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「雨が、降ってきたな」


 ぱらつく程度の小雨(こさめ)だったものの、隣を歩く穂積(ほづみ)が手に持った傘を広げた。


「穂積君、あたしも入れてくれませんか?」


 その顔を見つめて囁いてみる。極力、小さな、けれども確実に聞こえる声で。


「どうしてだ? 傘、持ってるだろ」

「えーっと、そんなに降ってないし、傘さすの面倒だもん」

 手に持った傘を揺らしながら、反論した。というか、わがままをいった。


 自分まで傘をさしたら道の邪魔になるとか、もっとそれらしい理由も思いついてはいたのだが、周りへの気遣いから穂積にお願いしたわけではなかったので、そうはいわなかった。


「はぁ、分かったから、自分の傘をしっかり持て。誰かに当たったら危険だろ?」


 ため息をついて、いかにも仕方ないといった面持ちで、穂積がこちらへ傘を寄せてくる。


「やった、ありがとね。うん、これで濡れずに済むよ。穂積君、やっさしいっ!」


 もう少し愛想のいい態度を取ってほしいと思わなくもなかったが、元々が自分のわがままなので、素直に喜んでみせた。口の中のハッカ飴をころころと転がして。


汀部(みぎわべ)、なんでそんなにご機嫌なんだ?」

「それは……うーん、なんでだろ?」


 あまりに明るく振る舞いすぎたようだ。不思議そうな表情で尋ねられ、蓮音(はすね)は困ってしまった。

 こんな態度を取ったのは、実は緊張をごまかすためだったのだが、機嫌が良いというのも当たっていた。ただし、蓮音自身にも理由はよく分からない。特になんてこともない雨降りの昼近くなのだが、なぜか今こうしている時間がとても楽しく感じられてしまう。


「そうだなぁ、あえていうなら、これからどんな所へ連れていってくれるのか楽しみなのかも」

「そうか。でも、さっき説明した通り、俺もどんな所か知らないんだが」


 穂積が蓮音を連れて向かう場所、それは昨日と同じく学校方面。しかし、今日はノエアではなく、学校裏、明菊高校のすぐ北が目的地らしい。なんでも風見鶏(かざみどり)のついた屋根が目印だとか。しかし、その場所に何があるかは穂積も知らないらしい。


「うん、そうだったね。柚樹(ゆずき)があたしを連れてくるよう、穂積君に頼んだんだっけ?」

「あぁ、夕方からはバイトが入ってるっていったんだが、それでもいいって押し切られた」

「うーん、そんなに時間はかからないってことかな?」


 蓮音の疑問に穂積は生返事をするだけだった。どうやら本当に何も聞かされていないようだ。


「どうしてあたしに直接いわなかったんだろ?」


 今朝早くから、柚樹は雪花(せっか)を連れてどこかへ出かけた。当然ながら、蓮音はどこへ出かけるのかを尋ねたのだが、後ですぐに分かるから、といって教えてくれなかった。一緒についていくのもダメといわれたので、いじけて困らせちゃおうかとも思ったくらいだ。

 しかし、柚樹と雪花、二人から口をそろえて信じて待っているよう説得されては、返す言葉が蓮音にはなかった。しぶしぶ二人が帰るのを家で待っていたら、穂積がやって来て、今の状況に至る。


 穂積に頼んでまで自分を呼び出すなら、最初から時間と場所を伝えてくれれば良かったのにと、どうしても蓮音は思ってしまう。そうすれば、昼を一人で食べないといけないのかとか、自分だけ仲間外れにされるのはどうしてなのかとか、悩まなくて済んだと思うからだ。


「昨日の今日であたしに直接いえなかったのかな?」


 蓮音が柚樹に泣きついてから、既に丸一日以上がたっている。それでも、まだ照れくささというか、気まずさのようなものを、蓮音自身は感じている。そして、自分がそうなら、きっと柚樹もそうなのだろう。


「いや、それはないと思うが……」

「だって、あたし昨日は結局──あっ、そういえば、柚樹は穂積君に迷惑かけませんでしたか? いえ、穂積君のおうちへ泊まらせて頂く時点で迷惑でしょうが、そういう意味ではなく……」

「別に迷惑ってことはなかったよ。昨日は隼人(はやと)まで泊まりに来て、そっちの方がむしろ迷惑だった。汀部だって自分の弟がそんな迷惑はかけないって分かってるだろ?」

「えっ、あっ、うん、それはそうなんだけど、一応は訊いておかないと、と思って」


 昨日、ひとしきり泣いた後、蓮音は絢乃(あやの)の手配した車で柚樹と雪花と共に家へ帰った。しかし、柚樹と完全に和解したわけではなかった。というのも、泣きやんでから沸き起こってきた恥ずかしさと腹立たしさとが蓮音を素直にさせなかったのだ。

 帰宅後も、柚樹とできるだけ口をきこうとせず、あからさまに不機嫌な態度を取り続けてしまった。そんな自分に自己嫌悪して、さらに不機嫌になって、また自己嫌悪をつのらせての繰り返し。詳しい事情を知らない様子の雪花などは、困った表情を浮かべて、二人の間をとりなそうとしてくれた。


 やがて雪花の気遣いに耐えかねてか、柚樹は穂積に迷惑をかけたお詫びをしにいくと言い残して、家を出ていってしまった。

 黙って見送った蓮音へと、雪花が話しかけてきたのはそれから少ししてのことだった。


「大丈夫? その、今日お兄ちゃんにいわれたんだけど、これからはママって呼ぶなって、その……蓮音お姉ちゃんのことをママって呼んじゃダメっていわれたの。えっと、もしかして、そのことと、関係してる? 雪花にも教えてほしいって思うんだけど……ダメ?」


 そこで、ようやく蓮音は雪花にも事情を、ぽつりぽつりと説明し始めた。柚樹は何も悪くはないこと、自分のせいで今まで気遣わせて申し訳なかったこと、ママと呼ばないでほしいこと、これからはみんなで協力して楽しい生活をしていきたいこと。


 雪花にも分かるように、誘拐云々(うんぬん)や母親のこと以外、できるだけ全て伝えた。伝えたつもりなのだけど、途中から涙が溢れてきて、なぜか雪花まで泣き出してしまって、最後には二人して大泣きしていたような状態のため、あまり何を話したのか覚えていない。


