狂愛ラプソディ
注意事項
・主人公男。
・厨二成分過多。
・短編打ち切り完結。
そんな感じ。
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夏の日差しが降り注ぐ。僕は今日、この日を記念日にするつもりだった。
「よいしょっ、と」
声を出し、青い空を見上げながら、僕は屋上の手すりに手をかけると重心を移動。
一メートルの幅もない、柵の向こう側に降り立った。
この学校には、落下防止用の安全ネットなんて存在しない。従ってあと一歩を踏み出せば、僕はまっ逆さまに落下し、物言わぬ肉塊に成り果てるだろう。
そう思うと、今生が素晴らしい物だったようにも思えてきて、何だか感慨深い。
――まあ、つまらない人生に終止符を打つ為に、こうして死のうとしている訳だから、無論それらは錯覚なのだが。
それでも、こんな感情を味わえるのなら、やはり死ぬのも悪くないように思えた。
「じゃあ、逝くかな」
だから、僕はそう呟き、今生最後の一歩を踏み出そうとして。
「一体全体、貴方はそんな所で何をやっているのかしら?」
――屋上の扉を蹴破るようにして現れた、制服に身を包んだ黒髪の少女に声を掛けられた。
「何か御用でしょうか。用がないのならお帰り頂きたいのですが」
「特に用事は無いわね。敢えて言うなら貴方のお楽しみの邪魔をする事が、今の私の用事かしら」
僕は憮然とした表情に見えるよう顔を歪めると、少女へと対峙した。随分と芝居がかった話し方をする少女だと思う。
だが、不敵に笑う少女を見て、僕の心臓は少し高鳴っていた。
「余計なお世話です」
冷静を装って、僕はそう言った。まだ胸は高鳴っている、けれどこれは恋ではないと思う。
「ふふふ」
少女は「にたり」と笑った。その表情は美しいが、同時に酷くおぞましい物のようにも見えた。
と、そこで僕はようやく、自身の状態に気づいた。そう、僕は少女を警戒していたのだ。
長い黒髪、凛とした声、此方を見つめる、地味な眼鏡越しの眼差し。そのどれもが、目の前の少女をどこにでもいるような、普通の少女であるように見せている。
だが、それは錯覚だと思う。上手く言い表せないが、この少女を見ていると何というか、こう。詐欺師を前にしているかのような、そんな感覚に襲われるのである。実際に詐欺師に出会った事はないので、あくまで想像なのだけど、それが一番近しい例えだと思った。
まるで、得体の知れない存在を相手にしているかのような、そんな自分の足元が崩壊する光景を幻視させるような不安感。
そんなある種の圧倒的な存在感を持って、少女はそこに立っているのだ。
僕は思う。目の前にいるのは、少女などではない。化け物なのかもしれないと。だけど。
「チャンスかもしれない」
そんな想像に囚われながらも、僕の口からは自然に声が零れていた。
そうだ、これはチャンスなのかも知れない。
タイミングを見計らったように現れた少女への疑問や、邪魔をされたことに対する苛立ちはあるが、それは今は捨て置こう。
重要なのは、死ぬよりももっと退屈しない未来が、目の前に転がり込んだかも知れないというこの予感。
その予感に従う事なのだ。
「おいしょっ、と。……貴女は、一体誰ですか。お会いした事はありませんよね?」
僕はもう一度柵を乗り越えて、少女に話しかけた。心臓の高鳴りは、期待による物へと変わっている。
「誰だっていいじゃない、とも思うけど。イジワルしないで教えてあげる。これが初めてよ。そう、俗に言うファーストコンタクト。大切で運命的な、どこにでもありそうで実は中々ありえない、そんな不思議で奇妙な輝かしい出会いよ」
少女はより芝居じみた態度で、そう答えた。
「言葉遊びが好きなんですね。見ていて面白くもありますが、若干不愉快だとも思います」
「好きよ。会話は好き。黙々と自身の思考に没頭するのも好きだけれど、他者との関わりはそれはそれで、私大好きなの」
「不愉快といった件はガン無視ですか。あっ、その表情。確信犯ですね」
「うん!」
