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 7



 吐息が白くなって消えていく、そんな寒い時期。

 揺れる波間を見つめていた。

 寄せては返しを繰り返すだけの単調な光景だった。

 それでも世界が輝いて見えた幸せな時間だった。


 右隣りには正義の味方みたいにカッコいい父親が小さな子供を()きかかえていて、左隣りには優しさに満ち溢れた母親が微笑んでいた。

 歩き疲れて海岸近くの防波堤(ぼうはてい)に座ったら、はさむようにして座ってくれたのだ。


「──蓮音(はすね)柚樹(ゆずき)、喜べ。お前たちの妹の名前が決まったぞ。雪の花と書いて雪花(せっか)だ」


 父親が暖かくて大きな手で頭を撫でてきた。

 うなずき返して、何を答えたのか。


「くふっ、さぁ、どうかな? 蓮音の言う通りになるといいけど。お父さんったら、ちょっと名前を決めるの、急ぎ過ぎよねぇ。まだ予定日まで長いのに、全く気が早いんだから」


 今度は母親が肩に手を載せてきた。

 思わず身を寄せて、何をねだったのか。


「うん、蓮音、おいで」


 母親の膝の上、膨らんだおなかへと耳を当てて、目を閉じた。

 くぐもった音の中で、時おり何かが動いているのを感じ取れた。それは波の音にどこか似ていた。

 そのまま、溢れる期待に胸を膨らませ、眠りへと落ちるように、水中の深いところまでもぐっていく感覚に身をゆだねた。


「蓮音、蓮音……」


 それは誰の声だったのか。

 目をあけると、日の落ちた砂浜に一人眠っていた。

 周りを見回しても誰もいなかった。


「────さん、お母さん、柚樹、どこにいるの?」


 何を叫んでも答えてくれる者はいない。



 自分の声で蓮音は起きた。

 天井へと手を伸ばしてみるが、何もつかめない。

 蓮音が眠っているのは、暗い砂浜ではなく、カーテン越しに陽光の降り注ぐ布団の中だった。


 ──また、なのね。


 遠い過去。失った幸福。微睡(まどろ)みの中で幾度も見る情景。

 あの砂浜に何か大切なものを残してきてしまった。

 いつも、そんなどうしようもない虚しさが、この情景と共に蓮音を襲ってくる。

 もう一度、眠り直したい衝動に駆られたが、蓮音は頭を揺さぶって起きることにした。

 まだ寝ている雪花を起こさないよう、布団から出ようと────だが、隣にいるはずの雪花がいなかった。


 ──もう起きてるってことかな。


 布団から出て、傍の机に置いた眼鏡を取り、壁掛け時計を見た。時刻は八時半を回ったところだった。

 まさか寝過ごした、と思ったのも一瞬で、今日が土曜日であることを思い出した。


 ──おかしいな。何か用事とかも……特にないよ、ね。

 寝ぼけた頭に部屋のカレンダーを思い浮かべるが、今日のところには特に何も書かれていなかったはずだ。念のため、実際に確認してみても、やはり何も書かれていない。

 一階へ降りてみたが、それらしき人影はどこにも見当たらなかった。


「雪花、どこにいるの?」


 呼びかけてみるが返事はない。トイレとお風呂も確認したが、外れだった。


「柚樹、いる? あけても、いい?」

 二階へと戻って、柚樹の部屋のふすまを叩いた。反応は何もない。

「あけるよ」


 中には誰もいなかった。布団はたたまれて、すみに置かれている。


 柚樹と雪花、二人でどこかへいったのだろうか。いいや、自分になんの断りもなくどこかへいくようなことはないはずだ。蓮音の記憶では、これまでこんなことはない。


 もう一度、呼びかけながら部屋を見て回った。

 しかし、二人の姿はおろか、置き手紙のようなものさえ、どこにも見当たらない。


 仕方なく自分の部屋へと戻り、携帯を手に取った。二人に電話をかけようと思ったのだ。

 こんな時のために、普段から緊急の連絡用として携帯を持たせていた。ちなみに雪花の携帯は、こっちに来てから七歌と相談して持たせると決めたもので、電話とメールの機能しかついていない。しかも、蓮音を含め、現在の汀部家では家族以外との連絡は費用面の問題から基本的に禁止している。例外があるとすれば、七歌だけだ。

 まず柚樹にかけたが、つながらなかった。電源が入っていないわけではないようだが、とにかくつながらなかった。

 続いて、雪花の携帯にもかけてみる。すぐに着信音(『魔女っ娘もえルーン』のテーマソングだ)が聞こえてきた。陽気な明るい旋律、けれども蓮音の心は暗くなった。さっきまで蓮音が寝ていた枕元で鳴っていたのだ。当然、そこに雪花はいない。


 ──どういうこと? もしかして、家出したとか?


 いやな疑念が汗と共に噴き出してきた。


 再び部屋を見て回る。今まで立ち入らなかった部屋も鍵がかかっていない場所はのぞいた。それでも、どこにも二人の姿は見つけられなかった。


 ──やっぱり家の中には、いない。


 外に出たとして、どこにいったのか。蓮音には見当もつかない。こんな朝早くから出かける場所なんて、いや、どんな時間帯であっても、蓮音へ何も告げずに出かける場所なんて心当たりがない。


