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朝、蓮音はいつものように台所へ立っていた。ご飯は炊けているし、野菜炒めの卵とじも塩鮭もできた。あとは柚樹と自分の分を弁当用に分けて終わりだ。給食があるため、雪花の分は用意しなくていい。
「よし、できたっと。柚樹、雪花、起きなさいっ! 朝ご飯よっ!」
居間のテーブルへと朝食を並べながら呼びかけた。しかし、返事はなく、二階から降りてくる気配もない。
「できたっていってるでしょーがっ! 早く起きなさいっ!!」
再度、呼びかける。
「二人とも、起きなさーいっ!!」
「分かった。雪花を連れて、すぐ降りる」
何度目かに、ようやく柚樹の返事があった。
汀部家で一番寝起きが悪いのは、雪花だ。毎朝、蓮音は一階の居間から二人を起こすのだが、だいたい返事があるのは柚樹のみで、雪花は起きてさえいない。なので、柚樹が直接起こして下まで連れてくる。その間に蓮音はテーブルの上へと朝食を並べ終える。
ここ一か月間の日常。今日も南の窓からは陽光が斜めに差し込み、居間へと陽だまりを落としている。と、窓の向こうを見て、蓮音は違和感を覚えた。
裏庭に繁った草むらのさらにその先、裏の家から誰かが見ていたのだ。
──誰かっていうか、あれは……えっと、どうして?
確認しようと近付いたが、既に向こうの磨りガラスが閉じられてしまっていた。何かの見間違いだろう。でも、どうなのか。いつもは開かれない磨りガラスの窓が開かれ、こちらを見ていたのが見知った顔なんて。
「ママ、おはよう」
「蓮ねえ、おはよう。どうかした?」
雪花に続いて、柚樹が居間へ入ってきた。二人ともまだ眠たげにあくびをしている。
「ううん、なんでもないの。さっ、食べましょう」
間もなく食事を始めたのだが、蓮音は何を食べても同じような味としか感じられなかった。さっき見た人影が誰なのか気になってどうしようもなかった。いや、誰なのかは分かっていたが、本当にそうなのか確認したいのだ。
「ごちそうさま。柚樹、雪花、皿をつけて、戸締りもしておいてもらえない? あたしは今から出かけるから」
食事を手早く済ませた蓮音は二人の了解を受ける前に駆けだした。鞄と弁当を持ち出して、気持ちを落ち着けるためのハッカ飴をなめて、駆けだした。
もちろん向かうのは、学校ではなく裏の家。不安に迷う気持ちも勢いでごまかした。
「はい、どなたでしょう?」
インターホン越しに聞こえてきたのは予想通りの声、穂積迪之だった。
「穂積君、ですよね。す、少し話せないですか?」
「汀部さん、か。分かった」
──表札も穂積だ。どうして今まで気付けなかったんだろ? 近所で会うこともあったのに。
生じた疑問の答えはすぐに見つかった。近所との交流がほとんどなかったためだろう。今の汀部家はある意味で斜奏家の居候という身の上なのだ。近所づきあいをどうしたらいいのか分からず、あまり深く家のことを話したくないというのも手伝って、蓮音は近隣への引っ越しの挨拶以外には特に何もしなかった。
「えっと、なんだろ? 取りあえず、中に入る?」
玄関から出てきた穂積は、何をしに来たんだ、という怪訝な顔つきをしていた。
「はい、あっ、その……いえ、お願いします」
──大丈夫だよね、穂積君なら。七歌さんに渡された護身スプレーとかもあるし。
促されるまま、リスっぽいデザインのスリッパを履き、居間へ入った。汀部家よりも整頓されていて無駄なものが一切ない。というか、生活感がない。
「話って長くなりそう? もしそうなら、そこのソファに腰かけて」
L字型になったソファへ腰かけるよう、勧められた。長く話すつもりはないけれど、自分が立っていれば、穂積も立ったままだろう。
「はい。そんなに長居するつもりはありませんが」
「何か飲む?」
ソファへ座ると、穂積が尋ねてきた。蓮音をお客としてもてなそうとしてくれているようだ。
「いいえ、おかまいなく」
蓮音は自分の心臓が鼓動を早めるのを感じた。
家までお邪魔したのはいいけれど、何を訊くべきだろう。訊きたいことが一杯ありすぎて、でも、全く何も形になったものが思い浮かばなくて困ってしまった。
「やっぱり汀部さんだったんだな」
何も口に出せないまま、視線をさまよわせていたら、ソファに腰をおろして穂積が呟いた。一人分の距離をあけ、テーブルをはさんで直角に向かい合う形だ。
うなずきを返し、どうにか落ち着こうと口の中のハッカ飴を噛み砕いたら、ようやく訊きたいことが浮かんできた。
「いつから、気付いていたんですか?」
「昨日、汀部さんがツインテールの女の子を雪花って呼ぶまで、気付いてなかったよ。あまりに学校でのイメージとかけ離れていたから」
蓮音は頬が熱くなるのを感じた。
「そのっ……もしかして、私の……聞こえていましたか?」
「あ、あぁ、母親って大変だよな。あっ、いや、汀部さんが母親なのかは分からないし、そうは見えないんだけど……ママって呼ばれていたし……」
なぜ言葉を濁したのか、意味を理解するのに時間がかかった。
どうやら穂積は蓮音が雪花の母親だと思っているらしい。もちろん、半信半疑なのだろうが、その可能性もあると思っているようだ。
十六歳の蓮音に小学五年生の娘がいるなんて当然ありえない話なのだが、穂積は蓮音の実年齢も汀部家の事情も知るはずがない。
「わっ、私、それは違います。正しいんですが、違うんです」
気付くと、慌てて否定していた。肯定と否定をしていた。
どうすれば勘違いだと伝えられるのか。あまり話したくはないけれど、何も話さないと余計に怪しまれるだろうし、やはり少しは事情を喋らないといけないよね。などと考えながらも、蓮音には続く言葉が思いつかなかった。
「母親ではないってこと?」
「はい、まぁ……」