 いずれにしても、蓮音がそうしている間に、どういうわけかは知らないが、柚樹は穂積の家へ泊まることになってしまった。


「でも、良かった。心配いらなかったみたいで。柚樹とは、どんなことをしたの?」

「少し喋ったあとは、特にすることもなくて、トランプや将棋をしてたな」


 汀部家では時々トランプをしていた。だから、その様子は想像できる。しかし、と蓮音は思った。


「将棋なんて、できたかな? うちにはなかったはずだけど」

「学校とかで友達から教えてもらったんじゃないか? 俺といい勝負だったし、まぁ、俺自身が強くないから、あれなんだが……」

「友達……か。そうだよね。いた、はずだよね」

「そんな、気にしなくていいんじゃないか? 引っ越したくらいでなくなっちゃったんなら、結局はそういう関係だったっていうことだし、望んで汀部と一緒に暮らせる生活を選んだんだ。その気持ちを認めてやれよ。それに、またこっちで友達を作ればいいだろ?」


 ネガティブな考えに(おちい)りかけたのが、伝わってしまった。言葉を濁し、うつむいてしまえば、当たり前かもしれない。


「汀部だって、そうだから、な? 帰宅部の活動に参加してみるのもいいと思うし、他の部活に挑戦してみるのもいいかもしれない」


 どうしてこうも適当で気楽な考えを述べて、平気な顔をしていられるのか。それが蓮音には理解できないが、この彼の言葉に力をもらえるのも事実だ。


「それなら、えっと、その────」

「もっと積極的に周りの人と関わってみる気になったか?」

「なりません。どうして、そうなるんですか?」


 切り出そうとした話の腰を折られて、つい口の中のハッカ飴を噛み砕いてしまった。


「汀部がこんなに面白い奴だって、周りの人間が知らないのはもったいないから、かな?」

「そ、そんなことないです。それに、そんなことあったって、それは穂積君や七歌さんが分かってくれているだけで、あたしは十分なの」

「ふーん……つまり、俺と七歌だけ特別扱いってことなのか。へぇ、そうなのか」


 本心から告げた言葉なのに、穂積はいかにも非難するような眼差しを向けてくる。しかし、蓮音は開き直ってやることにした。


「そうですよ。人間関係は不公平で不平等なのが当たり前なんです。だって、好きな人と嫌いな人に全く同じ態度を取るなんてありえないでしょう? 差別をなくしていかねばならないのは国家が国民へ保障する人権であり、義務くらいです。だから、お役所手続きはいつでも誰でも同じ手順を強要されますよね? そういうものなんです」


「…………汀部、突然、何をいいだすんだ?」


 穂積は変なものを食べた時みたいな表情になっていた。


 ──奏香(かなか)さんの言葉、あたしなりに理解してたつもりなのに。どうしてこんな反応が?

 むしろ不思議だと感じているのは自分の方だと、よほどいいたかった。


「あたしの話、何か、おかしかった?」

「いや、いってることは分かるんだが、汀部には似合わないっていうか、イメージにないっていうか──」

「えっと、それは人の受け売り、だから…………」


 あぁ、なるほど、と聞こえてきそうな反応が返ってきた。


「ふーん。だけど、誰に対しても平等に接するのは、良いことだっていうじゃないか。それはどうなんだ?」

「あっ、あたしも思った。でも、それって突き詰めれば、たぶん仁義を通せっていいたいんじゃないか、って教わったの。平等っていう言葉選びが不明確というか不適切なんだって」


 少し考えれば気付けることだが、誰に対しても平等に、といった場合の平等がどういう意味なのかが分からない。等しい扱いをする、偏見をなくす、私情を捨てる。いずれにしたって、もしこれらを言葉通りに実現する人間がいたとして、それは人間の心を持っているのか。いや、おそらくはよくできたアンドロイド並みに人間性を失っているだろう。

 そのようなことまで実際には説明されていたが、また穂積に奇異の目を向けられそうなので、省略することにした。


「誰に対しても仁義を通して接しましょう、か。なんか物々しいな」

「それはやくざの言葉としてしか知らないからだね。本来の意味は誰もが心にとどめて大切にするべきものなの。仁は思いやりや慈しみの心を表し、義は人情にかなった道徳や倫理を表す。人として忘れちゃいけない立派で大切な意味があるんだよ?」


 そんな意味のある言葉だからこそ、やくざの世界で法とは異なる縛りとして使われるようになったのかもしれない。皮肉というべきか、なさけとみるべきか、蓮音には分からない。


「でも、本来の意味にしたって十分に重くないか?」

「大切なことだからこそ、重い言葉じゃなくちゃダメなの。軽い言葉にすると、そこに込めた本来の意味まで変わっちゃうもん」

「そうか。そうかもしれないな、って、やっぱりそれも受け売りなのか?」


 黙ってうなずいた。穂積には全てお見通しだったようだ。


「誰に対しても仁義を通してっていうなら、仁義にもとるようなことは、するだけじゃなく、されるのも駄目だな。だって、それは誰かが仁義をないがしろにしてるってことだろ?」

「えっ?」


 穂積が何をいいだしたのか、分からなかった。奏香の教えにそんなものはなかった。


「もし仁義にもとる行為をされているなら、いじめられているなら、仕返しも逃げるのも、していいことなんだ。むしろ、しなきゃいけないくらいだ。もちろん程度の問題もあるだろうが、少なくとも汀部がこっちへやって来たのは筋の通った行為だと俺は思う。だから、汀部は引け目を感じることなんてないんだ」


 どうやら、おとといに神社で話したことを気にしてくれていたようだ。蓮音が周りの人間と壁を作る必要なんてないといいたいのかもしれない。


「ありが、とう。うん、そうかもしれない。でも、仕返しは本来の仁義からすると微妙かも。仕返しだからといって社会のルールを破るのは、やっぱりダメだから。ルールの範囲内でどうにかする努力をしないと、ね」

「だが、そんな綺麗ごとでどうにかなる世の中じゃないし、人情にはかなっていそうだろ?」

「そうだ、ね。どうして、そんなにこだわるの?」


 穂積の言う通り、仕返しや仇討(あだう)ちが義理人情を果たした美談で語られる場合も少なくない。それでも、それはかなり特殊な場合だと蓮音は感じる。


「やっぱり…………きっかけがどうあっても、汀部をいじめた奴らが許せないからだろうな。普通、言葉に対しては言葉で返すべきだし、一人に対して集団で仕返しするのもおかしいし、そもそも人を必要以上に苦しめることなんて────」