 ──どうしよう。どうすればいいだろう。


 蓮音は周りを見回したが、なんの手がかりも転がっていない。部屋の様子は、いつもと全く変わらなかった。寝る前と同じなのに、柚樹と雪花の姿だけがなかった。


 ──ちょっと外に出ているだけかも。すぐに戻るつもりなら、あたしに断りもないのだって納得できる。


 蓮音は両手を胸の前で握りこみ、自分を落ち着かせようとした。それでも、不安はますますつのるばかりだ。


 ──そんなはずない。近所の人に尋ねれば、何か分かる? だけど近所にそんな訊ける人なんて…………。


 蓮音は陽光の差し込む居間の窓をあけた。


「穂積君、起きてますか? 柚樹と雪花、見てないですか?」


 駆け出したくなる気持ちを抑えて、窓際で立ち止まり、呼びかけた。

 わずかな時間すら、もどかしい。わざわざ外を回るのは面倒だし、はだしのまま裏庭へ出てしまおうか、と考え始めた時だった。


「あぁ……汀部、おはよう。見てないけど、どうかした?」


 向こうの窓が開き、穂積が顔をのぞかせた。寝癖がついていることからすると、寝ていたのかもしれない。なんともいえない複雑な表情をしている。


「柚樹と雪花がいないんです。どこにいったのか、分からなくて、どうしたら、いいか……」

「えーっと、そっちに取りあえずいってもいいか?」

「はい」


 やがて裏口から穂積が出てきて、斜奏家の裏庭を通って蓮音の元へとやってきた。

 早速、状況を説明すると、もう一度だけ家を探そうということになった。


「いない、な。玄関の鍵もかかっていたし、汀部の弟は携帯を持ち出しているんだろ? どこかに妹と一緒に出かけてるんじゃないか?」

「それは、ないと思います。家出なら、別ですが……」

「書置きとかがないなら、きっと家出じゃないだろ」


 いわれてみれば、そうかもしれない。でも、それなら余計に二人がどうしていないのか分からない。


 途方に暮れていると、蓮音の携帯がG線上のアリアを奏で始めた。プリインストールされていた曲の中で彼女が気に入ったクラシック音楽だ。

 着信元を確認すると、柚樹の携帯だ。ゆったりとした旋律が展開を重ねていく前にすぐさま受話ボタンを押した。


「もしもし、柚樹? どこにいるの?」


「……残念ナガラ、弟君ジャナイワ」


 蓮音の問いに答えたのは、明らかにボイスチェンジャーをかけた不自然な声。


「誰ですか、あなたは?」

「アナタノ弟君ト妹サンヲ大切ニ預カッテル綺麗デ優シイオ姉サン、カシラ?」

「ふざけないでくださいっ! 一体、預かってるって、どういう意味ですかっ!?」


 電話の相手(おそらくは女)がもったいぶった返答をするのが、いらだたしかった。


「クスッ、ソノママノ意味ダケド。ソウネ、アナタガ私ノ要求ニ従ッテクレレバ、コレ以上ハ傷付カズニ済ムカモシレナイワ」


 蓮音は背筋が凍っていくのを感じた。相手の喋っていることが分からない。いや、分かりたくない。それでも、そんなことを思っている場合じゃない。


「要求? 何が目的、ですか? 誘拐、なんですか? 傷付かずにって、どういう……」


 声が震えていく。訊きたくない。訊きたくないのに、訊かずにはいられない。


「アラ、通報シタリシナイデネ。オ互イニトッテ困ッタコトニナルハズダシ、アナタノ行動ハ全テ何モカモオ見通シヨ。アナタノ傍デ騎士(ナイト)ガ聴キ耳ヲ立テテイルコトマデネ」


 蓮音自身も気付いていなかったが、いつの間にか穂積が会話の聞こえる位置まで来ていた。二人で辺りを見回すが、それらしき人影などない。どういう方法なのかは分からないが、行動を監視されているようだ。


「分かり、ました。柚樹と、雪花と、話をさせてください」


 気持ちを落ち着かせようと、歯を食いしばる。とにかく状況を把握せねばならないだろう。何がなんだか全く分からないが、柚樹と雪花の無事だけは確認せねば。


「ソウネ、少シダケナラ、イイデショウ。少シ待ッテナサイ」


 がさごそと衣擦(きぬず)れの音がした後、扉か何かの開く音がした。別の部屋へ移動しているのかもしれない。


「ホラ、弟君、オ姉サンガ話シタイッテ」

「──蓮ネエ」


 聞こえてきたのは、確かに柚樹の声だった。ボイスチェンジャーがかかったままでも分かる。無事でいてくれたことに少しだけ安堵を覚え、誘拐されている事実にめまいがした。


「柚樹、大丈夫?」

「アァ……」

「本当に無事? 何かされたんじゃないの?」


 さっき誘拐犯は「これ以上は傷付かずに」といっていた。あの言葉からすると、きっと何かされているはずだ。


「特ニ何モサ──」

「ハイ、ココマデネ」


 会話の途中で誘拐犯が割って入ってきた。本当に少しだけしか話させてくれなかった。


「ちょっと待ってください。もっと話を──」

「認メラレナイワ」

「それなら、雪花とも話をさ──」

「無理ネ」


 即答で断られた。全く取り合う気がないというのが、伝わってくる。


「どう、して、無理なんですか?」

「大丈夫、心配シナクテイイワ。今、ココニイナイダケダカラ」


 誘拐犯にそんなことをいわれて、安心できる人がいるだろうか。蓮音は不安に胸がしぼられていった。


「いないって、どういう──」

「ソノママノ意味ヨ。アナタガ簡単ナ要求ニ応ジテクレレバ、私ノ名誉ト誇リニカケテ無事ヲ約束スルワ」


 誘拐をした時点で名誉や誇りがどこにあるというのか。こいつのいってることは明らかにでたらめだが、それでも従わざるをえないようだ。


「本当、ですね?」

「エェ、物分カリガ良クテ助カルワ」


 携帯を叩きつけてしまいたかった。物分かりがいいんじゃなくて、いい振りをしているだけだ。全く納得などしているはずがない。


「マズ明菊高校近クニアル〝ノエア〟ノ屋上駐車場ニ来ナサイ。時間ハ、ソウネ、十時デイイカシラ。詳シイ話ヲソコデシマショ」

「ノエアって、アリーナの横にあるショッピングセンターですか?」


 学校近くのノエアというと、この辺りでも大きな部類に入るアリーナの横にあったはずだ。


「エェ、ソウヨ。オマワリサンハ困ルケド、連レテキタケレバ、アナタノ横ニイル騎士ナライイワ。ソレジャ、マタ後デネ」

「ちょっと、待っ────」


 電話が切られてしまった。もっと訊いておきたいことがあったのに、雪花の無事も確認できていないのに、切られてしまった。


「汀部、大丈夫か?」


 穂積が静かな声で尋ねてきた。


「大丈夫……なはず、ありません。ないに決まってるじゃないですか」

「きっと二人は無事だから、そんなに──」


 パシッ、と小さな音が響いた。

 穂積が蓮音の頭へと伸ばしてきた手を、とっさにはねのけてしまったのだ。


「…………ごめん、なさい。でも、どうして穂積君にそんなことが? こんな状況で今は無事でも、どうなるかなんて。雪花がいないっていってたけど、あれだって──」

「汀部、落ち着くんだ。そんなに自分を追い込むなよ」

「こんな時にどうして落ち着いてられるんですか? 穂積君は他人だから、そんな風にいえるんですっ!」


 穂積に怒鳴ったところでどうしようもないのに、声を荒げずにはいられなかった。


「あぁ、その通りだ、と思う。でも、少しは落ち着かないと、正しい判断ができないだろ?」

「…………そう、ですね」


 決して悪気があって穂積は落ち着けといったわけじゃない。それは蓮音にも分かっていたのだが、分かっていても、落ち着くことなど、とても無理だった。怒りなのか、悲しみなのか、駆け巡る感情は不安の奔流(ほんりゅう)の中で取りとめもなく濁っていくばかり。抑えようにも抑えられなかった。