「頷かないで下さい。可愛くないですよ。何ですか? 酷いって? 酷くありませんよ。というか、僕にも話をさせてくださいよ」
「どうぞご自由に。私はいつでも準備OKよ。貴方の言葉を一語一句聞き逃さないであげるわ」
少女はそういうと、元気よく頷いた表情から一転して尊大な表情を作り、僕に話の続きを促した。
僕はといえば、この会話の応酬は心地よい気もするが、酷く疲れと内心で溜息を吐いていた。
「……僕も嫌いではありませんでしたが、最近は誰かとこんなにも長く話す事はなかったかもしれません」
だから、少し疲れた表情で僕は少女にそう言った。それに少女は満足そうに微笑む事で答えた。
多分、人間としての格が違うのだと思う。遊ばれているのだという事実が簡単に受け入れられた。受け入れられるだけの風格を少女は持っていた。
少女にとって、いや、彼女にとっては、僕なんて子供にしかすぎないのだろうと感じられた。
「会話は大切よ。……まあ、そうね。今日のところは私が話を聞いてあげるわ」
そう言って、彼女は僕の方にすたすたと歩み寄ってくる。そして。
「――だから、存分に思いを吐き出しなさい?」
耳元でそう囁かれた。
彼女の長い髪が僕の身体にかかり、その吐息が耳をくすぐった。
良い匂いがして、少し、くらくらする。
その時の彼女の表情は、僕と同じくらいの外見だとは思えないほどに、年上のお姉さん的な雰囲気を醸し出していた。
「馬鹿ね、それじゃあ駄目なのよ。確かに消滅したい、この世から消えてしまいたいという思いは分からなくは無い。だけどね、自殺は大罪なのよ? お世話になった色々な人に迷惑がかかるし、自分だけじゃなくて、他者の魂も未来も、過去すらも汚してしまう、そういう行為。それが自殺なの、だから禁止されているの。分かる? 生きると言う事はね。人の作ったマナーではなくて、生命として生み出されたい以上、全力を持って果たさなきゃいけないルールなの」
屋上の扉にもたれるようにして座る僕に、隣に座る彼女は至極当然という表情をしてそう言った。
「そんな事を言われても、正直楽しみを見つけられないのだから、しょうがないでしょう。学校や親に迷惑をかける事に罪悪感を感じなくもないですが、それよりもこのまま怠惰な生活を続ける選択をする方が、僕にとっては辛いんですよ」
「怠惰な生活、ねぇ。学校での成績はトップで、実家は金持ち。運動神経も人並み。容姿は男の癖に美人顔で涼やか。家族間の愛情は両親共に薄い方だけど、虐待を受けている訳ではないし、お小遣いも相当額を貰っている。貴方から聞いた話を総合すると、こんな所よね。……何よ、恵まれているじゃないの? 何が不満なのよ」
「敢えていうなら、不満がないことが不満ですね」
「貴方、刺されるわよその内?」
呆れたような表情で、彼女はそう言った。
だがそんなことを言われても、つまらない物はつまらないのだからしょうがない。
「僕だって自分の言ってる事が贅沢だという事は分かっています。だから、色んな事に挑戦してみたんですよ。でも、運動は正直楽しくありませんでした。仮入部までして色々やってみたんだけど、興味が全くもてなかったので諦めました。それに比べれば勉強は楽しいですが、正直授業で習う事は分かりきっていて退屈ですし、それ以外の知識は真偽を見極めるのが楽しかったりつまらなかったり。まあ、結局夢中にはなれませんでした」
「じゃあ彼女を作るとかどうなのよ? この際友人でも良いし。はっ、もしも貴方が男を好きだというのならそれでもいいわ!」
「彼女は数人作りましたが、やはり興味がもてませんでした。彼氏は作った経験がありませんが、一度柔道部に仮入部した時に先輩に尻を撫で回された経験があります。その時に酷く不愉快だと感じたので、残念ながら僕にはそっちの素質はないようです。友人は話が合わない、または出来ても直ぐに離れていくので、深く付き合った事がありません」
「何ていうか、貴方。ダメダメね」
そう言うと、彼女はこれ見よがしに溜息をついた。
まあ、自分でも現状はどうかと思っているので、その態度に怒りは湧かない。
