く無視して、人類宇宙軍の実力行使の下、徹底的に、終了時期も明確にされないまま継続されたのである。地表は、地獄と化した。

 UPOという仮称すらサン・マルティンの地表には伝わっておらず、ただ「サン・マルティン病」と呼ばれていた病に、大人も子供も全員が罹患したが、不思議と六、七歳以下の子供達は、回復した。だが、それより年上の子供達と全ての大人達は、回復することなく死んでいったのである。ユウとアサの両親も同じだった。葬る人もなく放置されている亡骸達から離れ、生き残った子供達は食料や衣服を持って集まった。亡骸だらけの住宅街を去り、まずは、デパートやオフィスビルが建ち並ぶオフィス街へ移った。彼らの指導者(リーダー)は、ニコライ・ペトローヴィチ・クズネツォフという、金髪、緑の双眸、白皙の、利発な七歳の少年だった。七歳の子供達は、「サン・マルティン病」に罹って、死んだ子もいれば、生き残った子もいた。どうやら、七歳がUPOの回復限界らしく、七歳になったばかりのニコライは、生き残り組のほうだった。そしてニコライは、七歳とは思えないほど聡明で、迷える子供達を率いて、日々の暮らしを成り立たせていった。

 レトルトや缶詰、乾物、駄菓子などの食糧集め、木材や紙などの燃料集め、衣服や寝具などの衣類集め、「基地」と彼らが呼んでいた住む場所の管理や食事作りという、主な四つの仕事を、ニコライを補佐して最も主導的に行なっていたのが、アサだった。アサは持ち前の明るさと面倒見の良さで、すぐに子供達の中心人物となり、子供達を、食糧集め班、燃料集め班、衣類集め班、留守番班の四班に分けて、動かした。ただ、その四つの班のどれにも属さない子供達もいた。ニコライが、自分の手伝いをさせるために選んだ子供達だった。ニコライは、アサに、生活上必要なことの運用を任せておいて、「サン・マルティン病」――UPOの研究や人類宇宙軍との交信を試みていたのだった。ユウは、そのニコライ手伝い班の一人だった。

 当時から、ユウは他人の心を読み取ることができた。それは、大人達が死に絶えた頃に芽生えた能力だったが、使えば使うほどに強くなり、最初は表層意識だけを読めていたのが、深層意識や潜在意識まで読めるようになり、触れている相手の心だけ読めていたのが、触れていない相手、更には遠くにいる相手の心まで読めるようになっていった。ただ、ユウはその能力を無闇やたらとは使わなかったし、ニコライ以外の誰にも、アサにすら、明かしはしなかった。気味悪がられることが、必至だったからだ。ニコライに明かしたのも、先に感付かれ、問い詰められたからだった。ニコライは集まってくる子供達一人一人をよく観察し、その特性を掴んでいたのである。

――「きみはいつも、アサの陰に隠れてる感じがするけれど、でも、周りの子のこと、よく分かってるよね。バージルの妹の二歳のドロテアが言いたいことも、きみだけが分かったし。もしかして、きみ、人の考えてることが分かるのかな?」

 笑顔で問うてきたニコライに、ユウは暫く逡巡してから、頷いた。ニコライの心を読めば、その問いかけがほぼ確信であること、そして、決してユウの能力を嫌悪していないことが分かったからだ。

――「誰にも言わないで。アサにも」

――「きみの精神(こころ)が、そう望むなら。でも、その力を(みんな)のためにもっと使ってほしい。頼むよ」

 優しさの中に真剣さを滲ませて、ニコライは握手を求めてきた。

 ユウの能力は、生き残った二歳児や三歳児の言いたいことを探るだけでなく、遥かな上空にいる人類宇宙軍との交信にも使われるようになった。ユウの能力をニコライ相手に試してみると、相手の心を読み取るだけでなく、離れてなら「声」のみ、触れてなら映像その他まで、相手に伝えることができると分かったからだ。ニコライは、人類宇宙軍から「サン・マルティン病」の実体を探ると同時に、「サン・マルティン病」から生き残った自分達のことを人類宇宙軍に知らせて、自分達が獲得したであろう抗体を餌に、自分達を救出させようと考えたのだ。だが、当時まだ、テレパシー能力に対して理解の浅かった人類宇宙軍は、幻のように、誰かの頭の中に聞こえてくる「声」に、真面目に対応しようとはしなかった。

 そうして、長く厳しい夜季が来た。

 イルシン達は、サン・マルティンの悲劇について、夜季の間に、殆どの人々が亡くなったと聞いていたが、違ったのだ。夜季が来る前に、殆どの人々が――大人は全て、亡くなっていたのである。夜季が来た時に生き残っていたのは、七歳以下の子供達だけだった。そして、彼らにも、死が迫っていた。夜季の到来とともに、まずは寒さより何より絶望が襲ってきたのだ。