「汀部、電話の相手に誰か心当たりはあるか?」

「……それは、全くない。えぇ、ないです。こっちで関わりがあったのなんて、七歌さんだけだから…………あっ、でも、人影。昨日、織乃さんが見たといってた人影って、あたしも誰かに見られているような気がしたことがあって……気のせいかと思ったんだけど、あの時にもっと…………七歌さんに相談してたりすれば……あたし、何してたんだろう」


 おととい、雪花と家の前で見上げた満月を思い出した。あの時に感じたのは満月じゃなく、絶対に誰かの視線だったと思う。それに、それより前だって、誰かに見られているような人の気配を街中で感じることが(まれ)にあった。


 ──もっと気にしていたなら、こんなことにならなかったかもしれない。あたしのせいだ。


 こぶしを胸の前で強く握った。心をしめつけるように。


「人影、か。七歌には電話してみたか? 今回のことについて」

 蓮音が首を振ると、穂積はポケットの中から携帯を取り出した。

「電話してみよう。あいつなら、力になってくれるはずだ」

「えっ、でも、誘拐犯に警察だって勘違いされたら……」


 蓮音の行動を全てお見通しだと誘拐犯は忠告してきた。そんなことをして大丈夫なのか、と思ってしまう。


「全てお見通しなら、勘違いしないはずだろ? 七歌は単なる神社の娘だし、少し相談するくらい問題ないはずだ」

「でも……」

 穂積のいうことは間違っていないような気がするけれど、と蓮音が考え込んで──いる意味はないようだ。既に穂積が電話をかけていたのだ。今更、止める気にもなれず、蓮音は穂積が事情説明するのを眺めていた。


「汀部、七歌が話したいらしい」


「──しもし、蓮音?」

 穂積から携帯を受け取ると、すぐに七歌の声が聞こえてきた。


「七歌さん……」

「さん付けに戻すなんて、ってそれはいいわ。気に入らないでしょうけど、取りあえず、相手の要求通りにするしかないと思う」

「そう、ですよね」


 他の対処を期待していたわけではないし、分かっていたことだが、改めて七歌に告げられると、強く実感してしまう。


「蓮音、不安で苦しくても、立ち向かわないといけない時は必ずあるの。私もできることはするから、気をしっかり持ってね」

「はい。ありがとう、ございます」


 今は悩む時ではなく、立ち向かうべき時なのだ。誘拐犯がどんな相手かも、何が目的かも、分からない。それでも、すべきことは変わらない。柚樹と雪花が無事に帰れるよう、自分がしっかりしなくちゃいけない。

 蓮音は心を決めて、七歌との電話を終えた。


「歩きじゃ、とても間に合わないよな?」


 穂積が携帯をしまって、蓮音へ問いかけるように告げた。

 時計の針は九時半近くを指していた。


「確か、十時……十時?」


 柚樹と雪花が誘拐されたことに動転していて、蓮音はノエアまでいく方法なんて考えていなかった。穂積の言う通り、徒歩では間に合わないし、地下鉄やバスも直通がない時点できっと無理だ。


「あぁ、十時だ。やっぱり車か自転車だな」

「車って、タクシー? 呼ぶ時間、微妙、です、ね」


 自家用車なんてないし、そもそも免許がない。バイクだって、そうだ。自転車すら、蓮音は持っていない。柚樹のなら実はあるはずだが、それにしたって問題がある。


「穂積君の自転車、乗せて、ください、後ろに」


 蓮音は小学生の時から都心近くの小さな賃貸マンションに暮らしていた。必要なものは大体が近くで揃ったし、通学や遠出をする時であっても公共交通機関で不自由なかったため、自転車に乗る必要がなかったのだ。そのため、あえて自転車に乗ろうとした柚樹をのぞいて、蓮音と雪花は自転車に乗れなかった。


「えっと、いや、二人乗りはおまわ──」

「お願いします」


 こんな非常時なら、大目に見てほしいし、きっと仕方ないと理解もしてくれる……はず、と蓮音は考えることにした。


「分かった。仕方ない。でも、汀部、その格好は着替えよう。きっと目立つ」


 全く意識していなかったが、蓮音はパジャマ姿だった。雪花とお揃いのキャラものではなく、ピンクの水玉模様だった辺りはまだ良かったが、それでも胸元近くまでボタンが外れている。下着が見えていた可能性は(夜に上をつけない派のため)ありえないが、それはそれで問題がある。


「す、すぐに着替えてきます」


 蓮音は、返事するよりも早く、二階へと駆け上がった。

 下着といえば、洗濯かごの中には洗濯前の、居間のすみには洗濯後の畳んだものが────今更、気にしても仕方がないと忘れることにした。

 第一、今はそんなことを考えている場合じゃないのだ。


 ──あれれ? 雪花の着替えって出しておいたよね?


 自分の部屋に戻って、パジャマを脱いだところで、手を止めた。部屋の隅に蓮音の分だけしか着替えがなかったのだ。

 蓮音には寝る前に雪花と自分の着替えを出しておく習慣がある。それが蓮音の分しかないのだから、雪花自身が着替えたのでなければ、何者かが雪花の着替えを持ち出したことになる。

 いや、しかし、深く考えるのをやめた。誘拐という事実の前では、蓮音にとってどうでもいいことだった。



 8



 ──あいつ、何をしてるんだ?


