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「穂積君、好きな料理って何がある?」
学校近くの食料品店で買い物を終え、ゆっくりと歩いていた。夕暮れが近付き、影が少しずつ伸びていく。
「うな重とか、牛丼、カツ丼、あとは海鮮丼とか天丼……だな。汀部は?」
「うーん、グラタンやシチュー、あとハンバーグかな?」
迪之のあげた料理が丼もので統一されている一方、汀部のものは玉ねぎを使う家庭的な料理で統一されている。ちなみに今、汀部の持っている買い物袋にも玉ねぎが入っている。
「そういうのも昔はよく食べたな」
「昔は?」
「一人分だけ作るの、面倒だろ? できあいだと、口に合わないことも多いし、割高だ」
父親の分も用意していた時ならともかく、自分のためだけに作る気にはとてもなれなかった。簡単にできる麺類やチャーハン、トーストで十分だ。
「そうだね。あたしも柚樹と雪花がいなかったら、あまり食べなくなっちゃうだろうな」
「汀部がご飯、作るのか?」
「うん、そうだよ。あたしが作るの。ちゃんとしたのを作るんだけど、この頃、柚樹も雪花もあまり食べてくれないの。弁当は外で食べるからいいとか、給食をたくさん食べちゃったとか、朝はあんまりとか。ひどいでしょ?」
迪之がうなずくと、汀部は口をとがらせ、話を続けた。
「ちょっと前までは、あたしの料理、しっかり食べてくれてたのに。特に雪花とか、少しずつ残すことが増えて。量を減らしたんだけど、それでもダメな時があって。もしかしたら、どこかでお菓子とかもらってるのかも。じゃなかったら……」
急に汀部が足を止めた。辺りに誰もいない、人通りの途絶えた歩道だった。
「あたし、怒られてるのかな?」
「どういう意味だ?」
「あたしの料理を食べたくないって反抗してるとか? 無理やり連れてきたから」
汀部は冗談っぽく陽気な口調で喋ったが、浮かない表情をしていた。
「単に食欲がないだけじゃないか?」
「そう、だよね。だけど、それだって、慣れた生活を手放したせいかもしれない。急激な環境の変化って、色々と大変だと思うから」
「それは汀部も同じだろ」
どこか他人事みたいに話しているのが気になった。間違いなく、汀部も大変なはずなのに。
「──違うの。あたしは違うのよ」
そんな言葉をこぼして、再び汀部は歩き始めた。
「何が、違うんだ?」
迪之の問いかけに、しかし、汀部は黙り込んだまま答えようとせず、帰り道を歩き続けた。信号を渡って、大通りを過ぎて、坂道をのぼって、それでも黙ったままだった。
「穂積君、神社、ちょっとだけ寄ろうよ」
もう間もなく家へたどり着くというところで、ようやく汀部が口を開いた。どこか硬い表情をしていて、迪之の返事を訊くこともなく、汀部は神社へと足を向けた。
夕陽が差し込み、神社の中は赤く染め上げられていた。
鳥居をくぐって砂利の広場になっているところで、二人は立ち止まった。
「条件、なかったことにできませんか?」
夕陽を背中に受けて汀部が口火を切った。
「どうしてだ?」
「私、怖いんです。喋るのも、仲良くするのも……頼ってしまうのも」
逆光になって顔はよく見えないが、かげりのある声だった。
「理由が、あるんだろうな。でも、なかったことにはできない。七歌が黙っていないだろうし、こうして汀部と話すのは楽しいからな。ですます調の汀部は清楚でおしとやかなイメージだけど、面白みには欠けるんだ」
素直な感想だった。変化に乏しい作り笑いを見続けるより、色んな表情を見られる方が楽しかった。汀部にとっては、そうでもないかもしれないが。
「はぁ……やっぱり意地悪だよね、穂積君って。口調だけで中身が変わるわけじゃないのに」
「中身が変わらないなら、怖がる必要もないんじゃないか?」
「そっか、そうだね。うん、気付かなかった」
おおげさにうなずくと、汀部はこちらに背を向けてしまった。
