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 2


 午後五時前、まだ空が青く澄み渡っている頃、()(づる)駅には学校帰りの生徒や出先帰りの会社員などがホームに散らばっていた。それらの人々を流し見てから、隼人(はやと)は再びホーム中央のベンチへと深く座り込んだ。


 ネットの掲示板には、この駅で白狐面を被った巫女の目撃情報がいくつかあった。不審人物には違いないが、彼が興味を持った理由は不審だからというわけではなかった。

 怪獣の格好をした何者かだったなら、誰かのコスプレに違いないと一刀両断して相手にしなかっただろう。もちろん、何かしら被害が出ていたのなら別だが。と、話が逸れた。とにかく彼が気に食わない匂いを感じ取ったのは、不審だからではなく、白狐面を被っていたからである。


 駅に電車が到着した。隼人はおもむろに立ち上がって、白狐面の巫女が見当たらないか確認する。

 いなかった。

 少なくとも降りてきた人物に目的の相手はいなかった。

 今日は空振りなのだろうか、と隼人は思った。

 こんなことなら、迪之(みちゆき)の方を見張っておけば良かったか。おそらく迪之は東雲織乃(しののめしきの)、そして絢乃(あやの)に目をつけられている。どういう目的があるのか、いずれにしても甘い蜜の香りが充満している。それに、斜奏七歌(ななかなななか)の呼び出し……あれは一体なんだったのか。

 帰り際、迪之に探りを入れてみたが、何も教えようとはせずに、笑ってごまかされた。あの仏頂面が崩れるなんて、何かあったとしか思えない。


 ──何をしようとしてる、斜奏。


 夜闇よりもまだ深い漆黒を頭の後ろで束ねた少女。

 隼人にとって、彼女は聖女という異名には程遠く──いや、聖女という異名を持つからこそ、うさん臭かった。


 彼女が聖女と呼ばれているのは、何かをしたからというより、何もしていないからだ。

 あまりに前会長である絢乃の言動が突飛なものだったため、その反動として普通のことをなすだけでも理に適った素晴らしいものに錯覚してしまう。その効果を意識的に彼女は利用している。

 それは彼女自身の聡明さがなせるわざなのだが、寄せられた信頼が盲信に変わりつつある点で、妖女よりもたちが悪い。しかも、未確認ではあるが、裏でこそこそ何かをおこなっているようだ。


 隼人が今この場所にいるのも、そのことと関係している。というのも、斜奏七歌は斜架(ななか)神社の後継者なのだ。

 斜架神社の神事に携わる者は、俗世の(けが)れから身を離すため、などの理由で白狐面を被ることがあるらしい。ならば、駅で目撃された白狐面の巫女が、斜架神社の人間である可能性は低くない。

 しかも、眉唾ではあるが、表向き郊外にある一般的な神社である斜架神社が実際には全国各地に広がる神道(しんとう)一派(いっぱ)の一大拠点だ、という情報も得ている。


 いずれにしても、白狐面の巫女を追えば、斜奏が何をしているのか、あるいはしようとしているのか、手がかりを得られるかもしれない。根拠のない勘だったが、隼人は自分の勘を信じている。


 また新たな電車が到着した。隼人はすぐさま降りてくる乗客を確認し始めた。


 ──いた、()(ばかま)を着た巫女。


 白狐面は、見えない。

 顔が被り笠(おそらくは市女(いちめ)(がさ)だ)とそこから()らされた薄い布によって隠されているのだ。近付けば分かるだろうが、相手に気付かれてしまうだろう。

 巫女は慣れた調子で階段を降りていく。どうやら連結した地下鉄へと乗り換えるようだ。

 迷うことなく隼人は距離を置いて尾行することにした。



 やがて到着した場所は、隼人も何度か訪れたことのある神社だった。近くに迪之の家、そして斜奏の祖母の住んでいた家がある。確か名前は、愛山神社。あいざんか、まなやまか、読み方は分からない。


 巫女は神社に着くと、社殿の裏から竹ぼうきを持ち出して、掃き掃除を始めた。まるで、それが目的だというように。

 しかし、隼人が木の裏に隠れて観察していると、すぐに分かることがあった。巫女は何度も神社の外、通りの方を見ている。

 何かを待っているようだな。もう少し近くまでいってみよう、と隼人は考えた。巫女が背を向けた瞬間を狙って、より近くの木へと移る。


 やがて空が茜色に染まり始めた。

 かなり近くまで寄れたが、まだ顔を確認することはできていない。隼人が再び移動しようとした時、竹ぼうきを動かす巫女の手が急に止まった。

 見つかったか、と思ったが違う。何かを見つめているのだ。

 巫女の視線を追った。しかし、今いる位置からは木が邪魔になって見えなかった。


 ──もう少し出れば、見えるか。


 身を乗り出して、巫女が何を見ているのか確認する。通りを歩く少女が目に入った。

 見覚えのある少女だ。誰だっただろうか、と少女に気を取られていた一瞬、巫女が不意にこちらを振り返った。


 隼人を見つめる夕陽に赤く染まった狐の面。


 まずい、と思った。慌てて隠れたが、きっと見つかったなと直感した。

 足音がこちらに近付いてくる。どうやってごまかすべきだろうか。いっそのこと、ごまかさずに問いただすのが良いだろうか。隼人がそんなことを考えていると、巫女は隼人の傍を通り抜けて社殿の裏へ向かった。そして、再び隼人の傍を通り抜けると、そのまま神社をあとにした。