「そう、だね。だけど、あたしは逃げることを選んだの」


 穂積の言葉を遮って、蓮音は自分の思ってきたことを素直に言葉へと載せることにした。


「あたしにとって大切な友達だったのは本当だから。うん、大切な友達だったなら、ちゃんと向き合う方法を見つけた方が良かったかなって、どこかで思ってた。逃げるのは卑怯だったんじゃないかって、ずっと思ってた。でも、うん、穂積君の言葉を聴いて、これで良かったのかもって思うかな。だってね、あたしは友達に対して人として恥ずかしいことをしたわけじゃないんだもん。ちょっと否定するようなことはいったけど、あっ、うーん、やっぱりちょっとじゃない、かも……」


 もうどうでもいいって思っていたはずのことなのに、口にしてみると、思っていたよりもたくさんの言葉が溢れてきた。おとといと同じだ。こんなことを自分は思っていたのだと、口にして初めて気付く。


「汀部は友達を否定したかったわけじゃないだろ? 本当は、悩みを真剣に聴いてほしかっただけなんじゃないか? それに汀部のことだ、実はそこまで的外れな否定はしてないんだろ?」


 何もいわずに、うなずいた。何か言葉をこぼせば、涙まで流れてきそうで、何もいえなかったのだ。もしかしたら、昨日から涙腺(るいせん)が緩くなっているのかもしれない。


「なら、汀部は仁義にもとる恥ずかしいことなんて何もしてない。してたとしても、俺が許す」

「あり、がとう。でも、あんまりいわないで。その、泣けてきちゃいそうだから」

「別にいいじゃないか」


 穂積の言葉に蓮音は首を振った。彼の言葉が否定したいものだったわけではなく、むしろとても嬉しいものだったが、それでも首を振った。


「ううん。だって、こんなことで泣きたくないもん」


 強がり、というよりは意地だった。今こんなにも自分のことを理解してくれる人がいる前で、昔の友達なんかのことで泣きたくなかったのだ。


「そういえばね、柚樹ったら、最近帰りが遅いと思ったら、あたしに内緒で、ずっと作戦会議してたのよ。帰宅部に参加させる方針が無理そうだったからって、昨日みたいなことをするなんて…………ほんと、絢乃先輩まで巻き込んで、許せない。許しちゃいけないと思う」


 だから、話題を変えた。


 今朝、柚樹が穂積の家から帰ってきた時に、まさかと思いつつ確認したことだ。柚樹が部活で遅くなるといっていたのは、彼の部活ではなく蓮音の部活のことだった。


「いや、少なくとも柚樹が立てた作戦じゃないと思うが……だけど、うん、随分と汀部は元気になったみたいだな。というか、今の汀部が本来の汀部なのか」

「えっと、どういう意味?」

「それだけいえるなら、心配して損したくらいかもっていう意味だ」

「うーん、もしかして穂積君は私に泣きついてほしかったんですか?」


 自分が元気になって損したというならば、自分が落ち込んでいたら得ということなのだろう。蓮音はそう考えてやることにした。なんだか悔しかったのだ。


「どうしてそうなる? いや、泣きつかれるのはともかく、抱きつかれるのは嬉しいかもな」

「なっ、何を…………穂積君がそんな方だったなんて、失望しました。私が心優しい人間じゃなかったら、穂積君はきっと殴られてますね」

「そういえば、昨日、どさくさまぎれに誰かさんが俺の頬をはたいたんだが、誰だったかな」

「そ……その件に関しましては誠に申し訳ございませんでした。傘をお持ちいたしましょうか」


 全く抑揚をつけずに、いかにも冷たく言葉を返した。自分から謝らないといけないと考えていたのに、穂積からこんな形で指摘されると思わず──指摘されることも少しだけ期待していたけれど、いざそうなったら、素直に謝れなくて、妙にとぼけてしまったのだ。


「いや、いい。汀部が今みたいに元気でいてくれることが俺は嬉しいから、それだけで十分だ」


 ────どう……どうして突然そんなことを? もしかしてからかってる? 本音でもないことを、ううん、たぶん本音だよね。穂積君って本当に……ずるい。


 蓮音は頬が赤くなるのを感じると共に、再び涙が溢れてきそうになった。もしかしたら穂積の狙いは、自分を泣かせることにあるんじゃないかと思ってしまうくらいの不意打ちだった。


「穂積君、ごめんなさい。一度だけなら、あたしの頬に平手打ちしてくれても……ううん、お願いだから、してくれないかな? あれは、あたしが悪かったから。あまり痛くしないでほしいけど……ね?」


 きっと穂積は平手打ちなんてしないだろう。分かっていたが、平手打ちしてくれたらいいと本心から思った。いっそのこと、そのせいで泣いたことにすれば、心置きなく泣けるから。


「あーっと、いずれ他のことで埋め合わせしてくれ。その方がいい」


 穂積が顔を背けて告げた。心なしか耳が赤くなっている。その優しさに、また嬉しくなってしまったものの、泣く機会を失ったのは残念だった。


 ──他のこと、か。もしここでほんとに抱きついたら、穂積は一体どんな反応をするのかな? 本当に喜んでくれるのか…………って、あたし、何を考えてるの。そんな、こんな人目のあるところじゃ、恥ずかしい。って、そうじゃなくって。えっと、あれ? なんだっけ?


「おい、汀部、どうした? 急に立ち止まって」

「えっ? あっ、あー、うーん? なんでもないよ、うん、なんでもないのっ!」


 前を向くと、穂積が顔をのぞき込んできていて、慌てて首を振った。いや、そんなに慌てなくても良かったのに、と蓮音は自分の行動が恥ずかしくなった。


 ──もう、雨が降ってなかったら、こんなに穂積とくっついていないのに。


 いつの間にか、雨足は、ぽつりぽつりからぽつぽつくらいの強さになっていた。


 今になって気付いたのだが、穂積の作った優しい空間は、すぐ傍に互いの息遣いが感じられる距離だった。自分で要求しておきながら、意識し始めると、どうにも恥ずかしい。これまで気にせずにいられたのが不思議なくらいだ。


「そろそろ着くな」


 周りを見ると、明菊高校の横まで来ていた。(へい)を越えれば、もうそこは校内だ。穂積にいわれるまで全く意識していなかった。そんなにも長く話していただろうか。いや、そんなことを考えている場合じゃない。


「──穂積君、ちょっと待ってください」


 このままでは目的地に着いてしまうと思った瞬間、呼び止めてしまっていた。優しい空間が名残り惜しかったわけではない。たぶん、ない。


「まだ、あと二つ話しておきたいことがあるんです」


 蓮音はその場に立ち止まり、穂積へとピースサインを向けた。


「グラタン。グラタンの味、どうでしたか?」

 穂積の言葉を待たずに、尋ねた。


「あぁ、えーっと、いい感じに焼けたな」

「誰が焼き加減を訊いたんですか。はぐらかさず、本当のことを教えてください」

「本当のこと、か。少し……多少、いや、かなり塩辛かったかな?」


 答えは予想していたものの中で一番最悪だった。最悪という時点で、一番などつける必要はないのだが、それでもつけたくなるほどだった。その場に膝をついてしまいたくなったが、どうにか思いとどまった。覚悟はしていたことだ。