というか、どうかと思い悩んでいるうちに面倒くさくなり「……死んでみるか」と思い立った訳だから、確かに色んな意味で自分は駄目人間である。
「自覚はあります」
そう真剣な表情で伝えたのにも関わらず、彼女は更に深く溜息を吐いた。訳が分からない。
「どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと疲れただけよ。……はぁ、最初は私の方が押してた筈なのに。まさか貴方がここまで天然だとは思っていなかったわ。お陰でキャラが崩れてきちゃったじゃないの」
「キャラ云々は自分で言う事じゃないと思いますよ」
「やかましいわ!」
怒鳴られて頭を軽く叩かれる。余り痛くはなかったが、微妙にひりひりする。
僕は彼女に無言のまなざしを向けてみたが、それはあっさりと無視された。
「まあ、死ぬ気はなくなったようで安心したわ」
「まだ何時死んでもいいとは思ってますよ?」
「黙りなさい」
「ごめんなさい」
再び頭を叩かれて、僕は素直に謝った。その後も、僕と彼女の雑談は続く。会話の合間に彼女から目を逸らして驚いた。もう夕方だ。
彼女もそのことに気づいたようで、若干残念そうな表情をした。
「あー、そろそろいかなきゃいけないわ。私、このあと用事があるの」
「……そうですか」
その言葉を聞いて僕を襲ったのは、落胆だった。だけど。
「だから、また明日この場所で会いましょう?」
「――はいっ!」
だけど、彼女の続く言葉に僕は思わず笑顔を浮かべてしまう。
――こうして、僕と彼女の名前も名乗らない奇妙な日々が始まったのである。
あれから一週間。
「へろー!」
「おはようございます」
今日も僕は屋上の扉を開ける。僕は毎日のように彼女と会話を重ねていた。
「君も大分明るくなったわねぇ。私としては嬉しい限りだわ」
「おかげさまで。貴女と会話を交わすお陰で、世界を見る目が変わりましたから」
そういって僕は彼女の隣に座った。
夏休み中だということも有り、友達もおらず習い事もしていなかった僕は、極めて暇をもてあましていた。
従って、僕はこの一週間、毎日のように彼女と会っていたのである。
「さーて、今日は何を話そうかしら。最高にクールで格好良い御話というのも、中々ないものよね」
「別に僕としては、退屈で退廃的で発展性のない不恰好なお話でも、大歓迎ですよ。貴女の話なら」
「あらあら、貴方も言うようになったわね。嬉しいわ。でもそう言われたら私としては意地でも、最高にクールで格好良い魅力的で発展的な漫談というものを繰り広げてみたくなるわね」
そう言うと、「むむむ」と彼女は唸りだした。
「……まあ、楽しい分には構いませんのでどうぞ、存分にその頭脳と話術を駆使して僕を楽しませてください」
僕は微笑んだ。
不思議な物だと思う。
死ぬつもりだった自分が、女子と仲良く話をしている。
「人生は先が読めない」等という言葉があるが、僕はそんなのは全くの嘘だと思っていた。にも関わらず、今はその言葉が理解できるのだ。その事実すら含めて、全く、生きると言う事はおもしろい。
そして思った。「この出会いに感謝を」と。
毎日がつまらなかった。
世界が無味無臭であるかのように思えた。
しかも、こんな風に沢山の事を人と話したのは、本当に久しぶりなのだ。それに加え、その相手は謎に包まれている少女ときた。何と素晴らしいことだろう。まるでドラマのような展開じゃないか。
彼女は前に冗談めかして「不思議で奇妙な輝かしい出会い」等と言った事があったが、僕にとってこの出会いは、冗談抜きでそういった物であるように感じられる。
改めて思う。素晴らしいと。
僕はあの日を自殺記念日にするつもりだった。だが、彼女のお陰でそれは大きく変わった。
あの日は僕にとって、世界を色づかせたもっと素敵で特別な「記念日」になったのだ。
だけど。
「っ! 逃げてっ!」
夜の闇が近づいた時間。赤色が柴色に変わる時間。彼女と僕の時間。平和で素敵な幸せの時間。
――そんな穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。