 見つからなかった、ということかもしれない。しかし、今日はこれ以上に追うべきではないだろう。そう判断した隼人は息をひそめたまま、巫女が見つめていた少女のことを思い返した。


 ──あれは、汀部(みぎわべ)蓮音(はすね)だったな。



 3



 放課後、迪之(みちゆき)東雲(しののめ)絢乃(あやの)にいわれた通り、体育館裏へ向かっていた。


 自転車を取り戻さなければ、と思ったからだ。

 昨日、絢乃と別れてから徒歩で家へと帰り、今朝、家から徒歩で学校へ来た。片道で一時間まではかからなくとも、自転車の倍はかかった。地下鉄やバスを使っても遠回りとなって結果は同じだ。大雨の日だけならともかく、これが毎日続くとなると、起きる時間から変えねばならないだろう。


 とにかく逃げても意味がない。迪之は気合を入れるようにこぶしを握った。

 体育館裏といえば、一般的にひと気のない場所の別称で決闘などに使われるイメージがある。だが、傾斜した土地に建造された明菊高校の場合は違う。体育館裏が表よりも三メートルほど低くなるよう設計され、体育館の下に裏からのみ入れる小部屋がいくつか作られたのだ。そして、それらの小部屋は部活動室として利用された。そのため、明菊高校の体育館裏は人のいきかう広場となった。


 しかし、体育館横の坂をくだった迪之の前には、彼の記憶と似ても似つかない広場、もとい、庭園が広がっていた。和風ではなく、洋風で、芝生が敷かれて所々に野花や樹木が植えられていた。さすがに噴水などは見当たらないが、屋根つきの休憩所であるガゼポ(日本でいう東屋(あずまや)だろうか)があった。


穂積(ほづみ)さん、どうぞこちらに」


 出迎えてくれたのは、エプロンドレスの少女。大きな目とあどけなさの残った顔つきが印象的で、これぞ可憐の具現だよな、と思ってしまう(はかな)い雰囲気を迪之は感じた。


「穂積君、いらっしゃい。待ってたわよ。こっちに座って」


 絢乃はガゼポの中で優雅にお茶を楽しんでいた。今日も黒いドレスワンピース姿だ。彼女にとっての制服なのかもしれない。昨日に見た覚えはないが、胸元には月をモチーフにしたと思われる銀細工のペンダントが光り、服の刺繍と調和している。


「どうして庭園なんてあるんですか?」

 やはりどう思い返しても、迪之が入学した頃には、ここは殺風景な広場だったはずだ。それがこの一年で、彼の知らないうちに何が起こったのか。


 まさか、メドゥサの伝説通りってことは──


「私が造らせたからに決まってるじゃない」


 あったようだ、と迪之は自分でも意外なほどにあっさり伝説の一つが真実であることを受け止めた。もはや絢乃の表情が全く変わらなかったことにすら、驚けない。


「アイハ、二人にしてもらっていいかしら? あと、あれをお願いね」

 先ほどの少女、アイハは、赤い花鳥(かちょう)の髪飾りを舞わせて深くお辞儀し、去っていった。と、見送っている場合じゃないことに、気付くのが遅れた。


「俺は自転車を受け取りに来ただけ──」

「お話、しましょうよ。お茶をいれて差しあげるわ」


 迪之の言葉を(さえぎ)り、絢乃が柔らかな口調で誘ってきた。薄紫の花が飾られた石造りの白テーブルには、絢乃とは別にもう一人分お茶会の用意がなされていた。


「ほら、座って、ね?」


 どこからか運んできたと思われるアンティーク調の椅子(布部分が白に花模様だ)へ座るように促された。微笑んでこそいるが、拒否したら大変なことになると絢乃の瞳が語っている。


 五分後、おとなしく迪之は紅茶をすすっていた。鼻孔をくすぐる甘くかぐわしい香りと、ほろ苦い風味がほどよく混ざる。


「うん、おいしい」


 思わず口にした言葉に、はっとした。


「くすっ、お湯の温度と蒸らし時間が大切なのよ。スコーンもいかが?」

 絢乃は目を細くし、迪之の前にスコーンの載った皿を置いた。

 軽くうなずき、かじってみる。紅茶のほろ苦さに合う甘さで、口の中の水分を適度に奪っていく。


「気に入ってくれたようね」

 黙って目で肯定した。嘘をつく理由などない。

 それから、紅茶とスコーンの話が始まった。最初は言葉かずの少なかった迪之も、次第に口を開くようになり、しまいには好みのお菓子について語り合っていた。


「穂積君、草花(くさばな)に囲まれて誰かと一緒にこうしているのって、どうして楽しいのかしら?」


 話がひと段落したところで、唐突にそんな質問を投げかけられた。意図が分からなかった。そのため首を振ったのだが、絢乃は同じように首を振ってから、再び視線を合わせてくる。