 鷲鷹(すだか)隼人(はやと)はマンションの屋上へと腹ばいになって、考え込んでいた。

 手に持った望遠鏡を確認する。そこには、迪之(みちゆき)が自転車で斜奏(ななかな)家の前に乗りつけている姿が映っている。

 望遠鏡の向きを少し変え、神社の中でも一番大きな木を映す。木のてっぺんからは少し下の位置、幹の上に座り、斜奏家を眺める巫女の姿があった。三日前とは違って、被り笠はしておらず、長い黒髪を結ぶことなく背中へと垂らしている。おかげで白狐面をしているのもすぐに確認できた。


 ──動きはなし、か。やっぱり狙いは迪之じゃなくて、汀部(みぎわべ)だな。


 おとといと昨日、隼人は汀部の帰り道、そして帰宅後を尾行して監視した。しかし、巫女は姿を見せなかった。代わりに汀部と迪之が怪しい関係だというのは分かったが、それは隼人の想像していた白狐面の巫女とのつながりを意味する怪しさとは全く違った方向のものだった。無論、斜奏とのつながりは明白で強固だったが、特に周囲へ隠そうとしない辺りが逆に隼人をいらつかせた。


 今日も巫女が姿を見せなかったら、汀部の周辺から白狐面の巫女を追うのは見直しが必要だと思っていた。だが、今日に限って巫女は姿を現した。それも隼人が朝八時過ぎに神社へやってきた時には、既に幹の上へ座っていた。

 巫女へと気取られぬよう、近くのマンションに忍び込んでから、ずっと見張り続けている。しかし、これといった収穫は今のところない。幾度か携帯を使った以外には、ただ汀部の住む斜奏家の方角を眺めているだけだった。


 再び斜奏家へ望遠鏡を戻すと、汀部が玄関から出てきて迪之の自転車へと二人乗りするのが見えた。どこかへ出かけるらしい。ひやかしてやりたい光景だが、うかつなことはできない。

 巫女の反応を見ようと──が、木の上から姿を消していた。


 ──どこへいった?


 立ち上がって、神社全体を見渡す。巫女の姿はどこにも見えない。

 迪之と汀部を追い始めたということだろうか。隼人も動き出そうとして、


 ──いや、待て、何かあるぞ。


 さっきまで巫女が座っていた幹に何か黒光りするもの、おそらくは携帯が落ちていた。

 迪之を追うべきか、携帯を拾いにいくべきか、迷うことではない。

 数分後、隼人は木を登っていた。

 幹にあったのは、予想通りタブレット型の携帯、スマートフォン。しかし、デコレーションなどはされておらず、見た目は至って普通だった。

 取りあえず上着の左ポケットへしまって、下まで降りたのだが、


「私の携帯、返して頂けませんか?」


 待ち構えていたように白狐面の巫女が数メートルの距離に現れた。木の裏にでも隠れていたのだろう。


 ──ちっ、やはり罠だったか。だが、それならそれで上等だ。


 幹の上にあった時点で、怪しい匂いは嗅ぎ取っていた。すぐさま開き直って、身構えた。

 これまで斜奏(ななかな)七歌(ななか)及び斜架神社に対する調査で何も成果を出せなかったのは、慎重すぎたせいだ。警戒されるリスクを嫌って、あからさまな尾行や侵入をためらっていたのだ。しかし、こうして見つかってしまった以上、ためらう意味はない。相手から接触してくるなんて、逃してはならない機会だった。


「あぁ、君のか。お嬢さん、良ければ、その狐の面を取ってくれないか?」


 巫女は首を横に振り、歩み寄ってくる。簡単には素顔を見せてはくれないようだ。


「待て。訊きたいことがある。まず、そうだな、どんな下着を今──」

「そうですか」


 しかし、巫女は歩みを止めない。隼人の言葉など、意に介していないようだし、余計な質問をさせる気もなさそうだ。それでも既に隼人は気付いていた。相手が何者なのか。


「その声、しっかり記憶してるぞ。今日は髪を後ろに束ねてないんだな」

「鷲鷹隼人、私も訊きたいことがあります」


 既に手の届く距離まで巫女は来ていた。先手を打つべきか、距離を取るべきか、悩む暇はなかった。

 巫女の右手首をつかみかかって、ひねりあげ────簡単に振りほどかれて、左腕をひねり返された。気付けば、後ろ手に背後を取られていた。


「いきなり手荒な真似をするなんて、随分と非常識ですね。もう少しであなたの腕を折っちゃうところ、でしたよ?」


 腕の痛みだけでその言葉が決して嘘ではないと分かる。しかし、そんなことよりも、耳元で囁く声はやはり隼人の知っている人物の声だ。


「…………斜奏、だな、お前」


「さぁ、どうでしょうね。それより、蓮音(はすね)をつけ回していた理由、話しなさい」

 巫女が抑揚のない声で尋ねてくる。


「汀部を狙っていた、いや、監視していたのは、俺じゃなくお前だろ?」

「監視ではなく見守っていたんだけど、鷲鷹にとっては大差ないのでしょう、ね」


 いきなり腕を放されたと思ったら、背中を突き飛ばされ、地面へひざをついていた。


「携帯は返して頂きました」


 隼人が立ち上がる頃には、数歩分の距離をあけ、巫女は右手に、さっきまで隼人のポケットにあったはずの携帯を握っていた。


「ところで、あなたが追っていたのは、蓮音じゃなくて私?」


 濡れ(がらす)の黒髪がわずかに漏れる陽光の中で艶めいている。


「あぁ、斜奏七歌だ」

「なぜ?」


 巫女は首をかしげてみせた。


「白狐面の巫女、つまりは、いつまでも(きつね)ってる斜奏七歌、お前の化けの皮をはぐためだ」


「そう……まっ、私が斜奏七歌かはともかく、狐のお面を被った巫女であるのは事実ですね。その上で、お尋ねします。なぜ化けの皮をはごうとするの? 鷲鷹は何を知ってる?」


 尋ねてくる口調は少しも熱を帯びていない。


「そんなの自分で思いつく、だろう?」


 巫女は首を振ると、隼人から視線を外して携帯をいじり始めた。やはり簡単には口を滑らせてはくれないようだ。


「お前は、いや、お前たちは裏で怪しい活動を繰り広げている。そうだろ? 聖女ミネルヴァ」

「怪しい、ですか? もしかして、あなたにとって地位ある者が秘密裏におこなっていることは全て怪しいの?」

「あぁ、その通りだ。特に宗教が裏で絡んでいることなんて、ろくなものじゃない」


 正々堂々とできない悪事だからこそ、裏でこそこそおこなう。それは宗教に限ったことではないが、とりわけ宗教の絡んだものは内容がおおよそ世間から外れている。


「ふふっ、それについては同意見です。けれど、決めつけは感心しません。全世界が夢や希望に満ち溢れた理想郷だったなら別だけど、残念ながら現実は違う。本音と建て前は一致しない。嘘つきは泥棒の始まりだったのが、いつの間にか、嘘も方便になる。どれだけ正しいことであっても、世の中の風潮に合わなければ、非難されうる。そんな世界で、表と裏を遣い分けるのは、きっと生き残っていくために欠かせない知恵のようなものです」


