最後の『何でもない日』
20☓☓年 秋
人間界 日本国 東京都・某所
夏の猛暑が嘘の様になくなった荒川の土手で、藍澤秀は寝転んで本を読んでいた。
時折近寄ってくる猫と遊んでいるその近くには誰もいない。
せっかくの連休なのにサッカー部の助っ人として強制参加された秀は、連休の頭から自分も行くはずだった2週間のアメリカ一周旅行に行ってしまった両親を妬んだ。
開校記念日と連休が重なった為、4日間学校を休めるが、遊びに行く金もない秀は残りの3日間をどう過ごそうか考えていた。
「…平和だなぁ…。」
そう一人つぶやいていた。
『魔法界』と〝繋がって〟から約20年。
学校の授業にも『魔法界』の歴史が入ってくるほど、交流が盛んになっていたが、現実は大して変わらず、『人間界』は同じ様な日々を送っていた。
秀も『魔法界』に関しては、一般常識並の事しか知らず、だからこそ一人空しくつぶやいていた。
〝何か〟が、足りない。
「…つまんねぇ。」
秀は再びつぶやくと本を片手に立ち上がった。
「じゃあな、ちび。」
そばにいた猫の頭を軽くなで、ジーンズについた草を払って歩き出した。
家に戻ろうとした秀はふと思い直し、近所の喫茶店『Night Cat』に立ち寄った。
「ども、透さん。」
その言葉を向けた先には、父の友人の不破透がカウンターで白磁の食器を拭いていた。
「いらっしゃい、秀君。」
「そんなにかしこまらなくてもいいっすよ。」
透がいつもの笑顔で店員のお決まりのセリフを言ったので、秀はなんだか照れくさくなった。
透とは小さいころからよくしてもらっていた。海外旅行好きの両親が秀を連れていけない時は、いつも透に預けていた。その為、透は秀の育ての親と言っても過言ではなかった。
「いつものかい?」
秀がカウンター席に座ると、透がさも当然のように聞いてきた。
「はい、お願いします。」
秀が返事を返すと、透は微かに頭を下げ、秀のお気に入りのコーヒーを用意しながら秀に再度尋ねた。
「退屈かい?」
「…さっきまで土手で本読んでたんっすけどねー。」
「飽きちゃったか。」
「…はい。」
秀のふてくされた返事に、透は「ふふ。」と微かに笑った。
「でも、サッカーの試合は勝ったんだろ?」
「まあ…、そうっすけど。」
「たしか、4対0だっけ。すごいねー。」
「あれ?教えましたっけ?」
秀は首を傾げた。
「観に行ったんだよ。秀君が出るって聞いたもんでね。」
「あ、そうでしたか。」
秀が納得した時、目の前にコーヒーカップが置かれた。
「お待ちどう様。」
そう言った透の緋色の髪が少し揺れた。
「相変わらずっすね。その紅い髪。」
秀がポツリと言った。言ってから秀ははっとした。
透の髪は、秀の記憶がはっきりしている頃から鮮やかな緋色だった。だが、不思議と変だとは思わなかった。
なのに、なぜ今気になったのだろうか。自分でも不思議だった。
「どうしたんだい、いきなり。」
透も何かを感じたのか、秀の顔を見て聞いた。
「いや…、なんでですかね。なんか急に気になって。」
秀はまた首を傾げた。そして、ふと思い立った。
「さっき、あれを考えてたからかな…。」
「なんだい?」
透が興味ありげに聞いてきた。
「いや…その…、『魔法界』のことを…。」
秀がそう言うと、透は不思議そうに首を傾げた。
「『魔法界』が、どうかした?」
そう尋ねてきたので、秀は答えることにした。
「…『魔法界』って、どんなとこかなって…。」
「どんなとこか?」
「はい。」
秀はコーヒーを一口飲んで、話を続けた。
「世界…、いや、『人間界』が『魔法界』と〝繋がって〟、もう20年くらいたったじゃないですか。けど、特に変わった事はなくて、結局いつも通りの日が過ぎてくから、そんな事なんかなかったんじゃって考えちゃうんですよ。」
またコーヒーを一口。
「…けど、俺が考えてたのって、そうじゃないんですよ。」
「どんな風に?」
透がまた尋ねた。
「なんと言うか…、魔法使いとかと普通に話してんじゃないのか、とか、手品とかじゃない、本当の『魔法』が見れたんじゃないのか、とか…。あまりにも変わらなすぎじゃないのかって…。ほら、透さんの髪って、染めなきゃありえない色じゃないですか。たぶんそれで…。」
そこまで言って、秀は言いよどんだ。
「うーん…、そうか。」
透は何かを考え始め、秀は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
1分ほどの沈黙を先に破ったのは、透だった。
「きっと…、これからだよ。」
「え?」
きょとんとした秀に、透は微笑みを浮かべながら続けた。
「きっと、秀君はこれから、この世界の変化を感じ取っていくんだよ。人って意外と鈍感でさ、その変化に気づくのは、結構後になってからなんだよ。」
そう言いながら、透はカウンターに手をついた。
「だから…、そう焦らなくていいんじゃないかな。」
そして、透は秀の頭をクシャクシャッと撫でた。
「ちょっ、透さん!」
秀は少したじろいだので、透は声を上げて笑った。
「それよりさ、今日の夕飯どうするの?」
透にそう話を振られたので、秀はハッとなった。
「やばっ!考えてなかった…。」
「良かったら、今夜一緒にどうかな?」
「え!いいんすか!?」
「ああ。」
透の笑顔に、思わず秀は笑みがこぼれた。
「んじゃっ、お言葉に甘えさせていただきます‼」
「わかった。じゃあ今夜、待ってるからね。」
「はい!」
秀が威勢よく答えると、透はまた笑った。
「あ、そだ。1回家に帰んなきゃ。」
秀がそう言うと、透も頷いた。
「じゃあ、コーヒー代はつけといてください!」
「またかい?相変わらずだねー。」
「はは…。月末払うんで!それじゃ!」
透に手を振りながら、秀は『Night Cat』を後にした。
誰もいなくなった店内で、透はカウンターに寄りかかり、眼鏡を外しながら天井を見上げ、小さくため息をついた。
「『あまりにも変わらなすぎている』、か…。」
そう言って下を向いた透の口には、さっきからは想像もつかない冷たい笑みが浮かんでいた。
「意外とそうでもないんだよ、秀君。」
「もうとっくに、君も巻き込まれてるからね。」