何に対して逃げろというのかが分からない。何故ならここは屋上だ。そうであるなら当然、横からトラックが迫ってくるなんて事はありえないし、空から何かが落ちてくるという事もまずありえない。竜巻による現象云々での落下事件は聞いた事があるが、そんな事態に遭遇する確立はそれこそ宝くじに当たるくらいの極小のものだろう。
だが、実際僕は鬼気迫る表情の彼女に突き飛ばされ、さりげなく埃と砂の積もっている屋上の地面を何度もバウンドするようにして転がった。そして、そのお陰で僕は命を取り留めた。
『ズゴンッ!』
轟音が響く。
痛む身体に鞭を打って視線を向ける。すると、今まで僕と彼女がいた場所に、巨大な氷柱が突き刺さっていた。意味が分からない。
何故突然学校の屋上に、雪祭りでもあるまいし縦3メートル横1メートルはありそうな、恐らく楕円形の氷柱が突き刺さっているのだろうか。いや雪祭りでもそんな物は突然発生しないだろうが。というか、そんなどうでもいい思考はさておいて。
――彼女は無事なのだろうか。
そう考えて、思考が白熱する。何も考えられないような、一つの思いで思考が埋め尽くされているような、そんな状態で僕は叫んだ。
「っ、……無事ですか!?」
彼女の名前を呼ぼうとして、けれどその名前を知らない僕は、そう叫んだ。
胸が痛い。何なのだろうかこれは。この状況も、この心も、僕には分からない事だらけである。天才と呼ばれた事だって、これまでの17年間に多々あったのにも関わらず、僕の頭脳は正しい答えを出せないでいた。
「無事よ」
だけど、そこに彼女の凛とした声が響いた事で、僕の思考はようやく通常状態へと戻る。
声のする方を向くと、彼女は屋上の更に上の部分。貯水タンクが置かれた一階分上の場所に佇んでいた。
「乱暴なまねをしてごめんなさい」
彼女は僕の方を向くと、そう謝罪した。僕は「そんな事はない」と「謝罪する必要なんてない」と彼女に伝えようと思った。
けど、出来なかった。
更に暗くなった空を見上げるように、ようやく明かりを灯し始めた月の光を浴びるかのように佇む彼女が。
先程までは黒色でありながら、今は虹色の輝きをその双眸に宿す彼女の姿が。
唯ひたすらに、美しすぎたからである。
「……本当は、貴方にはそのまま平凡で、それでも幸せな人生を歩んで欲しかったのだけど」
呆然と彼女を見つめる僕を見ず、彼女は嘆くようにそう呟きながら、前方を睨んだ。
それと同時に、彼女の周りに、凄まじい不可視の「うねり」が逆巻いた。瞳の輝きが増す。
「それは叶いそうにないから。せめて」
そこで、僕はようやく気づく。彼女の睨む方向、その先に。
一人の男が、悠然と浮かんでいる事を。残念ながら、月明かりを遮る雲の存在によって、その顔は判別できない。だが、それが友好的な存在ではない事はその身に纏う雰囲気から推し量る事が出来た。
「せめて今、この時は! 貴方を全力で救いましょう!!!」
そう言うと、彼女は跳んだ。――いや、飛んだ。
物理法則など無視するかのように空に浮き、空を駆け、男の下へと一瞬で距離を詰める。
そしてその勢いのまま彼女は、勢いよく拳を振り上げた。
『ズゴンッ!』
屋上から数十メートル程高い位置で、二人の影が交錯し、再び衝撃が響く。
だが、彼女の拳は届かない。
男は。恐らく僕たちに向けて氷柱を放った張本人であろう男は、彼女の「うねり」が凝縮されたかのような拳を片手で受け止めていた。
「取りあえず、邪魔だ。退け」
男が、いや、少年の声が夜の空に響いた。硬質な声だ。其れと共に、月明かりが射し込み、少年の顔を照らす。
彼女が掴まれた拳を引き戻すかのように後退し、更なる「うねり」をその身に纏う。
「どかないわよ。さっさと消滅しなさい」
だが、僕はそんな事よりも男の顔に注目していた。
何故なら、男の顔。それは、僕が毎朝鏡越しに見慣れている顔で。
この詰まらないと思い込んでいた人生を共に生きてきた顔で。
――それは紛れもなく、僕自身の顔だったのだから。