「でも、あたしは弱いから、きっと口調を変えるだけで中身までぐらついちゃうの」
「ぐらついてもいいだろ、別に」
「ダメだよ。今以上に甘えちゃいけないの。もっと頑張らなくちゃいけないの」
かぶりを振り、汀部は社殿の方へ歩き始めた。
「そんなにも自分を追い込む必要なんてあるのか? 汀部は十分に頑張ってるじゃないか」
「あたしは逃げただけなんだよ。柚樹と雪花を巻き添えにして」
ひどく悲しい響きがあった。
「家を出たのは、妹の泣く姿を、苦しむ姿を見ていられなかったからだろ? それなら、単に逃げたわけじゃない。守りたいっていう意志がある」
「くっ……母のことだけじゃないの、本当は、たぶん」
社殿に続く石段へ気怠そうに汀部は腰かけた。迪之も後を追って、汀部の近くに並んだ。
「あたし、向こうでいじめられてたの」
汀部が、迪之を見上げて打ち明けた。その顔はなぜか綺麗な微笑みを形作っている。
「あっ、いじめられてたっていってもね、無視されたり、教科書を隠されたり、そんなくだらないこと。時々はひどい言葉を浴びせられたり、落書きされたりしたけど、うん、辛くなかったっていったら嘘になるんだけど……平気だった」
迪之が何もいわず傍に座ると、汀部は足を抱えて、体育座りをした。
「あたしのせいだから。彼女たちがあたしをバカにした以上に、あたしは彼女たちをバカにしてた。
あたしね、彼女たちと友達だったの。とても仲良くしてて、一緒に色んなところへ遊びにいった子たち。でもさ、ある時、ちょっとしたことから、彼女たちと一緒にいるのがバカらしくなっちゃったの。だって、彼女たちとの会話っていったら、あの人がカッコいいだの、このお菓子がおいしいだの、いい男っていないよねとか、あの人たち付き合ってるらしいよとか、それ以外はそこにいない人の陰口ばっかり……本当に何から何までくだらなかったんだもん」
言葉が途切れ、ため息が一度だけこぼされた。
「それでね、あたし、あんまりにつまらなくって、そんなこと話してて何が楽しい? あんたたち、本当にバカなの? ってさ、いっちゃった。
彼女たちの楽しみを、価値観を何から何まで否定しちゃった。見栄やら嫉妬ばかりの擬似恋愛も、他人を貶めてるだけの優越感もね。そしたら、無視が始まって……あとはそんなに時間かからなかったかな。本当にひどい目にあったけど、彼女たちにしてみれば、あたしは裏切り者だったはずだから。
でも、平気だった。本当にくだらない奴らだったんだって思った。あたし、いやな奴よね。ちょっと前まで一緒に楽しんでいたくせして、急に一人で悟ったような態度をとって見下して。彼女たちが怒るのも無理ないと思う。落ち着いて考えれば、バカのあたしでも分かる」
次々に言葉が溢れてくるのか、一瞬の言い淀みさえ、ほとんどなかった。ずっとためこんできた思いもあるのだろう。
時々、迪之の反応を気にしているのが伝わってきたが、ただうなずくことしかできなかった。彼女の話を聴いてあげること以外に何もできなかった。
「一緒にいるのがバカらしくなった、ちょっとしたことっていうのは?」
さらっと汀部は流したが、だからこそ、重要な気がした。
「お母さんがいい人を紹介したいってね、話してきたの。結婚したい人だったんだと思う。
あたし、すごくいやな気分になっちゃって、反発して……なんだか恋は素晴らしいっていうのにうんざりしてたのかも。その、彼女たちに、あたしがまだ裏切る前なんだけどね、相談したら、同情してくれたの。だけど、本心は違った。家のごたごたなんて話されても困るだけ、正直どうでもいいよねって、みんなして裏で笑ってた。それが許せなかったのもあるのかな」
汀部の言葉には自嘲めいた響きがあった。
「あたし、思ったんだ。あぁ、そっか、友達なんて作るのが間違いだったんだって。いくらばかげた楽しみでも、一緒に楽しめないなら、友達になんてなれないし、なってちゃいけないんだって。
