プロローグ~ボッチの筋肉野郎、現代から異世界へ~
「――フン、フン、フンッ!!」
吐き出す息は熱く、肺は酸素を求めて軋む。だが、それがいい。 今日も俺は、自分の中に眠る筋肉という名の可能性を育て続けている。
世間というやつは、ままならない。 愛を誓った女性には家柄を理由に背を向けられ、上司は手柄を奪うことしか頭にないクソ野郎。仕事は裏切りと打算に満ち、昨日の正解が今日は不正解になる。
だが、この大胸筋はどうだ。広背筋はどうだ。 こいつらは、俺が注いだ汗と熱量の分だけ、確実に、誠実に肥大して応えてくれる。 裏切りのない純粋な世界。それが筋肉だ。
平日は定時退勤という名の聖戦を勝ち抜き、21時までジムに籠もる。 適切な休息――筋肉休暇を挟み、休日は己の限界をさらに一段階、追い込む。 ボディビルダーになりたいわけじゃない。大会のトロフィーに興味はない。 ただ、昨日よりも強固になった鎧を纏い、鏡の中に「自分だけの誇り」を刻む時間が、俺の人生のすべてだった。
俺の名前は……いや、語るほどのものでもない。 両親も家族もいない天涯孤独の身。名前なんてのは社会という大きな機構で使われる「識別札」に過ぎない。 どうせなら、この僧帽筋と同じくらい、自分で納得のいく名前をつけたかったものだ。
「……ふぅ」
ジムの帰り道、プロテインシェイカーを揺らしながら空を見上げる。 今夜は月が綺麗だ。 そういえば、5年前に結婚を考えていた彼女に、両親がいないことを理由に別れを告げられた夜も、こんな月が出ていた気がする。
別れたときも、こんな……。
……こんな……?
……あれか?
「月って、二つあったっけ……?」
視界に映るのは、大きさの違う二つの銀盤。 おかしい。パンプアップしすぎて脳に酸素が足りていないのか。 目をこすり、周囲を見渡した瞬間、俺の脳内にある「日常」の地図が音を立てて崩れ去った。
街の喧騒、アスファルトの熱気、コンビニの看板。それらすべてが消失している。 代わりに俺を囲んでいたのは、深い夜の帳に包まれた未知の森だった。
「……なるほど。これが噂に聞く、神隠しというやつか」
足元の地面を確かめる。幸いにも、俺の筋肉は消えていない。 大腿四頭筋の張りも、上腕二頭筋の重厚感もそのままだ。ならば、問題ない。
天涯孤独の俺には、この世界に未練などひとかけらもなかった。 仕事の代わりなんていくらでもいる。俺がいなくなって困るのは、せいぜいジムのオーナーくらいだろう。 見知らぬ森。見知らぬ月。 どうせ社会の歯車として摩耗するだけの人生なら、いっそこの不可思議な体験に身を任せてみるのも悪くない。
「……いや、まずはお金か。生きていくには軍資金が要るな」
これが夢でないことを確認するため、俺はその場でフルスクワットを開始する。 関節の軋み、筋肉の収縮。よし、現実だ。 立ちすくんでいても代謝が落ちるだけだ。俺は歩き出すことにした。
周囲はちょうどミカンの木ほどの高さの低木林。視界は意外にも開けており、ここが広大な平地であることが見て取れる。 夜風が、俺の鍛え上げた肌を撫でていく。
その先で、俺は出会うことになる。 俺という「肉体の完成形」を、この不可思議な場所へいざなった張本人。 ――ミカンではなく、ポンコツの香りが漂う、一人の女神に。