「なら、ろくでもないことをしていると、認めるんだな?」


 巫女のけむに巻くような話をつかみとって、隼人は切り返した。


「いいえ、私は少なくとも自らの正義にかなうことをなしているつもりです。例えば、このいびつさを増す社会に挫折し、苦しむ方がいたとして、その方の苦しみを少し強引な手段であっても和らげたくなってしまう。それがいけないことでしょうか?」


「お前たちが裏でしているのは、そういうことだっていうつもりか?」

「さぁ? 見方によって変わってくるかもしれないし、そもそも鷲鷹に真実を伝える義務なんて私にはない」

「あぁ、そうか。布教の邪魔をする奴に与える教えはないってことか。でも、俺だって納得がいくものなら邪魔なんてしないぜ。汀部を、いや、明菊高校の生徒やこの街の人々を引き込もうとしている宗教、その教義だけでも教えてくれないか?」


 巫女は携帯に向けていた視線をこちらに向けた。


「この街で布教を? ふふっ、それも面白いかもしれませんね。けれど、何を教えるんでしょう。参拝の仕方? 神様の伝承? 神道の歴史? 今更、何を教える必要があるんでしょう。私たちが教えられる神道の考え方なんて、既にこの街、この国の文化へと深く根付いています。できるとしても、布教というにはおこがましい解説だけ」


 楽しげな口調で語った巫女は、そこで一呼吸置いた。


「いずれにしても、蓮音は我々側の人間ではありません。無関係です。なので、二度と蓮音に干渉しないと約束し、お引き取り願えますか? GPS機能をいじったことなどは特別に見逃して差しあげますから」


 携帯を取り戻される事態も想定して仕組んでおいたのだが、だめだったようだ。ここで逃したとしても、携帯のGPS機能で動きを追尾できると踏んでいたのに、予定が狂ってしまった。


「さもないと、痛い目に遭って頂きますよ?」


 白狐面が笑った。いや、笑った顔をしているのは最初からなのだが、声の調子がとても楽しげだった。どうやら本気のようだ。


「ふん、それは楽しみだ。もっとも迪之と違って、痛めつける方も俺は好きだぞ」


 隼人は笑い返してやった。今更、ここで引くなんて、隼人の意地が許しはしなかった。


「ふぅっ……全く、困ったものね」


 携帯を胸元へしまった巫女は、代わりに拳銃を取り出した。おそらく銃身は手のひらを伸ばしたくらいの長さだ。


「おい、待て。いくらなんでも卑怯(ひきょう)じゃないか?」

「卑怯? だから?」

「いや、どうせモデルガンか何かだろ? 騙されないぞ」


 隼人が距離をつめていくと、巫女は(げき)(てつ)を静かにあげた。もし本物の拳銃なら、痛いどころでは済まないだろう。しかしながら、隼人に本物かどうかを見抜く目はない。


「騙されて、逃げてくれればいいのに…………残念ね」


 巫女は右腕を伸ばし、拳銃を隼人へ向けてくる。だが、もう手が届く距離だ。素早く拳銃ごと腕を払いのけた。


 ──押さえ込めばいける。


 右ストレートで殴りかかって、けん制したところで、さらに隼人は巫女の右腕をつかみかかる。そして、そのまま────しかし、隼人の手は何もつかめていなかった。巫女がよけたわけではない。むしろ逆。隼人自身が巫女をよけるようにして倒れていった。


 巫女が隼人の右腕をつかみ、身体をひねるようにして自らの後方へと引き、さらに足をかけて転ばせたのだ。


 全ては一瞬。しかも、片手しか使っていなかった。


 ──まずい。


 体勢を立て直そうと顔をあげる。瞬間、目の前に拳銃が突きつけられた。


「鷲鷹、さよなら。つまらない時間を、ありがと」


 激痛が隼人を襲う。

 巫女の去っていく足音は、間もなく聞こえなくなった。



 9



「はぁ、はぁ……あと、もう少しだ」


 迪之(みちゆき)は後ろにしがみついている汀部(みぎわべ)へと声をかけた。


「はい……」


 返事はとても弱々しい。弟と妹のことで頭が一杯なのだろう。


 一刻も早くノエアの屋上へと汀部を連れていってやりたい。そのことだけに、迪之も考えを集中すべきところなのだろう。しかし、彼の内心は気恥ずかしさを筆頭として汀部とは違う種類の動揺に(むしば)まれていた。

 というのも、汀部が彼の背中へとあまりにも密着しすぎていて、運転がしづらいことを抜きにしても、背中に感じる温もりが柔らかく、吐息がくすぐったくて、どうしようもなく落ち着かなかったのだ。


 ──本当はそんなにくっつくな、と告げたいところなのだが、しかし、それを迪之の劣情が許さなかった。


 勝手に変なモノローグを頭へ入れてくるな、と迪之は心の中で叫んだ。エルピスのモノローグはおおよそ合っていたが、断じて劣情などではなく、汀部を気にかけてのことだった。


 汀部は家の中を探している時も落ち着かない様子だったが、電話を受けてから、目に見えて顔を青ざめさせていた。本人もきっと自覚しているとは思うが、異様に大きく頭を揺さぶったり、ぶるぶると身体を震わせたり、とにかく見ていて苦しくなるほど、ひどい状態だった。だいぶ落ち着いてきた今でも、時おり迪之の腰に回した手が震えだしていた。


 いくらなだめても限界があるし、迪之の希望的観測、いや、楽観的推測を告げても逆上するだけだろう。そんな状況で、迪之がしてあげられることといえば、とにかく屋上へ向かうことのみ。屋上へいかなければ、汀部の不安を消すことなんてできない。


 ノエアへ到着すると、すぐにエレベーターへと向かった。

 今日は連休が明けてから最初の週末だ。まだ午前中ではあるが、それなりに多くの人がいる。

 汀部を連れて、迪之が走り抜けていくと、振り向いて顔をしかめる人やぶつかりそうになる人もいた。しかし、気にする余裕はない。

 エレベーターが来るのを待つ間さえ、汀部は落ち着かなげに上半身を前後に揺らしながら、口の前で両手を組んだり、眼鏡をしきりに触ったりしていた。


 乗り込んだエレベーターには誰もいなかった。

 腕時計を確認すると、まだ十時まで五分以上ある。かなり急いだだけあって、少し余裕ができた。深呼吸を繰り返し、乱れた息を整える。


「汀部、一つ訊いてもいいか?」


 何もいわずに汀部は迪之を見つめた。


「土日でも、いつもなら汀部が最初に起きるのか?」

「えぇ、柚樹ならともかく、雪花が先に起きることはまずありません」


 平日の朝に響き渡る目覚まし時計を思えば、容易に想像できることだが、念のために訊いた。


「どうしてです?」


 不審そうに尋ねてきたが、「なんでもない」と首を振って答えた。実は、ここまで来る間に、汀部が電話でやり取りしていた内容を思い返した結果、汀部には見当のつかない犯人が迪之には見えていた。しかし、それを告げたところで、汀部は信じないだろう。


