夢喰い
俺が異変に気づいたのは、図書館の前で変な男と出会い、消失してしまってからしばらく経った後だった。自転車に乗って帰り道を走っていると、誰かに見られているような、つけられている様な感覚に襲われた。信号で止まる度にあたりを見回すが、それらしい人影もない。かといって気のせいとも考えられなかった。再びペダルを回し始めると、俺の一挙一動を見透かしたかのようにキッチリついて来るのがハッキリ分かるほどだった。
つけられるような事は当然した覚えがなく、かといってこのまま家に帰るのもどうかと思い、周囲を軽く見回した後、俺はスピードを上げて吹っ切ろうと試みた。近くの曲がり角を右折し、住宅街の路地を何度も曲がりながら走り抜けて、ようやく視線を感じなくなったかと後ろをちらっと見てスピードを緩めて前を向きかけた…
その直後だった。
黒い靄が自転車の進行方向の上に大きく口を開けたのは。
「うわわわわっ!!!」
咄嗟に急ブレーキを掛け、バランスを崩しそうになりながら靄に突入する寸前で何とか自転車を止めた。
が、その靄は当然幻ではなく、現実だと確信した俺の頭の中を『警報』が埋め尽くしていく。
これは、これは間違いなく……
「夢喰い…!」
俺のやっと絞り出した声に呼応するように、靄の中心から、真っ黒な腕が俺の腕をつかもうとするようにばっと伸びてきた。
反射的に腕を庇い、同時に自転車を来た道へ向け直して全速力で漕いだ。
「クソッ!なんでっ、こんなところにっ、夢喰いがっ…!」
黒い靄。魔法界の知識が一般常識レベルしかない人間でも、瞬時にその現象が理解できる、『最悪』を指す現象の一つ。
夢喰いの発生だ。
魔法界の厳重警戒生物。人間や魔術使いの生気や希望などの力を喰らうという危険な存在。
既に人間界でも世界中で被害が多数発生し、夢喰い狩り専門の魔術使いが多数派遣されているが、日本は何故かその被害がほとんどなく、対策があまりとられていなかった。
そんな時に遭遇するとか…。
「マジかよっ…!っざけんなよ!!」
悪態をつきながらも必死にペダルを踏み、ほぼ立ち漕ぎ状態になってその場から離れようとする。
…が。
「なっ…。」
またしても進路方向に黒い靄を見つけ、俺は絶句し、止まってしまった。さっきと同じ様に、勢いよく伸びてきた腕は異様に細く、関節の部分のみ大きく膨らんでいるようだった。ずるずると伸び続け、いよいよ肩が見えそうになったところでようやく我に返った俺は左に逃げようとしたが既に遅く、気付けば完全に靄に囲まれてしまっていた。
逃げ道を探そうと考えているうちに、正面の靄からは完全にそれが全身を出し切った。
漆黒ともいえる黒い肌。栄養失調以上に痩せ細った腕と立つのがやっとに見える筋張った脚。そう認識できるのに煙の様にはっきりしない輪郭。頭に髪はなく、赤い目玉の様な2つの光のみがぎらぎらと光って見える。それ以外はのっぺりとして、気味が悪いとしか言いようがなかった。
そいつを食い入るように見てしまっているうちに、周りの靄から完全に夢喰いが全身を現してしまい、もはや逃げる隙も何もありはしなかった。
数は12体。倒す術なんてもちろん知らない俺にとっては絶望でしかない数だ。
せめて最期に一矢報いてやろうかと考えがよぎったか同時に、夢喰いが総出で飛び上がり、俺に向かって落ちてきた。
はずだった。
倒れ込んで衝撃を覚悟して目を閉じていたが一向に来ず、恐る恐る目を開いた。そこにはなんの変哲のない住宅街があり、ただ俺がへたり込んでいて、目の前にはアメジストによく似た宝石が降り注いでいた。その向こう側には、黒い先端の杖を持った水色の髪の白パーカーの人がいた。
…人?
待て待て待て、水色の髪の日本人がいるか。外人でもいないぞ。魔女モノのアニメのコスプレイヤーか?杖持ってるしな。けど宝石が降ってくる演出とか本格的……
「何を驚いている、人間。」
そう言った白パーカーはこちらを振り返ったと同時に、俺は何が起きたか、そいつが誰なのかを理解した。
「…魔術使い。」
振り返ったそいつの目は、
ルビーのように、逢魔が時の夕日のように、
真っ赤にひかり輝いていた。