 どうしても答えさせる気のようだ。


「気分転換になる、から?」

「えぇ、それも一つの答えだと思うわ。人によって、違う答えが出てくるんじゃないかしら」


 そこで一度、言葉を区切って絢乃は紅茶を口にした。その表情は緩やかに笑みを結び、(なご)やかな雰囲気をかもし出していた。


「私は、五感を刺激するからだと思っているの」


 絢乃はゆっくりとティーカップのふちを指でなぞってみせる。


「例えばね、紅茶は香りと風味、色に舌触りに温度。草花は匂いと色彩、そよぐ草葉(くさば)に花の蜜」


 紅茶と庭園を目配せで示していた絢乃の瞳は、迪之を捉えて止まった。


「あなたは言葉と表情、(ぬく)もりに息遣い、とかね。お茶を楽しみ、草花を()で、あなたと話す。これで五感が刺激されない方がおかしいわ」


 知らず首をたてに振っていた。絢乃が目を伏せ、言葉を続ける。


「日本でも西洋でも自然を人為的に取り込んで食事の場に添える。食事中に喋るな、っていう日本古来の美徳は西洋文化に合わないけれど……でも、誰かが一緒にいるのなら、黙っていても互いに刺激を受け合って、楽しいものよね」

 呟くような口調とは裏腹に、迪之に訴えかけてくるものがあった。


「いくら些細なことでも、たとえ認識していなくても」


 一瞬の間を置いて、視線を向けてくる。


「人は無意識に感じ取っている」


 絢乃の瞳に(ひそ)やかな光が生まれた。声音には赤い色が重なった。


「だから、一人というのはやはり孤独で寂しくて、一緒にいるというのは(わずら)わしくても楽しくて……ねぇ、穂積君、分かるかしら?」


 そこで絢乃は押し黙った。


 話が分かるか、という問い。それに迪之はうなずいた。うなずかずにいられなかった。普段の彼なら、絢乃への警戒を崩していなかったなら、こんなにも素直に肯定しなかっただろう。


「あのね……私、あなたにお願いがあるの」

「なんでしょう?」


 蛇がその口を静かに開いた。しかし、迪之は気付けなかった。


「孤独を大事に抱え、寂しさを日々の安らぎにしている。そんな痛みを癒してあげてほしいの」


 妙にぼやかした言い方だった。何かを伝えているようで、何も伝えていない。


「意味が、よく分かりません」

「それでいいわ」


 深くうなずかれただけだった。本当にいいのか、と思ったが、反論する前に話が新たな方向へ向かった。


「私ね、実は部長をしているの。帰宅部っていう部活よ」

 帰宅部というのは、今の自分のような状況、どこの部活にも入っていないことを揶揄(やゆ)した言葉じゃないだろうか。


「そんな不思議そうな顔しないでくれるかしら。穂積君、あなたも部員なのよ?」

「えっ、俺は部活なんて入ってない。いや、確かに帰宅部だが、意味が違います」


 焦ることなんてどこにもないはずだ。なのに、なぜか迪之は自分の記憶に不安を感じた。


「そうね、あなたは確かに入部届けを出していない。でも、この学校には新入生は必ずどこかの部活に入らなければならないっていう暗黙のルールがあるの。ちなみにこれは私が決めたルールじゃないわ」

 それは聞いたことがあった。しかし、出さずに済んでしまったため、ないに等しいルールだと思っていた。


「去年も新入生は全員が部活に入ったの」


 しかし、ちゃんと存在していたのだ。絢乃の断言する様を見て、迪之は目の前にいるのが妖女メドゥサであることを思い出した。


「あっ、だけど、去年あなたが入っていたのは天文部であって、帰宅部じゃないわ。帰宅部はこの四月からできた部活で、代わりに天文部をなくしたのよ。私が部長だったし、活動してくれる子もいなかったからね」

「天文部に入りたい人もいたんじゃ……」


「いたわね、二人。織乃(しきの)とアイハよ」


 無口な織乃と、可憐な少女を思い浮かべた。あの二人はそれで良かったのだろうか。織乃の思考は全く読めないが、アイハに不満そうな様子はなかった。


「どんな活動を?」

「お茶会を開いたり、散歩をしたり、空を眺めたり、お買い物に出かけたり、おいしいものを食べたり、部屋でくつろいだり、かるたで勝負したり、創作にいそしんだり、映画を観たり、カラオケ……は織乃が反対してさせてもらえなかったけど」

