迫り来るなにか
「……さん。久本さん。久本さん!」
後ろからの声に私は思わず体が震えた。考え事をしていたらそのまま意識が飛んでいた。私よりも長くバイトをしてるくせに仕事ができない主婦の辻さんが渋い顔でこっちを見てる。
「久本さん、唐揚げ。焦げてるわよ」
「え?」
フライヤーを見ると唐揚げになり損ねた黒い塊が浮いていた。こんなミス今までしたことがないのに。
「しっかりしてよ。もったいないんだから……」
ポンコツバイトに小言を言われるなんて。かなりショックだけど言い返す言葉もない。あんただって散々出来損ないの唐揚げ量産してただろと言ってやりたくなった。でも、辻さんは「いらっしゃいませー」と言いながらすぐにレジに向かってしまった。
最近ちゃんと眠れてないからだ、こんなミスをしたのは。いつもならこんなミスするわけがない。
足首にスティグマができてから半月が経った。この期間、いつも誰かに見られている気がして気が休まらない。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの。意味がわからない。
数日前には変な夢まで見た。家の中で私は誰かに向かって話し続けていた。
「この投稿は私がやった」
「ストレス発散のため」
「お前らなんて怖くない」
「ここまで話してやってんだから訴えてみろ」
夢の中で私は誰かに向かって煽り倒していた。誰にかはわからない。でも、私の意思というより口が勝手に動いているような、奇妙な感覚を覚えている。起きた時、かなり鮮明に夢の記憶が残っていて不思議な感じがした。熟睡できてないみたいだった。
熟睡できていない影響はでかい。無能な店長にも「最近ミスが多くない?」とか言われるしまじで最悪。これまで私がどれだけ周りのミスをカバーしたと思ってるんだろう。報告したやつ以外にもたくさんあるっていうのにちょっとミスしただけでこの扱い。イライラする。
「久本さん、電話いける? 手が空いてたらお願い!」
無能主婦の辻さんが大きな声で言ってきた。ああ、もうわかってるって。言われなくても。私は「はーい」と生返事をして電話をとった。なにもかもうまくいかない、なんて考えながら受話器を取ったら最初向こうからなんて言われているのか聞き取れなかった。
「え? あの、すみません。もう一度お願いできますか?」
携帯電話だろうか? 女性の声だった。電波が悪いのか声が途切れるし、雑音が混じって聞きづらい。
「ず…………み………………」
「すみません、あの、うまく聞き取れなくって」
「ず…………み……る……」
一定間隔で繰り返される短いフレーズ。あと少しで聞き取れる、そう思い黙って受話器を握りしめる。
「ずっと見てるよ」
五、六回聞き続けた。聞き取れた時、全身の毛穴が広がるのを感じた。何かを察したのか、受話器の向こうが静かになった。そして、「ふふふっ」と軽い笑い声がしてからブツリと切られた。
いたずら電話、だと思う。趣味の悪いいたずらだ。鳥肌がおさまらない。
「ずっと見てるよ」
嫌な言葉。今の私にとっては最悪の言葉だ。なんとなく私に向けた嫌がらせのようにも感じる。
気分が沈んでいく。どんどんどんどん暗くなって、底が見えない。マリアナ海溝かよ。
頭の中でくだらない例えをしている自分を思わず鼻で笑う。
「久本さん、手が空いてるなら手伝ってもらえるかな?」
辻の言葉ではっとした。
「すみません……体調がすぐれないので帰ります」
「え? ちょっと! 久本さん!」
辻を無視して制服のエプロンを外す。タイミングよくお客様が来て辻の足止めになってくれた。たしかもうすぐ誰か出勤してくる気がするし辻だけでもなんとかなるでしょ。私は退勤処理を済ませてかもめ亭をでた。
どこかに寄る元気もなく、私はまっすぐ帰宅した。
家に着く。鍵穴に鍵を差し込み回した時に違和感があった。鍵が開いていた。
家を出る時、私は必ず鍵が閉まっていることを確認する。今日も確認した記憶がある。だから閉め忘れなんてことがあるはずがない。
このまま家に入って大丈夫だろうか。私は鍵穴から鍵を刺したまま固まった。でも、このまま家に入らないわけにもいかない。
何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、思いっきりドアを開けた。家の中は普通。荒らされた形跡はない。単に私の閉め忘れ? と思うぐらい変化もない。
慎重に家の中を確認し、誰もおらず何も無くなっていないのがわかると、どっと疲労感が増した。こんな日もう勘弁してほしい。
ベッドに座り大きなため息をつく。これからどうするのがいいんだろう。念のため警察に相談して、大家さんに鍵を交換してもらう方がいいのかな、なんて考えていた時だ。視界の端で何かが動くのを感じた。
気のせいだ。そうであって欲しい。少し様子を見る。何も動かない。うん、やっぱり気のせい。ストレスがたまる。こんなんじゃ気が休まらない。正義執行でもして気分を変えなきゃ。
ポケットのスマホを取り出しVPNアプリを……
「なあ、それやめや。そんなことしたかてあんたの推しは喜ばんで」
聞き馴染みのある声。
声がした方を見る。ベッドのそばのテーブルの上、見慣れぬテディベアが一つこちらを向いて座っている。毛並みはツヤツヤとしているけれど、なかなか年季が入った雰囲気がある。なにこのテディベア。誰が置いた? いや、その前にさっきの声は……