それがあたしの結論だった。
友達って、世の中って、そんなものなの。ほんと、ばかげてる。ううん、あたしがバカなだけかも。分かんない。分かんないんだけど、もういやになっちゃったの。友達なんていなくたって平気だし、別にいいかなって」
汀部は沈んだ表情をするどころか、どこか夢見心地な狂気じみた笑みを浮かべていた。
「そんな卑屈になるなよ、汀部。お前と同じようなこと、感じている人間も、きっと一杯いる。
俺だって、そういう恋愛ばかり語る奴らが、どこまで本当に人を愛することが分かってるのかって思うことあるよ。それに、友達だってそうだ。真の友達なんて、付き合いが深いとか浅いとか、長いとか短いとか、そんなので決まるわけじゃない。だって、そうだろ? 友達を定義しようとしても、うまくいくはずがないんだ。友達の形なんて、人によって違うからな。だから、保証してやるよ。今の汀部にだって、心を通わせられる友達は絶対にいる。信じていれば、心優しい汀部にいないはずがない」
どうにか現実に、しっかりと安心して足の着けられる現実に汀部を引き戻したいのだが、うまい言葉は何も思い浮かばず、ただ自分の考えを思いつくままに迪之は述べた。
感情に任せて発した自分の言葉がどれだけ汀部の力になるかは分からない。でも、何かをいわずにはいられなかったのだ。
「くふっ、ありがと」
立ち上がって、数歩だけ前に出た汀部がぽつりと呟いた。
「でも、あたし、本当に平気よ。柚樹と雪花がいるんだもん。あのね、今朝、あたしが家を出たのはお母さんのせいだって話したけど、本当は違うかもしれない。あたし、逃げ出したかったのかもしれない。色々なことから、いじめられていたこともだし、お母さんのことからも、逃げ出したかったのかも。そんな勝手なあたしに、柚樹と雪花はついてきてくれたの。ちょっと無理やりだったけどね。でも、一緒にいて笑ってくれている。だから、あたしは平気なの。あたしがくじけちゃいけないの」
振り返った汀部の顔に夕陽が当たった。
ガラス細工の、本当に今にも壊れてしまいそうな微笑みが赤く色付いている。
迪之は勘違いしていたと悟った。
誰かと必要以上に仲良くすることも、学校生活を楽しむことも、自らに許していないのではなかった。汀部は、追い込まれた末に、他の選択肢を見つけ出せず、自分を抑え込むことで、他人と距離を取ることで、自らを保っていたのだ。
許していないのではなく、許せなくなっているのだ。
「────穂積君、どうして私なんかの話を聴いてくれたんですか? いいえ、そもそも、どうして私なんかと関わろうとしたんですか?」
汀部が微笑みを崩すことなく、こちらを見つめて尋ねてきた。
すぐには答えられなかった。自分が汀部の話を聴いた理由。関わろうとした理由。話したそうだから聴いた、聴いてあげた方がいいと思ったから、ただの好奇心。寂しそうだったから、孤立しているのを見ていられなかった、偽善、親切心、お節介。どれも的を射ているようだが、そうじゃないと否定したかった。否定したいのに、それ以外の理由も何も…………。
「分から、ない。なんとなく汀部のことが気になっていたんだ」
答えを出せずに、正直で曖昧な返事をした。
「そう、ですか。穂積君って本当に────いえ、ありがとうございました。おかげで、少し、ううん、かなり楽になりました」
「あぁ……」
迪之は少女の儚げな表情を見つめて、ただうなずいた。
「帰りましょう」
神社から立ち去る汀部の後ろを何もいわずについていった。
かける言葉が、もう何もなかった。
「えっと、良かったら、今夜うちで夕ご飯を、食べていきませんか?」
汀部が家の前まで来ると、告げた。
「…………いや、いい。急にお邪魔したら迷惑だろ?」
「そう、ですよね。あはは、何をいってるんだろ、あたし。それじゃ、失礼します」
少しおどけた調子の言葉を残し、汀部は家の中へと消えた。