 指折りで次々に列挙された内容の多くは、間違いなく本来の意味での帰宅部のものだった。


「ねっ、あなたも参加したくならないかしら?」

「ならないです」

「そう……でも、穂積君と汀部(みぎわべ)さんにも帰宅部の活動に参加してほしいのよ。ううん、参加してもらうことに決めたの、私のお願いを叶えてもらうために」


 蛇の瞳が真っ直ぐに迪之を見た。絢乃のお願い、孤独や寂しさの痛みを癒してほしい……だっただろうか。話の方向が変わったと感じていたが、どうやら勘違いだった。


「俺や汀部さんの参加が、どうしてお願いにつながっていくんでしょう?」

 ここで汀部の名前が出てきた理由も気になったが、そんなことを訊けば、絢乃のペースにはまってしまう予感がした。


「誰かが一緒にいるのは、良い刺激になるからかしら? 私にはできないことが、あなたたちにはできると思うの」


 何かを期待されているようだが、何を期待されているのかが全く分からない。もしかしたら、具体的なことは、絢乃自身も思い描けていないのではないだろうか。


「いずれにしても勝手に決めたとか、認めま──」

「あなたは、私のお願いが何か尋ねたわ。あれは叶えてくれる気があったということでしょう?」


 さっきまでと同じ微笑みのはずなのに、ひどく冷然とした表情に見えた。それでも屈するわけにはいかない。真正面から向かうべきだ。


「もし俺に誰かの痛みを癒せるなら……そうしたいとは思います。でも、何を犠牲にしてもいいとは思わないし、俺に何ができるとも思えません」


 迪之は人を助けることが嫌いなわけではない。ただ、本当に人を助けることなんて、少なくとも自分にはできないと思っているだけだ。迪之が感じたところだと、絢乃の願いは表面的な手助けや見せかけの偽善では状況を悪化させる可能性が高い。


「織乃の目は、やはり本物を見抜くのかしら。えぇ、私はそんなあなたを信じるわ」


 見つめてくるのは獲物を狙う蛇の瞳。しかし、迪之の考えは変わらない。


「いくら信じてもらっても、答えは変わりません」

「活動に参加するだけなのよ? 特別なことをしてほしいとはいってないわ」

「それでも、強要されるのは好きじゃないので」

 自分の好きなようになんでもしたいというわけではないが、部活動などは参加したいという気持ちが自分自身になければ参加する意味なんてないと思うのだ。


「一度、参加してみてから考えるのはどうかしら? 穂積君が思っているよりも楽しいかもしれないわ」

「いえ、たった一度だけでも、断るのはかなり難しくなります」


 相手はメドゥサの異名を持つのだ。用心に越したことはない。実際、椅子へ座らされた時点で、この場から逃れるのはひどく気が引けるものになった。


「穂積君なら、問題ないんじゃないかしら? といっても無駄のようね。あなたの意思は分かったわ。でも、ごめんなさいね。私も(あきら)めるつもりはないの。心変わりさせてみせましょう。あなただからこそ、きっと断れなくなるわ」


 絡み付くような視線にぞくりと背筋を悪寒が走り抜けた。この妖女はどうやって自分を説得するつもりなのか。


「自転車の修理代の代わりに、なんて聞き入れてくれそうにないわね。じゃあ、これしかないかしら」


 絢乃はテーブルに飾られた薄紫の花を目で示した。


「この花が何か?」

「アネモネじゃなくて、花瓶の方。よく見てごらんなさい」


 鮮やかな色のガラスで作られていた。いわれた通りに近付いて眺めると、深い亀裂がいくつも走っている。


「昨日、割れてしまったの」


 意味するところは語られるまでもなく分かった。昨日、この花瓶は白い紙袋の中に入っていたのだ。


「あれは織乃が飛び出して……いや、でも、それとこれとでは話が違うはず」

「そうかもしれないわね。どうせ、あなたに弁償できるような代物(しろもの)ではないのだし」


 そんなにも高価なものなのだろうか。安っぽいわけではないが、物凄く高そうにも見えない。自分の目の前にあるティーカップの方がよほど高そうなくらいだ。と、つい値踏みしてしまってから、迪之はふと気付いた。


 織乃は大丈夫だといっていたが、この花瓶はぴしっと花瓶の形をしているのだ。一目見て、割れたものだと気付けないほどに。


「……俺が帰宅部に参加するのって、織乃の望みも含んでますか?」

「えぇ、織乃はあなたを気に入ったようだし、望みかはともかく、喜ぶと思うわ。だけど、私は穂積君と汀部さんに参加してほしいの。だから、お願いよ。穂積君が汀部さんを連れてきてくれないかしら?」