 当初、食糧は充分にあると、ニコライも、ユウやアサも考えていた。デパートの食品売り場にあったレトルトや缶詰や乾物や駄菓子だけでも、二十一名いた彼らのグループには、夜季を過ごすのに充分な量があったのだ。だが、生き残っていた子供達は、他にもいて、それぞれグループを作っていた。お互いに、協力ができればよかったのだろう。しかし、いつ助けが来るか分からない、もしかしたら、永遠に放っておかれるかもしれない、先の見えない絶望的生活が、彼らを話し合いのできない獣にした。どれだけ確保していても、心許ない食糧である。グループ間の食糧の取り合いから、争いが起こり、とうとう殺し合いが起きてしまった。ある二つのグループの争いの中で、片方のグループの子供がデパートの階段で突き落とされて亡くなり、その報復として、即座にもう一方のグループの子供が吹き抜けの上から重い家電製品を頭上に落とされて亡くなったのである。

 一度、殺し合いが起きてしまうと、最早収拾がつかなかった。殺された友の仇を取るためであったり、防衛本能であったり、ただのパニックであったり……、とにかく、違うグループと遭遇するたびに殺し合いが起き、子供達の人数は減っていった。

 ユウは、ニコライに頼まれたこともあり、グループの仲間達には内緒で必死に他のグループの子供達へ、争いをやめることを精神感応(テレパシー)で呼びかけたが、気味悪がられただけだった。ニコライはニコライで、壁への書き付けや置き手紙などで、他グループのリーダーへ協力を要請したが、どのグループも、自分達が生き残ることに必死で、いつかはなくなる食糧をより多く確保することに必死だった。協力体制は、作られなかった。

 他グループとの協力を諦めたニコライは、ユウに、今までと全く逆のことを頼んだ。即ち、他グループの子供達の動きを全て、彼らには悟られないように密かに、ユウに精神感応で探らせたのである。ニコライは、そうして分かった他の全てのグループの隙を突いて、まだ贈答品売り場などに残っていた食品やペット用品売り場に残っていたペット・フードなどを奪い、開拓用品売り場に残っていた携帯用海水濾過機やホースや野菜の種や土壌改良細菌(バクテリア)もあるだけ奪って、そのまま、自分のグループの生き残り――十三名だけを率いて街即ち開拓場の外へ――開拓されていない荒野へ、出たのである。ニコライは、それを小さな脱出(スモール・エクソダス)と呼んだ。

 ニコライは最初に争いが起きた頃から、荒野へ出ることも想定していたらしく、既に図書館で調べて、住むのに丁度いい洞窟が見つけてあった。ユウ達は、その洞窟に、持って来た衣類、燃料、諸々の道具類、そして食糧を全て持ち込んで、第二の「基地」としたのだった。

 ニコライは更に、食糧生産をグループの子供達に指導し始めた。最も近い海岸からホースを繋いで引いた海水を携帯用海水濾過機で濾過して生活用水を確保した上で、洞窟の周りの土を耕して、土壌改良細菌を撒き、食糧にもなるとして取ってきた野菜の種の一部をそこに植え、育てさせた。殆どが芽を出さなかったり、芽を出しても育たず枯れたりしたが、幾つかの品種は、無事に育ち始め、漸く希望が見えた気がした。夜季が明けて、朝季が来、日の光が当たれば、葉や根や実が食べられるようになる。グループの子供達が生き生きとそれらの野菜の世話をしている傍らで、しかし、リーダーのニコライは徐々に体調を崩していった。元々、そう丈夫なほうではなかった上、疲労も溜まっていた。夜季の底知れない冷え込みも堪えていた。食糧生産の目処が立たないため、切り詰めざるを得なかった食糧事情も祟っていた。そして、東の地平線がうっすらと青みを帯び、朝季の――惑星の夜明けがもう訪れるという頃、ニコライは呼吸を止めた。何があっても、絶対にグループ内で争わず、協力して生活し、例え最後の一人になっても、希望(ゆめ)を持って生き続けるようにと遺言して。アサはニコライの体に縋り付いて泣きじゃくり、他の子供達も或いは泣き、或いは人類宇宙軍を罵倒し――、ユウは、ただ一人、ぽろぽろと涙を零しながら、野菜の世話をしていた。

