1-1
エルピスの囁き Whisper of Elpis
広くて狭く、明るくて暗い所で、どこか儚くて可愛らしい女の子が微睡みの中に漂っていました。
彼女は「ふわぁ」と気持ち良さげな声をあげ、外に広がる世界へ耳を傾けました。
特に目的のない気まぐれです。もちろん当てなどもなく、暇を持て余した戯れでしたが、間もなくして彼女の耳は不安に震える少年の声を拾いました。
「どこなの? どうして?」
しきりにこぼされる独り言は、何かを探し求めているようでした。
「何かあったの?」
気になって彼女が尋ねてみると、
「見つからないんだ。どこにも」
と答えが返ってきました。よく分かりません。
詳しく話を訊いてみますと、当たり前に存在していると思っていたものがどこかへ消えてしまったらしいです。彼女は少年の悲しみに濡れた顔をほかっておけませんでした。
「それは不安ね。でも、きっと信じ続けていれば見つかるから落ち込まないで」
彼女が持ち前の明るさで囁けば、多くの人々が元気になります。少年もきっと元気になるでしょう。
「そう、だよね。ありがとう。ところで、君は誰? 声しか聞こえないけど」
不安が和らいだのか、落ち着いた声で尋ねてきました。言われてみれば、当然の疑問です。
「私はエルピス。あなたも声だけなのね。やっぱり私、まだ眠ってるのかな」
少年が不思議そうに首をかしげました。いえ、正確には首をかしげたように感じただけです。そんなイメージが彼女に伝わってきたのです。いつも通りに。
「他の人たちの話では、あなたたちの夢とか幻とかに私は住みついてるらしいの」
あまりに抽象的すぎると自分自身でも感じながら、彼女は説明しました。
「えっと、つまり君はいないっていうこと?」
やはり全く意味が伝わっていないようです。
「こうやって話せるんだし、存在していないわけではないんだけれど……あなたたちにとって私は夢や幻みたいな存在らしいの。もしかしたら、私が眠っているうちに迷い込んだのかも」
誰かの夢や幻に現れているのなら、彼女自身も眠っているのかもしれません。自分が夢を見ているのかどうか確かめる手段はありませんでしたが、少なくとも彼女はそう思っていました。
「うーん、よく分からないよ」
「ふふっ、そうね。実は私も、なの」
彼女は少年に微笑みかけましたが、きっと見えていません。それが少しだけ残念でした。
1
漆黒の湖につかっていた。
酸味をほのかに伴った苦みが口の中で広がって、小鳥のさえずりが遠く微かに聞こえてくる。
湖の奥底に眠っているはずの面影を探し求めても、しかし、描く形は揺らぎに藻屑となる。
明かりの届かない水中に取り残されたわけでも、夢をたゆたっているわけでもない。ただ、目を閉じて、水の流れを意識させる音楽に耳を傾けているだけだ。
まぶたの裏には、何もない暗闇が無限に広がる。別に特殊なことではない。
ひどく能天気な親友も、どこか寂しげな転校生も、疎遠になった幼馴染も、道端で寝そべるノラ猫や、空を優雅に舞う妖精だって(実際に見たことはないけれど)、きっと閉じたまぶたの裏は等しく真っ暗だ。
けれども、頭の中には目をあけている時よりもずっと色々な情景が、他の誰のものとも異なる景色が浮かんでくる。
誰かの笑った顔だったり、昨日読んだ小説の一場面だったり、帰り道に何気なく見上げた星空だったり。なんでもない些細な日常のこともあれば、忘れられない大切な記憶のこともある。
それらのほとんどは、いつかどこかで見たものや思い描いたことに派生しているのだから、生きてきた遍歴が違う以上、人によって別物になるのは当たり前といえばそれまでだが。
チンッ!