 自分が活動に参加する素振りを見せた途端に新たな要求を出してきた、と迪之は思った。しかし、もっと気になることがあった。


「どうして汀部さんなんですか?」

「彼女もあなたと同じ帰宅部の部員だからよ。それ以外に理由が必要かしら?」

 微笑みを崩さない少女の面影が頭に浮かんだ。どこか無理しているように感じるのは、なぜなのか。


「いえ、それだけではないはずです。でも、汀部本人が望んで誰とも打ち解けていない気がします」

「どう受け取ってくれてもかまわないけれど、あなたも認めてくれたじゃないの。やはり一人は孤独で寂しいと」


 絢乃は指をなめるかのように彼女の唇へ当てた。


「どうして俺のことを信じようって?」


 気になっていたが、あえて訊かなかったことだ。きっと訊いたら取り込まれると思ったからだ。でも、どうせ取り込まれてしまうのだ。


「穂積君は過信やおごりを自覚できるからよ。だからこそ、今回のことを頼めるの」


 どこまで本気かは分からないが、絢乃の怖いところは軽い口調で発せられた言葉にも重みがあることだ。


「俺はそんな期待されるような奴じゃありません。でも、仕方ないです。結果は保証しませんし、まだ俺も参加すると決めたわけじゃありませんからね」

 誘うだけは誘ってみようと思った。

 汀部のことは以前から気になっていたのだ。好きとか嫌いとかではなく、もっと別の何かが迪之の琴線(きんせん)にふれていた。


「ありがとう。あなたなら、分かってくれると思っていたわ。近いうちに、そうね、週末がいいかしら。都合がついたら、また一緒にお茶しましょうね。約束よ?」


 絢乃が小指を立て、指切りを求めてきた。ここで指切りをしたら、もう後には引けなくなってしまうだろう。しかし、これで何かを変えられるのなら、変えてみるのもいいかもしれない。



 妖女から解放された夕暮れ時、カラスが鳴いていた。


 ──何を難しそうな顔してるの、迪之?


 駐輪場へいくと、新品にしか見えない迪之の自転車があった。絢乃の指示でアイハがここに移動してくれたらしい。名前がドングリのイラスト付きで書かれてなければ、自分のものだと信じられないほど、ピカピカに磨かれ、おそらくほとんどの部品が交換されている。


「はぁ……なんか大変なことに巻き込まれた気がする」

 引き受けてしまったからには、汀部を誘うしかないのだが、どうしてこんなことになっているのかと感じたのだ。今更ながら、数日前までの退屈な日々がなぜか愛おしく感じられてしまう。


 ──いいじゃないの。面白そうよ。


 家に帰って出直すのは面倒だったので、そのまま買い物へいくことにした。学校の近くには迪之もよく利用する大型のショッピングセンターがあったが、向かったのは家の近くの食料品店だ。その店の商品はやや割高なのだが、加工品や惣菜(そうざい)の質が高いのだ。乳製品、特にバターとチーズはその店で選ぶことが多かった。


 しゃがんでいる少女を見つけたのは、食料品店近くの道ばただった。


「もしかして汀部さん?」


 白のブラウスに青のジーンズ姿の少女はびくっとして背筋を伸ばした。迪之が向かっていた食料品店の買い物袋を抱えていることからすると、買い物帰りのようだ。


「ほ、穂積くぅん、です、か?」


 なんだか居眠りしているところを、先生に運悪く見つかった生徒みたいだ。気付かないふりをして通り過ぎてあげるのが正解だったかもしれない。しかし、帰宅部の件がある以上、絶好の機会を逃す手はなかった。


「こんばんは。奇遇ですね」


 口調は変わらないのに、普段とほんの少し何かが違う。普段と違うといえば、制服を着ていないだけでも迪之にとって目新しいことなのだが、汀部は眼鏡をかけていた。全く印象にはなかったのだが、割りと似合っている。