「その、汀部、俺の味覚がおかしいだけかもしれないし、そんな気にすることはないこともないかもしれないから、気を落とすな」

「それ、気にすることがあるっていってます。くふっ、穂積君って本当に意地悪ね」


 思わず突っ込みたくなるようなフォローの入れ方だった。でも、だからこそ、蓮音はありがたく感じた。穂積は当たり障りのないことをいって、ごまかすことなんてしなかったのだ。そのことが何よりも自分の気持ちを理解してくれているように感じられる。


「だけど、塩辛かった、か。そっか。やっぱり、あたしダメな子だね」

「汀部? もしかして……」


 穂積がしょっぱい表情で心配そうに見つめてくる。それが嬉しくて、悲しかった。


「あたし、怖くて聞けなかったの。二人はまずいなんて一度もいわなかった。でも、二人とも、特に雪花はあまり量を食べなくなって、あたしにも自覚はあったの。

 料理の味がしっかり感じられなくなって、その代わり、なぜか人の表情から…………でも、認めたくなくって、目分量で調整した。それでも味見すればするほど、何がおいしいのかも全く分かんなくなって。二人がまずいのを我慢して食べてくれてるんじゃないかって思ったりもしたけど、もし本当にそうだったら、って考えると怖くなって。ご飯を残されても、別の理由ばっかり探そうとして。レトルトに逃げちゃおうかとも思ったけど、それじゃ、ママ失格だと思って。

 あたし、ママっていうのにこだわっていたからね。二人にまずいっていわれてしまったら、どうしようって恐れていたの。ずーっと恐れてた。だけど、このままじゃいけないって分かってて、うん、だから穂積君に食べてもらったの。もしかしたら心配なんてしなくていいかもしれないって確かめたくて……ごめんね、まずかったよね」


 誰かに、いや、グラタンを渡した時点で穂積に、全て話してしまいたかった。柚樹や雪花には絶対に確認することも話すこともできなかった悩み。単に謝るだけでもいいはずのところで、蓮音は打ち明けずにいられなかった。


「そんな、謝るなよ。汀部が精一杯作ったんだろ? わざとなら怒るが、わざとじゃないなら、仕方ないじゃないか。それに、まずいなんていってない。ちゃんと全部おいしく頂いた」


「くふっ、ありがとね、穂積君。だけど、かなり塩辛かったっていっておきながら、おいしく頂いたなんて本当だって思えないよ」


 そんな塩辛いものなんてまずいに決まっている。それでも全部食べてくれたらしい。そういえば、柚樹も食べてくれていた。一番の好物だといって。無理して食べなくても良かったのに、と申し訳なく思うと同時に、よく分からない気持ちが心の底からふつふつと沸き上がってくる。


「信じてもらえないなんて心外だ。本当のことなのに……って、ここで泣くのか?」


 もう涙がこらえられなかった。泣くつもりなんてなかったのに、まだ話すこと、一番話したかったことがあるのに、涙が溢れてきてしまった。


「何、いってるんですか?」


 蓮音は優しい空間を飛びはねるように抜け出し、空を見上げて、目を閉じた。


 いくつもの雨粒が顔に当たって、頬を伝っていく。


「雨、ですよ。雨なんです」


 穂積の顔を見るのが怖い。さっきみたいに心配そうな顔をさせてしまっていたら、どうしよう。また口の中に微かな塩辛さが広がってしまうかもしれない。


 彼の表情から感じる味には、蓮音にとって好ましいものもあった。それでも、塩辛かったり、苦かったりすることが圧倒的に多かった。そういった味を感じるのは、もちろん異常(おそらくはかなり特殊)なのだが、しばらく我慢すればいいので、それほど気にならなかった。いや、気になりはするのだが、今の彼女が気にしているのは、穂積の表情自体にある。どうしてそんな味のする表情を穂積がしていたのか。ここ数日間に蓮音が穂積にかけた迷惑を思えば、おかしなことではない。


 ──いやな思いをそれだけ一杯させたんだ。あたしなんかと関わったために。あたしが甘えてしまったばかりに。


 雨に濡れる感覚が心を穏やかにしていく。このまま濡れ続けて、今までの全てを洗い流せたら、どれだけいいだろう。(あやま)ち、後悔、憎しみ、苦しみ、それらがなくなってしまえば、どれだけいいだろう。


 ──ううん、きっと、そんな願いが叶ったら、今こうしている幸せも流れて消えちゃう。こんなにも楽しく感じられる時間も失っちゃう。もっと、この時間を過ごしていたい。あたしの身勝手だとしても、いっときの夢だとしても。


 蓮音が心を決めた時、顔へと降り注ぐ雨がやんだ。いや、雨音は消えていない。


「あまり濡れると、風邪ひくだろ?」


 目をあけると、穂積が甘じょっぱい微笑みを浮かべていた。息遣いまで感じられる距離だ。


 胸に溢れる気持ちのまま、蓮音は穂積へと微笑み返した。


「穂積君、もう一つのお話は、実はお願いなんです。その、その……良ければでいいんですが、あたしとお友達になってくれませんか?」


 元々、これを告げようと思って、蓮音は傘をささなかった。自分が逃げず、穂積も逃がさないため。そして、何よりも拒否されないために。


 穂積が拒否することなんてないと思っていたし、別に近付いたからといって何が変わるとも思わなかったが、それでも絶対に断られたくないという気持ちが蓮音に穂積の傘へと入れてもらう勇気を与えた。


「あぁ…………あっ、だけど」

「へっ?」


 一度うなずき、ふと何かに気付いたように穂積は蓮音を見つめてきた。思わぬ展開に心臓がびくんとはねるのを感じた。


 ──何をいわれるんだろ? まさか友達じゃなくて恋……いや、いやいや、落ち着け、あたし。そんなこと、あたしがいわれるはずがないし、いわれても心の準備が……ってちがーう。やっぱり、友達になりたくないっていわれるのかな。あたしなんかと友達になりたくないって。ううん、そんなことない……ない、はず。


