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【短編小説】境界の守人―対馬退魔譚―  作者: 霧崎薫


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第四章 母の記憶

 紅蓮の家に戻ったとき、夜はもう深かった。オンドルの床は冷めかけていたが、紅蓮が薪を足すと、また温かくなり始めた。


 蒼月は、部屋の隅に座り、頬の傷に薬草を塗っていた。紅蓮が用意してくれた、朝鮮の薬草。匂いは強烈だが、効果は確かだった。


 紅蓮は、奥の部屋から、古い木箱を持ってきた。桐の箱。蓋には、朝鮮語と日本語で、何か文字が刻まれている。


「母の、遺品」


 紅蓮は、箱を開けた。


 中には、日記、銅鏡、鈴、そして一枚の布があった。布には、複雑な図形が刺繍されている。円と三角と線が組み合わさった、幾何学的な模様。


「これ、見たことある?」


 紅蓮は、布を蒼月に見せた。


 蒼月は、息を呑んだ。


「……これは、卜部神社の秘伝の、結界図だ」


「そうなの?」


「何故、そなたの母上が、これを」


 紅蓮は、日記を開いた。ページは黄ばみ、虫食いの跡もある。しかし文字は、まだ読める。日本語と朝鮮語が、混在している。


「読むわね」


 紅蓮は、日記を音読し始めた。


「享保四年、水無月。境界神の封印が、弱まっている。夢で見た。巨大な、水と光の塊が、海底で目を覚ます夢。私が封じなければ、対馬が沈む」


 紅蓮の声は、震えていた。


「享保五年、長月。卜部の神職と会った。彼は、私に結界の術を教えてくれた。日本の術と、朝鮮の術を組み合わせれば、境界神を鎮められるかもしれない、と」


 蒼月の背筋が、凍りついた。


「……それは、我が父のことか」


「たぶん。名前は書いてないけど」


 紅蓮は、ページをめくった。


「享保九年、霜月。封印は、もう限界だ。毎月の儀式では足りない。境界神は、完全に目覚めつつある。誰かが、身を投じなければ」


 最後のページには、短い文が一行だけ書かれていた。


「紅蓮、ごめんね。母は、境界を守るために行くわ。あなたは、生きて。そして、新しい封印を見つけて」


 紅蓮は、日記を閉じた。


 涙は流していなかった。しかし、手が震えていた。


「……母は、自分から海に行ったの。境界神を鎮めるために。でも、それは一時的な封印でしかなかった。十年経って、また目覚め始めてる」


 蒼月は、自分の父のことを思い出していた。


 十年前、父は海に出た。そして、戻ってこなかった。遺体が見つかったのは、三日後。体中に、奇妙な傷があった。まるで、水に溶かされたような傷。


「異国の魔に殺された」と、蒼月は信じていた。


 しかし、もしかしたら。


「……我が父も、境界神と戦っていたのかもしれぬ」


 蒼月の声は、掠れていた。


「そなたの母御と、共に」


 紅蓮は、蒼月を見た。


 二人の視線が、交錯した。


 孤独と孤独が、触れ合った。


「……あんたの父と、私の母。二人とも、境界を守るために死んだ」


「……左様」


「じゃあ、私たちも、同じことをしなきゃいけないの? 境界を守るために、死ぬの?」


 蒼月は、答えられなかった。


 卜部神道では、犠牲は美徳だ。己を捨てて、大いなるもののために尽くす。それが、神職の道。


 しかし、蒼月は、もう誰も死なせたくなかった。


 父も。紅蓮の母も。


 そして、紅蓮も。


「……いや」


 蒼月は、自分でも驚くほど強い声で言った。


「我らは、生きて、封印を完成させる」


 紅蓮の目が、見開かれた。


「新しい、術を創る。日本の術と、朝鮮の術を、正しく融合させた、新しい封印術を」


「……できるの?」


「……わからぬ。しかし、やらねばならぬ」


 蒼月は立ち上がった。


「明日、卜部神社の古文書を調べる。そなたも、来い」


「……うん」


 紅蓮は、初めて、蒼月に素直に従った。


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