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Submarine  作者: だいふく
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00 出会い

 書き直して再投稿です。

 中学三年生の夏、俺は、グラウンドに立っていた。

 太陽の光が頭上から俺の身を刺し、梅雨明け特有の蒸し暑さが体力を奪っていく。普段の練習がなければ、とっくに倒れていただろうと思えるくらいには、その日は暑かった。

 ――だからそう、きっと、暑さが俺に幻を見せたのだと思う。

 砂漠では蜃気楼というものがあるし、陽炎なんていう現象もある。

 浮かんだり、沈んだり、しかし身体は軽く、雲ひとつない青空のせいか、視界が青色に染まっていた。このバッターボックスから見る世界はまるで海だった。

 三点ビハインドの九回。本来なら緊張と興奮で息苦しいはずのそこに立つと、不思議と開放感が溢れてきた。もう、勝敗なんてどうでもいいと思えるくらいには。

 十八・四四メートルの先に、相手はいる。

 身体がぞくっと震えあがった。

 鞭のようにしなる腕。まるで、地中から突き上げてきたかのような直球。俺は熱にうかされてうわ言を言うように、無意識にバットを振っていた。

 白球の軌道の下を虚しく通るスイング。

 ストライクを告げる球審の声が、どこか遠くから響いていた。


 ――ああ、受けてみたい。


 中学最後のプレーになろうかという打席で、俺はチームのことなど忘れ、捕手としてそう思ってしまった。


 サブマリンで投げる為だけに生まれてきた。

 そんなアイツの投球が、あの夏からずっと忘れられない。




    ***




 緩やかな放物線を描いて、白球がミットに収まる。

 日差しはもう斜めから射していて、春の日がまだまだ短いことを実感させる。

 練習終わりの軽いキャッチボールは、兵庫県立伊崎第一高等学校硬式野球部のルーティンワークだ。もちろんこの後でランニングとストレッチをこなすことになるのだが、伊弦たちが入学してから、これは欠かしていなかった。

 ミットからボールを取り出し、投げ返す。

 あくまで優しく。これは練習ではなく、ダウンの一環だ。肩に負担をかけるのではなく、力を抜くためにしている。

 東谷ひがしや伊弦いづるの投げたボールは、木更津きさらづりょうのミットに綺麗に収まった。

「なあ」

 キャッチボールをしながら、伊弦は木更津に声を掛けた。

「なんや、伊弦」

「新入生、ピッチャーが入ってきたらええな」

「おう」

 現在、野球部の部員は二年生――つまり、伊弦たちの代だけだ。

 去年三年生が引退してから、当時一年生だった伊弦がキャプテンに選ばれた。幸い、部員は伊弦を含めてギリギリ九人いるため、公式戦にも出ることはできている。

 しかし、問題は、伊弦の世代にピッチャーがいないことだった。

 ジュニアの頃にピッチャー経験のある者は何人かいたが、中学の時にピッチャーを務めていた者は誰もいなかった。仕方なく、最もマシな球を投げる木更津をエースに据えたものの、そう簡単に勝てることはなかった。強力な打線で打ち勝つ。今の伊崎第一はそんなチームだった。

 今日は春休み最終日。明後日には入学式が控えており、それに期待するのは仕方ないことだ。

「そろそろランニング始めろよ」

 背中から、帰りがけの国光忠治監督に声を掛けられた。

 国光監督は伊崎市出身の元プロ野球選手で、地元の球団に所属していた。引退までチームを牽引するスラッガーとして活躍していた名選手だ。そんな有名人が伊崎第一の監督をしてくれているのは、彼の息子である国光栄治がこの野球部に所属しているからだ。

「はい、今日もありがとうございました、国光監督」

「おう。頑張れや」

 監督は無口で厳しいが、選手のことを第一に考えてくれている。だからこそ、伊弦たちは心から彼のことを信頼している。

 国光監督に言われたように、伊弦は部員に声を掛けてランニングを始めた。

 イチニ、イチニ、と掛け声を上げる。

 伊弦は考えていた。

 いくら元プロに指導をしてもらっても、投手がいなくては勝てない。秋季大会、春季大会、いずれも地区大会敗退で、県大会に進むことが出来なかった。いくら打撃が優秀なチームでも、投手力がなさすぎては勝てない。