「威勢が良いのは結構な事だが、貴様程度にそれが出来ると思っているのか?」
「貴方程度なら何とかなるんじゃないかしらん?」
そう言って、彼女ともう一人の僕は対峙する。
僕はそんな二人を見上げる事しか出来なかった。
「舐めるな小娘!」
轟音が鳴り響いた。大きな月を背景に、二人は幾度となく交錯する。彼女の拳が閃き、彼を打ち抜こうと振りかぶられた。
だが、彼は黒い闇色の輝きをその瞳に宿すと、冷気のようなものを身体全体から放出する。
次の瞬間、それらは楕円の氷刃となり彼女を襲った。
「しゃらくさいわねっ!」
だが、彼女は無傷だった。彼女は氷刃を物ともせずに再度男に近づき、その数メートル手前で急停止。拳をその場で振りかぶると、拳に集中させて纏っていた「うねり」をその場で拡散。衝撃波を生み出し、それらを全て打ち落としたのである。
「少しはやるようだな。だが、これはどうかな?」
若干感心したかのような表情で彼はそういうと、瞳を輝かした。その身に纏う冷気が増大し、氷刃が巨大化する。
そして、風切音。
一斉に発射された氷刃は、夜空を埋め尽くさんとばかりに、まるで流星群のように彼女に襲い迫る。
それは絶望的な光景だった。少なくとも、状況の推移に半ばついていけず、空を見上げるしかない僕にとっては絶望的な光景だった。
だが、彼女にとってはそうではなかったようだ。
「舐めるな小童っ!!!」
彼女が咆えた。
虹色の瞳が一際多く輝く。彼女の身体の周りを、竜巻のような強大な「うねり」が渦巻いていた。
「喰らいなさいっ!」
彼女は片手を掲げると、その「うねり」を彼に向けて打ち出した。
渦巻いて、逆巻いて、彼女の「うねり」は全てをねじ切った。だが、それだけではない。氷刃を全て粉砕すると、その「うねり」は彼へとその魔手を伸ばした。
その声を聞いて最初、僕は彼が悲鳴を上げているのだと思った。不可視の暴虐にその身を切り刻まれ、苦痛の声を上げているのだと思った。
だが、違ったのだ。
「ぬおぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!」
彼は叫んでいた。
僕と同じ顔を醜悪に歪め、自らの力を振り絞る為に、雄叫びをあげていたのである。彼の双眸が、輝きを増した。
その瞳は既に血を流しているが、彼はその何らかの行為を止めない。
「俺もアイツもお前も世界も皆ミンナミンナミンナ凍て付かせてやるわぁっーーーーー!!!」
彼の叫びと共に「うねり」が凍て付いていく。
いや、「うねり」だけじゃない。彼を中心として世界が凍りついていくかのようだ。
「ちっ、面倒くさい奴ね。彼から生まれた存在だとは思えないくらいにうざいわ。まるで靴底についたガムのよう。貴方なんてお呼びじゃないのよ。さっさと消えなさい!」
徐々に凍り付いていく世界。屋上にいた僕もまたその被害を受けようとしていた。何せ屋上は、というか。今やこの学校は吹雪に襲われていたのだ。その震源地から近い僕が無傷で入れるわけがない。
だけど、突然彼女から放たれた「うねり」が僕の身を守り、吹雪の舞う屋上の中で唯一の安全地帯を作り出した。更に「うねり」は、僕の冷え切った体温を暖め、傷を癒していく。
「これ、は……?」
まるで彼女の体内にいるかのような。そんな安心感。それを僕は感じていた。
頭上の彼女と目が合い、微笑まれる。
「君、もうちょっと待っていてね。――すぐに終わらせるからっ」
彼女はそう宣言した。そして告げる。
「私の意志は貴方程度の存在に揺らがない。あの子の心の一欠片よ。あるべき場所に帰りなさいっ!」
高らかな声。それが世界に響いた。
そして、世界はそれに呼応するかのように、捻じ曲がった。
信じられなかった。これまでの光景も現実に喧嘩を売っているとしか思えない光景だったが。これは少々いきすぎではないかと思う。
だって、文字通り世界が捻じ曲がっているのだ。
空間が蜃気楼のように揺らめいているが、それが幻覚ではなく実際に捻じ曲がっているという事実は、きっと赤子でも理解できると思う。