 屋上へと到着し、あとは駐車場へと続く二重の自動扉をくぐるだけという時、場違いな明るい旋律が流れ始めた。


「……もえルーン?」


 汀部が怪訝(けげん)な顔で迪之を見てきた。迪之のポケット、そこにある携帯が鳴っているのだ。しかし、こんな着信音にした覚えなんてない。聞き覚えはあるが、なんの曲すらかも分からない……こともなかった。

 汀部の言葉で思い出したが、『魔女っ娘もえルーン』というキュートでラブリーなキャラクター(迪之の感想ではなく、あくまで(ちまた)の評判だ)の出てくるアニメが週末の朝に放送していた気がする。なんというか、汀部の視線が突き刺──いや、そんなことより、七歌(ななか)からの電話かもしれない。

 発信者は、しかし、違った。その名前を見た瞬間に、なぜ自分の携帯が魔女っ娘モードになったのか理解できた。


 鷲鷹(すだか)隼人(はやと)。こいつならやりかねないし、数日前に迪之の携帯をいじっていた。


 文句をいってやりたいところだが、今はそんな時じゃない。そのまま切ろうと思った。しかし、勝手につながった。隼人の奴が変えたのは着信音だけではないようだ。


「……迪之? おい迪之、スッスッ、汀部も一緒だよな? 斜奏(ななかな)に、注意しろ」


 泣いている時みたいに鼻をすすって、隼人が告げた。相手をする気はなかったが、なぜ七歌の名前が出てきたのかが気になった。


「どういう意味だ? っていうか、泣いてるのか?」

「はぁ? まさか。ちょっと、ごほっごほっ、斜奏に銃撃されただけだ。催涙(さいるい)スプレーならぬ催涙銃でな。スッスッ、全くふざけてやがる」

「どうしてそんなことに?」


 よほどのことがなければ、さすがの七歌もそこまでしないと……まぁ、分からないが、隼人なら怒らせるようなことをしてもおかしくない。


「奴が白狐面の巫女だったんだ。お前たちのことを、スッスッ、神社から見張ってたぞ」

「そんなはず、いや、そうか」


 七歌が見張っていたとすれば、あの電話での態度はどう考えてもおかしかった。本当に心配しているなら、近くにいると告げて駆けつけてきたはずだ。それに、実は気になっていたのだが、不審な人影のことだって、なぜ七歌は知っていたのか。汀部から相談されたわけでもないはずなのに、人影について迪之へと耳打ちできたのはどうしてなのか。

 七歌本人がその人影だったとすれば、つじつまが合う。


「人影が一番怪しいってことね。分かった。何か知ってるかもしれないし、私の方でも見当をつけていた相手に接触してみるわ」


 さっき事情を説明した時、そんな言葉を七歌は返したが、見当をつけている相手が誰なのか、訊いても教えようとはしなかった。それも全て七歌の自作自演だとすれば、納得できる。元々、汀部のことを気にかけて陰ながら見守っていたのだろう。問題は、なぜ迪之に耳打ちしたのかだが。


「力になってあげて、か。隼人、ありがとな。確信が持てた。それじゃ」

「おい、ちょ──」


 まだ何か話したそうだったが、耳を貸さずに切った。もちろん電源まで。

 汀部を待たせるわけにはいかない。


「すまなかった。汀部、いこうか」


 うなずきが返ってくるのを見届けてから、扉をくぐった。


 時刻はちょうど十時になろうとしていた。屋上駐車場には午前中のためか、全く車はとまっていない。

 もちろん人影も見当たらないのだが、他の出入り口や白いタンク(おそらくは給水設備)などが邪魔して、全体を見回すことはできない。


 視線で汀部と相談していると、何やら聞き覚えのある落ち着いた旋律が流れ始めた。汀部の携帯が鳴っているのだ。


「もしもし?」

「お二人とも、そのままアリーナを背に進んでください」


 さっきみたいにボイスチェンジャーで変えた声ではない。どこかで聞き覚えのある声だった。しかし、思い出せない。迪之が思い返そうとしている間に、電話は切られてしまったようだ。

 何もいわずに汀部はアリーナを一瞥(いちべつ)し、歩み始める。すぐにそれらしき人影が見つかった。


 待ち構えていたのは二人だけ。一人は、長袖のポロシャツにジーンズ姿の利発そうな顔立ちをした少年。おそらくは汀部の弟、柚樹だ。そして、そのすぐ後ろに鬼面を被った何者かがいた。こちらは膝くらいまで伸びた長い丈のチュニックパーカを着て、フードを被っている。服の淡い枯れ草色に鬼面の赤さが際立つ。


