戸惑いの庭
少し、呼吸が苦しい。
それに気がついて薄らと目を開いた。
差し込む光と、それによってキラキラと輝いて見えるのは埃か。
しばらくその光景に見入って、目線と頭をずらす。
光はどうやら大き目にとられた窓からのものらしい。
向こうに広がる青空はとても気持ち良さそうだった。
「ん…いたた…」
どうやら長時間床に転がっていたようで、体のあちこちがギシギシと痛んだ。
それもそうか、と姫井は納得をする。
床には布一枚敷いていない。
木でできた床は、かなり古いらしく色は黒ずんでいる。
起き上った体で、室内をぐるりと見渡す。
薄暗い室内は小部屋のようで、壁際には机と椅子が置いてある。天井には電気があるようだけれど、あれは点くのだろうか。
あとは、窓とは反対側に木製の扉が一つ。
四畳程度の部屋には、それしか見当たらない。
「え、と…」
ここがどこか、見覚えがない。
記憶を遡っても、この部屋に近い場所は知らない。
もしかして、この部屋を知らないだけなのかもしれない。
それにしても、ここに来る前は何をしていたんだったか。
それさえも思いだせないみたいだ。
まだ寝ぼけているのかもしれない、と頭を軽く振った。
窓ははめ殺しで、なんとなく空気が淀んでいるような気がした。
それに一つしかない窓のおかげで、太陽との位置の関係のせいか、室内は昼間なのに薄暗い。
起きた時に綺麗だと思った感想とは反対に、今はこの部屋を出たくて仕方がなかった。
けれど、勝手に動いてよいものかと悩む。自分がなぜここにいたのかは、やはり思いだせない。
待ち合わせでも、していたのだろうか。この部屋で。
しばらく悩んだけれど、結局は扉を出てみることにした。
シンプルな室内とは違い、細やかな細工が施されたドアノブに手をかける。
金色にピカピカと輝いているドアノブは、他の古い家具や扉と違和感があった。
キィ…
思っていたよりも小さく軋んだ扉の外。
眩しさに一瞬、目を眇めた。
廊下の反対側は、天井まである大きな窓が続いていた。
先ほどと同じような気持ちの良い青空と、建物で囲まれた中庭。
中心には少し大きめな木があり、どうやら地面には草むらのようだ。ところどころに花のようなものが見える。
向かいの建物も同じように大きな窓がずらりと並び、左右も同じだ。
この建物は真四角で真ん中を中庭でくり抜いた形のようだ。
視線を廊下に戻し、左右を見ると長い廊下が続いている。
一番奥は恐らく、90度曲がるように道が続いているのだろう。
数歩前に出て、窓に手をあててみる。
ガラス特有の、ひんやりとした温度が伝わってくる。
向こうの窓を下から数えると、ここは3階らしい。
今いる建物はどうかわからないが、他の3辺は3階が最上階のようだ。
ここまで見渡して、人が誰もいないことに気がついた。
部屋はたくさんあるようだから、たまたま見かけないだけだろうか。
とりあえず誰かに会うべく、姫井は右の廊下へと足を進めた。
出てきた部屋と同じ壁側には、同じような扉が等間隔にずらりと並んでいる。
流石に勝手に開けるのはだめだろうと思うが、ノックをする勇気もなかった。
見知らぬ人がでてきた時、うまく説明する自信がない。
自分がどうしてここにいるのか聞いたとして、不審者扱いで厄介事になるのは避けたかった。
廊下の端まで来た時、左には向こうへと続く廊下があり、右には階段があった。
下り階段のみのところをみると、この一辺部分も3階で終わりのようだ。
しばし悩んで、3階には誰もいないのだからと階段を下りてみることにした。
2階を見渡して、そっと溜息を吐いた。
3階と同じ構造で、同じく誰もいない。
ぐるりと一周してみようかと思うも、きっと収穫はないだろうと更に下への階段を進むことにした。
1階も、やはり同じような造りだった。
けれど、姫井が出てきた部屋の真下になるであろう部分の廊下側が、他の窓とは違うように見える。
近くまで行くと、それが中庭へと続く扉であることに気がついた。
全面ガラスでできた扉と、部屋と同じく金色に輝く取っ手。
無意識に手をかけていた。少し力をいれると、音もなく扉は開く。
暖かな空気が、爽やかな風に乗って運ばれてくる。
太陽って、こんなに気持ち良かったっけ。
何かに導かれるかのように、ふらふらと姫井は中庭を進んだ。
上から見ていた通り、地面は土と草で覆われている。
けれど短い草は歩きやすく、どこかの公園のようだった。
あちこちにある花はどれも綺麗に咲いている。
中央の大きな木まで歩くが、他に木は見当たらずこれ一本のようだ。
幹に触れられる程近寄って、一周しようとした時、来た方向と反対側で足がとまった。
そこの枝には、ロープがぶら下がっている。
吊るされたロープの先は、丸。
ちょうど人の頭が入る程度の…そこまで考えて、一度目を閉じた。
ふぅっと深い息を吐いて、再度目を開ける。
そこには閉じる前と同じくロープが存在した。
近くにはご丁寧に台まで用意されている。
しかし、死体がぶら下がっている、なんてことはない。
そよそよと吹く風がロープを揺らし、少しだけ冷たくなった気がした。
気味が悪くなった姫井は、残りの半周を足早に済ませ、扉がある方へと戻ってきた。
こちらからだと、あのロープも台も見えない。
3階にいた時からあちら側を見える場所には行っていなかったので、気がつかなかった。
あんなものが中庭にあるなんて…ここは一体、どこなのだろう?