それは、本能による理解。それこそが、人が生まれながらに持つ何かが自分に告げる、真実なのだから。
光が歪められた。
闇が歪められた。
凍て付いた空気が歪められた。
猛威を振るう吹雪が歪められた。
そして。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
彼が歪められた。
「さよなら、凍て付いた貴方。そしておめでとう、新しい君」
全てが歪む世界の中で、彼女が彼を見て呟く。
「そして、さようなら新しい貴方。もう会う事はないでしょうけど、それでも精一杯いきなさい」
――その言葉が、僕が覚えている最後の彼女の声だった。
気がつくと、病院にいた。
あれだけ唐突で現実的な被害をもたらした、危険で幻想的なファンタジーの震源地にいたのだからしょうがないとも思う。
だが、目が覚めて誰もいないという事に僕は一抹の寂しさを感じていた。彼女と出会う前だったら、こんな気持ちなんて感じなくて済んだのに。
でも、何も感じなかった自分が幸せだったかと聞かれれば、きっとそれは違うのだろう。
「知らない天井だ」
普段なら絶対言わないような冗談を呟いて見る。所謂「お約束」という奴だ。
これも彼女から教わった。楽しみ方なんて人それぞれ。どんな事でも視点を変えれば違った景色を見せるのだ。
「さてと、ナースコールでもするかな」
そう呟いた僕は、恐らくそこら辺にあるナースコールを探そうと、ベッドから身体を起こそうとして、胸の上に載っていた手紙の存在にようやく気づいた。
僕はその差出人の事を思い浮かべて、丁寧に手紙の風を破ると、それを読み上げる。
――それには、こう書かれていた。
『名前も知らない君へ。私が貴方と出会って一週間余り。過ごした時間は多くはないけれど、その時間は私にとってとても大切な物となりました。貴方はあの光景を、貴方が病院に運ばれる原因となったあの夜の出来事を、覚えているでしょうか。……恐らく、覚えているでしょうね。残念ながら、私は貴方の記憶を操作する術をもたないので、きっと覚えているでしょう。だから、私は貴方に真実を教えようと思います。といっても、こんな手紙には書ききれない事が多すぎて困るのですが。それでも、知っておいて貰わないといけないことだから』
そこまで読んで、僕は溜息を吐いた。
「あの人、手紙だと丁寧口調になるんだ。知らなかったな」
そのまま、手紙を読み進める。
『まず、今から記す事は全て事実です。その上でこの先を読み進めてください。――最初に、多元世界論という物をご存知でしょうか。貴方は頭が良いので、知っているかも知れないですね。これは簡単に言えば、世界は沢山あって、この世界も沢山の世界の中の一つにしか過ぎない、という考え方です。ちなみにそれらの世界では、この世界では空想とされているような種族や武器、魔法なんかが存在したりします。そしてこの考え、信じがたい事に列記とした事実なんです』
「……続けよう」
『世界は沢山あって、実を言うと私も、この世界ではない世界。つまり貴方にとって異世界からやってきました。私は所謂そうですね。トリッパーと呼ばれる、他の世界への転移を可能と出来る性質を持った人間でした。私は始めは普通の人間でしたが、後に魔眼と呼ばれる種類の不思議な力を身につけました。そして、気がついたらこの世界に。あの屋上にいたのも、この世界の貴方と私に共通点があったからだと思います』
「SF小説もびっくりですね」
『あの時現れたもう一人の君。魔眼を持った彼。それを倒す事が今回の私の使命でした。もう一人の貴方は、君の虚ろな心の欠片。君自身の力の一部です。どうして発生したのかは知りません。正直一部にしては強すぎたので驚きましたが、私も本気を出していないのでそこはアレです』
「アレって何でしょうか?」
『とにかく、私が伝えたいのは、貴方はこれから様々な事態に巻き込まれることになるだろう、という事です。貴方に直接原因がある危機は防ぎましたが、この世界にも魔法結社や悪の秘密組織、または大規模生物災害や宇宙からの侵略者がやってこないとは限りません』