「喋りにくかったら、別に喋らなくていいよ。気にならないといえば、嘘になるけど」
はぐらかした返事をしてしまったせいか、話すのをいやがっていると思われてしまったようだ。実際にそうだった。そうだけれど、勘違いされたままでは困るというか、穂積に限ってないとは思うが、子供がいるなんていう噂を周りに流されたら迷惑だ。
蓮音は心を決めた。
「いえ、お話しします。雪花は妹なんです。父はいないんですが、私とは別に母だってしっかりいます。ただ、今は別れて暮らしていて、ある方のご厚意であの家に私たち三人で暮らしているんです。あっ、三人というのは、私と雪花に弟の、雪花にとっては兄ですが、柚樹を加えて三人です」
「そういうことか」
一気に喋りあげた蓮音だった。穂積は驚いた表情を垣間見せたが、一度うなずくと、すぐに真面目な表情へ戻った。
「それで、穂積君にお願いがあるのですが、この話は内密にしてください。どうしても隠さないといけないことではないんですが、あまり広めたくないというか……」
「分かる。俺も似たようなものだから」
「えっ、それはどういう?」
思わぬ答えについ訊き返してしまった。訊き返してしまったのだからどうしようもないが、本当に似ているなら、あまり口にしたくないことかもしれない。
「父親が別居中っていうか家出中で、母親はいないんだ。いないっていっても、ある朝に突然俺と離婚届を残して出ていったんだけどな」
「そう、でしたか」
穂積は事もなげに話したのだが、蓮音からすると十分に重い話で、どう反応して良いものか悩んでしまった。境遇が似ているのだから、笑い話にするべきか、同情するべきか。もし蓮音が穂積の立場なら…………どちらもいやだった。
「でも、それならママっていうのは一体?」
蓮音が押し黙っていると、穂積が再び尋ねてきた。母親でもないのに、なぜ雪花からママと呼ばれていたのかということだ。
──どう答えよう。
蓮音に迷いが生じた。それは彼女にとって答えづらい質問だった。だが、穂積のことを訊いてしまった手前、自分だけ隠すのも気が引けた。それに、似た境遇の彼なら、理解してくれそうな気がした。
「私が母を見限ったからです」
人に話して困るようなことでもないし、話してしまおう。たとえ理解されなくても、何も変わらないし。
「私が忙しい母の代わりに雪花の世話をしたり、学校関連の行事に参加したりしたためも元々はありました。でも、今そう呼んでるのは、私をママだと思ってと伝えてあるためでしょう。
雪花にとって母親は一人しかいません。私は姉です。でも、私は家を出たんです。雪花と柚樹を連れて、雪花と柚樹から母親を奪って。だから、私は雪花と柚樹の姉であると同時にママになったんです。
きっと雪花は私の思いを汲んで、そう呼んでくれているのだと思います」
「そういうこと、か」
穂積は一度うなずいただけで黙ってしまった。きっと分からないこともあるだろうが、分からないことの方が多いくらいだろうが、黙ってくれていた。
何もいわれずに済んだことへの安堵を感じ、そして時間がたつにつれ、不安の波が押し寄せてきた。自分のしたことは正しかったのか。自分のしていることは理にかなっているのか。そんな不安だった。
「母を見限った理由も、話していいですか? 少し長い話になるかもしれません」
言い訳をしたくなった。自分が雪花と柚樹から母を奪ったのが、一番良い解決だったとは思わない。だからこそ、何よりも自分を納得させるために言い訳をしたくなった。
どうしようもないほどに。
「あぁ、いいよ」
穂積は穏やかな声で告げた。
蓮音はゆっくりうなずいてから口を開く。
「母は父がいなくなってから、本当に頑張って私たちを育ててくれました。家を捨ててどこかへいったのであろう父の分まで、仕事も私たちの面倒も完璧にはほど遠くても懸命に取り組んでくれました。
でも、数年前から男遊びが目立つようになりました。仕事で何か悩みを抱えていたのかもしれないし、父のことが許せなかったのかもしれない。母は家をあけることが多くなって、家事は私に任せきりになっていきました。
家事をすることに不満があったわけではありません。私は平気でした。でも、柚樹や雪花がないがしろにされるのは許せなかった。特に、雪花が私へとすり寄ってきて、母のことを尋ねながら泣いてしまう夜などは苦しくて…………それでも、私は黙っているように努めました。母にそれとなく告げることはあっても、できるだけ負担をかけないようにしました」
そこで穂積の顔色をうかがったが、特に変わりはなかった。無味乾燥の静かな表情だ。
蓮音は懺悔を続けることにした。自分のために。
「半年近く前のことです。雪花が熱で倒れました。
その日、雪花は母と約束して、楽しみにしていた買い物へ出かけたはずでした。でも、夜に雪花は一人で帰ってきた。しかも、高熱を出していた。あたしはどういうことか確かめようと、母に電話をかけたのに、つながらなかった。あとで母に訊いて分かったことですが、母は途中で大事な用ができたと雪花に告げて男の人と会っていました。雪花は約束を破られて、寒空の下を一人でずっと過ごしていたんです。
許せませんでした。でも、それだけじゃなかった。あの人は看病を私に全て任せきりにしたんです。一度も雪花の様子をしっかり見てくれようとしなかったんです。熱で苦しむ雪花の傍にいてあげようとしなかったんです。我慢しきれなかった。だから、私は母にこんなことが続くなら家を出ると宣言しました。すると、返ってきた答えは、出られるものなら出てみなさい、でした。
悔しかった。悲しかった。どんな言葉で表しても足りない衝撃だった。だからっ、だから私は母を見限ったんです」
蓮音の声は震えることもなく、最後までしっかりと出ていた。何も知らない赤の他人に説明するのが三度目だったせいか、どこか他人事みたいに今までのことを語る自分がいた。