「汀部、友達なら丁寧な口調はおかしいから、やめろ、よ?」

「…………えっ?」


 それは友達になる条件ということだろうか。そんなことのために、じっと見つめてきていたのか。穂積は満足げな微笑みを浮かべている。腹が立った。


「喋っていいと思えた時だけ。普通に喋っていいと思えた時だけは、丁寧な口調を遣わないでほしい。そう穂積君、いってくれたよね。確かにいったはずだよね。あれは別に丁寧な口調を遣いたい時は、遣っていいってことでしょ? なのに、どうしてまたそんな意地悪なことをいうんですか? また、あたしの聞き違えだっていうつもりですか? そうなんですか?」


「いや、あの、どうして、そんなに怒るんだ? 怒るようなこと…………だったのか?」

「もう、知りません」


 ──あたしがどんな気持ちで答えを待っていたと思うのよ。どうしてそんな意地悪がいえるのよ。


 穂積に見つめられて期待と不安に揺れた自分が情けなかったし、口調について強制されるのも気に入らなかった。


 面白みと同じくらいか、それ以上に、清楚さやおしとやかさだって女の子には重要だと蓮音は思うのだ。



 *



 目的地にあったのは、しゃれた装飾の施された店で、二階か三階建ての高さだった。小ぶりなチャペルといえば分かりやすいかもしれない。屋根には目印の風見が飾られている。ただし、モチーフはなぜかニワトリではなく、『かぶりビャ~コ』(謎系マスコット『かぶりゲンブ~』と同じシリーズの白バージョン)だ。


 近付くほどに漂う甘く華やかな匂い。店の周りに咲き乱れた花々から、そして店の中から、ゆるゆると香る。後者は、おそらく紅茶の香りだ。


「ここ、なの? こんなところにお店なんてあったんだね。穂積君、これってどう読むのかな? とうそう? それとも、あずまかな?」

「いや、しのかな、じゃないか?」


 東に奏でるで、東奏。店の看板に書かれた漢字だ。どう考えても、しのかな以外の読み方が迪之には思い浮かばない。そういえば、すっかり忘れていたが、学校裏には東雲(しののめ)絢乃(あやの)の造った庭園があった。この場所を指定された時点で、あの人が関わっている、と気付いても良かったかもしれない。


「うーん、穂積君、取りあえず、入ってみよっか?」

「あぁ、そうするしかないな」


 店先で傘をたたみながら答えた。店内を確認しようと窓をのぞき込こもうとしたが、ステンドグラスになっていて、全く見えなかった。


「もう、柚樹ったら、なんなのかな? わざわざ穂積君に頼んで」

 声音も表情も楽しみで仕方ないといっているようなものだった。


 今日の汀部はご機嫌だ。泣いたり、怒ったり、拗ねたり、色んな表情を見せるが、瞳を輝かせて微笑むことが一番多かった。


 本日貸し切りの案内札のかかった扉をあけると、まず目に入ってきたのはエプロンドレスに黒縁眼鏡をかけた少女、アイハだった。なぜか髪が三つ編みになっている。迪之(みちゆき)たちに気付くと、即座にこちらへやってきた。


「お待ちしておりました。お二人とも、どうぞこちらへ」


 木目調の店内はやや薄暗く、ダークブラウンのテーブルが見覚えのあるアンティーク椅子を従えていくつか並ぶ。見上げると吹き抜けになっていて、明かり取りの窓もやはりステンドグラスだ。

 案内されたのは、店内でも一番大きな丸テーブルだった。そして、そこには先客が座っていた。今日は白のドレスワンピースを着ている。


「ようこそ、二人とも。歓迎するわ」

「絢乃、先輩、どうしてここに?」


 全く予期していなかったのか、汀部は緊張した顔つきになった。


「このお店は私が共同経営していてね。少し、汀部さんとお話、いいかしら?」


 迪之の方を向いて尋ねてくる。どうやら席を外してくれ、ということらしい。

 汀部に視線で尋ねると、うなずきが返ってきた。迪之も絢乃へとうなずきを返す。


「迪之、こっちに来なさい」


 聞き覚えのある声がカウンターの方からした。静かで、力強い声だった。それだけで迪之には誰なのか分かったが、どうやら汀部は声がしたこと自体に気付かなかったようだ。

 カウンター席へと座って、声のぬしと向き合う。


「その格好は、なんだ?」

「メイド服を拒否したら、これにしろっていわれたの。仕方なく譲歩しただけ」


 白狐面の巫女は事もなげに答え、ティーカップに紅茶を注ぎ始めた。


「それにしたって、そのお面……隼人の奴と何があったか知らないが、あいつ──」

「何もないわよ。適当に話を合わせてあげただけ。あと、お面はこのお店のルールなの」


 迪之の口元へと人差し指を突き立て、言葉を遮ってきた。この態度からすると、きっと催涙銃について追及しても無駄だ。そのせいで隼人がこの巫女に対し、秘密結社の構成員、それも幹部に違いないという意味不明な疑念を強めてしまったのだが、仕方ない。元から隼人はそういう奴だし、外傷がなかったとはいえ、催涙銃はやりすぎだ。いくら隼人お得意の陰謀論をふっかけられて腹が立ったにしても、もう少し別の方法があっただろう。


「迪之様、お足元の優れない中、ようこそお越しくださいました。心ばかりのおもてなししかできませんが、どうぞおくつろぎくださいませ」


 急にうやうやしい態度を取って、先ほど目の前でいれていた紅茶を差し出してきた。明らかに怪しい。怪しいのだが、湯気の立ち具合とカップの温度からすると、紅茶が熱湯というわけではなさそうだ。色も香りも上等な紅茶だ。


 しかし、口をつけ、すぐに分かった。苦い。あまりに苦い。


「あぁ、少し蒸らしすぎてしまったようですね。失礼いたしました。こちらでお口直しを」


 抗議の眼差しを向けると、すかさずスコーンを出してきた。見た目に問題は、少し焦げている以外にはない。しかし、迪之は首を振った。罠だと分かっていて食べる奴がどこにいる。


「ふふっ、どうかなさいましたか?」


 巫女、いや、七歌(ななか)は白狐面の下に悪魔の微笑みを浮かべているに違いない。


「どうもこうも、こんなの──」

「迪之様、自転車に二人乗りした次は、相合傘ですか? 随分といいご身分ですねぇ…………。私の蓮音ちゃんに手を出して、無事で済むとお思いですか?」


 耳元で囁かれる言葉は、冷たい。迪之の背筋を凍らせるほどに。


「ちょっと待て。何か誤解を──」

「お召し上がり頂けないのでしょうか? わたくしお手製のお砂糖たっぷりスコーンなのですが」


 スコーンを両手に取って、迪之の口へと押し付けてくる。ここで口をあけなかったら、言い返せないことをいいことにどんな言葉責めを受けるか……その恐怖に、屈伏してしまった。


