第3話:必殺……パンチ!
この女神は、ひょっとして救いようのないポンコツなのではないだろうか。 旅を始めて数時間、俺の中にそんな確信に近い疑念が芽生え始めていた。 先ほどから、彼女の口から飛び出すのは理解しがたい「解説」ばかりだ。
まず、この世界には「レベル」という概念があるらしい。 その上昇に伴い、様々な「スキル」なる超常現象を習得できるのだという。 たとえば、野球選手がホームランを打つためには、それなりの筋肉を育て、技術を磨き、幾多の失敗を経てようやく一打を放つ。赤ん坊がいきなりフェンス越えを打てるわけがない。 その「努力のプロセス」を数値化したものがレベルだという説明なら、俺にも理解できる。
だが、納得いかないのはその先だ。 その「目に見えない努力の結晶」を、女神であるイリスは数値として覗き見ることができるというのだ。
「いいか、イリス。人間、年齢ならともかく、己の価値を数値で決めつけられたらたまったもんじゃない。それにだ、百歩譲ってそのシステムが正しいとして……なぜ俺の数値だけが見えないんだ?」 「だからぁ、それがわからないから困ってるんですぅ! 普通、召喚された直後は『Lv1』ってハッキリ見えるはずなのに、ミスターの頭の上には何も出てこないんですよ!」
女神ですら見破れない、俺の鋼の筋肉……。 いや、鋼というにはおこがましい。所詮は元サラリーマンの趣味。週4〜5回のジム通いで作り上げた、いわゆる「細マッチョ」の範疇だ。神の眼を欺くほどの神秘が宿っているとは到底思えない。
「ミスターには何か、神界の理を超えた秘密が……きゃっ!?」
イリスが可愛らしい悲鳴を上げた。 視線の先、茂みを割って現れたのは、成人の背丈ほどもある巨大な犬だった。 だが、ただの犬じゃない。首の付け根から、歪な二つの頭が生えている。
「な、何だあれは。ダブルバイセップスならぬ、ダブルヘッド……」 「ミスター、気をつけて! 『バウンドウルフ』です! その牙に噛まれたら、骨も肉も根こそぎ持っていかれます!」
「……何だと?」
俺の中で、静かな、しかし熱い怒りが沸点に達した。 骨はいい。だが、肉だと? 俺が毎日、鶏のささ身を貪り、プロテインをシェイクし、血の滲むような思いで肥大させてきたこの「大腿四頭筋」や「上腕三頭筋」を……泥棒猫ならぬ泥棒犬が、タダで持っていこうというのか!?
「……俺の筋肉(財産)を、横取りさせるわけにはいかない」 「えっ、そっち!? 命じゃなくて筋肉の心配!?」 「イリス、下がってろ。可動域を確保する」
バウンドウルフは名前の通り、バネのような脚力で跳ねるように襲いかかってきた。 一気に上空へ飛び上がり、鋭い牙を剥き出しにして、俺の僧帽筋めがけて落ちてくる。
――なぜだろう。 生まれて初めて直面する生命の危機。それなのに、恐怖を通り越して、相手の動きが【めちゃくちゃ遅く】見える。 筋肉を意識しているせいか、奴がどの筋肉を使い、どの角度で重心を移動させているかが、手に取るようにわかるのだ。
俺は半身になり、右の拳に全体重を乗せる。 足首から膝、腰、広背筋、そして肩へと力を連動させる。これは格闘技ではない。効率的な「筋力の出力」だ。
飛び込んできた筋肉泥棒の、片方の鼻先へ渾身の右アッパーを叩き込んだ。
「――フンッ!!」 「きゃううううううううううううううっ!!??」
悲痛な叫びとともに、巨体が放物線を描いて遥か彼方へと飛んでいく。 あれ、俺ってこんなにパンチ力あったか? アン●ンマンか何かになった気分だ。
「……すごすぎる」
イリスが呆然とした様子で、点になった狼を見送っていた。
「加護もスキルも受けていないただの人間が、あんな上位モンスターをパンチ一つで……。どうなっているの? ミスター、あなた本当に何者?」 「……あのワン公、見かけ倒しだったな。もっとバルクを鍛えたほうがいい」
俺は拳についた砂を払い、呼吸を整える。 だが、イリスの驚愕には正当な理由があった。 狼が吹き飛んでいく瞬間、イリスの女神の眼には、間違いなくそのモンスターの格付けが表示されていたのだから。
【バウンドウルフ:Lv50】
この付近に生息するはずのない、初心者勇者なら一瞬で噛み殺される絶望的な高レベルモンスター。 それを、レベル表記すら出ない「数値の外側にいる男」が、ただのパンチで地平線の彼方へスクラップしたのだ。
―――魔王城。
玉座に座る魔王は、手元の魔鏡を二度見した。
『勇者候補に、バウンドウルフが撃破されただと……?』 「は、はっ! 偵察に放った個体が、何やら一撃で……」 『馬鹿な!? 召喚直後の勇者など、せいぜいLv1。それなりの戦闘力を持つLv50を差し向けたはずだ。何か伝説の聖剣でも隠し持っていたのか!?』
魔王はまだ知らない。 放たれた刺客を粉砕したのが、聖剣でも魔法でもなく。 「タンパク質を奪われることに激怒した男」の、ただの素手だったことを。