「そうか」
しばらくして、穂積は何度かうなずいた。うなずいて、再び黙り込んだ。蓮音へかける言葉が見つからないのか、何も考えていないのか、わずかな苦みだけしか表情には浮かんでいなかった。
何を期待していたつもりもなかったけれど、なぜか少しだけ残念に感じた。
「それで、七歌は汀部のことを気にしてたんだな」
長い沈黙を破った穂積の小さな呟きは蓮音にとって聞き逃せないものだった。
「七歌さんを知ってるの?」
「えっ? あぁ、幼馴染さ。汀部さんの住んでいる家って七歌の祖母が昔は暮らしてたんだ」
「あのっ……七歌さんに私のこと、聞いてたんですか?」
「いいや、全く教えてもらってない。一度、クラスでの汀部さんの様子を訊かれただけ。さっきもいっただろ? 汀部さんが裏に住んでるって気付いたのは、昨日だ」
──そうだった。少し前に訊いたばかりだ。
蓮音は自分が冷静さを失っていたと自覚した。もう既に穂積へ色々と余計なことまで話してしまった。おかげで不安はかなり和らいだが、本当に話して良かったのか。迷惑だったんじゃないだろうか。
「のど、渇いてないか? コーヒーをいれてくるよ。あぁっと、コーヒーでもいいか?」
「はい、大丈夫です」
穂積は台所の方へ向かってしまった。指摘されるまで気付かなかったが、確かにのどが渇いていた。
「汀部さんって砂糖とかは使うか?」
「えっと、どちらでも」
台所からの声に返事をすると、磨りガラスが目に入った。台所にある窓だ。蓮音が見たところ、居間とは違って台所の辺りには生活感がある。フライパンや鍋が見て取れるだけでなく、台所近くのテーブルには封のあいた食パンや調味料らしき小瓶など雑多なものがあった。
──あそこで朝ご飯を食べているなら、あたしの声が聞こえて当然よね。
磨りガラスをあければ、蓮音たちの暮らす家が見えるはずだ。
「お待たせ」
やがて穂積がティーカップを盆に載せて戻ってきた。スティックシュガーやフレッシュも載っている。
「ありがとうございます」
穂積はブラックのまま、蓮音は砂糖とフレッシュを入れて、コーヒーを口にした。
普段、コーヒーを蓮音は全く飲まない。そのためか、やはり慣れない苦さをほんの少し感じた。けれども、飲めないわけではなく、口の中が潤されていく。
一息ついてから、蓮音は姿勢を正し、気持ちを引き締めた。
「ごめんなさい。一方的に話してしまって……」
「いいや、汀部さんが謝ることは何もない。俺こそ、気の利いたこと、いえてなくて申し訳ないくらいだ。そうだな、俺がいうことでもないが、七歌なら信頼できる奴だし、もっと頼ってもいいと思う。あいつだって汀部さんのことを気にしていたし……」
「そうですね。でも、私、七歌さんに頼りすぎているんです」
穂積はまゆをくもらせた。おそらく、意味が分からないからだ。
「もう少しだけ、話しますね。先ほどの続きです。
家を出ようと思った私でしたが、頼れる相手なんていませんでした。私は途方に暮れて街を彷徨っていました。あまり記憶はありません。でも、結果として私は奏香さんに出会えて、願いを叶えてもらいました。私と柚樹と雪花の三人で暮らせる場所を用意してほしい。そんな願いでした。
見ず知らずの相手なのに、そんな願いを真面目に聴いてくれる人なんていない。いたとしても、いえ……なんでもありません。とにかく私は信じてもいなかったのに、願ってしまったんです。叶えてくれるはずがないって思っていたのに、奏香さんは七歌さんを紹介してくれました。そして七歌さんは、今の生活を与えてくれました。お二人には、感謝しきれないほど、お世話になっています。なので、これ以上に頼ることはできるだけしないと決めているんです」
「汀部さんが決めたことなら、何も口出しできないな」
穂積は大きく一度うなずいた。
自分のためを思って、七歌を頼るように勧めてくれたのだろうが、どうしても必要以上に頼りたくはなかった。そんな蓮音の身勝手な理屈も、穂積は否定しなかった。
──似た境遇だから、分かってくれたのかもしれない。
蓮音は、そう感じた。そう感じて、おかしなことに気付いた。
彼女は穂積家にも引っ越しの挨拶に来ていた。その時、最初に出てきたのは女の子で、その子に呼ばれて母親らしき人が応対してくれた。名前は覚えていない。
「穂積君って、お姉さんや妹さんはいないんですよね?」
「あぁ、いないけど」
さっき母親がいないといっていたのに、姉妹もいないのだ。
「穂積君の家へ引っ越しの挨拶に伺った時、女性と女の子がいらっしゃったんですが、あの方たちは一体?」
「それは、父さんの妹とその娘。俺からすると、叔母といとこだな。一時期、俺の様子見をするとかで、居座っていたんだ」
「そうでしたか」
話に矛盾はないし、嘘をつく理由もきっとない。幼馴染らしいし、七歌に確認すれば分かるだろうか。
「その、昨日に部活の話が出たのって、もしかして七歌さんが関わっていますか? 私のことを心配して、とか……」
「いや、そうじゃない。あれは七歌とは無関係な俺の都合だ。もちろん俺に汀部のことを尋ねてくるんだから気にかけてはいたはずだが、部活に関して七歌には頼まれていない」
穂積の話しぶりは、まるで他の誰かに頼まれたみたいだ。七歌ではない誰か。蓮音には心当たりがない。
「東雲絢乃っていうか、七歌の前に生徒会長をやっていた妖女メドゥサといった方がいいか。その人から汀部さんを誘ってほしいってお願いされたんだ」
「えっと、独裁者、と呼ばれた方ですよね。噂は聞いています。でも、話したことはありませんし、遠目に見かけたことがあるくらいなんですが……」
蓮音は前会長と全く関わっていないに等しい。当然、部活に誘われる理由も分からない。
「どうして、私を?」