ぼんやりとまぶたの裏に広がる世界へ思いを馳せていると、控え目な音が迪之を呼んだ。トーストが焼き上がった音だった。最近の迪之にとって朝の定番になっている。
香ばしい匂いを漂わせる狐色の粗面へと手早くバターで光沢を与え、かじりつく。
「起きなさいっ!」
その瞬間を狙ったように、けれども全く状況にそぐわない怒鳴り声がしてきた。
「……既に起きて、朝ご飯中だ」
口に含んだトーストをのみ込んでから、言葉を返した。誰に聴き取られることもないだろう小さな声で。
「ユズキ、セッカ、早く起きろっていってるでしょーが!! 遅刻してもらっちゃ、あたしが困るんだから!」
口調がより苛烈なものとなって聞こえてきたが、迪之は顔色一つ変えずにコーヒーを口にする。
当然だ。
彼のフルネームは穂積迪之。
ユズキでもセッカでもないし、そんな呼ばれ方をされたことなどもない。ならば、反応する必要も全くない。ないのだが、やはり気になってしまった。
「今日も、だな」
──えぇ、そうみたいね。
迪之のこぼした言葉にうなずく声があった。折角の連休に雨が降り続いた時のような残念な感じがにじみ出ていた。
それも当然のこと。
眠りを断ち切らんとする声は、穂積家の北側に接する家から、毎日のように聞こえてきた。迪之の記憶が定かならば、このひと月で怒鳴り声が聞こえなかったのは土日祝日のみ。もはや平日の朝には必ず鳴り響く目覚まし時計だ。
このひと月、というのには明確な理由がある。ひと月ほど前に件の家の住人は引っ越してきたのだ。彼らがどのような人々か、迪之は知らない。近所づきあいに消極的で、引っ越しの挨拶だって直接受けたわけではなかったからだ。
もっとも、怒鳴り声がいつも女性のものであることから、子供を起こす母親がなんの根拠もなく連想されてしまうが。
「人の家のことなんて、どうでもいい」
手早く食後の片づけを終え、スピーカーから外したオーディオプレイヤーを肩にかけた鞄へとしまい、玄関へ向かった。
とうに怒鳴り声は聞こえなくなっていた。
「いってきます」
迪之が囁くように発した言葉へと、
──いってらっしゃい、迪之。
再びふんわりした印象の声が返ってきた。
でも、彼は知っている。
その声が彼にしか聞こえないことを。
「エル、お前も一緒に来るんだろ?」
──ふふっ、それもそうね。
迪之がエルと呼んだ少女の声は楽しげだ。いや、少女なのか彼にも本当は分からない。
なにせ姿を見たことがないのだから、声の調子や言葉遣いから同年代の少女だと勝手に想像しているだけだ。ちなみに高校生の彼にとっての同年代とは、十代の半ばくらいだ。もしかしたら、もっと年上かもしれないし、年下かもしれない。
外へ出ると、朝の柔らかな陽射しが降ってきた。五月の初旬にふさわしい爽やかな微風が吹き、空の高いところには薄い雲のヴェールがわずかにかかっている。
「ここ最近、天気悪かったのが嘘みたいだな」
──うんうん、ゴールデンウィークとは大違いね。
学校へいくには、まだ余裕がある。
そんな時には家の目と鼻の先にある神社へいくのが迪之の習慣だった。といっても、どこにでもある平凡な神社だ。
神様を祀る社殿以外は背の高さにも満たないお社らしきものが幾つか露天であったり、手を洗うところ(手水屋といったか)があったりするだけで、立派な石造りの鳥居は二つか三つ。朱塗りの可愛らしい鳥居が幾つも並んでいたりもするが、背の高い人なら頭をぶつけてしまいそうな大きさだ。
古びた社務所もあるが、人の気配は全くしない。ちゃんと管理をしているのか、機会があったら訊いてみたいくらいだ。
それでも境内には社殿や参道を取り巻くようにして木々が密集しており、外界とは異なる澄んだ空気に満たされている。
「ここに来ると、なんだか気持ちが落ち着くな」
参拝を終え、社殿近くの石段に座り込んだ。ひんやりした感触が尻から伝わってくる。冬は冷たすぎて座れたものではないが、この季節は微妙な冷たさが心地良い。
──迪之、寝転んだりしちゃダメよ。きっと寝ちゃうから。
「ふぁー、わあってる。そんなことで遅刻して、隼人あたりに不良呼ばわりされたら癪だ」
──ふーん、それならいいけど。
いかにも信用できないといわれている感じがしたものの、あえて聞き流した。ここで寝たら気持ちいいだろうな、とは実際に思っていたのだ。座っているだけでも少しずつまぶたが重くなってくる。
「そういえば、エルってどんな姿、してるんだ?」
童話に出てくる妖精の絵、いわゆる羽の生えた小人が空を舞っている様子を思い浮かべながら、眠気覚ましに尋ねてみる。
──ご想像にお任せするわ。それにしたって突然ね。どうかしたの?
なぜか尋ね返されてしまった。声のする方向を見上げても、木々の隙間から漏れ落ちてくる陽光がキラキラと輝いているだけだ。
「突然でもないだろ? これまでだって何度も訊いてきた。お前のこと、何も知らないからな」
──そう? 迪之は気付いてないのよ、きっと。
いつも通りのはぐらかした返事だった。
この声について分かっていること。それは声のぬしがエルピスという名前で、いつか見たアニメかドラマのヒロインに似た声をしていて…………あとは何も分からない。少なくとも迪之には分からない。いつごろから自分にエルピスの声が聞こえるようになったのかも、その経緯も彼は全く覚えていない。
「そろそろ、いくか」
腕時計を見たら、学校へ向かってもいい頃合いになっていた。
──レッツゴーね。
エルピスの正体は、目に見えない妖精なのか単なる幻聴なのか。おそらく後者だろうと迪之は思っているが、別に困ったことも起こっていないから、棚上げにしている。真剣に考え込む方がバカバカしいというものだ。
神社の前に置いた自転車をこぎだした。学校まで二十分弱、家の周りが小高くなっていること以外は、おおむね平坦な道のりだ。
ゆるゆると風を感じながらこいでいると、やがて南北に通る大通りへ出た。あとは真っ直ぐ北へ進むだけで、迪之の通う高校、明菊高校へ到着だ。
通い慣れた道のり、自然と勢いも出始める。
──あまり勢いを出すと危険よ。
そんなエルピスの声も聞こえたが、気にとめない。ぶつからない自信があった。よほどのことがない限り、たとえば今そこにある街路樹の裏から何かが────背の小さな女の子が飛び出してきた。そして、こちらを見据え、
「待って」
両手を広げて立ち塞がってきた。
あまりに急なことで反応が遅れたが、まだ距離はある。ブレーキをかければ、十分に止まれる距離。冷静に、ブレーキを握る指へ力を込める。
が、速度は全く落ちない。
ブレーキが壊れたのだ。そういえば調子が悪かった。そろそろ修理しないと、と思いながら面倒で放置していた。でも、こんな時に壊れるなんて……って考え込んでいる場合じゃない。
慌ててハンドルを切る。
ガッ、ドシンッ!