空からは赤みが失われつつあり、水底へと沈んでいく夜の気配が漂っていた。
──そんなくよくよするなら、断らなければ良かったのに。
迪之は何もする気がせず、食事する気にもなれず、二階の自分の部屋でプレイヤー片手にベッドへと転がっていた。風呂にだけは入ったため、このまま寝てもかまわない。
「どうして、あんな風に笑えるんだよ」
目を閉じても、まぶたの裏の暗闇は赤く染まっていき、やがて汀部の微笑みを映し出した。
──きっと笑わないと、やっていけないこともあるのよ。
エルピスの言う通りかもしれない。
迪之は目を閉じたまま、耳元で外したイヤホンから流れるせせらぎに思考をゆだねる。
これまで汀部が頑張ってこられたのは、微笑みに全てを隠そうとするほどの強い意志があったからに違いない。弟と妹の存在はもちろん大きいが、それだからこそ、暗い感情を隠し続ける微笑みが必要だったんだろう。丁寧な口調で周りをしりぞける孤独が必要だったんだろう。
彼女自身の選択が間違いではないと、自分自身に言い聞かせるために。
そんな彼女の強さと弱さが分かって、迪之はどう彼女と接すれば良いのか分からなくなってしまった。だから、食事の誘いを断った。
──怖いの? 逃げてしまうの? 傷付けたくないから? 傷付きたくないから?
「あぁ、そうだ」
全て、認めた。認めるしかなかった。
これ以上に深く関わっても自分は単なるクラスメイトなのだ。
大切な時に、何もしてあげられない。
さっきもそうだった。
汀部の話を聴いて、最後には結局、ただうなずくことしかできなかった。卑屈な決断や悲痛な意地を否定してあげることができなかった。
間違いなく、その決断と意地が汀部をこれまで支えてきたのだし、今も支えているのだと、分かってしまったからだ。
周りの人間について汀部が感じている不安に対してはあれこれ口出しできても、汀部本人の考えを根本的に否定することはできないし、すべきじゃない。
それならば、あんなにも危うい微笑みを見せる少女に自分は何ができるというのだろうか。
──迪之はそれでいいの?
「良くない。だけど…………あぁ、そういうこと、か」
目を閉じると広がる暗闇。その暗闇に何度も自分が見ようとしていた面影。
顔はぼやけたままで思い出せないのに、悲しい笑顔をしているとなぜだか知っていた。自分を残して家から突然いなくなったくせに、ずっと心のどこかに居座り続けた母親だ。
色々と訊きたいことがあった。でも、真っ先に訊くことは決まっていた。
「……俺は汀部の無理した笑顔を見たくなかったのか」
なんて自分勝手なことだろう。
汀部の微笑みへと母親の面影が重なってしまって、それがいやで、気にかけずにいられなかったのだ。
気付いてしまえば、とても単純でつまらないことだった。
────ポーン。ピンポーン。
何か音が聞こえた。インターホンの音だろう。
いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。時計を確認すると、夜の八時を過ぎていた。
こんな時間に誰なのか。迪之には心当たりが全くない。父や叔母の可能性もあるにはあるが、インターホンなんて押さずに鍵を使うだろう。
「どなたでしょう?」
「汀部です」
迪之は、慌てて外へ出た。どんな用事なのかが気になったし、いっておきたいこともあった。
「ごめんなさい。さっきは、その、話を、聴いてもらえるのが嬉しくて、調子に乗って、喋りすぎてしまったようです。そんなつもりなかったのに、迷惑、でしたよね?」
迪之が扉をあけた途端、汀部が喋ってきた。
私服姿だったが、眼鏡はかけていない。手には小さめの手提げ袋を持っている。
「あーっ、謝られることは何もない。もちろん、迷惑だとも思っていない。むしろ、いや、えーっと、わざわざ、謝りに来てくれたのか?」
「はい。あと、お詫びというわけじゃないんですが、グラタンを作ったので良ければ……あっ、もう夕ご飯とか食べちゃったかな?」