「それは汀部さんが帰宅部の部員だから、と話してたな。いや、この場合の帰宅部っていうのは、絢乃さんが生徒会長の権限を利用して作ったと思われる帰宅部的な活動をする部活なんだけど」
よく分からないが、前会長は帰宅部という名前の部活に自分を入部させようとしているのだろうか。
「あれ? 今、私が部員だからっていいませんでしたか? 私、どこの部活にも入ってはいないんですが……」
部活に入ってないという意味での帰宅部なら、蓮音も含まれるだろうが、実際に活動をしている部活動には絶対に入部した覚えなどない。
「あぁ、それは絢乃さんが勝手に入部させたからだよ」
「はい?」
「妖女メドゥサだから、それくらいなんでもないんだろうな」
「はぁ……そうなん、です、か」
前会長の独裁者ぶりに関する噂は、周辺の土地を買い取って高校の広さが三倍になっただの、学校に新たなクラブ棟や私設庭園を造っただの、眉唾物の話ばかりで全く信じてはいなかった。けれども、独裁者といわれるにはそれなりの理由があるらしい。
「それで、汀部さん、どうする?」
穂積がコーヒーを飲み干し、尋ねてきた。
「どちらにしても部活には参加できません」
「いや、そうじゃなくて、学校」
蓮音が意味をはかりかねていると、穂積は彼の腕時計を示した。
時刻は九時近くをさしていた。
明菊高校の始業時刻は八時半。ホームルームは既に終わって、一時間目が始まっている。改めて確認するまでもなく、遅刻だ。
「えっ、えっと、穂積君、いつから──」
「コーヒーをいれる時には、遅刻だなって思ってた」
「なら、どうして──いえ、ごめんなさい。私のせいですね」
「気にすることはないよ。もし遅刻するのがいやだったら、伝えた。汀部さんの話が聴きたかったから、伝えなかった。それだけのことだ」
蓮音には返す言葉がすぐに思いつかなかった。
「……ありがとう、ございます。でも、どうしましょう?」
「やっぱり計画はなし、か。一応、既に手は打っておいたから、それでいこう。あっ、でも、一つ……いや、二つか、条件がある」
「条件、ですか?」
穂積は口元にいやな味のする笑みを浮かべていた。
5
学校に着いたのは二限目の途中だった。二限目が始まるまでには到着できると迪之は踏んでいたが、予想外のことというのはどこにでもある。
汀部が自転車を持ってなかったのだ。本人は持ってないだけで乗れないわけではないと主張したが、どうだろうか。引っ越したばかりなのだし、持ってないこともあるかもしれないが、あえて乗れると主張するのが怪しかった。
ともかく、自分だけ自転車を使うわけにもいかず、汀部に付き合って徒歩で学校へ来た。
一緒に登校するのはまずいんじゃないか、と汀部は心配したが、むしろ一緒に登校しないと困ったことになっていただろう。そこのところは、どんな手を打ったのか説明したら、汀部もすぐに納得した。
キンコーンカーーン、コーーーーーーーーーーーーーーーンッ。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。この昼休みのチャイムだけ他のチャイムよりも長い上に、肉声だ。他でもない東雲絢乃の仕業であり、声である。休み時間の長さを表現するためとか、自らの権威を示すためとからしい。あの妖女は何を考えているのか全く分からない。
そういった意味では、迪之の前に現れた金髪ロングと似ている。
「おい、迪之。いい加減に本当のことを話せ。二人で何をしていたんだ? 同伴で登場しておいて何も語らないなんて、スキャンダルを起こしてノーコメントと同じだぞ」
「お前の発言は語弊が一から十まであると改めて思う」
「そんな褒めても、ごまかされないからな」
誰が誰を褒めたのかはともかく、金髪ロングがさらに詰め寄ってくる。しかし、迪之に真実を話す気など毛頭ない。
「なぁ、汀部も本当のことをいったらどうだ?」
汀部へ話がふられた。絶妙なタイミングで、迪之のところへ小さな弁当袋を持って近付いてきていたのだ。
「えっ? あっ、穂積君がお話しした通りです、だいたいは」
いつもの微笑みで汀部は答えた。嘘をついている様子はおくびにも出していなかった。いや、弁当袋を持つ手が落ち着かなげに動いている。
「おいおい、勘弁してくれ。君の笑顔で何人の男が騙されてきたかは知らないが、俺は騙されないぞ。汀部がぎっくり腰で倒れた老婆に遭遇して困っていたところ、偶然にも迪之が通りかかって一緒に病院まで連れていった、だって? どこの誰がそんな話を信じるっていうんだ? 明らかに怪しすぎるだろ。救急車、呼ぶだろ。ピーポピーポだろ」
「実際、そうなんだ。救急車を呼ぶまでない、って耳を貸さなかったんだから仕方ないじゃないか。っと、七歌のところにいくから、また後でな。さっ、汀部もいこう」
的を射た指摘だけに、あまり長く追及を受けると、ぼろが出てしまいそうだ。特に汀部あたりから。
「うぇ、待てよ。おい、汀部もいくのか?」
「はい。鷲鷹君、ごめんなさい」
「全く、なんだよ。俺だけ仲間外れなのかぁ?」
何やらいじけている隼人を教室に一人残して、迪之は汀部と共に生徒会室へ向かった。昼休みに七歌のところへいくというのが、汀部へ出した条件の一つだった。
「いらっしゃい、二人とも」
生徒会長室では、七歌が待っていた。その顔に笑みはない。
「迪之、早速、詳しい弁明お願いしてもいいわよね? 私に一肌脱がせておいて、何もなしなんて許さないわよ?」
「あぁ、分かってる。でも、七歌があんな見え透いた作り話をするとは思わなかった」
「突飛なものより、ありきたりなものの方が話を合わせやすいし、信憑性は中身よりも信頼によって生まれるものよ。あなたのクラスで私が直々(じきじき)に先生へ説明をしたの。他の生徒にも聞こえるようにね。私への信頼は篤いから、よほど疑り深い人じゃなければ、本当だと思うはず」
