第二章 境守と半端者
卜部神社の社務所は、海を見下ろす崖の上にある。縁側に座れば、対馬海峡全体が視界に入る。晴れた日には、朝鮮半島の山々まで見える。蒼月は子供の頃、父に連れられてここに座り、「あれが釜山だ」「あれが金海だ」と教わった。
しかし今日は霧が深い。海峡は、白い布をかけられたように、何も見えない。
蒼月は縁側に正座し、新しい亀甲を手に取った。これは、対馬近海で獲れた海亀の甲羅。父の代から使っているもの。表面には無数の焼け跡があり、過去の卜占の痕跡が層になって残っている。
火を入れる前に、蒼月は甲羅に向かって囁いた。
「教えてくれ。父を殺したのは、何だったのか」
答えは返ってこない。亀の甲羅は、ただの物質だ。しかし焼けば、ひび割れの形が何かを語る。偶然ではない。卜部神道では、偶然こそが神の意志だと考える。
火を入れる。
甲羅が、ミシミシと音を立てる。ひび割れが走る。蒼月は、そのパターンを読む。
三本の線。いや、四本。いや、五本。線が交差し、複雑な図形を作る。蒼月は、その図形を何度も見たことがあった。
「境界の乱れ」を示す図形。
父が死んだ日も、同じ図形が出た。
蒼月は、ゆっくりと息を吐いた。肺の中の空気が全て出ていくまで、時間をかけて。
背後で、襖が開く音がした。
「卜部様、対馬藩の柳川主水様がお見えです」
若い神職の声。蒼月は亀甲を置き、立ち上がった。
柳川主水は、対馬藩の家老職。朝鮮との外交を一手に担う、実質的な藩の最高権力者。蒼月より十歳ほど年上、白髪混じりの髪を丁寧に撫でつけ、紺色の裃を着ている。顔には深い皺が刻まれ、特に目尻の皺が印象的だった。常に笑っているような顔。しかしその目は、決して笑っていない。
「卜部殿、ご無沙汰しております」
主水は、丁寧に頭を下げた。蒼月も礼を返す。
「本日は、緊急の相談でござる」
主水は、蒼月の隣に座った。縁側から海を見る。霧で何も見えない海を。
「最近、海峡で奇妙な事が起きておる。船が、消えるのだ」
「……消える?」
「左様。朝、港を出た船が、夜になっても戻らぬ。捜索しても、破片一つ見つからぬ。まるで、海に呑まれたように」
主水の声は、静かだった。しかしその静けさの底に、何か押し殺したものがある。
「これまでに、五隻。乗組員は合わせて二十三名。皆、対馬の漁師たちだ」
蒼月は、亀甲を見た。「境界の乱れ」の図形。
「……海の魔、でござるか」
「おそらく。しかし、我が藩の陰陽師では手に負えぬ。日本の術だけでは、対処できぬらしい」
主水は、蒼月の目を見た。
「そこで、提案がある。李紅蓮という巫女を、ご存知か」
蒼月の背筋が、硬直した。
「……知っておる」
「彼女は、日本と朝鮮、両方の術を使える稀有な存在。しかも、海の魔に詳しい。母親が、かつて海峡の境界を守る巫女であったそうだ」
「その母親は、今は」
「十年前に、消えた。海峡で、船ごと」
蒼月の胸の奥が、ざわついた。十年前。父が死んだのも、十年前だった。
「卜部殿に、お願いがある。李紅蓮と共に、この事件を解決していただきたい」
「……この者と、共に?」
蒼月の声は、掠れていた。
「左様。一人では無理だ。日本の術者と、朝鮮の術者。両方の力が必要なのだ」
主水は立ち上がり、蒼月に向かって深々と頭を下げた。
「対馬のために。頼む」
蒼月は、返事ができなかった。
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その夜、蒼月は紅蓮の家を訪ねた。