地味に身体へ響く鈍い衝撃があった。目の前には、女の子がさっきまで隠れていた街路樹。急いで振り返ると、彼女は仁王立ちしたままだった。どうにかぶつからずに済んだようだ。
「大丈夫か? どうして急に?」
女の子へ駆け寄るが、答えてくれない。背の高さからすると、小学生だろうか。セーラー風の白いワンピース姿で、つばが上へ折り返された帽子をしている。どちらも上質な生地で、黒や青の糸で細やかな刺繍が施されている。
「うっ……怖かった」
しばらくして、ようやく迪之の方を見たと思ったら、そんなことを口にした。しかし、声音にも視線にも揺らぎはなく、むしろ彼を見つめ返す瞳には狩人の冷たさがある。
「危ないだろ。なんであんなことを?」
「あなたが必要」
女の子は短く告げた。
それ以上、何もいうべきことはないというように。
「だから、飛び出してきたと? 他にも呼び止めるとか方法があるだろ」
「流れゆく若緑、過ぎていくだけ」
無機質な声だった。細かなことは気にするな、といった感じだ。
「それで、俺がどうして必要なんだ?」
「予感」
「どういう意味だ?」
「教えられない」
子供に対して怒ったところで仕方ないが、全く話にならない。天気予報だか、今日の占いだか知らないが、予感がして必要と思ったなら、説明するべきだろう。何を訊いても同じような言葉しか返ってこないのではないか。
見たところ怪我もなさそうだし、もう気にせずにこの場を去ってもいいはずだ。
女の子に構わないことにして、街路樹のところで倒れたままの自転車を起こした。すると、白っぽいものがタイヤの下敷きになっていた。よく見ると、何かが入った紙袋のようだ。
いやな予感がした。
中を確認すべきか迷っていると、さっきの子が横から割り込んできて紙袋を拾い上げた。
「あっ……」
ため息のようにこぼれた声に、やっぱりな、と迪之は思った。
「……君の、なのか?」
紙袋の中には割れたガラスが見えた。鮮やかな色をしたガラスだった。
「大丈夫」
何もなかったような表情をしてはいるが、やはり彼女のものだったようだ。
「その……それじゃ、俺はいくからな」
割ったのは迪之に違いないが、元はといえば、女の子が飛び出してきたせいだ。それに本人は大丈夫といった。別に謝ることではないはずだ。
その場を離れようと、自転車をこぎだした。こぎだしたのだが、後ろから服をつかまれた。それもパーカーのフード部分だ。首がしまって苦しい。
「迪之、一緒に。行き先は同じ」
「取りあえず手を放せ……で、一緒に来るってことか?」
女の子は無言でうなずいた。
「っていうか、なぜ俺の名前を知ってるんだ?」
女の子の視線が自転車へ向けられた。その視線の先には自分の名前がどんぐりのイラスト付きで「みちゆき(ちゆにぃ)」と書かれていた。今時こんなものを書く奴がどれだけいるのかは知らないが、迪之のいとこが面白半分に書いたのだ。
「にしたって、俺がこれからどこ向かうかだって──」
そこまでいって分かった。シールだ。学校の駐輪場には使用許可がいる。その許可を得た証明として、自転車にはシールが貼ってあった。それを見れば分かる人間には分かってしまうじゃないか。
「ということは、君も明菊なのか? 高校生なのか?」
またしても無言のうなずきが返ってきた。
よく見ると、女の子が背負っている鞄はランドセルではなく、茶色いレザー生地のリュックだ。でも、リュックには巷の小中学生にはやっている『かぶりゲンブ~』(勾玉みたいな形をした謎系マスコットの冠付き黒バージョン)のぬいぐるみがつけられているし、背格好は明らかに幼女といっても差し支えないものだ。
「いや、中学生の間違いだろ」
首が横に振られた。怒ることも拗ねることもなく、女の子、もとい、少女は無表情のままだ。
──なんだか不思議な子ね。
エルピスの囁きに強く同意したい。この少女と関わると、面倒事に巻き込まれる。それこそ、絶対に実現してしまいそうな予感だが、逃れるすべもなさそうだった。
もう関わってしまったのだから。
「君の名前は?」
「織乃」
自転車を引いて学校へ向かいながら、話した内容は実質それだけだった。名前以外も訊くには訊いたのだが、明瞭な答えは全く返ってこなかった。
自分が本当に必要なら、もっと何か事情を話すべきだと思うのだが、少女にその気がないということだけは分かった。
「あれは……汀部さん、だよな」
交差点に肩口まで髪を伸ばした少女が立っていた。無論それだけでは判別できないが、浅葱色の制服で黒っぽい学生鞄を抱えた後ろ姿からは、二年生で同じクラスの汀部蓮音が連想された。
というのも、迪之の記憶では汀部と同じ取り合わせの制服と学生鞄を身に着けている生徒は他にいない。なぜなら、明菊高校は高校としては異色であり、指定の学生服や学生鞄なんてあってないようなものなのだ。