七歌の言う通りだった。一人の例外を除けば、称賛の声をあげる者はいても、疑ってくる者はいなかった。聖女ミネルヴァの異名もだてじゃない。
「だが、隼人には追及を受けて、危な──」
「それくらい、あなたが解決することね。私は迪之の召使いになった覚えなんて全く微塵もないし、そんなものになりたいと思ってるわけじゃないの。いきなり気まぐれで頼られたって、あなたの要望を完璧に叶えられるとは限らないわ」
どうやら七歌はご機嫌斜めだ。
笑みの一つもこぼさず、迪之に突っかかってきたり、冷淡な言葉をはいたりする時には大抵そういうことが多かった。しかも迪之の言動を、暗に非難している場合も少なくない。
今回も迪之が七歌に何かをしてしまった可能性がある。
しかし、迪之には心当たりがない。おととい昼ご飯を一緒に食べてからメールを今朝するまで、関わりなんて一切なかった。
今朝に送ったメールだって、『家で汀部さんと大事な話をしてるから、遅刻する。七歌、適当にごまかしてくれ。頼む』という率直かつ簡潔な内容だ。そのあとすぐに、具体的にはドリップへとお湯を注ぎ始めて二杯分のコーヒーが完成するまでに、なんとかしてやるから昼休み会長室へ来い、という主旨の返信があった。
だからこそ、今ここにきたのだが。
思えば、あの時の返信からして機嫌が良くなかった。会長の仕事で忙しいのに、自分の頼みを引き受けてくれたのかもしれない。迪之はそんな風に考え、少しだけ申し訳なく感じた。
「七歌さん、ごめんなさい。全て私のせいなんです」
気まずい雰囲気を察したのか、汀部は心底申し訳なさそうな顔をしていた。
「いや、いいんだ、汀部」「いえ、いいのよ、蓮音ちゃんは」
同時にほぼ同じ言葉をかけていた。思わず迪之は七歌と見つめ合って、どちらからともなく笑ってしまった。
「ふふっ、仕方ないわね。蓮音ちゃんに免じて、迪之が送ってきた都合のよすぎるメールについては不問にしてあげるわ。そこまで手間がかかったわけじゃないし……さぁ、二人ともソファに座って。お昼を食べながら話を聞かせてよ。蓮音ちゃんから少しは聞いてるけどね」
テーブルにはカフェテリアで売っているエビフライサンドが二人分あった。
明菊高校のカフェテリアは、コンビニみたいな校内販売に一般的な学内食堂を足して、三くらいの数で割ったようなものなので、規模は決して大きくない。そのため、人気商品は昼になるとすぐ売り切れてしまうのだが、このエビフライサンドも例外ではなかったはずだ。
七歌のことだから、事前に裏で入手したのかもしれない。
「今日は出前じゃないんだな」
「蓮音ちゃんの分も用意するなら、出前を取ったんだけどね」
授業の合間に汀部が七歌へ謝りにいった際、弁当を持参すると伝えたらしい。こんなことなら、お昼は七歌が用意してくれるはずだ、なんて汀部に教えなければ良かった。
「カフェテリアで食べても変わらなかったな。いや、汀部が丁寧な口調を意地でも崩さなくなるか」
「そっ、それはまだ考えておくとしか答えてないはずです」
七歌が首をかしげて、迪之に視線を送ってきた。どういう意味か話せということだ。
時を遡って説明することにした。
「昼休みに七歌さんへ会いにいくというのは分かりました。また迷惑をかけてしまいましたし、顔を見せにいく必要はあります。それで、もう一つの条件はなんですか? そろそろ私に教えてくれてもいいと思うんですが」
隣を歩く汀部が怪訝な表情をして尋ねてきた。
「そろそろっていっても、まだ学校まで半分くらいあるだろ」
「あと半分しかないんです。それに距離の問題じゃなくて、時間の問題です。気になるじゃないですか。いつまで教えてくれないんですか?」
ここまで汀部が感情をあらわにして迫ってくることはあまりなかった。というか、今朝まで一度もなかった。
インターホン越しに聞こえた声からして、ずっと今日の汀部は雰囲気が違う。怒っているような緊張感があって、泣き出しそうな切迫感があって、要するに人間らしい感情の起伏が見え隠れするのだ。理由は、汀部の私生活をのぞいてしまったからで、家の事情を語らせてしまったからだろう。
自分なんかが聴いてしまって良かったのかは正直分からなかった。だが、汀部の話を聴いて、やっと彼女が何を考えているのか少し分かった。
「その丁寧な口調、やめたらどうだ? 汀部さんの本音で話すのがいいと思う」
周りに人がいないのを確認して、迪之は切り出した。
「どういう意味ですか?」
汀部は不愉快そうに顔をしかめた。でも、引くわけにはいかない。
「君の弟や妹の時みたいに、もっと自然な喋り方をしたらどうだっていってるんだ。その丁寧な口調は不自然だ」
子供にとって、ですます調は常に異質だ。ですます調が意図なく遣われるものではないからだ。教師と生徒を分けたり、年長者と年少者を分けたり、見知らぬ他人とよく知る知人を分けたりする。それを日常的に会う人間、立場も性別も年齢も違わない相手に対して遣うというのは、間違いなく不自然なのだ。内面か外面、思考や環境に異質なものがあるといえる。
まだ大人ではない迪之たちにとっても、それは当てはまる。
「どうして、そんなことを穂積君にいわれないといけないんですか?」
「これがもう一つの条件だからだ」
「無理、です」
汀部は首を振った。ひどく冷たい声だった。明確な拒絶の意志だ。
「君は丁寧な口調を遣うことで周りとの壁を意識的に作っているんだろう? 弟や妹まで巻き込んで母親を見限った自分は、母親代わりを努めないといけない。周りの人たちと、遊んでいるような暇はない。そうやって自分を追い込んでいるんだろう? もう、やめたらどうだ?」
汀部は自分の行為を誰よりも否定して、弟や妹や七歌に迷惑をかけていると引け目を感じ、誰かと必要以上に仲良くすることも、学校生活を楽しむことも、自らに許していない。憶測にすぎないが、汀部の話を聴いた迪之にはそう思えてならなかった。