 ニコライを、近くの丘の上に葬った後、朝季が訪れると、野菜はどれも見る見る大きくなり、葉を広げ、根を太らせ、実をつけた。この惑星の開拓に勤しみ、多くの品種改良を成し遂げた大人達の遺産は、残った十三名の子供達の命を繋いだのである。けれど、毎日食べるのに充分な量ではなかった。缶詰などもまだ僅かに残っていたが、先のことを考えれば、蓄えておくに越したことはなかった。このまま助けが来なければ、また、昼季の後には夕季が来て、夜季が来るのだ。野菜も、全て食べてしまう訳にはいかなかった。再び植えるために種や根を残さなければならなかったし、幾らかは干して保存食にもした。朝季が来て、寒さは和らいでいったが、限られた食糧生産は、飢えを緩和するには足りなかった。ユウは、最年長者の一人として、できるだけ少ない食べ物で我慢した。アサも、同じように少しの食べ物しか食べなかったが、それは、我慢するというより、ニコライを失ったショックから立ち直れないという様子だった。アサにとって、ニコライの存在は大き過ぎたのだ。ユウは、もう生きていたくないと泣くアサを叱って、希望(ゆめ)を持って生き続けるようにというニコライの遺言を思い出させ、時には無理矢理食べさせて、面倒を見た。そうこうしている内に、今度はユウが倒れた。元々あまり食べていなかったので体力が落ちていたことに加え、ニコライがいなくなり、アサが絶望してしまったのでユウ一人が子供達を仕切っていたことも重なっていた。アサはユウが倒れたことで、逆に、最年長者としての自覚を取り戻したらしく、ユウの看護をしながら、他の子供達にも以前のように指示を出すようになった。アサの看護のお陰で、ユウはまた起き上がれるようになったが、その時から、両目は段々と見えなくなっていき、やがて、完全に視力を失った。同時に、失った視力を補うかのように、ユウのテレパシー能力は更に強くなった。夕季の半ばの封鎖開始から、基準時間で一年になろうという、朝季の半ばのことだった。

 子供達は、夕焼けに似た朝焼けを見つめ、一年前を思い出して、精神に異常を来たし始めていた。彼らを見ることはできなくても、感じることのできたユウは、視力を完全に失ってから幾らも経たないある日、ずっと諦めていたことを、もう一度、全身全霊を懸けて行なった。即ち、遥かな上空にいる人類宇宙軍に、自分達の存在を訴えたのである。それも、幻聴などと思われないように、できる限り大勢の人類宇宙軍兵士に、〈一斉送信〉したのだ。能力を使い過ぎたユウは、そのまま意識を失った。

 人類宇宙軍が封鎖を解いたのは、それから間もなくしてのことだったらしい。ユウが意識を取り戻したのは、惑星メインランドの人類宇宙軍総本部敷地内にある軍病院に移送されてからだったので、封鎖が解かれた時のことは、全て人から聞いたり調べたりして知るしかなかった。生存を確認され救出されたのはユウを含めて子供ばかり十三人。ユウ達のグループの十二人と他のグループの一人であり、そして、生存者一覧表(リスト)に、カヅラキ・アサの名はなかったのである――。

――【あなたの頭の中に聞こえた、あれは、アサの声です。でも、アサは、生きてないはずなんです。けれど、ここでアサの声がする。その謎を、じぶんは解きに来たんです】

 カヅラキ・ユウは最後にそう告げて、イルシンの手を離し、〈入力〉を終えた。

 気が付くと、カヅラキ・ユウが立ち去って、三十分ほどが過ぎていた。後に残された、黄金の皮を剥かれた林檎が、段々と酸化して白から薄茶色へ変色していく。それは、希望に満ち満ちていた開拓場が、廃墟と化したさまに似ていた。

「畜生」

 遣り切れなさに毒づいて、イルシンは小皿の上の変色した林檎を取って、齧った。ユウの味わった飢えの記憶を生々しく感じた後では、余計に心身に沁みる味がした。



「それで、全て話したのか」

 司令官室の執務机の向こうから、低い声で為されたチャン・レイの問いに、ユウは首を小さく左右に振った。

「いえ。伝えたのは、じぶんの、サン・マルティン封鎖時の断片的な記憶と、『幽霊』がカヅラキ・アサかもしれないという推測だけです。任務の内容については、伝えていません。けれど、これで、予定外ではありましたが、彼に、UPOに対するある程度の〈精神攻撃抗体(メンタル・アタック・アンティボディ)〉を持たせることができると思います。じぶんが彼に〈入力〉――〈接種(ヴァクシネーション)〉した情報は、UPOを弱毒化した〈精神攻撃抗原(メンタル・アタック・アンティジェン)〉、つまりUPO〈ワクチン(ヴァクシーン)〉そのものですから」

「成るほどな。予定以上に任務が遂行し易くなるという訳か」

 チャン・レイは、呆れたようにも嫌悪したようにも聞こえる声音で呟いた。


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