言い換えれば、服装も鞄も自由ということだ。
そのため、私服の生徒が当然多いが、数年前に起こった制服回帰運動の影響で、思い思いの制服を着ている生徒も実は少なくない。ただ、制服を好んで着る生徒の大半は各人の属している学内組織や部活のカラーを何らかの形で象っていた。
「おはよう、汀部さん。今日も制服なんだね」
少しびっくりした様子で、少女は振り返った。
予想通り、汀部だった。
「おはようございます。穂積君は、パーカーにジーンズですね。ところで、そちらの方は……妹さん?」
最後の方で小声になったのはなぜかと思ったら、織乃が汀部のことをじっと見つめていた。初対面でこんな態度を取られたら、確かに落ち着かないし、気が引けてしまうだろう。
「いや、違う。俺に妹はいないし、兄も姉も弟もいない。さっき会ったばかりの知らない子だ」
「迪之、嘘」
織乃が迪之の腕をつかんで反論したが、その間も彼女の視線は汀部から外れない。
「いや、織乃って名前を知ってるだけ──」
「知らない子、じゃない」
ふくれっ面をすることもなく、真顔でいうところが余計に怖かった。
「あのっ、信号が変わってしまいますし、渡りませんか?」
不穏な気配を察してか、織乃の視線に耐えられなかったのか、汀部が話を逸らしてくれた。
「あぁ、そうしよう。ほら、織乃、腕を放してくれ」
「いや」
即答だった。しかも、腕をつかむ手がより強く握られた。意地でも放さないつもりらしい。
「その子、もしかして迷子なんじゃないですか?」
そのまま進み始めた迪之たちを見て、汀部はある意味で当然の結論を出したのだろう。
会ったばかりの子供が腕をつかんで放さないなんていう状況、迷子か物乞いかの二者択一に違いない。さらにいえば、日本では子供の物乞いなんて交通事故に出くわすよりも難しい。ならば、迷子と思うのは至って普通の思考だ。
しかし、織乃には当てはまらない。
迪之に何かを求めていることからすれば、迷子よりも物乞いに近いくらいだ。
「一応、迷子じゃないようだ。これでも織乃は高校生らしい」
「えっ……えぇっと、織乃さん、ごめんなさい」
織乃は汀部を見つめ、何もいわずに首を振った。
「あくまで自己申告だから、分からないけどな」
「いいえ、私は織乃さんを信じます。こんなに可愛いんですから」
汀部は理由にはならない理由を述べ、おもむろに織乃の左へと並んで頭を撫で始めた。最初は驚いたようにびくっとなって、汀部を見上げた織乃だったが、すぐに慣れたようだ。
「ところで織乃、いい加減に腕を放して──」
「いや」
「穂積君、腕くらい握らせてあげてもいいじゃないですか」
さっきよりもさらに早い却下。しかも、汀部まで加勢してきた。
結局、そのまま校門の中まで織乃をはさむ形で三人は登校した。もちろん、迪之は腕を織乃につかまれたままだった。
「えっと……それでは私は先にいきますね」
校門を入ったところで、汀部は先に校舎の中へ消えてしまった。迪之もついていきたかったが、自転車を置かねばならなかったし、何よりも織乃がいた。
「迪之、彼女のこと、どう思ってる?」
駐輪場まできたところで、押し黙っていた織乃が急に訊いてきた。唐突な質問だった。彼女というのは汀部のことだろうか。クラスの中で一番気になる人物ではあったが、こうやって訊かれても、取り立てて思うところは何もない。
「汀部さん、か? どうって、物静かで真面目だなぁとは思うけど……えっと、あとそうだな、転校したばかりだし、大変だろうな……とも」
織乃の視線に気圧されながら、しどろもどろで答えた。
迪之にとって汀部の印象といえば、まだ学校へ馴染めずに丁寧な口調を崩せていない転校生だ。いつも微笑みを浮かべ、誰に対しても優しく当たり障りのない態度をとっている。見ていて不自然なほど。
「力になりたい?」
「それはない。俺が何をできるわけでもないだろうし、きっと余計なお世話だ」
きっぱりと答えた。
力になるというのは、中途半端な気持ちで引き受けるものではないし、やたらめったら他人事に口出しするものでもない。それが迪之の考えだった。
「分かった」
織乃は答えに満足したのか、迪之の腕を離して去っていった。何が分かったのか全く分からなかったが、腕にはくっきり握られた跡が残っていた。
──もう時間、そんなにないわよ。
腕時計を確認すると、ホームルームまで残り数分しかない。
「おう、迪之。さっきのちっこいお嬢ちゃんは誰なんだ? もしや、お前のフィアンセか?」
