02 勝つ気
たぶん、良くてこのペースになります。
結局伊弦は、その日の練習ではずっと海原の球を受けていた。
もともと木更津と二人でしていたことの相手が海原に変わっただけだ。海原の球が漫画みたいに速いわけでもなく、暴投をするわけでもない。むしろ木更津より制球力はある。試合の中では、それだけでも随分違うだろう。
練習からの帰り道で、伊弦は自分の左の手のひらを見た。
乾いた革越しに伝わる白球の感触を思い出す。
それは、自分が求めていた感触とは少し違う。
きっと、捕ったときに全身の毛が立つような、そんな球。それが、あの夏の海原昴の球だったはずだ。
しかし、今の海原の球にはそんな面影などない。
スリークォーターのあいつは、平凡な、全国にごまんといるようなピッチャーだ。
何故アンダースローをやめたのか、本当はすぐにでも問い質したかった。
伊弦は左手を握り締めた。
――そんなこと、できない。海原が自分で決めてそうしているのだから。
「はぁ」
無意識のうちにため息が出た。ぶんぶんと首を振って、頭を切り替える。明日は入学式だ。後ろ向きなことを考えるくらいなら、新入生に期待しなくてはならない。
「ただいま」
玄関のドアを開ける。奥のリビングから伊弦の母親である美代子がおかえり、と返事をしたのが聞こえる。
一度二階にある自分の部屋に荷物を置いてきてから、伊弦はリビングに顔を出した。
「かーさん、飯、できてる?」
そう言いつつ、ダイニングテーブルの上を見ると、餃子の盛られた大皿と、既にご飯の盛られた伊弦の茶碗が置いてあった。
「見たらわかるやろー」
美代子がキッチンのほうからひょこっと顔を出した。伊弦は苦笑して、
「ニンニク入ってへんよな?」
スタミナがつくというが、伊弦はニンニクは苦手だ。食べれないことはないから、食卓に出たら口には運ぶけれど、伊弦にとって積極的に食べたいものではない。
しかし、美代子はにやりと笑った。ああ、嫌な予感しかしない。
「たっぷりと入れておいたから、さっさと食べて自主練してきなさい」
美代子はこうして、伊弦を応援してくれている。家に帰る頃にはこうして夕食が作ってあり、すぐに食べて運動公園に練習に行ける。汗臭いままでも、何も文句は言わない。伊弦はそんな美代子に感謝していた。
だが、それとこれとは別問題である。
「残していい?」
「駄目に決まってるやろ。晩飯抜きにすんで」
そう言われれば、もう食べるしか道はない。伊弦はしぶしぶ席に着いて、餃子を口に運んだ。明日口が臭くなることは覚悟しなくてはならない。
極力女子の前では話さないようにしようと、伊弦は心の中で誓った。
***
運動公園までは、家からだいたい十五分で着く。この公園は交通量の多い道路に面していて、そのうえかなり広い敷地があるため、夜でも多少の音では近所迷惑にならない。それが理由で、伊弦はここを練習場所にしているのだ。
もう五年くらい使い続けているバットケースを背負って夜道を歩く。
白いTシャツの上に黒いウィンドブレーカーを羽織り、下も、同じく黒いジャージという出で立ちだ。各所に白いラインが入っていて、夜でも人が歩いているということはわかる工夫が施されている。
春の風が吹く。目の前を、どこからか飛ばされてきた桃色の欠片が横切った。どこかで桜の花弁が散っているのだろう。入学式頃になると、桜には幾らか緑が混じり始める。伊弦が入学したときもそうだった。
大通りに出る。そこに見覚えのある後姿があった。
「海原」
声を掛けると、海原は振り返った。有名なスポーツブランドのエナメルバッグを肩にかけている。
「あ、えっと、東谷……だっけ」