廊下で何かが動いた気がして、考え込んでいた顔をあげる。
少し距離はあるが、扉が開いて人が入ってくる。ここで、初めて会う人。
「あ、姫井!」
「名嘉…」
見知った顔に、安堵の息をついた。
昔からの友人で、よく一緒に遊ぶ名嘉だ。
名嘉は姫井の名を呼ぶと同時に駆けてきた。
「よかった…」
「ここ、どこ?」
疑問をぶつけるも、名嘉は首を横に振った。
「わからない…」
「他に誰か会った?」
「佐久と真堂には」
その2人も、仲の良い友人だ。
一気に心強くなり、少しだけ笑みも浮かんだ。
「誰にも会わなかったから、少し怖かったよ」
「うん…。知らない場所だしね」
「佐久と真堂も、知らない場所だって?」
「うん…」
名嘉は安心したような表情から、眉を寄せて険しい表情へと一変した。
少しだけ近づいて、声も潜める。
「この建物、見て回った?」
「ううん。割と真っすぐここに来たけど」
「……今調べてるんだけどさ…。この建物…出口がないんだ」
…出口が、ない?
「外に出られるのは、この中庭への扉だけみたいで…他の場所は、窓も開かない」
「窓も?…確かに、起きた部屋も、廊下も、窓ははめ殺しだったみたいだけど…」
「佐久と真堂が一つずつ部屋を調べているけど、期待しない方がいい」
「扉は?ないの?」
ゆっくりと名嘉が首を縦に振った。
右手で眼鏡を一度上げる。
「他の扉は全て部屋になっているみたいだ。どこにも出口がない」
「……。他に、人とか…」
「いないね。どの部屋にも。ちなみにこの建物の周りは森のようで、窓からは木しか見えない」
「…どういう、ことなんだろう」
会話が途切れたのと同じくして、扉がまた開いた。
今度入ってきたのは二人。
「姫井だ!」
「え?あ、本当だ」
佐久と真堂だ。
佐久はこんな状況にも関わらず、いつものように楽しそうにしている。
真堂も普段と変わらないように見えるが、元々眠たげな様子なので変化があってもわかりにくい。
「どうだった?」
名嘉が振り向いて二人に問う。
けれど、やはり首を横に振るだけだ。
「とりあえず…姫井が無事でよかったよ」
「そうだね!ちょっと休憩しよ」
佐久が座り込んで、みんなでその場に円になって落ち着く。
3人は姫井より先に目が覚めていてこの建物を探索していたらしい。
「ここに来る前って、何やってたか覚えてる?」
ずっと思いだせないでいることを3人へ問いかけてみた。
誰か覚えているだろう、と。
「それが、誰も覚えてないらしい」
真堂が答えて、2人も頷いた。
4人とも覚えておらず、気がついたらここへ来ていたという。
「外に出ることもできないしな…」
名嘉が考え込んだ時、反対側の木にあったロープを思いだした。
きっとみんなすでに見ていると思うけれど。
「あのさ、ロープが吊ってあるの、見た?」
「ロープ?」
真堂の怪訝な声と、2人のわからないといった表情で、説明をするべく立ち上がる。
「こっち」
木を半周して、ついさっき見つけたロープを見せた。
「なんだこれ…」
「気味悪いね…」
「今まで気がつかなかったのかな…?確かにこっち側も見たはずなんだけど…」
どうやら誰も知らなかったようだ。
「これ、何か関係あるのかな…」
出られないことと、何か。
証拠は何もないけれど、他にヒントになりそうなものはなかった。
他の部屋も、広さや家具はそれぞれでも、シンプルなただの部屋だったというのだし。
「関係あったとして…どうやって?」
「まさかこれをそのまま使ったり…じゃない、よね?」
「そんなんでここから出られるとは思わないけど…」
それぞれの意見を交わしている姿を見て、なぜか安堵した。
一人で心細かったから安心したという意味だけではなく…。
ロープは確かに不気味だし、ここから出られないのは不便だ。
けれどここは、不思議とおなかがすかなければ、喉も乾かない。
気持ちいい空間と、いつも一緒にいた友達がいる。
考えることも「ここからでる方法」だけで他のことはなく、それならこのままでいいんじゃないかという気さえしてくる。
なぜか、ここから抜け出したいという気持ちが薄れていた。
「姫井はどう思う?」
「え?あー…わからないや」
思考がうまく働かないんだ。
少しだけ、靄がかかったような。
「真面目に考えてよ」
「そんなこと言われても、この場所も状況も、現実には思えないんだよ。だっておかしいでしょ?」
「確かに、そうだけど…」
「現実じゃ、ないのかも」
うん、それが一番納得できる答えだ。
じゃあこれは、夢なのかな。
「夢にしては感覚がリアルだけど」
「それに結構な時間、ここにいるよね」
「時計がないから正確な時間はわからない…そういえば太陽もずっと動かないな」
「夢なら醒めてもいいと思うんだけどなぁ」
「夢じゃないけど、現実じゃない、とか?」
夢じゃなく、現実でもない?