 容赦なく丸ごと二個のスコーンを放り込まれた。

 味はただひたすらに甘いだけで、それ自体はたいしたことなかったわけでもないのだが、それ以上に口の中をもさもさでぱさぱさな食感が蹂躙(じゅうりん)して、全くのみ込むこともできず、苦しい。


「紅茶も合わせてお飲みくださいね」

 すかさず苦味しか感じられない紅茶をすすめてくる七歌。


 思いっきりにらみつけてから、口の中へと流し込む。苦い紅茶と甘いスコーンが絶妙なハーモニーを……生み出すはずもなく、ひたすら口の中に出現した甘くて苦いモンスターと闘った。その白熱ぶりは、手のひらへと汗を握るほどのものだった。


「迪之、今度、雨の日にでも私を家まで二人乗りで送り届けてくれない? 相合傘しながら、ね? 答えなんて、訊くまでないかな? 私とそんなことができたら、光栄だものね?」


 今度はグラスを迪之へと差し出しながら、七歌が尋ねてくる。グラスの中には無色、無臭、透明の液体。おずおずと口にしてみると、意外にも普通の水だった。


「えっと……それは七歌がこいで、俺がさすのか? それとも、その逆か?」


 モンスターのことは記憶の奥底に封印して、取りあえず訪れた平和を受け入れることにした。


「もちろん両方とも迪之がするのよ」

「あまりに危険すぎるだろ、それ。俺はそんな曲芸みたいなことはしたくないし、できない」

「もう一つ、スコーンをお召し上がりになりますか? それとも、紅茶がよろしいですか?」


 迪之は全力で首を振った。封印を解くわけにはいかない。


「まっ、待て。それはもういい。もういいから……あーっと、そうだ。その代わりでもないが、きっと七歌が困った時にだって、助けてやる。うん、そう約束する」


 自転車の二人乗りは緊急事態で仕方なくしたことだし、相合傘は……なぜしたのか思い返すとよく分からないが、結局は一種の人助けだったはずだ。ならば、七歌を助けることが、七歌の要求する無理難題の代わりになる。おそらく、なる。そう考えることにした。


「迪之ごときに何ができるっていうの?」

「何もできないかもしれないな。でも、今までだってそうだが、これからも七歌は俺にとって大切な幼馴染だ。困った時に助けるのは、当然だろ?」

「ふーん……」


 七歌はおもむろに右手の人差し指と小指を立て、狐を作った。そして、迪之の顔へと近づけてくる。


「くぉん、くぉん、くぉん。がぶりっ」


 変な鳴き声をあげていると思ったら、右手の狐で頬にかぶりついてきた。子供の頃から、事ある度に七歌が繰り出してきた得意技「(きつね)る」だ。七歌が指で狐を作った時から、来ると分かっていたが、なされるがままにするしかなかった。なぜなら、経験上、下手な抵抗をすれば、七歌の立てた指(特に小指)へと甚大なダメージを与えてしまう。それは後が怖い。


「放せぇ。狐るのやめろぉ」


 頬を好き放題引っ張る七歌へと抗議の声をあげる。力加減してくれているため、痛くはないが、別に気持ち良くもない。


「…………約束、だからね。期待しないであげるけど」


 数十秒間かぶりつき、ようやく気が済んだのか、解放してくれた。


「さて、向こうの話も終わっているみたいね。頃合いも良さそうだし、いきましょうか」


 七歌は引っ込めた右手で白狐面を取って、微笑んできた。機嫌は悪くなさそうに見える。どうやら危機はひとまず抜けたようだ。


「お面、外していいのか?」

「えぇ、もう別に店員やらなくていいからね。それに、そろそろ私もここにいるって教えてもいいでしょ? このままだと、私、ずっと蓮音ちゃんの前に出れなくなるわ」


 汀部と絢乃の話し合いが終わるまで待っていたといいたいようだが、いや、ちょっと待て。


「俺にいやがらせしようと、店員に扮していたってことか?」

「いやがらせ? さて、なんのこと、かな? たくさんサービスしてあげた記憶しかないわ」


 カウンターから出てきた七歌は首をかしげてみせた。自覚がないのか、本当に忘れているのか、そんな表情だった。愕然(がくぜん)とする迪之をしり目に汀部の方へと向かってしまう。


「蓮音、話は終わった?」


「うん……うん? うーんっ!? 七歌、ちゃん? どうして?」


 その場に軽く立ち上がって驚く汀部。絢乃の時以上に予想外だったらしい。


「うん、私、絢乃ちゃんと組んで、ここの共同経営者になってるから。店の名前も見たでしょ? あれって、東雲の東に、斜奏(ななかな)の奏で、東奏(しのかな)って読むのよ」

「あぁ、なるほど。それで東奏。納得……って、ちょっと待ってください。どうしてここに?」

「えっと、それは、これから分かるだろうから、秘密かな? だけど、そもそも柚樹君を絢乃ちゃんに紹介したのは私だから、ここにいるのはおかしくないはずよ」


 汀部が口をあけて何か訴えかけるが、声になっていなかった。


「うんうん、たぶんそういうことじゃないかな? じゃ、私も混ぜてもらうわね」


 きっと七歌は適当に答えている。汀部の反応を待たずに、椅子へと座る。


「アイハ、そろそろ弟君たちを呼んできてくれるかしら? 待ちきれなくなってると思うわ。さっ、穂積君も座って。席は用意してあるから」


 織乃(しきの)と共に別のテーブル席で控えていたアイハがすぐに立ち上がって、奥へと消えた。って、いつの間にか、織乃がいる。姉の絢乃がいるから不思議なことではないが、いつからここにいたのか分からない。まさか最初から……いや、それはない、と思う。


「迪之、こっち」


 織乃に誘導されるままに、椅子へと座る。向かい同士で話し合っていた汀部と絢乃、汀部の両隣に一人分の場所をあけ、絢乃の左に七歌が、右へと迪之が座る形になった。織乃は、というと、絢乃の膝の上だ。


「えっと、どうして私の両隣があいてるんでしょう? 椅子もないですし……」

「ふふっ、そんな心配しなくても大丈夫。私がいうんだから信じて、ね? あっ、でも、驚くようなことがあっても、しばらく黙って見守ってあげてね。あとで理由は教えてもらえるから」