「あぁ、そうだね。汀部さんは何をしていたの?」

「猫、を見てました」


 汀部がしゃがんだまま指をさした。その方向に広がる草むらには、数匹の猫がいた。背の低い木の陰で、固まって寝そべっている。おそらくはノラ猫だろう。


「汀部さん、猫が好きなの?」

「そうですね。どちらかというと犬派なのですが、猫もそれなりに好きです」

「だよな、可愛いもんな」


 汀部が猫を見つめる表情は、学校で見るようなものとは違って、子供の成長を見守る母親に近かった。

 穏やかで、嬉しそうで、どこか切なくて。


「です、ね。とても、可愛いです」

「もしかして、(あめ)でもなめてる?」

 汀部の顔を見ていて気付いたが、やたらと口をもぞもぞ動かしていたのだ。


「あっ、はい。ばれてしまいましたか。ハッカ飴です」

 猫への興味を失ったのか、ゆっくりと立ち上がりながら汀部は答えた。


「ハッカ飴って、おいしいのか?」


 迪之の方を向いた汀部は、いつもの微笑みを浮かべた。その目は深い湖の底に沈んでいる。


「うーん、特においしくはないですね。でも、よくなめます。すっきりしますから」


 ハッカ飴は独特の清涼感があった気がする。いわゆるスッとするっていう奴だ。


「すっきり、か。汀部さんってストレスたまることとかある?」

「どうでしょう……あっても気にしないようにしてますかね。どうしても我慢できない時にはハッカ飴です」

 汀部は髪を軽く手ですきながら答えた。


「気にしないように、うん、俺もそんな感じだな。ところで、汀部さんは誰か学校に頼れる人とかいる?」

「えっと、一応います。もう随分とお世話になっているので、あまり頼りすぎるわけにはいきませんが……どうしてです?」

 逆に訊き返されてしまった。立ち入った質問をしすぎたかもしれない。


「あぁ、その、転校してきて日が浅いし、まだ色々と分からないこともあるかも、って思ったんだ。汀部さんって学校にあまり馴染めてないような印象もあって」

「そうですか……そうですね。でも、平気なので心配なさらないでください。ありがとうございます」


 口の中で、ころころと飴を転がしているのが見て取れた。


「いや、お礼をいわれるようなことは何も……」


 慇懃無礼(いんぎんぶれい)とは違うのだが、丁寧な口調で返されるのみで、迪之の思う方向に話を全く持っていけていない。それにこれはなんだか自分が汀部を口説いているようで、妙にそわそわしてしまう。隼人みたいな図太い神経をうらやましく感じる。


「あの、私、そろそろ……」

「あっ、と、ちょっと待って。汀部さんって、部活とか興味ない?」

「ないです」

「あー、そう……」


 一瞬のことだった。立ち去ろうとする汀部を呼び止めて、本題を持ち出そうとしたが、その前段階で玉砕した。


「その、私には部活する余裕なんて持てないので──」

「ママ、何やってるの?」


 ツインテールの女の子が汀部の後ろに立っていた。まさか迪之ではないだろうし、声をかけたのは明らかに汀部だ。


「セッカ……あぁっ、終わったのね。それじゃあ帰ろうか。穂積君、失礼しますね。えっと、さようなら」

「あぁ、また明日、学校で」


 汀部の手を引いていく女の子は織乃と同じくらいの身長だった。おそらくは十歳前後だろう。織乃のようなのもいるし、自信はないが。


「っていうか、ママってどういうことなんだ?」


 去っていく二人の後ろ姿が見えなくなった時、迪之はそう呟いた。

 もし、汀部がさっきの子の母親とすれば、どういうことになるのか。考えようとして、やめた。ありえない。ありえないが、万が一としたら汀部はいくつかでは済まないくらいに年上ということになるのか。高校は義務教育ではないし、何歳になっても入学しようと思えばできたと思う。でも、同年代にしか見えないことの説明にはならない。実は妖怪で人間の姿に化けるような魔法をかけているとか……ないな。それなら、すごく若く見える特異体質などの方がまだ納得、できないが、結局どういうことだろうか。


 ──落ち着きなさいよ。迪之に女の(とし)を見抜く目がないか、複雑な家庭事情か、でしょ?

 混乱する様子を見かねたように、冷静な声が告げた。


「汀部は少なくともあんな子供のいる年齢じゃない。そこまで俺の目は腐ってない、はずだ。それに、もし家の事情にしたって、どうしてママと呼ぶんだ? おかしいだろ、エル」

 ──おかしいと思うなら、本人に訊くことね。それよりも他に気付かない?


 他に、と考えて、何か聞き覚えのある単語を汀部が口にしたのを思い出した。


 ──セッカ。

 そう、セッカだ。いつも朝の目覚まし時計で呼ばれる名前の一つ。ということは、穂積家の裏へ引っ越してきたのは、汀部だったのか。そういえば、汀部は一ヶ月前の四月に転校してきたのだ。時期も合う。


「本当なのか?」


 あの母親の怒鳴り声が汀部の声……口調も印象もあまりに違いすぎる。正直、信じられない。いや、母親が別にいるのかもしれない。いやいや、セッカという女の子は汀部をママと呼んでいた。いやいやいや、そもそも裏の家に汀部が住んでいると決まったわけじゃない。


 ──昔、あの家は誰が住んでいた?

 泥沼へはまっていく思考に差し出されたのはエルピスの囁きだった。


 穂積家の裏に住んでいたのは、斜奏(ななかな)末那(まな)七歌(ななか)の祖母だ。彼女が亡くなってからは、ずっと誰も住んでいなかった。時々、七歌が掃除にやってきているのは知っていたが。


「そうか。だから、七歌は汀部のことを気にしてたのか」


 七歌が掃除していたということは、あの家は斜奏家が相続して、ずっと所有していたということだ。その家へ移り住んだ人物となれば、斜奏家とのつながりがあるに決まっている。七歌とも面識があって当然だ。