手提げ袋を両手で前に突き出したまま、汀部は動きを止めた。
「いや、まだ食べてない」
「その、なら、穂積君のお口に合うかは分からないけど」
「ありがとう」
迪之が受け取ると、汀部が小さなため息をついた。わずかに笑みがこぼれている。
「そだ。えっと、グラタンを焼くものは、オーブンとかありますか?」
「あぁ、オーブントースターがあるよ」
「では、それで、ラップを取って焼いてくださいね。たぶん、五分くらいです」
「ラップごと焼いたりする奴、ふっ、いないだろ」
汀部の注意があまりに基本的なことすぎて笑えてきてしまったのだ。たとえ全く家事ができない人間であっても、ラップが火に弱いことは知っているはずだ。
「くふっ、そうですよね。火傷には注意してください、っていうべきでした」
口元に手を当てて汀部も笑っていた。
「それでは、失礼しますね。また、学校で」
「待ってくれ、汀部」
汀部が帰ろうとしたところで、呼び止めた。
「その丁寧な口調、やめてくれないか?」
「えっ?」
汀部は、どういう意味なのか分からない、という顔をしていた。二度目なのだから、何をいわれているかは分かるに決まっているが、どうして再び今になっていわれるかが分からないのだろう。
「もちろん、汀部の気持ちは今朝より、ずっと理解してるつもりだ。条件なんて、なかったことにしてくれていい。望むなら、七歌のことだって俺が責任を持って説得する。ただ、汀部が普通に喋っていいと思えた時には、丁寧な口調は遣わないでほしい」
「その、でも、私は……」
「汀部がぐらつくようなら、また思ってることや不安なことをありったけ喋ってくれればいい。ちゃんと最後まで聴いてやる。いや、もちろん長さにも限度はあるが……半年おきに丸一日くらいなら、きっと大丈夫だ。あっ、でも、アドバイスとかは期待しないでくれ」
これが自分にいってあげられる精一杯のことだろう。迪之が悩んだ末に出した答えだ。
「…………ありがとう……ございます。しばらく、時間をください。少しだけ、考えさせて、ほしいです」
「あぁ、分かった」
汀部の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。
所詮、身内ではないのだから、できることよりもできないことの方が多い。しかし、きっかけはどうあれ、周りを寄せ付けようとしない汀部と望んで関わって、その理由を教えてもらったのだ。壊れそうな微笑みを放っておくことなんて、迪之にはできなかった。
でも、あんなにも人と関わるのを避けてきた汀部が、どうしてグラタンを持ってきてくれたのか。一人暮らしの自分を気遣ってくれたのだろうか。帰り道での何気ない会話を思い返しながら、台所近くのテーブルで手提げ袋の中身を取り出した。
ブロッコリーやエビの混ざったホワイトソースが楕円形のグラタン皿にたっぷりと注がれていた。ソースの上にはチーズのみならず、パン粉やパセリも振りかけられている。
オーブントースターで焼き上げると、ソースやチーズの焼けた香ばしい匂いが台所へと広がった。
早速、フォークを突き刺し、火傷しないように少しだけ食べてみる。
カリッとしたチーズ。
ふわっとしたソース。
ぐえっとくるソルト。
「し、塩辛い。滅茶苦茶、塩辛い」
見た目も香りも食感も全てが良いのに、味付けがひどかった。
全く食べられないようなものではないが、決しておいしいわけでもない。はっきりいって、塩辛いという一点で、まずかった。
念のために、再び挑戦してみたが、残念ながら、迪之の勘違いではないし、好みの問題でもない。取りあえず、水道水をコップに注ぎ、グラタン皿の横に置いた。一口飲むが、特に変わった味はしない。
迪之の味覚に異常がないならば、おかしいのはグラタンの味付けだ。
「まさか、いやがらせ?」