「は、はい」


 迪之なら、七歌に笑みをこぼしながら信じてなどといわれたら、まず間違いなく不安が増す。しかし、汀部にとっては違うようだ。幾分ではあるが、和らいだ表情になった。

 やがてアイハが柚樹と雪花を引き連れて現れた。柚樹はしゃれた燕尾(えんび)服(いわゆる執事服だ)、雪花はエプロンドレスに身を包み、なぜか二人とも眼鏡を……アイハも含め、三人ともが眼鏡をかけている。


「まさか、眼鏡も制服の一部なのか」

「穂積君、ご明察よ。このお店には洋装なら眼鏡っていうルールがあるの。どう思うかしら?」


 すかさず迪之の呟きに反応を返してきた絢乃。どう思うと訊かれても、眼鏡フェチではない彼にとって判断のしようがないというか、答えに困る。


「無理に答えなくてもいいわ。見た目は良くても、驚きが足りないわよね。和装の場合は白狐面なんだから、洋装の場合は鬼面が絶対にいいって提案したんだけど、認められなかったの。反対多数で却下されて。みんな常識にとらわれ過ぎよ、ね?」

「は、はぁ…………鬼面。それは確かにかなりのインパクトがありますね」

「そうよね。視覚がびんびんに刺激されるわよね。穂積君が理解してくれて嬉しいわ」


 理解とは違ったのだが、絢乃は嬉しそうに微笑んだ。今更、否定できない。


 鬼猫事案から怪しいとは感じていたが、絢乃はユーモアのセンスがかなりずれているというか、率直にいって残念なのかもしれない。

 と、七歌と織乃が冷たい視線を向けてきていた。迪之が見つめ返すと、七歌は何事もなかったように視線を別の方向へ向けたが、織乃はじっと見つめ続けてきた。


「織乃、どうかしたか?」


 たまらず迪之が声をかけると、首を振り、ようやく視線を外した。


 ──この空間、迪之にはちょっと刺激が強すぎる気がするわね。


 とても否定できる心持ちではなかった。あまり長くいると寿命が縮みそうだ。


 迪之がそんな出来事に見舞われている間にも、アイハたち眼鏡三人衆はティーセットを並べていた。その姿を、汀部は周囲の会話も耳に入らない様子で見つめ続けていた。

 しばらくして、並べ終わった時、アイハが小さな鈴を一度だけ鳴らした。注目を促したのだ。


 三人一列になった状態から、雪花と柚樹が一歩前へと出る。


「本日は、お越しくださり、ありがとうございます」


 二人が声を合わせて告げ、お辞儀をした。それと同時に絢乃たちから拍手が起こった。


「これから雪花とお兄ちゃんがみんなをもてなします」

「アイハさんにはフォローでついて頂きました」


 後ろでアイハがお辞儀した。事前に打ち合わせしてあるのかもしれない。


「これは、みんなにありがとうって気持ちを伝えたくって、雪花が提案して──」

「俺が計画を練り、皆さんに協力して頂くことで実現した一席です」

「どうぞ、お楽しみください」


 再び最後に声を合わせてしめると、お辞儀した。今度は迪之と汀部も遅れずに拍手を送った。

 雪花はスコーンを配っていき、柚樹は順に回って紅茶を注ぎ始める。その間に、アイハは奥から手際良く料理を運んできた。


「フィッシュパイ、オニオンスープ、フルーツのスコーンです」

「俺たちだけでは作れなかったので、アイハさんを始め、皆さんにお手伝いして頂きました。ありがとうございます」


 汀部の右手側に立った雪花が料理を紹介し、左手側に立った柚樹が謝辞を述べた。


「どうぞ、ご歓談しながら、お召し上がりください」


 自分と汀部以外、この場にいる全員で用意したのだと、その場の雰囲気から感じ取れた。


「その…………どうしてこんなことを?」


 我慢しきれなくなった様子で汀部が左右を交互に見て尋ねた。

 ずっと気になっていても、どう訊いて良いのか分からず、黙っていたのだろう。

 迪之も同じだった。こんな席に呼ばれるなんて思いもしなかったし、正直にいえば、状況がほとんどつかめていない。分かることといえば、主役が汀部ということだけだ。


「蓮ねえ、さっき雪花がいっただろ? 皆さんにありがとうって感謝したかったんだ」

「でも、皆さんって……どうしてあたしだけ特別扱い?」

「それは、お姉ちゃんが主役の特別な日、だからね」


 雪花の言葉に、迪之以外の皆がうなずく。迪之も周りに合わせてうなずいたが、なぜなのか理解できない部分がある。


「どう、して?」

「まだ秘密なの。お姉ちゃん、お昼を食べながら考えてみてね」


 汀部は納得いかない表情のままだったが、仕方なく食事を始めた。

 迪之も食事をしながら、考えてみる。

 ホワイトソースの中で白身魚と野菜が溶け合うフィッシュパイ、コクのあるコンソメにとろけた玉ねぎが浮かぶオニオンスープ、甘みにわずかな酸味がほどよいフルーツ入りのスコーン。

 どれもがおいしかった。と、食事にばかり集中してしまった。


 二人の汀部への感謝を示すため、という目的は、なんとなく分かった。しかし、なぜ今日が特別なのか分からない。

 迪之に何も事前の説明がなかったのは、よほど信用されていないか、知らせる余裕がなかったか、のどちらかだろう。信用されていないなら、ここに呼ばれる理由が分からなくなるし、汀部を連れてくるなんていう大役を担わせないはずだ。知らせる余裕がなかった、要するに、今日でなければならなかったと考えるのが自然だ。


 真っ先に思いつくのは誕生日や記念日だろう。誕生日だとすれば、汀部が気付くはずなので、記念日ということだろうか。

 結局、そこまでしか、迪之には分からなかった。


 皆があらかた食べ終わり、おなかもかなり膨らんできたであろう頃合い、再び眼鏡三人衆が店の奥へと消え、グラスに入ったデザートを用意し始めた。


「これは、ゼリー?」


 汀部がグラスを雪花から受け取って尋ねた。


「うん、ハッカゼリーだよ。全部お兄ちゃんと二人だけで作ったの」

「ハッカが入ってるの? うん、いわれてみれば、そんな香り、するような、しないような」


 初めこそ、なぜ自分が主役なのかと気にしていた様子の汀部だったが、いつの間にか楽しそうに食事していた。どうやって料理したのか、今日までどんな風に計画を進めてきたのか、そういったことを次々と尋ねていた。