「それでも、やっぱりママっていうのは分からないな」


 辺りは薄暗くなり、東の空から満月がのぼってきていた。

 全ては満月の魅せた幻だったとか、そんな落ちではないよな、と迪之は思った。



 *



雪花(せっか)、歯、どうだった?」

「大丈夫だったよ? でも、二週間後、また来るようにいわれちゃったかなぁ」


 蓮音(はすね)の手を引いていた雪花が振り返って、口を大きくあけた。


「暗くて見えない、かな。あとで、また見せて」

 とはいったものの、明るいところで確認しても、蓮音には大丈夫かどうかなんて全く分からないだろう。雪花が歯の痛みを訴えるまで、気付けなかったのだし。


 ──やっぱり、次はついていって、先生の話、聴くことにしよう。


 今日は雪花が一人でいくと言い張ったため、一緒に帰る約束をして歯医者の近くで見送った。でも、終わるのを待つあいだ、買い物をしていても、猫を眺めていても、気持ちが落ち着かなかった。ちゃんと治療を受けられているかとか、先生を困らせていないかとか、雪花なら問題ないと思いつつも心配だった。治療の経過だって、しっかりと知りたい。

 最近、雪花は一人でできると、蓮音の手助けや付き添いを(こば)むことが増えたが、こればっかりは雪花のママとして付き添わねばなるまい。


「ママ、そういえば、さっきの人は誰?」


 雪花が興味津々の声で尋ねてきた。


「クラスメイトの穂積君よ」

「そうなんだ……うーん、何を話してたの?」


 迷った素振りを見せたが、訊かずにはいられなかったようだ。蓮音が普段ほとんど学校のことを喋らないためかもしれない。


「猫のこととか、かな? 待ってるあいだに見かけてね。雪花が前にいってた子たちかもしれない」

「えっ、本当? 教えてくれれば、良かったのにー。今から見にいこうよぉ」

「今日はもう暗いから、また今度ね」


 頬を膨らませた雪花の頭を撫でてやる。辺りが暗いのは事実だが、たとえ明るくても戻りたくないと蓮音は感じていた。


 ──穂積君と会ったら、気まずいもん。


 部活に誘おうとしてくれたみたいだけど、断ってしまったのだ。そんな余裕がないのは本当だし、どうしようもないことだけど、ためらいも見せずに断ってしまった。もう少し言い方があったのではないかと、蓮音は反省していた。


 ──ううん、これでいいの。雪花と柚樹(ゆずき)、あとは七歌さんがいてくれるだけで十分。


 引っ越してきてからというもの、ずっと蓮音は斜奏(ななかな)七歌(ななか)に手助けをしてもらっている。

 住む家も、通う学校も、七歌が手配してくれた。

 本当はクラスだって蓮音が断らなければ、七歌と同じクラスになるはずだった。その方が蓮音にとって楽なのは分かり切っていたが、ただでさえ相当お世話になっているのにクラスの中でまで、という蓮音の気持ちがそれを許さなかった。そんな気持ちを七歌もくみ取ってくれたらしく、あまり深く立ち入らないように気遣ってくれているようだ。

 実はそうした気遣いをさせることすら、蓮音を申し訳ない気持ちにさせていた。しかし、そんなことまで言い始めたら引っ越してきたこと自体を否定せねばならない。だが、それだけは絶対にしたくなかった。

 なぜなら、蓮音は今の生活に満足していて、全面的に肯定している。少なくとも彼女自身は肯定しているつもりだった。


 ──だから、あたしは誰の手助けも望まない。


 それが蓮音の答えだ。理由は他にもあったが、むしろ他の理由の方が大きいかもしれないが、必要な手助けは七歌から過剰なほど受けている。他にはいらない。蓮音はそう考え込むようにしていた。そんな彼女にとっては、穂積の心配も不要なのだった。


 ──でも、どうしてかな?

 なぜだか穂積は蓮音のことを気にかけているようだ。


 例えば、彼女の転入初日。

 その日は新学年になって初めての始業日だった。新たな環境に馴染もうとするのはクラスの全員だったし、始業式が終わったあとの自己紹介まで彼女が転入生だと皆が知ることはなかったはずだ。

 彼女は当然のことながら、一人ぼっちで所在無げにしていた。特に辛かったわけでもなく、平気だったのだが、自分が周りから浮いているという感覚は気持ちの良いものではなかった。そんな時、穂積が「どうかしたのか」と尋ねてきた。クラスの中で最初に話しかけてきたのは、彼だった。

 そのあと鷲鷹(すだか)がやってきて、すぐに転入生というのが知れ渡り、他の人も集まってきた。そして、口にしたくもない転入前の話を根掘り葉掘り尋問された。それらの尋問を適当に受け流した頃には、いつの間にか穂積はいなかった。

 おかげで蓮音はクラスに話しかけられる相手ができた。しかし、ありがた迷惑だった。


 それからも穂積は蓮音が一人でいると、声をかけてくれることが度々あったような気がする。よほどのお節介なのかとも思ったのだが、どうやら違った。蓮音以外のクラスメイトが一人でいても話しかけないことが多いし、そもそも彼自身が一人でいることだって多い。

 それなのに、どうして自分だけを気にかけるのか、全く理解できない。


 ──もしかして、あたしに気がある?