「勘弁して欲しいですね」
『更に、私と共鳴した貴方自身。トリッパーの素質があるのかもしれません。だとするなら、貴方がそれらの事態に見舞われている世界へと転移してしまう事も充分にありえます』
「……本当に、勘弁して欲しいですね」
「なので、私は改めて貴方に伝えます。精一杯行きなさい。死を望む事は許しません。私が助けたんですから、死んではいけません。いつか再び、貴方と出会える事を願っています。それでは、また会いましょう」
手紙を読み終えて、頭の中がぐるぐるになった僕は楽しげに笑った。
「また、また会いましょう、か」
呟く。そうだ、会いたい。
――あの人に、会いたい。
そう考えれば、この先に待ち受ける運命の全てが待ち遠しく感じてきた。
何分、つい最近まで詰まらないから死のうとしていた人間である。恐怖など感じない。
だから僕は、ナースコールを探すのを止め、今はもう一眠りする事にした。
そう。
――大切なあの人との、再開を願って。
「という夢をみたんだ」
「まさかの夢オチですかっ!?」
放課後の美術室。僕と後輩である彼女以外には誰もいないこの場所に、彼女のそんな声が響いた。
ちなみに、僕は今までずっと絵を描きながら話していたのだが、その作業ももう佳境に入る。話ながらも集中は途切れさせていなかったので、良い絵が出来上がりそうである。
「からかったんですね!? 信じられません、こっちがこんなにも胸をときめかせながら真剣に聞き入っていたというのに!」
そういって、後輩はぷんぷんと怒りを露にした。子供っぽいその表情は見ているとほっぺたを摘みたくなるほどに愛らしい。とても僕の悪戯心をくすぐってくれる表情だ。
だから僕は会話の一部分で彼女の声真似をして、こう言った。
「なんだっけ。あー、そうそう。君が『先輩っ、先輩の初恋の話をしてください!』だなんて事を言ってくるのがいけないんだよ。そういうのは胸に秘めて思い出の中にそっとしまっておく物なの。少なくとも僕はそういう主義。異論は認めない」
「認めてもらいます! 好きな人の恋愛経験が気になるのは、乙女として当然のことです!」
いつから乙女という言葉は、傍若無人の免罪符になったのだろうか。僕は心の中でそう思いながらも、元気の良い後輩の姿に思わず微笑み、とりあえずその叩きやすそうな頭頂部を軽く叩いておいた。
「痛いですっ、愛が痛いです! お嫁にいけなくなったらどうしてくれるんですか!」
「少なくとも、僕はこの程度の事で君をお嫁に貰うつもりにはなれないよ。それと、今の一撃に含まれているのは師弟愛に近い物だと思うよ」
ぽかりと、軽い音が鳴る。それを受けた後輩が大げさに咆えた。
後輩は頭をさすりながら、うっすらと涙目になりながら此方を見上げている。
「うー、先輩のイジワルぅ」
「そんな意地悪な人間を好きになったのは君でしょ。良かったじゃないか、好意を抱いた人が猟奇殺人者だったりしないだけでも幸福と思わなきゃ」
「そんな最悪なケースを想定されても困りますっ! 全くもー、先輩の馬鹿っ!」
ぷいっと、後輩がそっぽを向いた。それと共に左右のツインテールが軽やかに揺れる。
「ごめんごめん。許してよ。お願い?」
可愛いなぁ。
そう思った僕は笑いを堪えながら、少し腰を低くすると後輩の耳元でそう囁いた。うっすらと後輩の髪からはシャンプーの香りがする。良い匂いだ。
そんな事を考えながらその体勢で膠着していると、ふと後輩が呟いた。
「……先輩は本当に酷い人です。私のこと好きでもないくせに、そんな風にからかって。でも本当に私が嫌がるようなことはしないから、嫌いにもなれなくて。タチが悪いんですよ、先輩のばか」
僕は後輩の顔を覗き込む。顔は真っ赤だが、表情は寂しそうだった。少しからかいすぎたかもしれないと思う。
だから、僕は少し真面目な表情になって、素直な自分の気持ちを後輩に伝える事にした。
「ごめんね。本当にごめん。でもね、君だから特別に教えてあげる。聞きたい?」
「……何ですか。しょうがないから聞いてあげます」