転校初日で、まだ名前と顔が一致しないのだろう。伊弦は転校した経験がないが、高校に入ったときは同じような感じだった。仲のいい友達は殆ど別の高校に行ってしまった。
「伊弦でええ。みんなそう呼んどるし」
そう言うと、海原の顔が少し綻んだ。
「そか、じゃあ、伊弦で」
「おう、やっぱその方がしっくりくるわ。海原も自主練か?」
海原は頷く。
「まあな。そう言う伊弦もバット持ってるってことは自主練か」
「公立は練習時間が短いからな。夜はみんな練習してるんや」
「へぇ」
並んで運動公園へ歩く。あそこには壁当てのできる場所もあった。
海原を見る。
背は伊弦と同じくらい。しかし、海原は華奢だ。特に上半身に関しては、アンダースローの投手は筋肉がつき辛い。投げ方を変えてからそう長く投げていないのが何となく伝わってきた。
この細い腕から、あの鋭く浮き上がるようなストレートが放たれるというのが、想像できなかった。
「なあ」
「ん?」
海原が伊弦の方を見る。
「海原が前通ってた高校って、どんな感じやったん?」
伊弦と海原はバッテリーになる。キャッチャーはピッチャーの性格をよく理解してリードしなくてはならない。海原がアンダースローをやめた理由を知りたいから聞いたのではない。ただ、少しでも、海原のことを知れたらという気持ちからだった。
海原は少し逡巡して、口を開いた。
「別に、普通の学校だったかな。野球部は弱くて、全然勝てなかったけど」
「へぇ。公立やったん?」
「いや、私立。実は高一の始めはこっちにいたんだけど、向こうへの引っ越しが決まったのが急だったから、公立の編入試験受けるほど勉強してなかった」
「ってことは、兵庫出身やったんや」
中学の時に市内大会で対戦経験があるのにそんなことを聞く自分を、伊弦は心の中で自嘲した。
海原は頷いて、
「まあ、そういうことになるのかな」
「それにしては、海原って関西弁じゃないねんな」
純粋な疑問だった。海原は小さく息を吐いて答える。
「もともと親父が転勤多くて、小さい頃から長く同じとこにいなかったからな。そこの言葉覚えようっても、その前に転校だったし」
確かにそうだ。頑張って方言を覚えてもすぐに転校してしまうなら、覚えるだけ無駄というものだ。しかも、それだけ転校が多ければまともに友達もできないだろう。そんな時間を過ごしてきた海原の気持ちが伊弦には想像できなかった。
野球はチームのスポーツだ。
ピッチャーが絶対的な力を発揮したところで、点が入らなければ勝てない。バットに当てられれば、後ろのチームメイトに任せなくてはならない。チームワークを磨く機会がないというのは、想像以上に恐ろしいものなのだ。
仲間に恵まれてきた伊弦には、それはわからない。
話しているうちに公園に着いた。夜の運動公園には人がおらず、静かだった。いつも、聞こえるのは伊弦のバットが風を切る音だけだ。
伊弦はバットケースをいつもの時計の下に下ろし、中からバットを取り出す。
「じゃ、俺壁当てしにいくわ」
海原が、そう言って立ち去ろうとする。
そのまま見送ればいいのだ。頑張れよ、と一声掛けて、いつもしているように素振りを始めればいいのだ。
しかし、伊弦の口から出たのはそんな言葉ではなかった。
「海原、一打席だけでいい。俺と勝負してくれんか?」
海原よりも、伊弦自身がその言葉に驚いていた。
勝負なんてする必要はない。
今の海原のボールなら、簡単に打てることだろう。しかし、伊弦はキャッチャーで、海原はピッチャーだ。球を受ける側である自分が、相手の自信を削ぐようなことをするべきではない。
わかっていたはずだ。自分が見ている海原が過去の幻影であると、さっき言い聞かせたばかりじゃないか。
なのにどうして、この口から、こんな言葉が飛び出したんだ?