(アイツがここにいたらいいのに)

 そいつは、少なくとも、伊弦が今まで出会ったピッチャーの中で一番の天才だ。そんな投手がいれば甲子園も夢ではないし、そこまで凄い投手でなくとも、現在の状況が改善されればかなりいいところまで勝ちあがれるはずだ。

 もしかすると、新入生に一番期待してるのは自分なのかもしれないと、伊弦は思っていた。


     ***


 額を汗が伝う。着替えてきたばかりのシャツが湿っているのがわかる。

 四月とはいえ夜はまだ肌寒い。身体を動かしていなければ、何か防寒具を必要とする程度には。

 夜中の運動公園に空を切る音だけが響く。

 フォームを崩さないよう意識しながら、かつ、如何にボールに力を伝えるかを模索する。

 真っ暗な中、伊弦は素振りをしていた。

 国光監督にいくらかフォームの修正はしてもらってきたが、それを完璧にものにするまでには至っていない。捕手として飛びぬけた強肩というわけでも、リードが特別上手いというわけでもない伊弦の武器が、打撃だ。

 強打のチームである伊崎第一の五番を打つ。それはつまり、あの、プロの血を引いた国光栄治の後ろを打つということと同義である。生半可な努力ではいけない。

 伊崎第一は公立であるが故に、練習時間が限られている。強豪私立や体育科のある公立なら平日であっても夜の七時まで練習するのが普通だろう。それができない以上、こうして自主練をするしかない。

 毎日のノルマは決めていない。その日、満足するまで振り続ける。

 伊弦がしているのはただの素振りではない。

 ただバットを振るのではなく、目の前にピッチャーを想定する。打席に立ったつもりで、あらゆる球筋を考える。

 一四〇キロのストレート。手前で鋭く曲がるスライダー。呆れるほど落ちるフォーク。

 全てを実戦と想定して振るのだ。いつ、どんな球が来ようがそれをスタンドへと運べるように。それが、伊弦の素振りだった。

 そして伊弦は毎日必ず、頭の中のピッチャーにある球を投げさせる。

 ぐっと沈み込んだフォームから放たれる、浮き上がってくる球。中三の夏に見たアンダースローからのストレート。想像の中だというのに、これだけが打てない。それだけ、伊弦の頭の中にこびりついたあの投手の影が深いものだということだ。

 バットを下ろし、小さく息を吐く。

 公園の時計を見ると、時刻はもう九時だった。六時に家に帰ってすぐに夕食を食べてランニングなどをこなした後、七時にはここで素振りを始めたから、もう二時間近くバットを握っていたことになる。どうりで疲れるわけだった。

「……少し、休むかな」

 黒いウィンドブレーカーと一緒に置いてあるスポーツドリンクのペットボトルを手に取ってから、ついさっき飲み干したばかりだということを伊弦は思い出した。かわりに、身体が冷えないようにウィンドブレーカーを羽織った。公園を出て少し走ればコンビニがある。

 バットを置いて行くのはどうかと思ったが、コンビニにそんなものを持って入店すると色々と勘違いが発生しそうなので、公園に置いておくことにした。この公園は、夜はほとんど人が来ないから、多分大丈夫だろう。

 二分くらい軽く走ると青色が特徴のコンビニに着いた。店内に入ると、ちょうどレジのところに、伊弦と同じような服装の青年――恐らく高校生だろう――が立っていた。さっぱりと切られた短髪は汗で濡れている。

(へぇ、この辺にこんな奴いたんか)

