03 投手の資質
伊弦はその日、高校生になってから初めて、公園での素振りをしなかった。
徒歩たった十五分の夜道を足早に歩いて、伊弦は自宅まで帰った。今日はもう、誰とも顔を合わせたくなかった。
「ただいま」
小さな声でそう言って、二階へ続く階段を駆け上がる。
「あれ、伊弦。もう帰ってきたん?」
階下から美代子が声を掛けてきたが、伊弦は無視して自分の部屋に入ってドアを乱暴に閉めた。バットケースを壁に立てかけて、伊弦はベッドに倒れ込んだ。身体は疲れていないのに、何でかしんどい。
自分の他には誰もいない部屋の中で、白い天井を見る。
そこにはやっぱり、幻があった。
脳裏にこびりついて離れないその映像が、いつものように天井をスクリーンにして投影されるのだ。
いくら今の海原と幻影の中の海原を分離させたところで、幻が消えてくれるわけではないのだ。今までならば期待もできたろうが、今となっては「こうあってくれたらよかったのに……」という虚しさだけがそこに残る。
瞼が怠くのしかかってくる。そこで、伊弦は大事なことを思い出した。
「あ、風呂」
着替えたとはいえ、身体は汗でベトベトのまま。明日は入学式だがいつも通り朝練はあるし、朝風呂に入っている時間はない。仕方なく、伊弦はベッドから起き上がって一階の風呂へと向かった。
「かーさん、先、風呂入るわ」
リビングの方に向かって声を掛けると、美代子がわざわざ廊下に顔を出した。
「あんた、練習はどうしたん?」
聞かれたくなかったことを言われて、伊弦は顔をしかめた。
「別に。ちょっとしんどかったから帰ってきただけや」
「しんどかったからって、風邪ひいても素振りしてたような子が何言うてんの。なんかあったんやろ?」
「何もあれへん。放っといてくれや」
吐き捨てるように言って、伊弦は脱衣所へ入った。今はとにかく、誰にも邪魔されない一人の時間が欲しかった。
***
朝練の時間にちゃんと来るのは二年生九人のうち、おおよその場合、六人ほどだ。
来ない三人は国光栄治、沢村陽、上條良亮である。
国光は朝は自主練習をしているために来ないのだが、他の二人は違う。一言で言えば、ただの寝坊だ。上條はまだ三回に一回程度の頻度で朝練には参加するからよいが、沢村に関しては、朝練に来ればその日は槍が降るとまで言われている。
入学式当日も勿論のこと、朝練に参加しているのはいつもの面々であった。
伊弦は毎朝一番に来て部室の鍵を開けている。いつものようにロッカーに鞄を置いて練習着に着替え始めると、部室の扉が開いた。入ってきたのは桑原祐介だった。
「おっす、伊弦」
「おはよう、桑原」
桑原はチーム一の守備力を誇るのだが、ショートの守備は上條に譲り、自分はセカンドを守っている。なんでも、憧れの選手が二塁手だったとかで拘りがあるのだそうだ。
それにしても、今日の桑原は柄になく何処かで聞いたことのあるような鼻歌を歌ったりして、上機嫌であった。
「なんか良いことでもあったんか?」
尋ねると、桑原は鼻歌を鳴らしながら答えてくれた。
「今日は入学式や。ってことは、一杯新入部員が入ってくる。良亮の後輩も入ってくるらしいしな」
「へえ、上條の後輩かぁ」
その話は初耳だった。入ることが決まっている者がいると、最低限かき集めなくてはならない人数が減るため少し気が楽になる。
桑原は制服を脱ぎながら話を続ける。
「今年は新たな戦力海原も入ったことやし、大会上位狙えるやろ」
聞きたくない名前だった。昨日の晩はどうにか美代子を誤魔化せたものの、流石に野球部員に隠し通すことは出来ない。一度正直に話した方が楽になるだろうと、伊弦は思った。
「……その、海原のことやけどな」
「ん?」
「あいつは、もう野球部辞めたから」
「……は?」
その言葉を伊弦が発した途端、桑原は上半身裸のまま絶句してしまった。そしてその直後に、再び部室のドアが開いた。
「何事や、祐介。そんな格好で固まって」
声の主は仁田崎慎吾だった。そして、その後ろから続けて木更津亮と八幡博臣が部屋に入ってきた。
「……ちょうどええとこに来たわ、お前ら。ちょっと伊弦の話聞いたってくれや」
桑原が、制服のワイシャツを着なおしながら言った。
