01 スリークォーター
「はいはーい! 質問いいですかー?」
女子の一人が手を上げてそんなことを言い、クラス全体がそれに賛同する流れになった。海原は相変わらず表情を変えず、いいよ、と答えた。対して朝倉先生は面倒臭そうな顔をしている。
手を上げた女子が、そのまま質問をする。
「海原くんって部活はなにやってるんですか?」
「前の学校では野球部に入ってました」
へぇー、という声と同時に、伊弦の方にクラスメートの視線が集まる。男子の一人が、伊弦を指差した。
「ほら、アイツが野球部のキャプテンやってんねん」
俺は、愛想笑いを海原に向けた。海原は伊弦の顔を見て少し驚いたようだが、すぐに無表情に戻ると小さく会釈をした。
「よろしく」
「こちらこそ」
(たぶん、覚えてないやろうな)
というのは、昨日のことではなく中三のあの夏の試合のことである。たった一試合だけの相手を記憶に残しているとは思えないし、伊弦は、自分からもそういう話をしようとは思わない。
質問に答える前、ほんの少し、海原の表情が陰ったような気がした。
***
「海原昴。ポジションはピッチャーです。よろしくお願いします」
前の学校のユニフォームを着た海原が、小さくお辞儀をして教室のときと似たような挨拶をした。そのポジションを聞いて、周囲に並んだチームメイトから歓声がわき上がった。当然だ。あれだけ待ち望んだピッチャーなのだから。
「うし、今日は監督来ないらしいし、練習始めよか」
伊弦がそう言うと、チーム全員が頷いた――一人を除いて。
「いや、ちょっと待てや」
そう言ったのは木更津だった。
「どうしたんや、木更津」
「急に入ってきた奴にポジション奪われるのは納得でけへんわ。実力見せてからにしてくれ」
その言い分も納得できる。
今まで投手のいない野球部を支えてきたのは、他でもない木更津だ。自分のやりたいポジションを我慢してまで、勝利のために頑張ってくれていた。それを、ピッチャーが入ってきたからといってただで譲りたくないのだろう。木更津亮はそういうヤツだと、伊弦はこの一年間で知っていた。
海原は少しきょとんとしたあと、微かに笑った。
「いいよ、だったら一打席勝負しよう。相手は……」
「俺がやろう」
皆の後ろから出てきたのは国光だった。ポジションはファーストで、副キャプテンを務めている。自他共に認める野球の才と、それに甘えない努力を積み重ねている。それが、国光栄治。
そんな国光が名乗りをあげて、木更津は不満そうにしている。
「なんで俺じゃねーの」
「お前はこの一年ずっと投球練習ばかりやった。いくら中学時代野手だったからって、突然打てるわけないやろ」
「う……」
国光の指摘が的を射ていて、木更津は言い返せない。そう、木更津は打撃練習の時間すら、投球練習に費やしていた。投手として戦力になるために、それだけ必死になってくれていたのだ。
「はいはい、時間の無駄や。勝負やるならやるぞ。いいな、木更津」
「お、おう」
小さく頷いて、木更津は一歩下がった。視線を向けると、国光はバットを持ってホームの方へ歩いて行った。それに続いて、海原もミットを持ってマウンドに歩いていく。今回、捕手は必要ないだろう。海原の球を受けてみたいという気持ちはあったが、球種も知らない、球筋も知らないピッチャーの球を受けるのは困難だろう。
国光が右のバッターボックスに入る。
海原は球遊びをしながら、マウンドに立った。
両者の距離は十八・四四メートル。この距離は、遠いようで近い。コンマ五秒程度で白球はキャッチャーのミットに吸い込まれるのだ。その間が、投手と打者の勝負。一瞬で決着する。
「肩温めなくて大丈夫か?」
少し大きめの声で国光が聞く。海原は頷いて、
「大丈夫。数球投げた程度じゃ結果は変わらねぇ」
海原は相当な自信があるのか、そんな台詞を吐いている。対する国光は表情を変えない。黙って、バットを構えている。
少しの沈黙。まだ昼過ぎで、太陽は真上から照りつけている。あの日と同じように。
チーム全員が固唾を呑んで見守る中、海原は足を持ち上げ、静かに、投球モーションに入った。
力強いが滑らかなフォームだ。
海原の指先からボールが離れる。それは真っ直ぐな軌道を描いてストライクゾーンの中心に吸い込まれていく。
快音が響いた。
海原は振り返ろうともしなかった。それが当たり前であるかのように、現実を受け入れていた。
振り抜いたバットを地面に落とし、国光はダイヤモンドを走る。試合でなくとも、それが相手への礼儀だと言わんばかりに。
伊弦は何も言えなかった。周りの誰も、声を出さなかった。
国光が二塁を回ったあたりで、伊弦は海原の言葉の意味をようやく理解した。
伊弦が中学の時に見た海原の投球は、下から浮き上がるようなアンダースローだった。しかし今、海原が投げたのは、スリークォーターからの、恐らく一二〇キロ程度のストレート。肩を温めていないとはいえ、国光相手に全力投球であれでは、打たれても当然だ。
アンダースローとそれ以外とでは、例えオーバーやスリークォーターがアンダーより十キロ速かろうと、アンダーの方が圧倒的に打ちにくい。それは打者が慣れていない変則投球であることと、リリースポイントと捕球位置の高低差にある。通常の投球ではおよそ一メートルであるのに対し、アンダースローは三十センチ。打者が想定している以上に沈まないのだ。