「そんなのあたしの自由じゃない。どうして、そんなことっ」
立ち止まった汀部がうつむいて、悔しそうに呟いた。
「そう、そういった口調でいいんだ。それが本来の汀部なんだろ?」
「何が……穂積君に何が分かるっていうんですか? ちょっと家のことを打ち明けられただけで、もう私のこと、なんでも知った風な口をきくんですね。何も理解してませんよ」
迪之に非難の眼差しを向けてきた。初めて見る汀部の怒った顔だ。
「あぁ、その通りだと思う。だけど、汀部が頑なな態度をとればとるほど、汀部のことを想っている人は困ってしまうんだ。七歌に心配をかけたくないなら、もっと普通にするべきなんじゃないか? そんなことに気付けないほど、君はバカじゃないだろ」
「私はバカですよ。どうせバカなんです」
汀部は迪之を置いて、すたすたと歩き始めた。明らかに今までより早足だ。
「言い過ぎた、ごめん。だけど、汀部だって本当は分かってるんだろ?」
肩まで伸びた黒髪が左右に揺れた。
「いきなり丁寧な口調を全く遣わないなんてのはアレかもしれないが、俺に対して丁寧な口調を遣わないっていうのはどうだ? 俺、実は汀部と打ち解けた会話をしたいんだよ」
「いやです。私はそんな会話したくありません」
汀部の背中はぴんと伸びていた。うつむいているわけではない。
迪之は汀部の隣へと並んで、一人呟き始めた。
「だけど、これは条件なんだよな。誰かさんの話を聴いて、遅刻して、ごまかすために出した条件。あぁ、今どうして俺はこんなところを歩いてないといけないんだろう。二限目にも間に合わないなぁ」
相手の妥協を引き出す交渉術。東雲絢乃みたいな巧みさはない。しかし、それでも汀部はその場で立ち止まった。
「……気にすることないとか、いってくれた覚え、あるのに、あれはあたしの聞き違え?」
「かもしれないな」
「穂積の意地悪…………分かった。考えておきます」
よほど腹を立てているのか、汀部の表情はこわばっていて、迪之の顔を全く見ようとしなかった。
「そう……そんな条件を」
七歌が迪之の話を聴き終え、漏らした言葉だった。
昨夜に汀部と遭遇したことから、穂積家に汀部が来たこと、汀部の家庭事情について教えてもらったことなど、迪之はかいつまんで昨夜から今朝までのことを語った。もちろん、家庭事情の中身には少しもふれなかったが、七歌も興味を示さなかった。既に聞いていたのだろう。
七歌が興味を示したのは、迪之が出した条件の内容であり、汀部が条件を受け入れたのかどうかだった。
「やめてくださいっていったのに、どうして話してしまうんですか? 穂積君の耳は飾り物ですか? ひどいです。そんな耳は怨霊とかにもぎ取られちゃえばいいんです」
条件について話し始めると、汀部から何度となく喋るのをやめるようにお願いされた迪之だったが、無視した。しまいには迪之の口を塞ごうとしてきたのだが、見かねた七歌によって、おとなしくお弁当を食べていてね、といわれてからはこちらをにらみつけるのみで黙っていた。
「蓮音ちゃん、一ついい?」
七歌が天使の微笑みで尋ねた。
「はい、なんでしょう?」
「私が二人の遅刻をごまかしたんだけど、迪之だけが蓮音ちゃんと打ち解けた会話を楽しめるのっておかしくない?」
「えーっと……?」
汀部は困惑した表情になって、身動きを止めた。
「おかしいよ、ね?」
「あぁ、おかしいな」
迪之がうなずくと、汀部がきっとにらんできた。意味は理解しているようだ。
「そのっ、勘違いじゃなければ、七歌さんに対しても……遣うなってことですか?」
「どうしても私と打ち解けるのがいやなら我慢するけど、寂しいわね。えぇ、とっても寂しい。蓮音ちゃんに他人行儀な態度を取られ続けるなんて」
ここぞとばかりに遠い目をする七歌だった。
「分かり、ました」
「ました?」
「七歌さん、分かったので……」
随分と素直に了承したものだ。自分の時と全く態度が異なることに、迪之は少し納得がいかなかった。
「さん付けなの? 蓮音?」
「えっと……七歌ちゃん、ですか?」
「ですか、じゃないけどね」
「七歌ちゃん、だね…………うぅっ、全て、穂積君のせいです」
汀部は弁当袋を強く握りしめていた。もちろん弁当の中身は既にからで、食べ終わっていないのは、ずっと説明をしていた迪之だけだ。
「いや、明らかに汀部をからかってる七歌の方が、たち悪いだろ」
エビフライサンドを手に持ったまま、反論した。黙っておけなかったのだ。
汀部にとって不本意な事態となった原因の一端が自分にあることは認めるが、決して全てではないし、むしろ七歌の揚げ足取りに問題があると思う。いくら揚げ物が好きだからといって、やりすぎだ。
「失礼ね、迪之は。打ち解けた会話をしようと二人で模索しているだけよ。ね、蓮音?」
「は、はい。そうかもしれない、かな?」
その場しのぎの言葉に違いないが、一理あるかもしれない。迪之が揚げ足取りをしたら、ほぼ確実に無視されるだけなのだし、七歌の場合は汀部がしっかり受け答えする以上、実は喜んでいる可能性も……迪之に対する汀部の鋭い視線からすると、考えられない。
「七歌、ほどほどにしておかないと、汀部に噛みつかれても知らないからな」
「わ、私はそんな噛みついたりなんて──」
「蓮音になら、少しくらい噛みつかれてもかまわないわ」
「えっ? えぇっと、七歌さん、じゃなかった七歌ちゃん、お気持ちは嬉しいんですが、困るというか、あたしは猛獣じゃないので、それはちょっと……」
「ふふっ、冗談……でもないけれど、蓮音は猛獣でもきっと可愛いから心配いらないわよ」
七歌をたしなめるつもりが、逆効果になってしまったようだ。七歌の顔にはご機嫌な悪魔の微笑みが浮かぶ一方、汀部は獲物を取り逃がした猛獣のように悲しげな表情になっていた。
