第三章 海の底から
夜の海岸は、月明かりだけで青白く光っていた。波が、規則的に岩を打つ。引いては返し、引いては返し。永遠に繰り返される、海の呼吸。
蒼月と紅蓮は、海岸の岩の上に座り、海を見つめていた。
張り込み、と主水は言った。船が消える場所は、大体この辺りだ、と。しかし具体的な時刻はわからない。だから、夜通し見張るしかない。
蒼月は、亀甲を膝の上に置いていた。まだ焼いていない。焼くのは、何かの気配を感じたとき。今は、ただ待つ。
紅蓮は、隣で鈴を磨いていた。布で、一つ一つ丁寧に。
「ねえ」
紅蓮が、突然話しかけてきた。
「なんで私の術が、そんなに嫌なの?」
蒼月は、答えなかった。
「日本の術と朝鮮の術、混ぜちゃいけないの? どっちも神様に祈るのは同じでしょ?」
「……違う」
「何が?」
「神が、違う」
蒼月は、海を見たまま言った。
「日本には、日本の神がおられる。朝鮮には、朝鮮の神がおられる。それを混ぜることは、冒涜だ」
「でも、境界神は?」
「……あれは、例外だ」
「例外? じゃあ私も例外じゃない。日本と朝鮮の間に生まれた、境界の子供」
紅蓮は、自分の顔を指差した。
「この顔、どっちにも見えるでしょ? 日本人にも、朝鮮人にも。どっちでもない」
蒼月は、紅蓮の顔を見た。確かに、どちらとも言えない顔立ち。目は大きく、鼻筋は通っている。しかし、どこか日本人離れした、異国の雰囲気がある。
「……そなたは、辛くないのか」
「何が?」
「どちらでもない、ということが」
紅蓮は、笑った。しかしその笑いは、いつもより弱々しかった。
「辛いわよ。めちゃくちゃ。日本人からは『朝鮮の血』って言われて、朝鮮人からは『日本育ち』って言われて。どこにも居場所がない」
紅蓮は、鈴を見つめた。
「でもね、母は言ってた。『境界にいるから、両方を繋げるのよ』って。境界は、弱さじゃない。強さなんだって」
蒼月は、何も言えなかった。
その時、海が変わった。
波の音が、止まった。
いや、止まったわけではない。音の質が変わった。まるで、水ではなく油が岩を打っているような、重く、粘性のある音。
蒼月は立ち上がった。亀甲を取り出し、火を入れる。
ひび割れが走る。パターンは、複雑だった。まるで、何か巨大なものが海底で蠢いているような。
「来る」
蒼月の声と、紅蓮の声が、同時に重なった。
海面が、盛り上がった。
最初は、小さな膨らみ。しかしそれは急速に成長し、やがて巨大な水の塊になった。そしてその塊が裂け、中から何かが現れた。
触手。
いや、触手ではない。もっと不定形な、水と肉が混ざったような、半透明の腕。その腕には無数の目があり、全ての目が別々の方向を向いている。
紅蓮が、叫んだ。
「수귀(スィグィ)! 水鬼よ!」
紅蓮は鈴を振り始めた。リンリンリンリン。音が、空気を切る。
蒼月は祝詞を唱えた。
「祓へ給ひ、清め給へ、神ながら……」
青白い光が、蒼月の周りに現れる。結界。しかし水鬼の触手は、その結界を簡単に突き破った。まるで、紙を破るように。
蒼月は、咄嗟に横に飛んだ。触手が、蒼月がいた場所の岩を砕く。岩の破片が、顔に当たる。左頬の傷が、裂けた。血が流れる。
「蒼月!」
紅蓮が走ってきた。鈴を振りながら、朝鮮語で何か叫んでいる。水鬼の触手が、紅蓮に向かって伸びる。
紅蓮は、懐から鏡を取り出した。銅製の、古い鏡。その鏡を触手に向ける。
鏡面に、触手が映った。
その瞬間、触手が硬直した。まるで、自分の姿を見て驚いたように。
紅蓮は、鏡に向かって呪文を唱えた。
「거울 속의 그림자여, 네 주인을 묶어라(鏡の中の影よ、汝の主を縛れ)!」
鏡の中で、触手が動いた。本物の触手とは逆方向に。そして、本物の触手も、鏡に引きずられるように動き始めた。
「蒼月! 私に合わせて!」
紅蓮の声。
蒼月は、一瞬躊躇した。異国の術に、合わせる? それは、卜部神道の教えに反する。しかし……
蒼月は、祝詞を変えた。
「綿津見の大神、海原を治め給ふ御神……」
青白い光が、形を変えた。結界ではなく、網のような形。その網が、水鬼の触手に絡みつく。
紅蓮の赤金の光と、蒼月の青白い光が、触手の上で混ざり合った。
水鬼が、悲鳴を上げた。人間の声ではない。もっと原初的な、存在そのものが発する叫び。
触手が、海に引っ込んでいく。
しかし、完全には消えなかった。海面の下で、まだ蠢いている。
蒼月と紅蓮は、息を切らしながら、海を見つめた。
「……逃げた」
「ええ。でも、また来る」
紅蓮は、鏡を懐にしまった。
「今のは、本体じゃない。ただの、触手の一本」
蒼月は、頬の血を拭った。傷は深くない。しかし、痛い。
「……そなたの術、効いた」
「当たり前でしょ。朝鮮の水鬼には、朝鮮の術が効くの」
紅蓮は、蒼月の顔を覗き込んだ。
「でも、あんたの術も効いた。日本の術と、朝鮮の術、混ぜたら、もっと強くなった」
蒼月は、何も言わなかった。
しかし、心の奥で、何かが変わり始めていた。
「……信じられるか」
蒼月の声は、小さかった。
「何が?」
「そなたの、術が」
紅蓮は、にっこりと笑った。
「信じなくていい。使って」
蒼月は、紅蓮の目を見た。
その目には、孤独がなかった。
代わりに、何か強いものが宿っていた。
それは、希望だった。