駆けだそうとしたところで、そんな台詞と共に背中を叩かれた。口調からして、すぐに誰なのかは分かった。いつものごとく白い軍服みたいな学生服を着崩しているに違いない。しかも、肩まで伸びる明るい金髪に、澄んだ青空のような碧眼をしているはずだ。
「隼人、お前のバカに付き合ってる暇はない」
「そんな……っ! おぉ、我が心の友よ、お前の心はあのフィアンセに奪われたということか」
無視して校舎へと入り、階段を駆け上がった。
「って、おい、どこへいくっ! 友よ、我も共に連れていきたまえ」
「教室に決まってるだろ。お前も急げっ!」
心の友と呼べるかは怪しいと思うが、隼人はクラスメイトで、バカで、友人だった。
休み時間になると、隼人が詮索してきた。面倒だが、勝手な理解を広められぬよう織乃について説明してやることにした。ぶつかりそうになって、必要といわれ、一緒に登校することになった、と。
「はっはぁーん、なるほどな。好かれたか、狙われたか、だろうな。せいぜい術中にはまらないよう気をつけるんだぞ、迪之。まっ、手遅れだろうがな」
「全く他人事だからって、勝手なことを……お前、むしろ楽しんでるだろ」
「もちろん、他人事だからな。しかし、だからこそ、残念だ。俺は俺で調べなきゃならないことがある。お前とその子の件にすぐには関われない」
鷲鷹隼人はあらゆる面で飛び抜けている。ただでさえ明菊高校は偏差値の高さゆえに(素行に信頼を置けるという理由で)自主性を容認された学校として有名なのだが、その中でも隼人は群を抜いて文武両道に秀でている。
ただこの一年を友人として過ごした迪之にいわせれば、むしろ飛び抜けているのは言動であり、思春期特有の面倒な病をかなり重くこじらせているということになる。
「また素敵な姫君を見つけたから、その身辺警護を買って出ないといけない、とかか?」
「それは一年近くも昔の話じゃないか。今回は違う。姫君ではなく巫女だ。身辺警護ではなく素行調査だ。ネットの情報だが、近隣で白狐面を被った巫女姿の不審人物が現れたらしい。もしかしたら裏組織の尻尾をつかめるかもしれない」
神社周辺ならともかく、街中にそんな奴がいるはずないし、そもそも裏組織ってなんなんだよ、と思った。でも、陰謀論やオカルトといった類のものに隼人の意識がいっているのはありがたい。隼人が関わると、織乃との遭遇がより厄介な方向へ向かってしまいそうな気がする。
「そうか。なら俺の方はいいから、素行調査、頑張れよ」
「あぁ、当たり前だ。この街の平和は俺が守らねばな。それはそうと、斜奏がお前に何か用があるらしいぞ」
「えっ、そうなのか? って、ちょっと待て。どうしてお前がそんなことを?」
「そりゃ、ここにそう書かれてるからな」
見覚えのある携帯電話を取り出し、液晶画面を見せつけてくる。
『迪之君、少しお話がしたいので、近いうちに時間を作ってください。 七歌』
どうやら本当らしい。連絡が来ることすら珍しいのに、どういうことだろう。というか、隼人が出したのは明らかに迪之の携帯だ。傷のつき具合やストラップからして間違いなかった。
「お、ま、え、人の携帯を勝手に……ロックはどうしたんだ?」
「ロック? 携帯のロックなんてあってないようなものさ。ちょっと俺のPCにつなげば、ものの数秒で──と、そうだ。俺というものがありながら、いまだに斜奏との蜜月を続けているなんて、迪之、どういうことなんだ? 俺は琵琶湖の底まで沈みこんだ心地だぞ」
「どうもこうもないし、誤解を生む発言でごまかすな、この馬鹿やろぉっ!」
隼人の顔面めがけ、こぶしを繰り出し、隙ができた瞬間に携帯をぶんどった。こぶしは途中で隼人に受け止められたが、予想通りのことだった。隼人とまともに喧嘩しても痛い目に遭うのは自分だと迪之には分かっていた。
「こういう真似は二度とするなよ、隼人」
「俺と迪之の間柄でつれないじゃ──って、そんな怖い顔するなって。分かった。するにしたって、ばれないようにする。だから、落ち着け、落ち着くべきだ。なっ?」
隼人は金髪ロングが似合う洋風の美形(女子にいわせると、喋らなければカッコいい)で、ひねた顔はしていないのだが、心のひねくれ具合が半端ない。いや、ある意味でひねくれすぎて逆に素直だと迪之に感じさせることすらあった。
「十分に落ち着いてる。あと、ばれなければいいともいってないからな」
いくらいっても、白い歯を見せて隼人は笑うばかりだった。悪い奴ではないが、面白い奴ではあるが、全くもって困った奴だ。
一応、取り返した携帯の中身を確認した。動作が変だとか、壁紙が変わっているとか、そういった悪戯はされていないようだ。
迪之は用事がなければ携帯を触らない。七歌からのメールだって夜にならねば気付かなかったかもしれない。それくらい携帯に関して無頓着で隼人が勝手に携帯をいじろうが、正直そこまで怒る気にもなれない。どうせ一番メールを送ってきているのは、他でもない隼人だった。
