第13話:隠れ潜む指先と、影を照らすバルク
「……ったく、あんたの装備は手入れのし甲斐がないねぇ。鉄の防具ならともかく、このリストガード、皮脂と汗でギトギトじゃないか」
ギルドの自室、窓から差し込む青白い月明かりの下。 シャナは独り、リビングの隅でミスターの数少ない装備品――焦げ跡と使い込みによるテカリがついたリストガードを、専用のオイルで丁寧に磨いていた。
盗賊にとって、道具の手入れは命を繋ぐ儀式だ。刃の欠け一つ、糸のほつれ一つが死に直結する世界。だが、このパーティに来てからというもの、彼女が研ぎ澄ませてきた「死線を潜るための専門技術」の出番は、驚くほど減っていた。
「シャナ。夜更かしは成長ホルモンの分泌を妨げ、筋合成の効率を下げるぞ。明日のパフォーマンスに響く、さっさと休め」
背後から、寝酒ならぬ「プロテイン代わりの生卵」を一気に飲み干したミスターが、喉を鳴らしながら声をかける。
「……あたしら盗賊はね、夜が本番なんだよ。静寂の中で、指先の微かな感覚だけを信じて生きる。誰にも気づかれず、誰とも繋がらず。それが『影』に生きる者の掟さ。あんたみたいに、歩くたびに床を鳴らす男にはわからないだろうけどね」
シャナは自嘲気味に笑い、薄暗い中で自分の細く、しなやかな指先を見つめた。 「あたしはさ、スラムの出身でね。信じられるのは自分のすばしっこさと、罠を見抜く勘だけだった。仲間なんて、土壇場で裏切るか、ヘマして足を引っ張るかのどっちかだと思ってたんだ」
彼女の短剣の鞘には、いくつもの小さな打痕がある。それは彼女がこれまで潜り抜けてきた、孤独で薄汚れた戦いの証。 かつてパーティ加入に反対する声もあったが、俺が彼女を仲間に引き入れたのは、その張り詰めた指先に、かつての俺と同じ「拒絶」と「寂しさ」を察したからでもあった。
「でも、あんたは違った。罠があるって警告してるのに正面から堂々と突っ込んで、飛んできた毒矢を空中で指で摘まんでポイだもんね……。あたしが必死に守ってきた『盗賊の常識』も『死の恐怖』も、その筋肉で全部笑い飛ばしちまった」
シャナが顔を上げ、ミスターを射抜くように睨む。その瞳には、自分の価値観を破壊された戸惑いと、それ以上の、重荷を下ろしたような「救い」が混じっていた。
「……あたし、ずっと怖かったんだよ。いつか指先が狂って、罠を外せなくなる日が来るのが。そうなったら、あたしの価値はゼロだ。誰にも見向きもされなくなる。でも、あんたは言ったよね。『罠など微風に等しい』って」
「ああ、言ったな。事実、俺の広背筋を貫通できる矢など、この世界には存在しない」
「そう。あんたが前に立っている限り、あたしの小さな『ミス』は命取りにならない。あたしが無理に影に隠れて、震えている必要すらなくなる。……そんな風に、無条件で背中を預けられる場所なんて、人生で一度もなかったんだよ」
だろうな、と俺は心の内で深く同意した。 元の世界での俺も、誰にも頼れず、頼られず、ただ孤立していた。信じられるのは自分自身の筋肉だけであり、孤独な自問自答を繰り返す毎日だった。 シャナが、俺という存在を「頼れる仲間」として認識できたのなら。かつての俺が味わったような、あの凍えるような寂しさを、この少女に味わせずに済みそうだ。
シャナは、磨き終えて黒光りするリストガードを、ミスターの胸板に向けて無造作に放り投げた。 「あんたの筋肉は、あたしにとっての『最強の盾』なんだ。だから……その、あんまり無茶して壊さないでよね。あんたが倒れたら、あたしはまた暗い影の中に逆戻りだ。そんなの、もう御免だからね」
俺は投げられたリストガードを片手で受け止め、その独特の重量感と、彼女が丁寧に施した手入れの感触を確認した。 「シャナ。お前の指先は『精密さ』を司る。俺の筋肉がどれほど硬くても、宝箱の鍵を回すような繊細な出力は出せん。俺が『剛』なら、お前は『柔』だ。どちらが欠けても、完璧な筋収縮――いや、完璧なパーティは成立しない」
「……相変わらず、例えが全部マッスルだね。少しは詩的なこと言えないのかい」 シャナは呆れたように笑い、腰の短剣をカチリと小気味よく鳴らして立ち上がった。
「わかったよ。あたしもしばらくは、この騒がしい光の中に居座らせてもらう。あんたの背中があんまりにもデカいから……影に隠れるのが、馬鹿らしくなっちまった」
部屋へ戻ろうとする彼女の背中に、俺は短く言葉を投げた。 「しばらく、じゃないぞ」
「……え?」 足を止めたシャナが、不思議そうに振り返る。
「影に隠れている時間は、もう終わってるって言ってるんだ。お前はもう、俺たちの隣を歩く一員だ。戻る影なんて、最初からどこにもない」
シャナは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。それから、少しだけ耳を赤くして、フンと鼻を鳴らす。 「……そんな風に口説いたって、あたしからお釣りは出ないよ。調子いいんだから」
彼女はいつもの軽やかな足取りで、吸い込まれるように自分の部屋へと消えていった。 かつて孤独を誇りとした盗賊の少女は、今や「絶対に崩れない壁」という安心感の中で、初めて深く、安らかな眠りにつこうとしていた。
俺は静かにリストガードを装着し、ベルトの締まり具合を確認した。 「柔と剛か。……悪くない組み合わせだ」
夜風がカーテンを優しく揺らす中、パーティの絆はまた一つ、地道なトレーニングで筋肉の層を重ねるように、強固なものへと変質していった。