まず浮かんだ答えだった。今日、汀部は七歌から相当な仕打ちを受けていた。そして、汀部はなぜか全て迪之のせいだと考えていた節がある。事実、全てではないにしても原因を作ったのは迪之だった。
その仕返しが塩をたっぷり加えたソルティグラタン────そんなはずがない。
口元に手を当てて笑う汀部の姿は、悪魔の微笑みではなかった。もっと自然なものだった。少なくとも迪之の目には、そう映った。
ならば、汀部が間違って塩を入れ過ぎたということだ。どうしてそんなことになったのか。いや、重要なのはそこではなく、どうして汀部は気付けなかったのか、だ。
汀部はグラタンを単に渡すだけでなく、迪之に対して細かな注意まで伝えてきた。そこまで心配りのできる奴が、人の家へ持っていく料理の味見を全くしないとは考えにくい。
──きっと味見をしても気付けなかったのね。
「もしかしなくても汀部って、かなりの味音痴なのか?」
そう考えるしかない。ないのだが、それにしたって違和感を覚える。
汀部の家には弟や妹もいて、彼らの料理だって汀部が作っていると聞いた。普通、味音痴の人間に任せておくだろうか。もし任せておくとしたら、汀部家全体が味音痴ということになる。普通はそうなる。
でも、汀部は最近になって弟や妹が自分の作った料理を食べなくなった、といっていた覚えがある。汀部の話でいう最近に当たる言葉がどのくらいの期間をさすのかは分からない。しかし、引っ越す前も含んでいたとしたら、食べなくなったのは環境の変化によるものではない。
おそらく原因は、環境ではなく味の変化だ。
汀部は味が分からなくなっている。つまり、味覚障害を患っている可能性がある。
味覚障害は亜鉛の不足によって起こるのが、有名だ。もしかしたら、汀部は食事をあまりとっていないのかもしれない。そういえば、昼に汀部が食べていた弁当は量がとても少なかった。ダイエットでもしているのだろうか。十分にやせていると思うのに。
──過度のストレスが味覚を狂わせる場合もあるそうよ。
エルピスの囁きは、迪之の現実逃避を許さなかった。
あまりに過度のストレスから、食べることに対する楽しみを感じなくなり、当然のことながら味を意識しなくなり、いつの間にか味自体が分からなくなっていく。いや、こんな単純な形ではなく相互に関係したり、他の要素が加わったり、人によって違ったりするだろう。
けれど、食欲不振や偏食による亜鉛不足を経由するとしても、直接つながるとしても、ストレスが味覚をおかしくするのは十分に考えられることなのだ。
「くそっ、そんなにも追い込まれてるっていうのか」
迪之はこぶしをテーブルに叩きつけた。
汀部の場合も、いや、汀部だからこそ、過度のストレスによる味覚障害であると考えられる。もちろん、全ては勝手な憶測で、単なる失敗や味音痴の可能性も捨てきれない。
それでも、と、グラタン皿をぼんやり見つめる。
彼女の抱えているものが自分の手におえるようなものではない。それは分かっていたことだ。分かっていたことなのだ。しかし、どこかで甘く捉えていたところがある。きっと、どうにかなると、彼女の強さだけを見て感じていた。でも、いくら強くても、やはり彼女はか弱い。
傷付き過ぎた心を微笑みで覆っても、隠しきれない痛みがあるのだ。
もし、これ以上に深く関わって、彼女が自分を頼った時に何もできなかったら、どうしよう。きっと傷付けてしまうことになるだろう。そのことに、自分は耐えられるのか。逃げ出さずにいられるのか。
汀部が怖いといっていたのは、きっとそういうことなのだ。
心を許した相手に裏切られることほど、虚しいものはない。それほど、苦しいものはない。だから、誰にも心を許したくないのだろう。許したくても許せないのだろう。
そんなにも切迫した思いから生まれた心の壁を壊そうとして本当に良かったのか。
今なら、距離を少しずつ取っていったとしても、汀部は文句など一つも口にしないはずだ。
友達を頼って裏切られた経験が汀部にはある。迪之になんらかの解決や救いなど期待してはいない。なんの望みもかけてはいない。少なくとも今は絶対に。