それでも、自分に読ませるために七歌が送ったメールを隼人が読むのは良くない。隼人が何を考えているのかは分からないが、たぶん何も考えていないと思わずにはいられないが、用心しておくべきだろう。
昼休み、迪之は校舎三階にある自分の教室を出て、一階へ向かった。一階にはカフェテリアや保健室、事務室などの他、職員室がある。ちなみに明菊高校の校舎は四階建てであり、二階が一年生の教室、四階が三年生の教室となっている。特別教室は各階にいくつか配置されていて、体育館や武道場など大きな施設は別棟だ。
職員室の隣にある生徒会室の扉をノックすると、中から詰め襟の学生服を着た少年が出てきた。眼鏡の下にのぞく瞳孔が大きく、丸みを帯びた顔でえらも出ていない。全体的に幼い感じだ。
「えっと、七歌に会いに来たんだけど?」
「あっ、はい。どなたでしょう?」
「穂積っていえば、たぶん通じるはずだ」
「穂積さん、ですね? 承りました。少々お待ちください」
少年がお辞儀して奥にある部屋へ消えた。生徒会長室だ。詳しい経緯は知らないが、独裁者として名を馳せ、妖女メドゥサの異名を持つ前生徒会長が作らせた部屋らしい。この部屋のせいで、職員室が狭くなったとかならないとか。
「どうぞお入りください」
すぐに少年が出てきて、会長室の中へ通してくれた。
中には、白のレースワンピースに赤いボレロを羽織った黒髪ポニーテールの現生徒会長、斜奏七歌がいた。涼やかな表情のことが多い奴なのだが、わずかに笑みをこぼしている。
迪之には悪だくみをしているように見えるそれも、彼女をよく知らない人からすれば、天使の微笑みに見えるのかもしれない。なんでも光あふれる神聖さがあるらしい。そのせいなのか、前会長のイメージとの対比からか、聖女ミネルヴァの異名を持っていた。ただし、妖女メドゥサほど有名ではなかった。
「じゃ、誰も入れないでね」
七歌が少年に指示をして外へ出した。どうやら内密の話のようだが、身に覚えは全くない。
「ひつまぶし、あなた好きだったわよね?」
昼に会いにいくと迪之が伝えたところ、いつの間にか一緒に昼を食べるという話になっていた。生徒会長室には会長の仕事机の他、膝上高さのテーブルとそれを囲む形で二人掛けソファが三つあった。そして、テーブルの上には飯櫃や茶碗が二人分用意されていた。どうやら出前を取ってくれたようだ。
「あぁ。だけど、これ、七歌のおごりか?」
「私が来てもらったんだし、迪之がケチなのは知ってるし、そのつもりだけど……なぜ?」
ひつまぶしなんて、うな重へさらにお茶漬けという付加価値をつけた高級品の中の高級品だ。夏でも滅多に食べない。まして学校で昼に食べるなんて、思ってもみなかった。もしかして経費として──と考えかけてやめた。おとなしくおごられておくことにしよう、と決めたのだ。
「いや、人のおごりで食べるご飯はおいしいからな。ところで、さっきの子は執事みたいなものか?」
「まぁ、そんなところね。会長補佐っていって、会長権限で一人だけつけられるの。会長を補佐するのが役目だし、選挙なしで会長が勝手に決められる副会長みたいなものよ。本当はラブコールを送ってた奴が別にいたんだけど、袖にされてね。全く何様のつもりって感じよね」
余計なことを訊いてしまった。そういえば七歌から、どうせ部活もしてない暇人なのだから生徒会の手伝いをしてくれないか、などと廊下などで会うたびに頼まれていた時期があったが、ことごとく断っていた。
なぜ自分なんかに頼んだのか。どこの部活にも入らず、社交性も皆無な自分を心配したのか、雑用に適任だと思ったのか、今でも迪之には分からない。
「取りあえず、冷める前に食べちゃいましょ。話はそれからでもいいわ。いただきます」
迪之を待たずに七歌は箸をつけ始めた。それにならって、彼も飯櫃の蓋をあけた。おいしそうなウナギが一尾分ほど入っていた。おそらく上ひつまぶしだ。並ではこんなに入っていないだろう。
「しっかり食べなよ。迪之のことだから、食事とか適当に済ませてるんでしょ」
七歌が挑戦的な黒い瞳で見つめてきた。なかなか鋭い指摘だった。ここのところ、朝はトーストで済ませることが多かったし、バランスの良い食事とはかけ離れている自覚があった。
「私があなたの家で愛憎こもった手料理を作ってあげましょうか?」
うなずいたわけではなかったが、顔に出ていたようだ。
「いや、遠慮しておく。愛はともかく憎しみは怖い。それに七歌は忙しいだろ」
書類が積まれた仕事机に目配せする。前会長が無茶苦茶だったせいで、様々な問題を抱えていると聞いている。しかも、七歌は神社の跡取り娘で、家業の手伝いだってあるはずだ。