紅蓮の家は、府中の外れ、朝鮮人街の一角にあった。日本家屋と韓屋が混ざったような奇妙な建物。屋根は日本式の瓦葺きだが、壁は朝鮮式の白壁。玄関の戸は障子だが、その向こうに見える部屋は板の間ではなく、オンドル式の床暖房が敷かれている。
蒼月が戸を叩くと、すぐに紅蓮が出てきた。
「あら、珍しい。化石が自分から動くなんて」
紅蓮は、昼間とは違う服を着ていた。朝鮮の平服。白い韓服に、赤い帯。髪は解いて、長く背中に垂らしている。
「……話がある」
「立ち話もなんだから、上がんなさいよ」
紅蓮は、蒼月を中に招き入れた。
部屋の中は、奇妙な匂いで満たされていた。朝鮮の香辛料と、日本の線香が混ざったような匂い。壁には、両国の神々の絵が並んで掛けられている。綿津見神と、龍王。天照大神と、檀君。まるで、どちらが正しいかを競わせているような配置。
「お茶、飲む?」
「……不要」
「そう。じゃあ私だけ飲むわ」
紅蓮は、朝鮮の伝統茶、柚子茶を淹れ始めた。柚子の皮を薄く剥き、蜂蜜に漬けたもの。それを湯に溶かす。甘く、酸っぱい匂いが部屋に広がる。
「で、何の用? まさか謝りに来たとか?」
「……柳川様から、依頼があった」
蒼月は、主水から聞いた話を、簡潔に説明した。船の消失。海の魔。協力の必要性。
紅蓮は、黙って聞いていた。柚子茶を啜りながら。表情は、いつもの明るさがない。
「……そう。やっぱり、始まったんだ」
「何が」
「境界の、崩壊」
紅蓮は、茶碗を置いた。
「蒼月、あんた、境界神って知ってる?」
「……海牟遅神のことか」
「そう。日本の海神でも、朝鮮の海神でもない、その間に生まれた存在。対馬海峡の底に眠ってる、って伝説」
「伝説に過ぎぬ」
「違う。本当にいるの」
紅蓮の声は、真剣だった。
「私の母は、境界神を封じる巫女だった。毎月、満月の夜に海に出て、儀式をしてた。日本の祝詞と、朝鮮の呪文を唱えて、境界神を鎮めるの」
「それが、十年前に」
「消えた。船ごと。遺体も、破片も見つからなかった」
紅蓮の目が、僅かに潤んでいた。しかしすぐに、笑顔を作る。
「だからさ、私が代わりにやってるの。毎月、儀式。でも最近、効かなくなってきてる。境界神が、目覚めつつある」
蒼月は、紅蓮の顔を見た。笑顔の下に隠された、深い孤独。それは、蒼月自身が抱えているものと同じだった。
「……そなたの母上は、なぜ消えたのだ」
「わからない。でも、たぶん……」
紅蓮は、言葉を切った。
「境界に、呑まれたんだと思う。封印が弱まって、境界神が暴れて、母はそれを止めるために、自分の命を……」
紅蓮は、それ以上言えなかった。
蒼月は、自分の左頬に触れた。古傷。父の血が、ここに飛んできた。
「……我が父も、十年前に死んだ」
紅蓮が、顔を上げた。
「異国の魔に、殺された。それ以来、私は……」
蒼月の声が、震えた。
「異国の術を、信じられなくなった」
沈黙。
オンドルの床が、じんわりと温かい。蒼月の体温が、床に吸い取られていく。
「……でも、協力しなきゃいけないのよね」
紅蓮は、立ち上がった。
「私も嫌なんだけど。あんたみたいな頑固者と組むなんて」
「……同じく」
「でも、対馬のためだから。仕方ないわね」
紅蓮は、手を差し出した。
蒼月は、その手を見た。小さな、しかし傷だらけの手。鈴を振りすぎて、掌にタコができている。
蒼月は、その手を握った。
初めて、異国の術者の手に触れた。
思ったより、温かかった。