素直じゃないなぁ。そう思いながら、僕は緊張に強張った後輩の身体に、密着するように更に近づいた。
そして、大切な物に触れるように、その頭をなでながら話し始める。
「昔どこかに、一人の『人生なんてつまらない』と勘違いした少年がいて、その子を救った少女がいたのは本当の話だよ。そして、彼女はもう少年の傍からいなくなってしまったけど、未だに少年にとっての一番は彼女なんだ」
「そう、ですか」
「でもね」
どこか諦めたような、そんな普段は快活な彼女らしくない表情を見て、僕の胸がちくりと痛む。
だから、僕はその頭を撫でる手に、今までよりももっと優しい気持ちを込めて囁いた。
「その少年の一番は今でも彼女だ。けどね。前を向いた少年には、それから色々と大切な物が出来始めたんだ」
「大切な物、ですか?」
後輩の表情から、寂しげな表情がなくなった。でも、その代わりに浮かんでいるのは縋るような、睨むような、そんな表情だ。
僕は最後にぽんぽん、とその頭を叩くと、身体を彼女から離す。彼女の表情に残念そうな感情が一瞬浮かんだ。
僕は言葉を続ける。
「そう、大切な物だよ。でもね、今の少年にはそれが少しづつ増えていて、でも少年はまだそういうところが不器用だから、時々大切な物を傷つけてしまうときがあるんだ。――そう、例えば、自分の事を好きになってくれて猛烈なアプローチを仕掛けてくれる後輩とかを、傷つけてしまう時が」
静寂が満ちる。
それを破ったのは、少し震えた後輩の声だった。後輩はまた後ろを向いていた。
「……よく恥ずかしげなく、そういう事言えますね」
「いったでしょ。不器用なんだよ」
「器用だと思います」
「不器用なの」
「ばか」
「ばかかもね」
「成績トップの癖に」
「でも馬鹿なんだよ」
「私傷ついたんですからっ」
「じゃあお詫びをしなくちゃね。何が良いかな?」
僕の中には、何故だか優しい気持ちが溢れ出していて。
僕がそう言うと、彼女はやっと此方を向いて、にぃっと満面の笑顔を見せた。
「しょうがないから、駅前のムックでご馳走してくれたら許してあげます!」
「うん、ありがと。……それじゃあ、僕は片付けてからいくから、玄関口で少し待っててもらえるかな?」
「いやです! わたしここで待ってます、異論は受け付けません」
「ん、わかった。それじゃあ、片付け手伝ってくれるかな?」
既に片づけを始めながら、僕は後輩にそう告げる。
それに後輩は良い笑顔で答えた。
「それはいやです!」
「ふふふ、わかった。ちょっと待っててね」
意趣返しのつもりなのだろうか、僕は元気良く断った後輩を見ながら、自然に微笑んだ。
そして、片づけを終え美術室の鍵を職員室へと返すと、駅前へと向かった。
すると、その道中。もうすっかり元気の出た後輩が、此方を見上げながら首をかしげた。
「そういえば先輩。結局、あのお話はどこまで本当だったんですか?」
「あのお話ってなんだっけ?」
「あの屋上の話ですよ。先輩のばか」
この子は僕を馬鹿というのが好きだなぁ。いや、馬鹿じゃなくて「ばか」かな。
憮然とした表情になる後輩の頭を軽く叩きながら、僕はそんなことを思う。
「どうだっけ、忘れちゃったなぁ」
「……やっぱり、先輩のばか」
僕は腕を組むと、何かを考えているような表情を作った。それを見た後輩は、諦めたような表情で地面を見て、溜息を吐く。
「あれ、成績トップなんだけどなぁ、僕」
「それでもばかなんですよ。先輩は」
「まあ、いいじゃないか。ほら、もうすぐ着くよ?」
「……べつにいいですけどぉ。あっ、先輩、星が綺麗ですよ!」
急に僕の腕を掴んで、後輩が空を見上げた。
「本当だ、綺麗だねぇ」
遠いけれど、美しい夜空がそこに広がっていた。僕と後輩は、空を見上げながら道を歩く。
「本当、あの日の空みたいだ」
「ん? 先輩なにか言いました?」
「ううん、独り言だよ」
「そうですか」
一瞬納得がいかないような表情をしたような後輩は、そう言うと気を取り直して、僕との距離をさりげなく縮めた。
僕はその事に気づかない振りをした。
――夜空を見上げる僕の瞳は、かすかに闇色の輝きを放っていた。