「なんや伊弦、恋愛相談か?」
八幡がふざけた風に言うが、桑原はもちろん、伊弦もクスリとも笑わなかった。それでようやく場の雰囲気の深刻さを理解したのか、八幡はすごすごと仁田崎の後ろに引き下がった。仁田崎はため息をついて、それから伊弦の顔を見た。
「……で、伊弦。話ってなんや?」
「海原が野球部を辞めた」
「なんやって?」
躊躇いもなく言うと、仁田崎だけでなく八幡や木更津も、桑原と同じような反応をした。
「だから、海原はもう野球部の練習には来おへん」
「いや、昨日の今日で何があってん!? ちゃんと分かるように説明せえや!」
声を張り上げたのは木更津だった。
「せっかく海原が入ってきてこれからってところで、なんでその海原が辞めんねん! 何があったんや!?」
伊弦は、ピッチャーとしての木更津の気持ちは痛いほどによく分かっているつもりでいた。これでも一年間バッテリーを組んできたのだ。一年間チームの為に投手として頑張ってきて、新しい部員にエースを譲って、その挙句に譲った筈の相手が部を辞めてしまうなど、腹が立つのも当然のことだ。伊弦の視線は自然と床の方へ向いた。
「ちょっと落ち着けって、亮。お前の気持ちも分かるけど、怒鳴ったってしゃあない」
「――っ、ああ、分かってるよ」
激昂する木更津を諭したのは仁田崎だった。二人は中学時代からの同級生で、他のチームメイトに比べて仲も良かった。
「で、何があったんや?」
仁田崎に促されて、伊弦は重たい口を開いた。
「昨日、一打席勝負したんや」
「海原と?」
八幡が質問をした直後、仁田崎が彼の頭を叩いた。
「あ痛。何すんねん」
「海原以外に誰がおんねん。お前はアホやねんから黙っとけ」
「事実だけどそれは酷いやろー」
一連の会話を聞いて、いつもなら笑っていたのだろうが、今日はこの部室にいる誰もがそんな気分ではなかった。八幡もそれを察して、少しでも和ませようとしてくれているのだろう。
「続き話すで」
「おう」
「出来るだけ詳しくな」
仁田崎と桑原の返事を聞いてから、伊弦は話を続けた。
「その勝負で、俺はあいつの球をホームランにしたんや。やのにあいつ、少しも悔しがらんかった。国光ん時もそうやった。打球を振り返りもせんと、涼しい顔してマウンドに立っとるんや」
「そういえば、確かに海原、国光に打たれた時全然悔しそうにしてなかったな」
八幡が昨日のことを思い出して言った。他の面々も、その言葉に納得したような顔をした。
「やけど、そのことと海原が辞めることとどう関係があんねん。ホームラン打たれて落ち込むよりかはええやろ」
仁田崎が言う。そう、それは間違っていない。投手であるには打たれてもそこで折れない強いメンタルが必要になる。だが、そうではない。投手が持っているべき資質というものは――
「打たれたくないっていう気持ちがないんや、あいつには。そんなピッチャーの球を受けるくらいやったら、一緒になって悔しがれる木更津の球を受けたい」
「伊弦……」
木更津の口から声がこぼれた。
伊弦はこの一年間で、お世辞にもいい投手とは言えない木更津と共に、打のチームと称される伊崎第一の守備を支えてきたのだ。一年生だけのこのチームがそれなりに戦えたのは、木更津のその負けん気があったからこそだ。打たれて悔しがった。焦りもした。泣きもした。能力ではない。木更津には、投手として必要なものが備わっていた。
そして、海原にはそれがない。ただそれだけのことだ。
部室に居る者は、誰も言葉を発そうとしなかった。いや、出来なかった。
一年間木更津亮という投手を見てきた。伊崎第一のエースの姿を目に焼き付けてきた。だから、投手に必要なものが海原に備わっていないことが、昨日のたった一打席、いや、一球だけの勝負で分かったのだ。
空気が重い。伊弦は、これ以上海原のことを話す気にはなれなかった。
「話は終わりや。これ以上何か聞きたいんやったら、海原の方に行ってくれや」
「お……おう」
仁田崎が返事をしたのをきっかけに、伊弦は着替えを始めた。
木更津は複雑そうな表情を浮かべていて、八幡は伊弦の話に納得したようであった。唯一、桑原だけが伊弦を睨んでいた。
短いですが、区切りがいいところで投稿します。