 数メートルの距離まで近づいた時、鬼面の方が手のひらを前に突き出してきた。そこで止まれということのようだ。


「柚樹、無事だった? 雪花は?」


 立ち止まると同時に、汀部は少年へと呼びかけた。しかし、声は返ってこず、ただ少年はうなずくのみだった。


「要求は、なんですか?」


 鬼面を見つめて汀部が尋ねた。その声は冷静さを保ちながらも、張り詰めた緊迫感は隠せていない。


「ここまで、話を聴きにきてもらうことだ」


 答えたのは、鬼面の方ではなく少年だった。


「どういうこと、ですか? 柚樹に答えさせて。私と、直接、話すつもりはないと?」


 少年、柚樹を通して話すのはどうしてなのか。そういう意味で、汀部は尋ねているのだろう。しかし、答えは返ってこなかった。


「分かりました。話って、なんですか?」


 返事を待てなくなったのか、汀部は乱暴な声音で本題がなんなのか尋ねた。しかし、それにも返事はなかった。

 ただ、時が止まったように沈黙のみが流れる。


「何か、いってくださいっ!!」


 やがて汀部が沈黙に耐え切れなくなった様子で叫んだ。それでも、返ってくる言葉はなし。

 このままでは、話が進まない。おそらく、話が進む頃には、汀部が正気を保っていない。


「今日は黒のワンピースじゃないんですね」


 助け船を出すことにした。ここまで来たら、真実を明らかにした方がいいだろう。


「えぇ」


 ようやく口を開いた鬼面。


 待っていましたといわんばかりにフードを取って、腰まで伸びる長い黒髪をあらわにした。


「その鬼面は?」


 迪之が真剣な口調で発した疑問に、


「がおぉ。がおがお、がおぉ」


 鬼面を外し、半分だけ顔をのぞかせて、唐突に叫んだ。朗らかで透き通った叫び声だった。

 もちろん、状況がつかめない汀部は唖然としている。


「わりぃごわーっ、いにゃいかにゃん?」


 鬼面片手に首をかしげて、満面の笑みを浮かべている。しかも左手は招き猫。


 状況がつかめていたはずの迪之ですら、あいた口が塞がらない。

 さきほどまでと同じ、けれども全く異なった性質の沈黙が流れた。


「…………あら、れ? この空気、なぜ、かしら?」


 そんな言葉をこぼし、両手で持った鬼面によって顔の下半分を隠してしまう。

 まさかとは思うが、この人は笑わせたかったのだろうか。時と場合を考えられる抜け目ない人だと思っていたのに、違ったのか。よく見ると、瞳の星が鋭さを失って泳いでいる。


「鬼はネコ科肉食獣じゃないと思いますよ。それに、むしろ悪い子はあなただ、絢乃(あやの)さん」


「──えへっ、そうよ、ね。でも、どうして私ってばれちゃったのかしら?」


 仕方なく突っ込みを入れてやると、絢乃はうつむき加減に頬へと手を当てた。


「当然ですよ。口調がそのままだったし、俺の同行をわざわざ認めたり、ホアカリーナじゃなく明菊高校をあげたり、あなただって気付けないほど、俺は鈍感じゃありません」


 ノエアの位置を教えるのに、()(あか)アリーナではなく明菊高校をあげるなんて、学校の知人としか考えられない。その時点で、東雲(しののめ)絢乃(あやの)が一番怪しかった。あとは七歌が神社から見張っていたという話から、七歌ともつながりがある人物と考えれば、他に候補はいなくなる。


「あら、そう? 私の口調って、そんなに特徴的だったかしら?」


 とても嬉しそうに微笑んでいる。悪意なんて、全く少しもなさそうな表情だった。


「ど、どういうこと、です? どうして絢乃先輩が誘拐を?」


 汀部は呆然と立ち尽くしたままではあったが、やっと状況がいくらかのみ込めてきたらしい。


「ねぇ汀部さん、私、誘拐なんていったかしら? 普通、誘拐っていうのは身代金なり、交換条件なり、もっと分かりやすい要求をするものじゃない?」


 そう、それには真っ先に気付いていた。明示された要求は、汀部が屋上駐車場へ来ることのみ。彼女を呼び出すことが目的ならば、彼女自身を連れ去る方がよほど確実だろう。彼女のみを家に残した状況からして、どう考えても誘拐と考えるのはおかしかった。迪之が七歌へとためらいなく電話をかけた理由も、そこにある。


「────誘拐じゃない、と? なら、えっ、でも、柚樹は……どうして?」


 汀部は再び混乱し始めた。眼鏡がずれてしまいそうなほど、右手で髪をかき乱している。


「素直に考えれば、分かる。汀部は妹と一緒に寝てたんだろ? 汀部を起こさず、妹を連れ出し、玄関の鍵までかける。そんなことができる人物なんて、限られるはずだ」


 迪之の指摘にも汀部は怪訝な表情をするのみ。はっきりいうしかない。


「今回のことを仕組んだのは、絢乃さんだけじゃない。汀部の弟、柚樹君が協力しているとしか考えられないんだ」


「えっ………………」


 状況からして、七歌も協力していることは確実だが、あえて言及はしなかった。汀部が余計に混乱する可能性もあるし、おそらく裏方に徹しているということは、できれば汀部には関わっていると知られたくないのだろう。二人の関係からすると、七歌が背後にいると分かるだけで汀部は負い目を感じてしまうはずだ。


「──そんなはず、ない、よね?」


 とても認められないのか、首を小さく振りながら汀部は柚樹に向かって尋ねた。


「俺が、お願いしたんだ」


 柚樹は真っ直ぐに汀部を見つめ返して、そう答えた。


「どう、して、なの? 柚樹」


 声が震えている。力の抜けた表情は、安心ではなく、恐怖を帯び、次第に厳しくなる。


「蓮ねえ……蓮ねえは──」


「さっさと、答えなさいよっ!」


「いいえ、ゆっくりでいいわ。弟君、あなたの気持ちをしっかり伝えなさい」

 汀部の怒声に、絢乃は鋭い視線を返し、柚樹の背中を押した。


「────今の生活、蓮ねえは楽しめてるか?」


 ぼやくようにこぼされた言葉だった。


「何を、いってるの?」

「俺は楽しめない。恵まれた生活だって分かってるのに、楽しめやしない。きっと雪花だって、そうだ。なぜか、分かるか?」

「あたしのせいだって、いいたいのね? お母さんに反発して、こっちに無理やり連れてきたせいだって」

「あぁ、蓮ねえのせいだ。でも、こっちに来たからじゃない。あの人も関係ない」


 柚樹はうなずいた。そして、ゆっくりと首を振った。


「どういう、意味?」

「蓮ねえ、起きた時、俺たちがいなくて何を思った? ここへ呼び出された時、何を思った?」


 汀部の疑問に答えは返らず、質問が重ねられる。


「そんなの……二人がどうしてるのか、無事なのかって思ったに決まってるじゃない」

「なぜ?」

「あんたたちのことが心配だからでしょ!」

 いらだたしげに汀部は答えた。しかし、その答えに柚樹は顔をしかめた。

「ママ、でいられなくなることは心配しなかったのか?」

「っ…………」


 汀部は声を詰まらせ、黙り込んでしまった。


「雪花に、ママって呼ばせてるのは、なぜだ?」


 追い打ちをかけるように、柚樹が問いかける。


「それは……それはあたしがお母さんの元を離れるって決めたからには、ちゃんと母親代わりをしないとって」

「蓮ねえは、姉貴だろ?」

「でも、雪花にはママが必要なの。あたしがママにならないとダメなの。柚樹だって分かってくれてるでしょう?」


「いや、分からない。全然、分からない」


 懇願するように訴えかける汀部に対して、柚樹が冷たく言い放つ。


「雪花はな、ママなんていう存在は必要としていないんだ。そんな存在を必要としているのは、蓮ねえ、ただ一人だけさ。蓮ねえが自意識過剰な自責の念にとらわれて、自分を傷付けて、なんの意味もない満足感を得るために必要だっただけなんだ。でも、そんなの間違ってる。だから、頼むから気付いてくれ。そんなことじゃ、俺も雪花も、何より蓮ねえ自身が苦しいままだ。蓮ねえが無理をして苦しがっているのに、どうして俺たちが楽しいだなんて思えるんだ?」