「ふふっ、冗談よ。どうしてもってお願いされたら、研ぎたての包丁片手にお邪魔してもいいとは思ってたんだけどね。それで、迪之、何か困っていることとかない?」
「七歌に心配されるようなことはないよ。至って退屈な日々で、もう少し何か起こってほしいくらいだ。もちろん、抜き身の包丁を持った来訪者とかはごめんこうむるが」
別に強がりでも嘘でもなかった。実際に昨日やおととい何があったかも忘れてしまうような毎日だった。
「そう、それならいいの。でも、何かあった時は、気軽に話しなさいよ。あなたの愛とか夢とか希望とか、そんな味方に私なりたいから」
七歌がこれほど親身になってくれるのは、幼馴染だからだろう。昔、穂積家の裏には彼女の祖母が住んでいた。その祖母と迪之の母が懇意にしていたため、祖母の家へ頻繁に出入りしていた彼女とは自然と一緒に遊ぶ仲となった。しかし、その祖母が亡くなってからは滅多に会わなくなってしまった。小学校も中学校も別だった。同じ高校へ進学した頃には、既に気まずさや照れくささで距離ができていた。
それでも、今こうして仲良くできているのは、七歌が事ある度に声をかけてくれたからに違いない。他意なく嬉しいことだった。
「ありがと、七歌。それにしても、このひつまぶし、おいしいな」
「そう? 良かった、あなたも気に入ってくれて。でも、私の分はあげないわよ。私の使った箸ならあげてもいいけど」
頬を緩ませた七歌は、ひつまぶしに決めるまでの迷いに迷った経緯を話し始めた。食べ終わるまで、そんな差しさわりのない会話が続いた。
「それで、本題はなんだ? 七歌がわざわざ呼び出すなんて、かなり珍しいだろ」
「うーんと、それなんだけどね、あなたのクラスに汀部蓮音っていう子がいるでしょ? あなたが舌なめずりしちゃうような可愛い子。その子の様子について教えてほしいかなって」
ボレロの袖を落ち着かない様子で撫でつけながら、七歌は妙にもったいぶって答えた。
「汀部さん、か。仲の良い友達ってのは、一人もいないだろうな。最初は遊びに誘った女子もいたようだが、付き合いが良くなかったらしい。おしゃべりの輪に加わっても、一人だけ丁寧な口調を崩さずにいるせいか、やっぱりどこか浮いているのがはた目に分かる。表立って何か意地悪するようなバカはいないが、汀部さんの口調を真似して楽しむ奴らも見かけるようになった」
「そうなのね……っていうか、やけに詳しいわね」
取り繕った話など望んでいるはずもないし、遠慮なくありのままを伝えたのだが、七歌は目に見えて肩を落とし、さらには疑いの視線まで向けてきた。予期せぬ事態だ。
「いや、少し気になってな。でも、あくまで俺がはた目に見て、だから、どこまで実情に沿っているかは保証できない。それにしても、織乃といい、どうして汀部さんのことを?」
世話焼きな一面があることは知っていたが、七歌の口から汀部の名前が出てくる理由が分からない。
「えっ、織乃ちゃん? それって背が小さくて無口な子だったりする? まさか手、出したの?」
「もしかして、織乃のこと、知ってるのか? あいつ、俺のことが必要だとかなんとかいって……手を出すどころか、むしろ出されて腕をつかまれたくらいで……というか、お前も隼人も俺をなんだと──いや、まぁいい。何があったか説明する」
七歌が詳しく聞きたそうな顔をしていたため、今朝あったことを話した。
「そう……そうね、私にも勝手な憶測しかできないな。でも、教えられない事情、おそらくは織乃ちゃん以外の意志が関わっているのは確実だと思う。織乃ちゃんの言葉は極端に短くて分かりづらいけど、だからこそ、彼女なりに正しいことしか伝えていない。少なくとも私の知っている織乃ちゃんなら、そのはずね」
揺らぎのない眼差しと、平坦な口調を思い出す。いっていることは意味不明だったが、嘘をついているという感じはしなかった。
「織乃以外の意志ってなんだ?」
「もし私の想像通りなら、相手から動いてくるはず。だけど、下手に逆らわなければ、そんなひどい目には遭わないと思うから安心して。本当に困ったら、今度こそ迪之から私にラブコールをくれればいいし……って、そろそろ昼休み終わっちゃうわね。ふぅ、ほんと早いな」
随分と話し込んでしまったようだ。七歌の話は不審を不安へと変えたが、相手から仕掛けてくるのなら、それこそ逃れるすべはない。無駄に恐れるのはバカバカしい。
「それじゃ、またな。ひつまぶし、ごちそうさま」
「ちょっと待って。あの、迪之、これからも時々ここに来てくれない? ほら、蓮音ちゃんの様子とか、織乃ちゃんのことだって何かあったら訊きたいし、迪之の幸薄そうな顔を見て食事するのも割りと楽しいの…………どう?」