海原は、案外落ち着き払っていた。伊弦が勝負を挑んだことには眉を少し上げたが、それ以上はなかった。
「いいよ、やろう」
ただ、それだけ。
吐き捨てるよな、その言い方に、伊弦はやはり違和感を覚えた。
海原は負けることを恐れてはいない。しかし、勝つことを考えていない。今の海原には、覇気がない、という表現がぴったりと合う。
バットを握る。
海原もバッグを置いて、中からミットとボールを取り出した。
「向こうでやろう。打球が道路に出ると危ないし」
海原が、壁当て用の壁がある方向を指差した。この公園は、そこをホームにすれば一応、小さく扇形をとることはできる。極端なファウルボールや大ホームランでもない限り道路に出ることはないだろう。
伊弦は頷いて、海原についていく。
およそ十八メートルの距離をとり、伊弦と海原は向かい合った。
あくまでここは公園で、マウンドは存在しない。海原は投げづらいだろうが、そのハンデがなかったところで、さほど結果が変わるとは思えない。
やはり、海原は肩を温めはしない。伊弦に勝とうという気がないことだけは、ひしひしと伝わってきた。
伊弦は一瞬だけ夜空を見上げてからバットを構えた。それは、伊弦が打席に立つ際に必ずしているルーティンワークだった。気を落ち着かせる、という意味もあるが、空だけを見ることで、不思議と集中できるのだ。打者と投手だけの世界に完全に入り込む。そのための儀式のようなものだ。
海原が胸元にミットを構える。
大きく腕を振り上げ、しなる右腕から白球が放たれた。
瞬きをする程度のほんの一瞬が勝負。
その一瞬の戦いを落とさないために、伊弦は毎晩素振りををしているのだ。
凡百の投手が、伊弦の相手になる訳がなかった。
バットの芯がボールを捉える感触。
伊弦は構わずバットを振り抜いた。
レフト方向に飛んだ白球は、雲の浮かぶ夜空をしばし滞空し、海原の背後、公園の隅の花壇に落ちた。おおよそ、九十メートルだろうか。球場によってはフェンスを越えているだろう。国光のように確実にホームランと言える距離ではなかった。
伊弦はバットを地面に置く。
海原が溜息を小さくついて、ミットを外した。負けて当然、というふうで、悔しさの欠片も窺えない。
伊弦は、腹が立っていた。
野球はチームスポーツなのだ。全員が勝とうと思わなければ勝てる試合にも勝てない。人数ギリギリでやってきた伊崎第一野球部の面々は、それをよくわかっている。試合中に突き指をしようが、立てる限りは試合に出続ける。そんな覚悟があった。
しかし、海原はどうだ。
勝とうとしない投手がマウンドに上がって勝てる訳がない。それは、投手をやってきた海原自身もわかっていることだろう。気迫で負ければ、よっぽどでない限り実力の差は些細な問題になる。
勝とうとしない人間がチームにいることは、問題だ。
今のこいつは、あの天才投手海原昴ではない。
伊弦は、心のどこかで認めたくなかった事実をようやく受け入れられた。
伊弦は海原に歩み寄る。
「海原」
もはや、怒りを抑えることはできなかった。
「なに」
飄々とした態度で海原は答える。
「なんで、本気で投げへんねん」
その言葉に、海原は不思議そうな顔をした。
「投げてるよ、本気で」
「なら、なんで勝負に負けて悔しがらんねん」
「は?」
意味がわからない、といったような声をあげる海原。しかし伊弦は構わない。ここで言い切らないと、駄目な気がした。
「国光に打たれたときもそうや。最初っから勝つ気なかったやろ、お前。ホームラン打たれてからも、打たれるのが当たり前、みたいな顔しとったわ。ようそれで――」
「だから、なんだよ」
苛立ちを滲ませた声で、海原が遮った。
「今日初めて話したばっかのお前に俺の何がわかんだよ。何も知らないくせに、勝手なこと言うな」
――ああ、そうだ。海原のことなんて、何も知らない。今の海原昴は、俺の知っている海原昴ではないのだから。
しかし、伊崎第一野球部のキャプテンとして、引き下がれない時がある。
「今のお前をマウンドに立たせたくない。皆はお前を認めとったけど、そんな気の抜けた奴にピッチャーやられても迷惑なだけや」
それが、海原を怒らせるだけだとわかっていても、もう止まらない。言わなくてはならない。
海原は完全に頭にきたようで、眉間に皺を寄せている。
「それなら俺はもう野球部を辞めさせてもらう。それで文句ないだろ」
「勝手にせえ」
伊弦は吐き捨てて、踵を返した。
置きっぱなしだったバットを拾って、公園を立ち去るために。
先日、斉藤佑樹投手が今シーズン二回目の先発でしたね。燃えたけど。
個人的に応援しているのですが、なかなかもどかしいです。低めにバンバン決めてた二月のさいてょはどこにいったのか。