「それって結局どこになるの?」
「妄想世界とか…?」
「えー?」
「でも一番近い気はする」
夢よりリアルで、現実より揺らいでいる。
「結局、それってどうすれば戻れるの?」
「うーん…妄想だとすれば、“戻りたい!”って思えば戻れるとか?」
「そんな簡単にいく?」
うーん、と3人が目を閉じながら唸る。
姫井はそれを眺めているだけだった。
「ちょっと、姫井もやってよ」
「え?」
「もしかすると、4人全員が思わなきゃいけないのかもしれないし」
「…でも、なんだか嫌なんだよ」
「嫌?」
みんなの目がこちらを向いた。
責められているようで、少しだけ言葉に詰まった。
「っ。なんだか、ここが心地よくて。戻るのが不安になってきたんだ」
正直な気持ちを話すけれど、顔が見れなくて下を向いてしまった。
だから、みんながどんな表情をしているのかわからない。
「心地いい…。わからなくは、ないかも」
「出られない以外は自由ではあるし…」
「けど、何もないよ、ここには」
確かに、何もない。
それなのに、なんでこんなにここに居たいんだろう。
みんなと現実に戻れば、いろんな場所に行ったり、遊んだり…もっと楽しいことがあるのに。
「戻ろうよ」
名嘉が言って、佐久と真堂が頷いた。
なぜだか無性に寂しくなって、少し泣きたくなった。
「戻ったら…」
その先の言葉が続かない。
だって、みんなが泣きながら笑ってる。
どうして、そんな顔をするんだろう。
「次会った時は、思いっきり楽しいことしよう」
「こんな何もないとこじゃなくてさ」
「その時は、姫井が一番やりたいこと、最初にしよう」
頷くしか、なかった。
ついに溢れた涙の理由は、なんだろう。
きっと、いろいろな感情が混じってる。
「それじゃあ、目を閉じて。ちゃんと“戻りたい”って思ってよ」
「うん」
3人の視線を受けながら目を閉じる。
見えないけど、みんなも同じようにやっているのだろうか。
霞みがかった思考は、知らぬうちに眠りへ落ちていた。
ピッ…ピッ…と、一定になる電子音がいつの間にか聞こえている。
目覚まし?それにしては、随分間があいていて、静かな音だ。
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見えた。
気持ちよい風を感じて右に頭をずらすと、大きく開いた窓から入る風にクリーム色のカーテンが揺れている。
反対側に頭を向けると、病院でみるような機械と、左腕に刺さった点滴らしきもの。
…ここは、病院?
慌ただしい検査を終え、落ち着いた時に聞かされたのは、どうして病院にいたのかということだった。
友人と出かけるために乗っていたバスが、運転手の居眠りによって道から逸れた。
それがちょうど橋を通っている時だったため、川に落下。
乗客は一人を除いて死亡…一緒に乗っていた、友人も。
唯一助かった姫井は、2週間生死を彷徨い、いつ目が覚めるかわからない状態だったという。
その間、なんだか長い夢を見ていた気がする。
いや、夢ではなくて…あの3人の言葉で言えば、妄想か。
けれどあれが、自分一人が生み出した幻だとは思わない。
後から考えて、あそこに自分しか存在しなかったら、きっと発狂してしまっていただろう。
誰もいなくて、どこにもいけない。何もない。
心地よいと思ったのはあの3人が居たからだ。一人だったら、ただただ不気味なだけだった。
わかりやすく吊ってあったロープに頼ることも、あったかもしれない。
けれど、3人が居たから、言ったから、こうして戻れたのだと思う。そうに違いなかった。
姫井だけが帰ってきた。恐らく、生死の境目にいたのが姫井だけだった。
他の3人は即死と聞く。きっとみんなは姫井を思って助けてくれたのだろうけど。
言いたいことは、たくさんある。
だから、今度会った時には思い切り言って、ついでに数発殴ることだって厭わない。
だって、ずるいじゃないか。
みんながいない残りの人生を、一人で歩いて行くのだ。
その間、あの3人は向こう側で楽しく過ごしている。
全部終わってあっちへ行ったら、思い切り自慢してやるのだ。
残りの人生を思い切り楽しんで、その全てを聞かせて、羨ましがらせてやる。
「次に会ったとき」には、「楽しいこと」を、「姫井がやりたいことを」しようと言ってくれたのだから、このくらい構わないだろう。
そうして言うのだ。
あの時言えなかった、ありがとう、を。
主人公たちの名前は、ホラーを書こうとしてた名残です。
姫井、名嘉、佐久、真堂
当初の予定とはかなり内容が変わりましたが、これはこれで。