「────うん。うん、そうだよね。あたしが弱いからいけないんだよね。だけど……ううん、もういい。もっとしっかりするから。あたし、頑張るから、強くなるから」


 汀部は頭を大きく振って、うつむいてしまった。


「そうやって、これからも一人で全て背負いこむのか?」

「うん。だから、もう何もいわないで。これまで通り、あたしをママでいさせて」


「俺たちが、そんなこと、望んだかっ!?」


 今まで穏やかに喋りかけていた柚樹が、初めて声を荒げた。


「ううん、あたしが、望んだの。分かってる。あたしのために二人を困らせてる。全部、あたしのせいなの」

「また、そんな風に──」

「分かってるからっ!! 分かってるから……もう帰ろう。雪花を連れて帰ろう」


 柚樹の言葉を怒声で遮り、汀部が一歩、また一歩と柚樹へと歩み寄っていく。


 その腕を、つかんだ。迪之がつかんで、歩みをやめさせた。


「なん、ですか? 放してください」


 苦痛にゆがんだ表情をしていた。いつの間にか眼鏡の奥には大粒の涙がたまっている。


「今、帰っちゃいけない」

「放して。あたしは帰るの。柚樹と、雪花と」


 汀部が腕を振りほどこうとしてきたが、しっかりとつかんで放さなかった。


「ここに呼びだしてまで、絢乃さんたちに頼んでまで、伝えたかった思いなんだ。最後までしっかり汀部は聴かないといけない」

「やだ。やだぁっ! もう聴きたくないの。帰らせてっ! 帰らせて、くだ、さいっ!!」


 汀部が暴れ、落ち着かせようとした迪之の手によって、彼女の眼鏡がはね飛んだ。それだけではない。汀部は自由になっていた方の手で、手の甲で迪之の顔をはたいてきた。

 今の彼女に加減なんてなかった。頬へと強烈な痛みが走ったが、そんなことはどうだって良かった。


「それでも、どんなに苦しくても、ちゃんと汀部自身が向き合わないとダメなんだっ!」


 ここで逃げさせてしまったら、きっと悲しい笑顔のままだ。

 心の傷がえぐれるのだとしても、この機会を失わさせては、ならない。


「どう、して、なの」


 汀部は崩れるようにその場へとへたり込んだ。迪之が腕を放しても、もう立ち上がろうとすらしなかった。

 両膝をつき、背中を丸めてうつむく姿は、ひどく(みじ)めで、痛々しい。

 しばらく誰も何も言葉を発さず、立ち尽くしていた。

 やがて、その沈黙を破ったのは静かな足音だった。


「蓮ねえ、ひどい顔すぎて、こっちを向けない、か?」


 柚樹が汀部に歩み寄りながら、尋ねる。


「うっ…………」


 返す言葉もないのだろう。汀部は肩を微かに震わせていた。いくつかの(しずく)をこぼして。


「俺たちがいなくて、誘拐されたと思って、怖かったか? 一人になるかもしれないって心配だったか?」


 汀部は口では答えず、深くうなずくのみだった。


「やっぱり俺たちがいないと、蓮ねえはダメなんだな」


 柚樹は既に汀部を足元に見る位置まで近付いていた。


「ぐすっ、そうよ……あたしは、ダメなの」


「俺たちも、俺と雪花も、蓮ねえがいないとダメなんだ」


 片膝をついて、汀部の肩に手を載せ、柚樹は言葉を続ける。


「それなのに、一人ではダメなのに、どうして蓮ねえは一人で全て背負い込もうとしたんだ?」


「…………だって、だっで、うっ……あんたたちを、ぐずっ、あんただちを巻き込んで、こっぢに連れてきて、あたし、あたし、申しわげなぐって」


「俺も、雪花も、蓮ねえと一緒に来たかったから、こっちに来たんだ。他の何よりも蓮ねえと一緒に暮らせることが大切だったんだ。蓮ねえ一人で全て決めたと思ってもらっちゃ困るぜ?」


 語りかけられた言葉に汀部の背中が大きく揺れた。そして、今までよりも激しく肩を震わせ始めた。


「────けど、ぐっ、やっぱり、あたしのせい……みがっでな、わがまま」

「違う。それは違う。みんなで決めたことなんだ。蓮ねえ一人で背負うことじゃない。俺も、俺に責任があるんだ。蓮ねえがこんなになるまで何もしなかった、俺が悪いんだ。蓮ねえは、ただ、一人で頑張りすぎただけなんだ」


 汀部は何度も首を横に振った。それを柚樹は抱きすくめ、なだめるように背中をさする。

「ずうずれば、良かっだっでいうの?」


 しばらくして、ぽつりと汀部が声をこぼした。


「頼ってくれれば、良かったんだ。俺のことを。俺たちは姉弟(きょうだい)だろ。雪花だって、あいつだって、そう思ってる。だから、これからは、家のこと、もっと任せてくれ」

「あたし、うぐっ、柚樹のお兄さんじゃない。お姉しゃんよ」

「あぁ、その通りだ」

「…………うん、分かれば、ぐっ、いいの」


 まだ泣きやむのは難しそうだが、それでも汀部の言葉には柔らかな響きがあった。


「ぐすっ、柚樹、ぢょっと離れて……」


 しばしの間、柚樹と見つめ合った汀部は悲喜こもごもの表情を見せ、


 パシンッ!


 不意打ちするように、柚樹の頬へと平手をくらわせる。見事な切れがあった。


「あたじぐぁどれだげじんばいしたと思っれるのよ、バグァ、バガ、ヴァーガァァ!!」


 罵声(ばせい)を浴びせた汀部は、そのまま柚樹の胸に顔を押し付けて、聴き取れない言葉と今日まで流せなかった涙を、いくつも数えきれないほどにこぼし始めた。


 ──ようやく泣けたのね。痛みを声の限りにさえずりながら。


「あぁ…………」


 穏やかな日差しに輝く二人の姿を、ただ見守り続ける。


 薄い雲のかかった太陽がまだ空高く昇っていく時刻、屋上駐車場は広々としていた。

2014.7.14 改行修正

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