第六章 通信使の陰謀
朝鮮通信使の一行が、対馬を発つ前日のことだった。
蒼月は、卜部神社で朝の祈祷をしていた。いつもの、日課。しかし、その日は何か違った。
空気が、重い。
まるで、何か大きなものが、対馬全体を覆っているような。
蒼月は、亀卜を行った。
ひび割れは、これまで見たことのないパターンを示していた。
危険。
いや、危険以上の何か。
破滅。
蒼月は、すぐに紅蓮の家に走った。
しかし、紅蓮の家には、誰もいなかった。
ただ、床に血痕があった。
新しい血。
蒼月の胸が、凍りついた。
紅蓮が、攫われた。
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蒼月は、朝鮮通信使の宿泊所に向かった。
そこで、蒼月は彼に会った。
黒衣の道士。
玄冥と名乗った男は、朝鮮の道服を着ていた。しかしその道服は、普通のものとは違う。黒一色で、胸に奇妙な紋様が刺繍されている。
玄冥は、中庭に立っていた。そしてその足元には、縛られた紅蓮がいた。
「ようこそ、卜部蒼月殿」
玄冥の声は、静かだった。しかしその静けさには、狂気が滲んでいた。
「李紅蓮は、預からせていただいた。彼女は、我が計画に必要な存在でな」
「……何が、目的だ」
蒼月は、祝詞を唱える準備をしていた。しかし、玄冥の周囲には、強力な結界が張られている。
「境界を、消すことだ」
玄冥は、にっこりと笑った。
「日本と朝鮮の境界。それを消せば、二つの国は一つになる。争いもなくなる。完璧な、統一が実現する」
「……正気か」
「正気だとも。私は、何十年もこの日を待っていた。境界神が目覚める日を。境界神を利用すれば、海峡を消すことができる」
玄冥は、紅蓮を指差した。
「そして、李紅蓮の血が必要だ。日本と朝鮮、両方の血を引く者の血。それを境界神に捧げれば、封印が完全に解ける」
紅蓮が、呻いた。口には猿ぐつわが噛まされ、声は出ない。しかし目は、蒼月を見ていた。
その目は、何かを訴えていた。
逃げろ、と。
蒼月は、動かなかった。
「……李氏を、離せ」
「断る」
玄冥は、懐から短刀を取り出した。
「今夜、満月だ。儀式を行う。李紅蓮の血を海に流し、境界神を呼び出す」
蒼月は、祝詞を唱え始めた。
しかし、その瞬間、玄冥が手を振った。
蒼月の体が、見えない力で吹き飛ばされた。背中が、壁に叩きつけられる。肋骨が、軋む音がした。
「無駄だ。私の術は、日本の術よりも、朝鮮の術よりも、上だ。両方を学び、その上を行く術を編み出した」
玄冥は、蒼月に近づいた。
「お前も、もう少しで理解できたかもしれないな。境界の術を。しかし、遅すぎた」
玄冥は、蒼月の胸を蹴った。
蒼月の口から、血が噴き出した。
視界が、霞む。
しかし、蒼月は立ち上がった。
ふらつきながら、しかし確実に。
「……行け。そなたが死ねば、全てが終わる」
蒼月は、紅蓮に向かって言った。
しかし紅蓮は、首を横に振った。
その目は、涙で潤んでいた。
そして、その涙の奥に、怒りがあった。
「バカ!」
紅蓮は、猿ぐつわを噛み切った。
「あんたみたいな頑固者、一人で死なせないから!」
紅蓮の体から、光が迸った。
赤金の、激しい光。
縄が、焼き切れた。
紅蓮は立ち上がり、玄冥に向かって鈴を振った。
リンリンリンリン!
音が、玄冥の結界を揺らす。
玄冥は、驚いた表情を見せた。
「まさか、縄を自力で……」
「舐めないで。私は、母の娘よ。境界の巫女の、娘!」
紅蓮は、蒼月の手を取った。
「走るわよ!」
二人は、宿泊所から逃げ出した。
背後で、玄冥の怒号が響く。
「逃がすな! 捕らえろ!」
しかし、二人は振り返らなかった。
ただ、走った。
海岸へ。
境界神が眠る、海峡へ。
## 第七章 海神降臨
海峡の中心に、渦が現れた。
最初は小さな渦。しかしそれは、見る間に巨大になっていった。直径十間、いや、二十間。海水が、轟音を立てて回転している。
その渦の中心から、何かが浮上してきた。
最初は、光だった。青白い光と、金色の光が混ざった、奇妙な色の光。
そして、その光が形を成した。
巨大な、人型。
いや、人型ではない。人と龍と、何か別のものが混ざった、異形。
上半身は、日本の海神・綿津見神の姿。老人の顔、長い髭、波の模様の衣。
下半身は、朝鮮の龍王の姿。鱗に覆われた体、鋭い爪、渦巻く尾。
そして、その全体から、境界の匂いがした。
錆びた鉄と、腐った魚と、新しい生命が混ざったような、複雑な匂い。
境界神・海牟遅神が、完全に覚醒した。
「境界ハ……消エル……」
境界神の声は、二つの言語が重なっていた。日本語と朝鮮語が、同時に響く。
「全テハ……混沌ニ還ル……」
海が、沸騰し始めた。
いや、沸騰ではない。海水が、光に変わっている。対馬全体が、その光に包まれていく。
蒼月と紅蓮は、海岸に立っていた。
蒼月の肋骨は、まだ痛んでいた。しかし、それどころではない。
「……これが、境界神か」
「ええ。母が、封じようとしたもの」
紅蓮の声は、震えていた。
しかし、恐怖ではない。
決意の震え。
「蒼月、準備はいい?」
「……わからぬ。我らの術が、あれに通じるかどうか」
「通じなくても、やるしかないでしょ」
紅蓮は、鈴を取り出した。
蒼月は、亀甲を取り出した。
二人は、同時に術を始めた。
蒼月が、祝詞を唱える。
「掛けまくも畏き、伊邪那岐の大神……」
紅蓮が、呪文を唱える。
「바다의 신이여, 하늘의 신이여(海の神よ、天の神よ)……」
二つの声が、重なり合う。
しかし、境界神は動じない。
「無駄ダ……我ハ境界……消エヌ限リ、在リ続ケル……」
境界神の腕が、蒼月と紅蓮に向かって伸びてきた。
巨大な、水と光でできた腕。
その腕が、二人に触れた瞬間、蒼月は理解した。
これは、殺すためではない。
取り込むため。
境界神は、全てを境界にしようとしている。日本も、朝鮮も、人間も、神も、全てを「あわい」にして、混沌に還す。
「……紅蓮」
蒼月は、紅蓮の手を握った。
「そなたの、いや、紅蓮の術を教えてくれ。全てを」
紅蓮は、蒼月の目を見た。
その目には、もう迷いがなかった。
「いいわよ。じゃあ、蒼月も教えて。全部」
二人は、互いの術を、完全に共有した。
蒼月が、紅蓮の舞を踊る。
紅蓮が、蒼月の祝詞を唱える。
いや、違う。
蒼月の舞は、もう紅蓮の舞ではない。
紅蓮の祝詞は、もう蒼月の祝詞ではない。
二人の術が、完全に融合した、新しい術。
それは、誰も見たことのない、境界の術だった。