「あたしなんかより七歌さんの方がずっと可愛いのに……」
「それって、話の流れ的に考えると、私の方が猛獣っぽいって、いってるよね?」
「い、いえ、そんなことはありません」
「喋り方が戻ってる辺り、怪しいわね」
そんな風に二人の会話が続く中、迪之は黙々とエビフライサンドを食べた。口出しすれば、余計な火の粉が飛んでくるでしょうね、とエルピスに諭されたからだ。
迪之が全て食べ終わる頃には、汀部は七歌の執拗なジャブによってノックダウン状態だった。
「意地悪なのは、穂積だけで十分、ううん、十二分……十五分くらいなのに」
うわごとのように呟かれるのは、なぜかそんな言葉だった。かなり迪之が悪逆非道なことをしたようにも聞こえてしまう。
「七歌みたいに意地悪した覚え、全くないんだが」
「くっ、こんなことになったのは穂積君のせいなのに、いわないでといったのに。いつも優しい七歌ちゃんがおかしくなったのも穂積が、穂積が……くふふっ」
むしろおかしくなっているのは、汀部だった。無気力な笑いが漏れてくるところなど別人と見てもいいくらいだ。
「うんうん、そうよね。迪之は本当にひどい奴よ。私に断りもなく蓮音を家へ連れ込んじゃって。もう本当にそのとろけた脳みそに何が含まれているのか、解剖したいくらい」
七歌が汀部の手を取って、勝手なことをほざいた。
「何を吹き込んでる。汀部がダウンしてるのは、ほぼ丸ごと全部お前のせいだろ。それに、どうしてそんなことで解剖されないといけないんだ?」
「ふぅっ…………迪之は本当に分からないんだよね。えぇ、私はあなたが分かってくれない朴念仁だっていうのを分かってる」
これ見よがしに大きなため息をついてから、七歌は迪之をにらんできた。やたらと意味深な言い方をされたが、どういうことなのか。残念ながら、迪之には全く理解できない。
「絢乃ちゃんにも会ったくせに、一度も連絡してこないんだもの。ほんと分からず屋よ……」
「ちょっと待て。どうして知ってるんだ?」
七歌の呟きには、聞き捨てならない台詞が含まれていた。
「迪之の話を聴いて、私の方でも確認したから」
よく考えれば、現会長である七歌は、一年生の時も生徒会に所属していた。前会長とつながりがあって当然だ。
「なら、帰宅部についても把握してるのか?」
「把握……そうね、私なら絢乃ちゃんの計画を邪魔できたでしょうし、承認ともいえるけど」
迪之が七歌の目をのぞき込むと、視線をそらされた。
「天文部を帰宅部に作り変えるっていうのは、絢乃ちゃんが会長の時から計画していたわ。だから、部の立ち上げは邪魔できなかった。でも、私が会長となった四月以降なら、話は別なの。同好会に格下げすることはできないこともなかったわ」
七歌はおもむろに立ち上がって、仕事机の方へと向かった。
「活動している、つまり自分が帰宅部だと自覚している部員は三人だけだからね。そこを突けば、造作もないこと。でも、私はそうしなかったの。これからも部として認め続けるために、実質的な活動部員を五人まで増やすよう、要求しただけ」
「帰宅部に活動してほしかった。いや、もしかして、俺と汀部を帰宅部で活動させようと考えていたのは──」
「そう、私なの」
机へと寄りかかった状態で、七歌は迪之の視線を受け止めた。
「あっ、だけど、迪之を誘ったのは予定外だった。絢乃ちゃんに頼んだのは、蓮音のことだけ。もし蓮音が参加したら、折を見て、私が迪之を……って余計な話ね」
「どういうことなの? 七歌ちゃん?」
さっきまで心ここにあらずの状態だった汀部が七歌の顔を見つめていた。
「蓮音って、部活どこにも参加しようとしてなかったでしょ? 少しくらい強引に誘われたら、また違うかなって。まっ、そんなこと蓮音が望んでないのは分かってたんだけどね。でも、どうかな? 今でも部活とか、するつもりないの?」
「……ごめんなさい。そんな余裕、作れないので」
真っ直ぐに問いかけてきた七歌へと、頭を深く下げる汀部だった。
「それが蓮音の答えなのね?」
汀部は大きく一度うなずくのみだった。
「ふぅっ、それなら、仕方ないわね」
七歌は自身の左腕を右手で握り締め、微笑んだ。
汀部の意志を受け入れた天使の微笑みか、悪事を思案する悪魔の微笑みか、長い付き合いの迪之にも判別がつかなかった。
放課後、迪之の後ろを汀部がついてきた。
「本当に来るのか?」
「うん、あたしのことだからね」
迪之が絢乃と会うために体育館裏へ向かおうとしたら、汀部も会いたいといってきたのだ。
「七歌ちゃんがあたしのためを考えてくれた結果、絢乃先輩も動いてくれたんでしょ? なら、あたしが直接ちゃんと断らないとダメだと思うの」
汀部の気持ちを絢乃に伝えておこうか、という七歌からの申し出を、彼女は断固として受け入れなかった。その時から、自分で断りにいくと決めていたのだろう。
「律儀なんだな。あいつが勝手に余計な気回しをしただけだろ」
「ううん、七歌ちゃんはとっても優しい人だから。穂積君のせいで意地悪になっちゃったけどね」
教室では昼休み以降も、汀部は相変わらずの丁寧な口調を貫き通したが、迪之と二人だけになると普通の喋り方に変えてくれた。
「そういえば、条件、のんでくれたんだな」
「うーん、まだ迷ってるけど」
七歌のジャブはかなり効き目があったようだ。猛犬がしつけられたみたいに感じてしまう。
「抵抗しても無駄みたいだし、穂積君はともかく七歌ちゃんの希望なら、ね」
こちらを向いた汀部は口をもぞもぞと動かしていた。また、ハッカ飴をなめているのだろう。訊いたところによると、授業中にもなめることがあるらしい。清楚でおしとやかな優等生というのが幻想なのだと迪之は改めて感じた。聖女ミネルヴァと呼ばれる七歌の実例を既に心得た彼にとって驚くことではなかったが。
