第一章 異国の巫女
港の石畳が、朝露で黒く濡れている。享保十九年、霜月の明け方。対馬府中の入り江に、朝鮮通信使の船団が錨を下ろした音が、蒼月の胸の奥で反響していた。
卜部蒼月は卜部神社の石段に立ち、海峡を見下ろしていた。白い吐息が、唇の前でゆっくりと形を崩していく。左頬の古傷が、冬の風に触れて疼く。十七年前、父の葬儀の日も、こんな風が吹いていた。
亀甲を両手で包む。表面の細かな凹凸が、掌の皮膚に食い込む。焼いてはいない。まだ。しかし甲羅の内側から、何かが蠢いている。気配。いや、気配以前の、存在の予兆のようなもの。
対馬の空気は、いつも二つの国の匂いを孕んでいる。北からは朝鮮半島の、松の樹脂と発酵した豆の匂い。南からは日本の、畳と醤油の匂い。その二つが海峡の真ん中で混ざり合い、どちらでもない第三の匂いになる。蒼月はその匂いの変化で、境界の揺らぎを感じ取ることができた。
今朝の匂いは、いつもと違う。
腐った魚でもない。潮の匂いでもない。強いて言えば、錆びた鉄を舐めたときの、あの金属質な血の味に近い。舌の奥が、じわりと痺れる。
「……来たか」
声に出す必要はない。しかし蒼月は、父から教わった通りに、必ず声に出して言葉にする。言霊は、声帯の振動を通して初めて力を持つ。心の中で唱えた祝詞は、ただの思念に過ぎない。
足元の草鞋の藁が、一本、風で抜ける。
港の方角から、悲鳴が聞こえた。
蒼月は走らなかった。走ることは、冷静さを失うことだ。狩衣の裾を両手で掴み、石段を一段ずつ、確実に降りていく。右足、左足、右足、左足。呼吸を整える。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
港に着いたとき、蒼月が見たものは、人間の形をしていなかった。
それは、鬼面を被った何かだった。朝鮮通信使の船から這い出たそれは、四つん這いで石畳を這い、近くにいた荷役の男の喉笛に食らいついていた。男の首から、噴水のように血が噴き出す。赤い液体が、朝日を浴びて虹色に輝く。
鬼面の魔物は、男の肉を引き千切りながら、奇妙な音を発していた。笑い声でもない。泣き声でもない。その中間のような、くぐもった、湿った音。
蒼月は懐から亀甲を取り出した。掌に乗せ、火打ち石を打つ。火花が散る。一度、二度、三度。四度目で、甲羅の表面に火が移った。
焼ける亀の匂い。蒼月は目を閉じない。父は言った。「卜部の者は、亀の苦しみから目を逸らしてはならぬ。我らは、命を使って未来を読むのだ」
甲羅にひび割れが走る。一本、二本、三本。ひび割れの形が、文字になる。いや、文字ではない。もっと古い、形そのものが意味を持つ記号。
蒼月は祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き、伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に……」
声が、空気を震わせる。震動が、同心円状に広がっていく。鬼面の魔物が、動きを止めた。首だけをこちらに向ける。鬼面の目の穴から、何か赤いものが覗いている。
「禊ぎ祓ひ給ひし時に、生り坐せる祓戸の大神等……」
蒼月の周囲に、薄く青白い光の膜が現れる。これが結界。卜部神道の基本。しかし、この魔物には効かない。蒼月は知っている。異国の魔には、日本の言葉だけでは届かない。
鬼面の魔物が、蒼月に向かって跳躍した。
その瞬間、鈴の音が響いた。
リン、リン、リンリンリン。
軽快な、しかし耳に残る、金属質な音。鬼面の魔物が空中で硬直し、そのまま石畳に叩きつけられる。骨が砕ける音。肉が潰れる音。
鈴の音の方向から、女が走ってきた。
いや、走っているというより、舞っていた。赤と青の韓服の上衣が、朝日を浴びて翻る。長い黒髪が、鞭のようにしなる。両手に鈴を持ち、腰には無数の小さな鈴が下がっている。足は裸足。赤い紐が足首に巻かれ、走るたびに石畳に血のような跡を残していく。いや、血ではない。紅花の染料だ。
「あーあ、また始まってる! 蒼月、あんたいっつもそうなのよね、一人で何とかしようとして!」
女は蒼月の横を通り過ぎ、鬼面の魔物の前で立ち止まった。鈴を振る。リンリンリンリンリン。音が、波紋のように広がる。
そして、女は歌い始めた。
いや、歌ではない。呪文。しかし節がついている。朝鮮語と日本語が、まるで織物の縦糸と横糸のように混ざり合っている。
「바다의 신이여, 바람의 신이여(海の神よ、風の神よ)、綿津見の大神、龍宮の王よ、이 땅과 저 땅 사이에(この地とあの地の間に)、境を乱す者を縛れ、묶어라, 가두어라(縛れ、閉じ込めよ)!」
女の周囲に、赤と金の光が渦巻き始める。蒼月の青白い光とは対照的な、生々しく、粘性のある光。まるで血液と炎を混ぜたような色。
鬼面の魔物が、悲鳴を上げた。今度は明確に、苦しみの声だった。体が、内側から光に侵食されていく。鬼面が剥がれ落ちる。その下には、人間の顔があった。いや、かつて人間だったものの顔。既に目は白濁し、口からは泡を吹いている。
蒼月は、最後の祝詞を唱えた。
「諸諸の禍事、罪、穢れ有らむをば、祓へ給ひ清め給へと申す事の由を、天つ神、国つ神、八百万の神等、共に聞こし召せと、恐み恐みも白す」
青白い光と、赤金の光が、一瞬だけ交錯した。
鬼面の魔物は、光の中で塵になった。
後には、焦げた匂いと、朝鮮製の木製の鬼面だけが残った。
蒼月は、女を見た。女も、蒼月を見返した。
沈黙。
蒼月の喉の奥が、カラカラに乾いている。何か言わなければならない。しかし何を。女の術は、確かに魔を弱らせた。しかしそれは、邪道だ。日本と朝鮮の術を混ぜ合わせるなど、言語道断。そもそもこの女は……
「……邪魔をしてくれたな」
蒼月は、自分でも驚くほど冷たい声で言った。
女の目が、見開かれた。
「はぁ!? お礼の一つもないわけ!?」
女の声は、甲高く、そして怒りに震えていた。
「私がいなかったら、あんた今頃あの鬼面に食われてたのよ! 日本の術だけじゃ、あんなの祓えないって、何回言えばわかるの!」
「……我が術で、十分に対処できた」
「嘘おっしゃい! あんたの結界、全然効いてなかったじゃない! 亀の甲羅焼いてひび読んで、古臭い祝詞唱えて、それで何になるのよ!」
蒼月の左頬の傷が、また疼いた。
「……そなたの名は」
「李紅蓮。知ってるくせに。対馬で一番有名な、『半端者の巫女』でしょ?」
紅蓮は、自嘲的に笑った。
蒼月は何も言わなかった。言葉が、喉の奥で固まっている。
港の人々が、ゆっくりと集まり始めていた。死んだ男を囲み、嘆きの声を上げる。蒼月は、その声から逃げるように、踵を返した。
「待ちなさいよ! 話はまだ……」
「……不要」
蒼月は、振り返らなかった。