 積極的に話しかけてくるのも、部活に誘うのも、それなら納得がいく。でも、それはないと蓮音はすぐに否定した。

 甘い感じが穂積には全くないからだ。

 初めて話しかけられた時から先ほど別れるまで、粘つく甘ったるさを感じることなど一度もなかった。となれば、蓮音が思いつく中で有力な候補はあと三つくらいしか残らない。


 ──七歌さんが裏で糸を引いてるか、穂積君が私の理解できない変人か。それとも、あたしが自意識過剰な妄想を膨らませてるだけか。って、なんでこんなこと考えてるんだろ。あたし、バカなのかな。


 ふと蓮音は冷静になった。

 気にしても意味がないし、周りがどうであっても自分は自分の日々を過ごすと決めていたはずだった。少なくとも単なるクラスメイトに左右されるつもりはない。


「くふっ、ダメだな、もう忘れちゃってたなんて」

「どうしたの、ママ? なんだか機嫌良さそうだけど?」

「ううん、なんでもない」

 不意に独り言を漏らしてしまっていた。雪花に気付かれてしまったし、少し恥ずかしかった。


 二階建ての木造住宅には明かりがついていない。


「まだ柚樹は帰ってないみたいね」

 と、何者かの視線を感じて、蓮音は周りを見回した。しかし、人の姿も気配も確認できなかった。最初から、そんなものはなかったのかもしれない。


「ママ? おうちに入らないの?」

「なんだか見られているような気がして……気のせいかな?」

「きっと、あれだよ」


 雪花が指を向けたのは東の空だった。白い満月が二人を静かに見下ろしていた。



 夕食を終えても、柚樹は帰ってこなかった。居間の窓から見える満月は既にかなり高い位置まできている。帰るのが遅くなると電話がかかってきてはいたものの、ここまで遅くなるとは聞いていない。


「お兄ちゃん、遅いなぁ。どうしたんだろう?」

 雪花が目をこすって、居間に敷いたカーペットの上で寝転び始めた。


「そんなところで寝ちゃダメ。ちゃんと布団で寝なさい」

「うーん」


 肩を揺さぶると、ようやく起き上がった。まだ柚樹を待ちたそうだが、睡魔が勝ったようだ。雪花はふらふらしながら、二階へ向かった。一階の板敷きの部屋を居間、畳部屋を客間、二階の畳部屋の一つを蓮音と雪花の自室、もう一つを柚樹の自室として、蓮音たちは使っている。他にも部屋はあったが、七歌に実質タダで住ませてもらっているため、立ち入ることすらなかった。

 雪花が寝るまで傍に付き添ったあと、居間へ戻ると玄関をあける音がした。


「ただいま」


 よれよれの学生服姿の柚樹だった。


「柚樹、何時だと思ってんの? ご飯だって、とっくに冷めてるし、何をやってたの!?」

「あぁ、今から食べる。ありがと」


 蓮音の詰問には答えず、柚樹は居間の横にある台所へ向かい、冷めたご飯をレンジに入れた。


「何をやってたか、答えてっ!」

「もう夜なんだから、怒鳴るなって。雪花は寝たんだろ?」


 追及されるのがよほどいやなのか、柚樹は苦い顔をした。そして、そのまま何も教えようとはせず、居間のカーペットに座って、テーブルで食事を始めた。

 負けじと蓮音も向かい側に座り、柚樹を黙って見つめた。


「ちょっと話し合うことがあったんだ、部活のことで。食器は洗っておくから、蓮ねえは自分のことをしてくれ。あと、遅くなって、悪かった。ごめん」

 しばらくして蓮音の方を向かずに柚樹はそう告げて、頭を軽く下げた。

 柚樹は中学の剣道部に所属していたはずだ。こんな遅くまで何を話し合うのか全く蓮音には分からないが、色々とあるのだろう。柚樹に話したくないという素振りは感じられても、嘘をついているようには見えなかったので、蓮音は素直に信じようと思った。


「そういうことなら、納得する。でも、何時ごろに帰れそうなのか、連絡はしてよね。心配するじゃない」

「分かった、次からは気を付ける。蓮ねえ、俺のことはいいから、自分のことを──」

「何をいってるの。私が洗い物はするの。だから、柚樹こそ、さっさと食べちゃって」


 引っ越した時、家事は全て自分がやると決めた。蓮音は汀部家のママなのだ。


「どうして──いや、なんでもない。食べ終わったぜ。それじゃ、頼む」


 苛立った様子で居間を出ていく柚樹を見送り、間もなく蓮音は食器を洗い始めた。ため息がこれと意識することもなくこぼれた。


2014.7.14 改行修正

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