そういうことか、と迪之は思った。豪勢な昼を用意してくれたのは、これを断りにくくするためなのだ。
「あぁ、分かった。気が向いたら来る。ただし、俺は薄幸の美青年じゃないからな」
迪之の父あたりから頼まれたか、雑用を手伝わせる気か、言葉通りなのか、魂胆は定かじゃない。だが、食べてしまった以上は無下にできなかった。
放課後、部活に入っていない迪之は、買い物に寄るくらいでほぼ真っ直ぐ帰宅する。隼人に連れられて遊びに繰り出すこともあるにはあるが、今日の隼人は巫女探しに忙しいらしく既に姿を消していた。
いつものごとく帰ろうと、駐輪場へ向かったのだが、いつもと違う事態が起きた。自分の自転車が見当たらないのだ。置いたはずの場所を何度往復しても見当たらなかった。
どういうことか分からず、途方に暮れていると、足音が静かに近付いてきた。
「何か、お困りかしら?」
腰まで伸びる綺麗な黒髪を新緑の風へとなびかせ、黒いドレスワンピース(白い糸によって上品な刺繍が入れられている)を纏った女が立っていた。磨き抜かれた大理石を連想させる肌のつや、造形美を追求したフィギュアに見られる身体のライン、そして星の輝きを宿した鋭い眼光。そのどれもが迪之の目を惹きつけ捉えて決して離そうとしない。
柔らかに微笑みかける女の表情とは対照的に、迪之は自分の頬が硬直していくのを感じた。
一目見たら決して忘れられなくなる容姿と共に、伝説として語られる数々の功罪をなしたとされる前生徒会長、東雲絢乃。又の名を──
「妖女、メドゥサ」
思わず迪之の口からこぼれた一言は、その異名を冠する妖女の耳に届いたらしく瞳の中の星が煌めいた。それだけで、のどがごくりと鳴った。
「初対面だと思ったけれど、穂積君も私のことを知っているようね。でも、そんな呼び方をいきなりしてくれるなんて、さすが織乃の見込んだ少年というべきかしら」
それが皮肉であることは分かっているのに、つい唇の動きを目で追ってしまう。いや、しかし追うことはできない。迪之の目は釘で打たれたように妖女の瞳から離れられなかったのだ。と、それよりも、この妖女は何か変なことをいわなかったか。フリーズしかけた頭を無理やり再起動させて、考えようとした。
「どうしたの、穂積君? もしかして私って、口がきけないほど嫌われているのかしら?」
もう一度、声が聞こえてくる。水面を軽やかに歩く甘美な歌だ。
──しっかりなさい、迪之。呆けた間抜けな顔、いつまでさらしてるの?
いきなり思考を氷水の中に突き落とされ、目が覚めた。
「えっと……ど、どうしてあなたがここに?」
他にも色々と気になることがあるように思えたが、第一に思い浮かんだ疑問を迪之は口にしていた。
「私、この学校に通う三年生なんだけど、ここにいてはおかしい?」
「おかしい、です」
「あら、そう? それは困ったわね。穂積君、どうしようか?」
何が面白いのか分からないが、妖女は愉快そうな笑みを浮かべた。
「まず、俺の名前を知っている理由を教えてください」
「織乃から聞いた……だけじゃ、正しくないわね。この学校の生徒のことは把握していたの。私が生徒会長をしていたことは知っているんでしょう? あなたが入学した頃から、名前は知っていたわ」
妖女は底知れぬ笑みを絶やすことなく答えた。本当のことをいっているようにも、全くの嘘をいっているようにも感じられた。
「織乃とはどういう関係ですか?」
「それは簡単ね。姉妹よ」
やっぱり、と迪之は思った。そして、頭のどこかでそうじゃないかと思っていたことに驚いた。鋭い視線、七歌の話などから、当然といえば当然だったが。
「では、どうしてここに現れたんですか?」
最初にした質問を繰り返した。
「あなたに伝えたいことがあったの。ブレーキの壊れた自転車は修理に出したわ。織乃のせいなんでしょう?」
「勝手に、どうして?」
「それは、あなたが怪我をしないためね。ブレーキが壊れたまま乗り回してると、いざという時に大変な目に遭うわよ」
言い返したかったが、適当な言葉が迪之には思いつかなかった。何をいっても、すぐに丸め込まれるような気がしてならなかったのだ。
「あすの放課後、体育館裏にいらっしゃい。自転車を渡すわ」
「はい。いえ、あっと、約束、ですよ?」
「くすっ」
小さく笑った妖女は、迪之の念押しにまばたきで承諾したあと、そのまま去っていく素振りを見せてから、もう一度だけ視線を合わせてきた。
「穂積君、織乃のことをちゃんと名前で呼んでいるなら、私のことも名前で呼んでくれないかしら? でないと、私、拗ねちゃうわよ?」
最後に妖女の見せた微笑みは、迪之の背筋を凍らせた。
2014.7.13 ルビ・改行修正