「受け入れなくても良かったなら、やめちゃおうかな?」
「いや、それはダメだ」
「くふっ、残念、だな」
言葉とは裏腹に、汀部は柔らかく微笑んでいて、坂道を下る歩調もどことなく軽やかだった。
「あれ? 公園?」
昨日の迪之と同じように汀部も体育館裏の有り様に目を丸くした。
「西洋式の庭園だな。噂で聞いたことはあるだろ?」
「うっ……うん。もしかして絢乃先輩って相当怖い?」
「妖女メドゥサ、だからな」
見た目が怖いわけでも、口調が怖いわけでもないが、ある意味で怖い人物なのは確かだ。
ガゼポには少女が一人座っていた。目的の人物ではない。
「織乃さん、こんにちは。読書ですか?」
汀部の質問に織乃は黙ってうなずいた。見ると、読んでいるのはイラスト付きの本、綺麗な飾り付けを施された服が細かく解説されていた。本の分厚さからすると、ファッション誌などではなく、服飾関連の専門書かもしれない。
「織乃、読書の邪魔してすまないが、絢乃さんに会おうと思ってきたんだ。ここにはいないか?」
またしても無言の肯定が返ってきた。事実、迪之が周囲を見回しても、織乃以外には誰も見当たらなかった。
「穂積君、織乃さんと絢乃さんって、もしかして姉妹ですか?」
「あぁ、そういえば話してなかったな。織乃は絢乃さんの妹で、帰宅部の部員だ」
「やはり、そうでしたか」
汀部に驚いた様子は全くなかった。織乃がきっかけとなって、迪之は汀部を帰宅部へ誘うに至ったのだが、そこまではきっと気付いてないだろう。
「話、聴く」
織乃が本をたたみ、ガゼポに置かれた椅子へ座るよう視線で示した。迪之と汀部が来るのを予期していたかのように、用意された椅子は二脚のみだった。
汀部と目配せで相談した結果、黙って立ち尽くしているのもなんなので、座ることにした。
「そう」
迪之が汀部を帰宅部へ誘ったら断られたこと、汀部はどこの部活にも参加する気がないこと、を聴いて、ただ一言だけ織乃がこぼした言葉だ。
「俺も活動へ参加するかは保留にしたい」
「なぜ?」
「部活は参加したくて、参加するものだからだ」
テーブルの上へと視線を送る。そこには昨日と同じくアネモネが花瓶に飾られていた。
「花瓶のことは申し訳なかったが、それで参加するというのもおかしな話だ」
汀部のこととは関係なく、迪之が出した結論だった。謝罪のための償いで部活に入るなんて、何よりも織乃に対して失礼だと感じたのだ。
「分かった」
素っ気ない返事だった。残念に感じてしまうほど、織乃の表情は全く変わらなかった。
「いいのか?」
無言のうなずきが返ってくる。
「花瓶、大事なものじゃなかったのか?」
「大事。直した。大丈夫」
花瓶が割れた時に「大丈夫」といったのは、つなぎ合わせて直す、という意味だったようだ。
「そう、か。いずれ何か別の形で、きっと埋め合わせする」
織乃は相変わらずの無表情で一度うなずいて、顔を背けた。背けたように見えたが、何かを見つめているようだ。
「人影、消えた」
誰かがいたみたいだが、気付かなかった。汀部に視線で尋ねても、首を振るだけだ。
そういえば、と迪之は七歌の囁きを思い出した。昼を終えて教室へ戻る前のことだ。汀部が部屋から出た後、七歌が迪之の袖を引いて耳元で囁いてきた。
「蓮音ちゃんには内緒にしてるんだけど、ここ数日、彼女の周りに不審な人影が現れてるみたい。見当はついてるし、大丈夫だとは思うけど、もし何かあったら、力になってあげてね」
なんでそんなことを知っているのかとか、気になることはあったが、七歌に部屋を出ていくよう背中を押され、訊けなかった。
いずれにしても、見当がついた上で大丈夫だと、あの七歌がいっていたのだ。それほど気にしなくてもいいだろう。
その後、絢乃を待ち続けたが一時間近くたっても来ることはなかった。
「帰っていい。絢乃にも伝える」
織乃に待ち疲れているのを見破られたようだ。
「あぁ、ありがと。汀部、そうしよう。また次の機会もあるだろ?」
「それはそうですが……あっ、特売が。はい、分かりました。織乃さん、お願いしますね」
納得いかない様子ではあったが、携帯で時間を確認すると、汀部は帰るのに同意した。
早速、庭園を出ようと立ち上がったのだが、
「背負った青鈍、きつくない?」
織乃が汀部の腕を握り締め、唐突な質問を浴びせた。迪之もよく似た言葉を、若緑がどうとか、前に告げられた記憶がある。
「…………なんのことか分かりませんが、私は平気、ですよ?」
「そう」
織乃には珍しく目を伏せたような気がした。見間違いかもしれないし、わずかな変化だった。
続いて、迪之の腕を握って、目を見つめてきた。織乃は何も喋らなかったが、妙に訴えかけてくるものがあった。
やがて腕を放した織乃は、迪之たちへの興味を失ったように、読書を再開した。
──彼女には何か見えるのかもしれないわね。
迪之にエルピスの声が聞こえるように、織乃には何か見えるのか。いや、でも、表現が特殊なだけで、汀部が何か重いものを背負っていることは、迪之もかなり前から気付いていた。それほど、気にすることでもないように思う。
「汀部、一緒に帰るか?」
校門を出たところで尋ねた。帰り道は同じだし、二人とも徒歩だ。
「うん、買い物に寄るけどいい?」
「あぁ、いいよ」
汀部は柔らかな微笑みを浮かべていた。それは昨日まで学校で見てきたものとほとんど変わらないだろう。それでも、迪之には大きな変化があったように感じられた。
本当に変化があるのか、汀部自身も分からないだろうし、迪之の勘違いかもしれない。だけど、と思ってしまうのは、やはり汀部の表情が自然なものに見えるからだろう。
迪之は麗らかな陽気を吸い込み、空を見上げた。
まだ青く澄み渡っていて、赤みはさしていない。暗くなる頃には家へ帰れそうだ。
2014.7.14 改行修正