もし、今の投球がスリークォーターではなく、あの時のアンダースローだったならば、あの国光でさえも打ち損ねていたかもしれない――いや、手が出なかったかもしれない。
国光がホームを踏み、バットを拾い上げて帰ってくる。海原も、それに着いてくるようにして戻ってきた。ホームランを打たれたのに、悔しい素振りなど全く見せない。
誰も、海原に声を掛けられない。国光も何も言わないし、打たれた本人も、口を開こうとしない。
その沈黙を打ち破ったのが、木更津だった。
「……俺は、コイツがエースでええと思う」
皆、驚いて木更津の顔を見た。その中には、海原も含まれていた。
その言葉に賛同するように、国光も頷いた。
「ああ、今の状態であの球を投げられるんやったら、実践では間違いなく木更津より良い球放るやろ」
確かに、国光の言う通りだ。木更津の最高球速は一二五キロ。普段は一二〇前後だ。恐らく、万全の状態ならば海原の方が速い球を投げる。
しかし、そうではない。海原は本気ではない。
あの、サブマリンで投げる為に生まれてきた男の投球はどこへ行ってしまったのか。
伊弦の中に、靄のようなものがかかったまま、今日の練習は始まることとなった。
***
「うし、こい」
キャッチャーミットを正面に構え、ボールを待つ。海原は頷いて、腕を振り上げる。
やはり、アンダースローではない。あの時の海原のアンダースローにはワインドアップなんてなかったことを、伊弦はよく知っていた。
斜め上から放たれた白球は、伊弦の構えたミットよりやや左にずれたところに飛んできた。これくらいならば、木更津の投球練習で受けなれている。
ミットからボールを取り出し、海原に放り返す。
「最初やし、軽く放ってええぞ」
「おう」
そう言って、海原は再び投球モーションに入った。
二人が投球練習をしているのは、バックネットの裏側だ。ここに簡易的なブルペンが作ってあって、皆がノックなどの守備練習をしている間、バッテリーはこのブルペンで投球練習をすることになっている。
無理に十八・四四メートルをとっているせいで伊弦の後ろはすぐ、校庭全体を覆っている金網だ。これを背にしていると、なかなか度胸がつく。ちょっとやそっとのワイルドピッチじゃ後ろには下がれないのだ。
革を打つ音が何度か鳴る。
しばらく投げさせていると、海原の肩も温まってきたのか段々と球速があがってきた。木更津と比べると、平均で五キロは速いだろうか。
「なあ、海原」
ある程度海原の球筋がわかったところで、伊弦はマスクを一度外して声をかけた。海原は無表情なままで、
「なに」
「変化球投げれるか?」
海原はこくりと頷く。
「一応。カーブと、覚えたばっかであんまり曲がらないけど、スライダー」
「やったら、その順番で投げてみてくれん? どれくらいのもんか見ときたい」
「おう」
伊弦は再びマスクをつけた。
右打席にバッターがいると仮定して、外角低めからゾーン外に逃げるような球を要求する。
カーブは変化球の基礎であり、同時に、極めれば最強の武器となり得る変化球だ。カーブだけでも横に割れるもの、縦に落ちるもの、鋭く曲がるもの、普通より遅いものといったふうに様々ある。これらを使いこなせれば、曲がる方向が決まっていても直球とこれらだけで十分に勝負できる。
そして、海原のカーブは、至って普通のものだった。例えるならば、バッティングセンターのそれ。先に挙げた特徴のようなものはなにもない。ただ基礎に忠実に従っただけのようなボールだ。変化量も、伊弦が思っていたより少ない。
「次、スライダー」
海原は手元を一瞥してから投球姿勢に入った。どうやら、本当に覚えたばかりらしい。
投げられたボールは、かなり手前で軌道をほんの少しだけ右にずらした。捕球すると、伊弦は右手で頭を掻いた。この球は、しばらく練習しないと全く役に立たないだろう。このままでは見てからでも打てる。
「やっぱ、駄目か」
海原が聞いてきた。もともと自信なんてなかったのだろう。しかし、伊弦は首を横に振った。それからマスクを上げ、
「大丈夫や。木更津よりはマシやし、二つ変化球あれば俺のリード次第でどうとでもなる。打たれたら、そん時はそん時でバット振って取り返せばええだけや」
捕手として、投手を不安にはさせたくない。正直に言うならば、伊弦の期待より大幅に下回っていたのだが。しかしそれはあくまで、海原がアンダースローだったときの期待だ。それ以外のモーションならば、これでも十分であることには違いなかった。
「そっか」
海原は安心したのか、ふうと息を吐いている。
ここまでくると、どうして海原がアンダースローをやめたのかが気になって仕方ない。こんな中途半端なスリークォーターで投げるくらいなら、全国クラスのあのサブマリンで投げた方がいいに決まってる。
「海原」
「なに」
海原が聞き返してくるが、伊弦は言い出せなかった。
「……いや、なんでもない」
やめたのには、本人なりの事情があるだろう。そこに口を出したくなかったし、なにより、伊弦が見ている海原は過去の幻影なのだから。
野球未経験者ですので、ご指摘やアドバイスをいただけると本当にありがたいです。現実との多少の差異はフィクションということで勘弁してください。