 この中で一番料理が上手なのは絢乃で、次がアイハだということ、玉ねぎを切る時に雪花が泣いて柚樹にバトンタッチしたこと、七歌がスコーン作りに悪戦苦闘していたこと、包丁をつかんで放さなかった織乃が玉ねぎ以外の野菜は全て切ったこと、などにまで話は及んでいた。


「雪花、柚樹、もてなしてくれて、ありがとう。料理も、ハッカゼリーも、すっごくおいしく頂きました。うん、とっても幸せな気分。それで……そろそろ、あたしが主役の理由を教えてもらえないかな? ずーっと考えてたんだけど、全然分かんない。もう降参よ」


 汀部は微笑んでいる。声の調子も明るくて、言葉通りに幸せなのだろう。いや、それはこの場にいる全員かもしれない。ここの空気自体が柔らかな温もりをはらんでいる。


「今日を選んだのにはちゃんと理由があるの。ちょっと待っててね。ほら、お兄ちゃんも」


 雪花がもったいぶったような笑みを残し、柚樹を連れて、裏へと消える。すぐに戻ってきた二人は、後ろ手に何かを隠していた。


「蓮音お姉ちゃん、いつもありがとう」「蓮ねえ、いつもありがとな」


 雪花は小さな袋を、柚樹は赤い花束を汀部へと差し出した。


「えっと、あの……ありがと」


 戸惑ったように二人を見つめてから、汀部は受け取った。


「くふふっ、お姉ちゃん、まだ気付けてないんだね。今日は五月の第二日曜日なんだよ。母の日なんだよ。えっと……お母さんじゃないし、ママでもなくなっちゃったんだけど、だけどね、ずーっと雪花たちのお姉ちゃんは、自慢のお姉ちゃんで、優しいお姉ちゃんの、素敵なお姉ちゃんだから、だーい好きなお姉ちゃんなの。でも、お姉ちゃんの日なんてないし、感謝するなら今日しかないって。だから、お姉ちゃん、いつもありがとう」


 人差し指を指揮棒のように振り回して力説した雪花が、ついには汀部へと抱きついてしまう。


「雪花、嘘はいけないな。姉の日はあるって教えたじゃないか。お前がどうしても今日がいいって言い張ったんだろ? 蓮ねえのために何かしたいって」

「お兄ちゃんっ! それは…………どうしていっちゃうの?」


 汀部へと抱きついたまま振り向いた雪花が、柚樹へ非難の眼差しを向けた。柚樹は気にする様子もなく、雪花の頭を撫でつけた。


「本当に重要なのは、今日がなんの日かじゃなくて、雪花と俺の蓮ねえへの──」

「くふっ、お姉ちゃん、また泣いてる。もう、泣き虫だなぁ」


 涙を流し始めた汀部の顔を雪花の指がぬぐう。その声も少し震えていた。


「あり、がと。うっ……二人とも、ありがとう」


 抱き合う姉妹の後ろで、柚樹は複雑な表情をしていた。肝心の二人に決め台詞をスルーされても雪花の頭を撫でることはやめていない。そのけなげさが迪之の胸を打った。しかし、あえて気付かないふりをして、三人を見守ることにした。ここはそうするのがいいだろう。


「ほら、お姉ちゃん。そろそろ雪花のプレゼント、出してみてよ」

「う、うん」


 袋の中から出てきたのは、ひも、いや、迪之の位置からは確認できないが、ひも状の何かで色がいくつか混ざっている。


「これは、ブレスレット?」

「うん、正解。レザーブレスレットだよ。織乃ちゃんに作り方を教えてもらって、雪花が三つ編みにしたの。三本の革ひもで作ってあるんだけど、あのね、蓮音お姉ちゃんが赤紫で、柚樹お兄ちゃんが黄色で、雪花が白なの。お姉ちゃんとお兄ちゃんと雪花がこれからも一緒に仲良く過ごせますように、って思いながら作ったんだよ。どうかな?」

「うん……うん…………」


 ブレスレットを見つめたまま、何度もうなずく汀部だった。言葉も出ないほど、嬉しいのだろうと思う。迪之の位置からはこぼれる言葉を聴き取れないだけ、という可能性もあるが。


「穂積君、あなたがいてくれて良かったわ」


 迪之と同じように三人を見つめていた絢乃が呟いた。


「いえ、俺がいなくても、あの三人ならきっと──」

「私が迪之の役目をする予定だったんだけど、ここまでうまくいくかは、ね」

「それは結果論だろ?」

「さぁ、どうかな? 対等な関係じゃないからこそ、難しいことって、きっとあると思うわ。もちろん、その逆もあるんだろうけどね……。ちょっと、お手洗い」


 七歌は席を立って、店の裏へと消えていった。


「くすっ、もらい泣きでもしたのかしら? と、それはいいとして、穂積君、次のお願いを聞いてほしいの」


 悪びれた様子もなく迪之を見つめ、当然のことのように絢乃は言葉を続けた。


「この店で働いてくれないかしら? 汀部さんと弟君も働くことになっているから、安心していいわ。なかなか汀部さんは了承してくれなくて、穂積君も働くって話しちゃったから、もう決定事項なんだけどね」


 何を告げられたのか、一瞬分からなかった。何かの聞き違えだと思いたかったのだろう。


「ちょっと、待ってください。俺は他にバイトを──」

「大丈夫よ。それなら既に手を回してあるの。『ほづみん、今までありがとう。達者でな』って伝言も頂いてるわ」

「そんな勝手に──」


「今回はちゃんと学校への申請も私がしてあげるから、心置きなく働けるわよ」


 慣れたアルバイト先を失った現実、思わず言葉も失った。


 なんという横暴だろうか。横暴すぎる。しかも、この人と七歌がこれから働く店の共同経営者なのだ。先が思いやられずにはいられない。


「迪之、応援する」


 なぜか織乃の無感情な視線に憐れみが感じられた。いや、そもそも、織乃が自転車の前へと飛び出してきたのが事の発端だ。あの時の「必要」が、こういう意味での必要だったならば、まぁ「教えられない」よな、と妙に理解してしまった自分が少しだけ悲しい。


 ──ふふっ、いいじゃないの、迪之。なんだか楽しそうよ。


 そんなエルピスの囁きが聞こえた。



                      (第一部「強弱想導」完)



お読み下さり、ありがとうございます。一言でも良いので感想を頂けると大変嬉しいです。

また「小説家になろう」様のサイトに投稿させて頂いたのは今回が初めてなので、勝手を十分に理解しておりません。至らない点などが御座いましたらご指摘下さいませ。

第一部は完結です。第二部以降は2014年7月現在、掲載未定で暫く更新できないと思います。

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