結局、迪之は他人なのだ。無力な他人なのだ。
しかし、こぶしを握りしめた。しかし、汀部の力になりたかった。
感じ取った痛みをこのまま見過ごすことなんて、絶対にしたくなかった。
何か、できないか、と思った。
やはり無理やりにでも部活へ参加させるのは、どうだろうか。最初は嫌々だったのが、少しのきっかけで変わっていくというのもよくあることだ。と絢乃もいっていた気がする。
──善意であっても身勝手な感情の押し付けは、ありがた迷惑で終わってしまうことが多いわよ。
いわれるまでもなく、分かっていた。そんな押し付けを汀部は拒絶するだろう。申し訳なさそうに顔をくもらせることは目に見えている。
今の自分ができるのは、汀部の話を聴くことだけなのだ。それだけでも汀部は喜ぶかもしれないし、それだけしか自分はできない。
「…………何もできないってのと、変わらないじゃないか」
迪之はフォークを乱暴につかみ、グラタンを口に入れた。
悲しい涙の味がする。
それでも、黙々と食べ続けた。むせてしまっても、水を飲んでごまかした。
──迪之、悔し涙を加えたところで、塩辛さは増すだけだと思うわよ。
自分が沈んだ顔つきで食べていたと、指摘されるまで気付かなかった。そんなことに意識が向いていなかったのだ。
「お前の言う通りだな。だけど、エル、俺は泣いてなんかいない。あいつの代わりに俺が泣いたって、あいつの痛みは癒せないんだ」
迪之は頬の筋肉へ力を入れ、笑みを形作った。
まずそうな顔をして食べるのは良くない。折角の手料理なのだし、何より、自分はこのソルティグラタンを食べたくて食べているのだから。
せめて、その気持ちを迪之は見せつけたかった。誰にも見られていない、見ているとしたらエルピスだけだったとしても。
*
「雪花、ここで寝ちゃダメよ」
蓮音の膝を枕にして寝転がっている雪花へ声をかけた。
「うーん、でもぉ、まだ待ちたいなぁ」
雪花はいやだといわんばかりに頭をもぞもぞと動かす。
穂積にグラタンを渡した後、蓮音は雪花と一緒にお風呂へ入ってから、居間で雪花の勉強を見ていた。けれども、一時間もしないうちに雪花はあくびをし始めてしまった。漫画や小説を読んでいる時などは、無駄に根気強いのに困ったものだ。
普段なら、眠そうな態度を取った時点で二階へ向かわせる。しかし、明日は土曜日。学校はないのだから、そこまで厳しくしない。
「遅いねぇ、お兄ちゃん……」
柚樹は今日も部活の話し合いがあるらしく、十時過ぎになるかもしれないと連絡があった。そのことを雪花にも伝えたのだが、柚樹が帰ってくるまで待つといって聞かなかった。
──おかえりって出迎えたいのよね。
母親が帰ってくるのを待っていた時と同じだ。
毎日のように雪花は目をこすりながら母親の帰りを待っていた。結局、待ち疲れて寝てしまうことがほとんどだったけれど、頑固に待つのをやめようとはしなかった。布団で寝かせようとする蓮音とけんかになっても、泣きぐずりながら待っていたことさえあった。
「ただいま」
昨日と同じく疲れた様子で柚樹が帰ってきた。
「柚樹、おかえりなさい。雪花もあんたを待ってたんだけど、はぁ、寝ちゃったかな」
膝の上で寝息をたてていた。頬を軽くつまんでやっても、全く起きる気配はない。
「今日はグラタンだから、焼いて食べて。台所に置いてある」
「……あぁ、分かった」
「学校、どう? 友達とかできた?」
気怠そうな返事が気になって、尋ねてみた。何か悩みがあるのかもしれない。
「別にどうってことはないけど、部活の連中とはそれなりに仲良くやってる。でも、あんまり友達っていう感じじゃないな」
どうやら学校関係の悩みではなさそうだ。友達ができたなどと答えなかったあたり、本心を告げているかはともかく、いつもの柚樹だと分かる。