 伊弦が運動公園で練習を始めてからもう二年近くなるが、今まで同じように運動をしている同年代の人間に出会ったことがなかった。

 会計が終わったのか、その短髪の青年がペットボトルを持って振り返った。伊弦と目が合った。伊弦が軽く会釈をすると、相手も無表情なままだが小さく頭を下げた。

 なんとなく、見覚えがある気がした。

 伊弦は慌てて首を振った。

幻影だ。

どうして、話したことさえもないアイツの面影を誰かに重ねようとしてしまうのか。まだ夏は先の話だというのに。

 お茶や炭酸飲料が陳列された棚からスポーツドリンクを手にとって、伊弦はレジへ向かった。


     ***


 春休み中にクラス発表は済んでおり、伊弦は野球部の面々と同じクラスになることはなく一人だけ一組になってしまった。

 伊崎第一は一学年およそ二四〇人で、一クラスが四十人の六クラスである。野球部の二年生が九人であることを考えると、伊弦だけがハズレくじを引いたようなものだ。

 朝練を終えて、制服に着替えて階段を上る。一年生のときは一階に教室があったが、ひと学年あがったことで階層もひとつあがった。朝練後、SHRに遅刻しないように階段を上るのが面倒だと、伊弦はため息をついた。

新しい教室の扉を開けると、新クラスだからという理由とは少し違う感じでざわめいていた。

「なあ、なんかあったんか?」

 伊弦は自分の席に着いてすぐ、隣に座っている女子に聞いてみた。確か、南野だったか。去年は隣のクラスだったから、あまり面識はない。

南野は一瞬驚いたような顔をして、

「えっ、東谷くん、知らへんの?」

「何が?」

 何の話をしているのか、伊弦にはさっぱりだ。

「へぇー。噂には聞いてたけど、東谷くんって野球バカなんやな」

「誰が言い出したんや、そんなこと」

「沢村くん」

 あー、と伊弦は抜けたような声を出した。

なるほど、アイツならやりかねない。沢村はセンターだが、今日の練習で厳しいノックを浴びせる必要がありそうだ。

「で、結局何があったんや?」

「転校生や、転校生。珍しいやろ」

「へー、高校にもなって、そんなことあるんやな」

 親の都合とかにしても、珍しい。小学校や中学校ならまだしも、高校になれば自分の意思で選んだところだろうし、まさに高校生である伊弦としても、転校なんてしたいとは思わない。

「そうそう、そんでな、さっき職員室見てきた子が言うには、めっちゃかっこええらしいねん」

「へぇ」

 かっこいいということは、男だろう。稀に女子でもかっこいい人はいたりもするが。

 伊弦としては、その転校生が野球少年で、かつピッチャーであることを願うばかりである。そうでなくとも、部員不足の野球部に入ってくれると非常に助かる。

 南野との会話も半ばに、チャイムが鳴る。朝のSHRをするために、担任の朝倉先生が入ってきた。と、その後ろから、もう一人、うちのブレザーを着た生徒が入ってきた。身長は伊弦と同じ一七五くらいか。そいつが正面を向いたとき、伊弦は思わず声を出してしまった。

「あっ」

 短く切った髪に切れ長の目。緊張した様子もない顔つき。まさに、昨日コンビニで会ったあいつだった。

(転校生だったのか……)

 制服越しでもわかる、すっと伸びた手足。あれがあったから、アイツの幻影を転校生に重ねてしまったのだ。

「着席だ着席。今日は始業式の前に転校生がおるからなー」

 朝倉先生がそう言うと、ぶつくさ言いながらも生徒はそれぞれの席に戻っていく。

「さ、自己紹介してくれ」

 朝倉先生が促すと、転校生は頷いて、黒板に白いチョークで名前を書き始めた。

 縦に三文字を書き終えると、転校生はチョークを置いた。

「東京から引っ越してきました、海原かいばらすばるです。中学のときはこっちにいましたが、父の転勤で半年だけ、向こうにいました。よろしくお願いします」

 海の中にいるような感覚が、不意に伊弦を襲った。

 その名前を聞いて思い出した。

 あの長い右腕から放られる、浮き上がるような球の軌道。ボールの下を虚しく空振る感触からストライクを告げるあの声まで、それはもうくっきりと。

 アイツの幻影を重ねるわけだ。だってこいつが、その天才なのだから。

 手を伸ばしても届かなかったアイツが、今ここにいる。

捕ってみたいと思っていたあのボールを投げる奴が、今ここにいる。

 自分の左手に視線を下ろすと、微かに震えているのがわかった。

 ――来たんだ、ここに!


 ちょっと前に投稿したのを書き直しました。ついでに三人称にしてあります。


2015/08/09 ルビの間違いを訂正。『東谷あづまや』→『東谷ひがしや

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