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第14話:不変の質量と、鋼の原体験

その夜、ミスターは一人、ギルドの屋上で夜空を仰ぎながら、自重だけで片腕懸垂ワンアーム・プルアップを繰り返していた。 広背筋が翼のように広がり、月光を弾いて硬質な光を放つ。重力に抗い、己の質量を正確にコントロールする。筋肉が軋む音だけが、心地よいリズムとなって静寂な夜気に溶けていく。


「……やっぱりここにいた。あんた、寝てる間以外はずっと動いてるわね。オーバーワークって言葉、教わらなかったの?」


背後から、毛布を肩にかけたイリスが現れた。 彼女は隣に座ると、月光に照らされたミスターの、彫刻のように精緻で無機質な横顔をじっと見つめた。


「ねえ、ミスター。ずっと聞きたかったんだけど。……あんた、どうしてそこまで『筋肉』に固執するの? 魔法もスキルもあるこの世界で、ただの肉体を鍛え上げることに、何の意味があるって言うのよ」


それは、この世界の住人なら誰もが抱く、当たり前の疑問だった。 召喚された際、チートにも似た絶大な能力を授けると言われて、それを鼻で笑って拒んだ人間が、この歴史上にいただろうか。


ミスターはゆっくりと身体を下ろし、地面に立つと、己の拳をじっと見つめた。その眼差しは、目の前の肉体を超え、遠い過去を見ているようだった。


「……俺の元の世界は、不確かなものばかりだった」


「え?」


いつもよりも暗く、沈み込むようなミスターの表情に、女神が一瞬驚き、言葉を失う。


「言葉一つで昨日までの友人が敵になり、積み上げた地位や名誉が、他人の指先一つで崩れ去る。……信じていたものが、一瞬で形を変えて消えていく。そんな世界だ」


ミスターの声は、かつてないほど低く、静かだった。25歳という若さで、彼は既に「形あるものの脆さ」を骨の髄まで味わってきたのだ。裏切り、喪失、そして孤立。それらが彼に、目に見えるもの、形のない絆がいかに容易く「爆発」して消えるかを教えてしまった。


「だが、筋肉だけは違った。……俺が食べたもの、俺が流した汗、俺が耐えた痛み。それらは一グラムの狂いもなく、俺の肉体に刻まれた。筋肉は裏切らない。嘘をつかない。……筋肉こそが、この不確かな世界で唯一、俺が自分の意志で手に入れた『確かな真実』だったんだ」


彼はゆっくりと、夜空の月を掴むかのように腕を突き出した。


「異世界に来て、魔法という超常現象を目の当たりにしても、俺の考えは変わらなかった。むしろ確信したよ。……魔法が概念を書き換え、神が運命を弄ぼうとも、この『質量』だけは俺のものだ。俺が俺であるための、最後の砦なんだよ」


イリスは言葉を失った。 彼が求めているのは、単なる力ではない。誰にも侵されず、何ものにも左右されない「絶対的な自己」の証明。積み上げてきたものが二度と崩れないという、切実なまでの「不変」への渇望。それが、彼にとっての筋肉なのだ。


「……だから俺は、お前たちを守る。魔法や運命といった不確かな暴力が、お前たちの日常を壊そうとするなら、俺が叩き潰す。……俺の筋肉が、お前たちの世界のスタビライザー(安定装置)になってやる」


「……バカね。本当に、救いようのない筋肉バカだわ」


イリスは呆れたように笑ったが、その瞳には熱いものが込み上げていた。 彼女は今、初めて理解したのだ。この男が、かつてどれほど深い孤独の闇の中にいたのかを。そして、その闇を振り払うために、たった一人でこの鋼の肉体を築き上げてきたことを。


「ミスター。あんたが筋肉を裏切らない限り……私も、あんたを裏切らないわよ。神として、あんたのそのバカげた信念、最後まで見届けてあげる」


その言葉は、かつて孤立無援だったミスターの心の最深部に、強く響いた。


「ああ。……礼を言うぞ、イリス」


ミスターは再び、鉄柵を掴んで身体を引き上げた。 その背中には、今やイリス、リリィ、シャナという三人の命の重みが、心地よい「負荷」となって乗っている。一人で鍛えていた頃には決して味わえなかった、最高に充実したトレーニング(人生)を、彼は今、謳歌していた。


夜空に浮かぶ月よりも、その男の背中は大きく、そして何よりも確かだった。


――沈黙が流れる。 ミスターは、懸垂を続けながら、ふと昼間に聞いた事実を思い出した。


「……ところでイリス。リリィって16歳なんだってよ。シャナは20歳だろ? ……で、イリス、お前は……」


イリスの纏う空気が、一瞬で絶対零度まで凍りついた。 彼女は極上の、しかし瞳の奥が一切笑っていない女神の微笑を浮かべる。


「……私の最後の神力を使って、あなたのその筋肉を細胞レベルですべて消滅させてあげましょうか?(にっこり)」


「……すみませんでした」


俺の三角筋が、かつてない危険信号を察知して激しく収縮した。 やはり、神という存在は、物理法則を超えた恐ろしさを秘めている。俺は無言で、さらに一レップ、深く身体を引き上げた。

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