というのも、柚樹は昔から一匹狼というか、あまりつるんだりするのが得意じゃないようだ。向こうの学校でも引っ越し先を教えるような友達はいなかったらしい。柚樹の性格からすると、尋ねられても引っ越し先を教えなかった可能性が高いけれど。
いずれにしても、友達を大切にした方がいい、などと今の蓮音にいえることではない。
「いただきます」
焼き上がったグラタンをテーブルに置き、柚樹が蓮音の向かい側に座った。
「味、薄かったりしないかな?」
「そんなことない。十分に味はついてるぜ」
何度か味見はしたのだが、どうしても味が薄いように感じられた。しかし、首を振る柚樹の様子からすると、心配する必要はなかったようだ。
「おいしくできてる?」
「あぁ、蓮ねえのグラタンは、ずっと俺の一番の好物さ」
「くふっ、お世辞じゃなく、正直に答えなさいよ」
「本当に好物なんだ。蓮ねえも知ってるだろ?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳は嘘をついているようには見えない。見えないのだけれど、どことなく違和感があった。普段とは異なる緊張感をたたえた揺らぎが感じられたのだ。
「どうか、したのか?」
じっと柚樹を観察していたのがばれてしまったようだ。
「ううん、ただ見てただけ。なんでもないよ」
一応、納得するしかなさそうだ。今、膝の上で寝ている雪花も似たような反応だったし、あまり疑い過ぎると、逆に何かあると思われてしまうだろう。
「蓮ねえは部活、入らないのか?」
雪花の寝顔を眺めていたら、黙々とグラタンを食べていた柚樹が前触れもなく尋ねてきた。
「入りません。前にもいったでしょ。そんな余裕があったら、アルバイトをするの。七歌さんには別にいいっていわれてるけど、家を借りておいて、たまに神社のお手伝いをするだけじゃ絶対に足りないもん。こっちでの生活にも慣れてきたし、そろそろ探そうかなって思ってる」
明菊高校ではアルバイトは基本的に認められておらず、家庭の事情などでアルバイトをせざるをえない場合は特別な申請が必要だと七歌に教えられている。それゆえ、今までは様子見もかねて、しなかっただけなのだ。
「バイトもいいけど、もっと学校生活、楽しむことを優先した方が──」
「余計なお世話よ、柚樹。あたしは今の生活で十分なの。それに、学校のことだったら、あんたも人のこといえないでしょ。あたしのことより、あんたのことをしっかり考えなさいよ」
蓮音にとっては、自分のことなんかどうでも良くて、柚樹と雪花のことが気がかりだった。こっちの学校でうまくやれているのか、本当のところを根掘り葉掘り尋ねたいくらいだ。
「それこそ、蓮ねえの方が──」
「あたしはいいの。大体、部活なんて入らなくたって、ちゃんと楽しめてるの。今日だってクラスの男の子と一緒にお喋りしながら帰ってきたくらいだもん」
柚樹が不思議そうな顔をしたのを見て気付いた。余計なことを口にしてしまった。
「……男? ボーイフレンドか何かか?」
「そ、そういうのじゃにゃいよ? う、うん、そう、たまたま家が近くで偶然にも鉢合わせして、一緒に帰ることになっただけの単なるクラスメイトなの。なんでもない。まだ友達にもなれてない。だから、その、そゆのじゃないの……。あっ、そだ、雪花をそろそろ上にやらないと……」
「起こさなくていい。俺が上まで運ぶ。蓮ねえはこれを洗ってくれ」
グラタン皿を蓮音の前に突き出してきた。綺麗に全て食べてあった。
「うん、お願いね」
膝の上で寝息を立てる雪花の脇を持ち上げ、柚樹の背中に乗せてやる。
「雪花、待たせて、ごめんな」
そんな言葉をかけ、柚樹は雪花をおぶって二階へと向かった。その姿を見送って、蓮音は小さなため息をついた。
──何を必死になって否定してたんだろ、あたし。逆に怪しいじゃない。本当にそういうのじゃないのに……。
なぜだか自分の頬が熱くなってしまっているのを蓮音は感じた。
2014.7.14 改行修正