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かまって欲しい女

作者: 寺島 哲也

     かまって欲しい女 

         1

 無機質なビル群が立ち並ぶ都会にも春はやって来る。

北条健太郎と妻の仁美は二人が住むアパートから徒歩で10分程の横浜市営地下鉄センター南駅まで来るとここで別れた。北条健太郎は通勤でこの駅から電車に乗り大塚駅に向かう。妻の仁美はこの駅の直ぐ近くの歯科クリニックに勤めている。

北条は現在30歳で妻の仁美は2才年下だった。

北条が大学3年生の時に歯科衛生士を目指す専門学校生だった仁美と合コンで知り合った。二人は新婚2年目でまだ子供は居ない。

4月になり北条が勤務する会社にフレッシュな新入社員が入社してきた。

この会社は富士山の麓の工業団地に本社を置く毎年右肩上がりのIT系のベンチャー企業だった。地元採用の社員が多く北条の実家も富士山の麓の地方都市に有った。

本社での全体研修を終えた数人の新入社員がゴールデンウィークの大型連休明けに北条が勤務している東京支店に配属された。

部長の田中に呼ばれた北条が会議室に入ると紺のスーツを着た丸顔で目がパッチリとした可愛らしい若い女性が目を輝かせながら立っていた。

「北条君、今日から東京支店システム営業部に配属された姫川美紀さんだ。君の部下としてやってもらうから教育係を宜しく頼むよ」

「田中部長、承知しました」

「北条係長、姫川美紀です。未熟者ですが何卒ご指導の程、宜しくお願いします」

「姫川さん、北条です。こちらこそ宜しくお願いします」

3人は姫川美紀の配属の挨拶で東京支店の各部署を回った。その後は、北条が姫川美紀にマンツーマンで仕事の内容やこれから習得すべきスキルをレクチャーした。

北条はクラウド型のシステムを販売する営業部隊に所属していて特に東京支店のこの部署は会社にとってはドル箱の部署だった。

翌日から美紀は今後IT営業として販売するシステムの研修を技術部隊から受ける傍ら外出出来る時は北条と同行して得意先を回る予定になった。

         2

朝から五月晴れの清々しい日だった。

北条と美紀は仕事で小田原に来ていた。

小田原駅で降りて少し早い昼食を取ろうと北条が飲食店を探していると横の美紀が恥ずかしそうに話しかけてきた。

「北条係長、お弁当を作ってきたのですが良かったら食べて下さい」

「えっ、お弁当を作ってくれたの。悪いねえ。でも遠慮無く頂くよ」

二人は取引先の近くの小田原城祉公園に行き広い芝生の広場に座った。桜の木が立ち並ぶこの広場は花見のシーズンにはシートで埋め尽くされ多くの人びとで賑わっていた。

目の前には小田原城がそびえ立っている。

美紀は鞄から木製の弁当箱を取り出して北条に手渡した。

北条が箱を開けるとご飯やおかずが彩り良く並んでいて食欲をそそられた。

「北条係長、お口に合うかどうか自信が無いのですが」

「美味しそうだね。頂きます」

美紀は北条をじっと見ていた。

北条はハンバーグを一口食べご飯を口に入れて、次に卵焼きを食べた。

「姫川さん、すごく美味しいよ。料理が上手だね」

美紀は「そんな事は無いですよ」と言いながら顔が真っ赤になっていた。

お世辞抜きでどれも美味しくて一品一品に手間をかけている事が良く分かる料理だった。

「姫川さん、ごちそう様、凄く美味しかったよ」

「北条係長に喜んでもらえて私はとてもうれしいです」

美紀はこの日一日中ハイテンションで話し出すと話が止まらなかった。

美紀は社内勤務の時も北条と同行している時も北条の言う事は素直に何でも聞いていた。北条もそんな美紀に対して非常に良い印象を持っていた。

そんなある日、北条の携帯電話に本社総務部で人事を担当している女性課長から連絡が入った。

「はい、北条ですが」

「総務部人事担当の池田です。突然のご連絡となりますが、北条係長の部下の姫川さんから私に相談の連絡が有りました」

「えっ、どのような相談内容でしょうか?」

「北条係長は部下にするなら姫川さんでは無くて綺麗な松下さんの方が良いと言っているそうですね。その事で姫川さんが自分は迷惑な存在なのではないかと悩んでいる様です」

「ちょっと待って下さい。私はそんな事は一言も言っておりません。根も葉も無い話です」

今年の新入社員の中に大学時代に準ミスキャンパスに選ばれた松下という女性が美紀と同じく東京支店に配属されていた。しかし配属先は広報部で北条とは仕事で直接関わる事は殆ど無かった。

北条は外出先から戻ると美紀を会議室に呼んだ。

総務部の人事担当者から連絡を受けた話の内容を説明し美紀に問い正した。

「僕は部下にするなら姫川さんより松下さんの方が良かったなんて一言も言ってないけどどうしてそんな作り話を総務部にしたんだ?」

北条はついかっとなって美紀に強い口調で言ってしまった。そして素直な美紀ならてっきり申し訳無さそうに謝罪をしてくるだろうと思っていた。

しかし美紀はきょとんとした顔で北条の顔を眺めながら言った。

「一昨日、私が北条係長に商品の価格表の事で質問をしていたら松下さんが私達の前を通りかかりました。その時、貴方は私の事はそっちのけで松下さんをじっと見ていたじゃないですか。口に出さなくても私より松下さんの方が良かったと思っていますよね?」

そう言うと美紀は険しい顔をして北条に背を向け会議室から出て行った。

         3

うららかな5月の春の日だった。北条と美紀は埼玉県に来ていた。

総務部の人事担当者に告げ口をされて以来、北条は美紀を警戒していた。

美紀は北条のそんな気持ちを知ってか知らずか北条に対してひたすら従順だった。

そんな美紀を北条としては警戒しながらも可愛く思えてきてしまうのだった。

取引先からの帰りに二人は池袋のデパートに来ていた。

「姫川さん、明日訪問する会社に持って行く手土産は何が良いと思う?」

美紀は目をキラキラと輝かせていた。

「女性社員は何人位居るのですか?」

「10人位かな」

「このデパートの地下に美味しい焼き菓子の店が有ります。その店の焼き菓子の詰め合わせが良いと思います」

北条はデパートの地下に行き会社の経費で土産用の大きな焼き菓子の詰め合わせを買い、もう一つ自腹で小さ目の焼き菓子の詰め合わせを購入して美紀に渡たした。

「姫川さん、お客さんが喜びそうな土産が買えて助かったよ。これを持って帰って」

「北条係長から私へのプレゼントですね。嬉しい!」

美紀は北条から渡された焼き菓子の詰め合わせを両手で抱きしめると嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。

         4        

6月に入りこの年は梅雨入りが早かった。

毎日じめじめして鬱陶しい日が続いていたが北条の所属する部署ではそんな梅雨を吹き飛ばそうと懇親会が開催された。

大塚駅の近くの居酒屋に10名程が集まった。一次会の後は自由行動で北条や美紀ら5名はカラオケボックスに行く事にした。

カラオケボックスの中に入ると美紀は素早く北条の横の席に座った。

「北条係長、実は私は一年前から同棲をしている彼氏が居るのです。同じ大学で学部は違いますが学年が同じでした」

「どんな感じの男性?」

「そうですね、くまのプーさんみたいかな」

「結婚は意識している?」

「少しだけ意識しています。でも彼は就職して一か月で会社を辞めてしまいました。就活はしている様ですが私には毎日昼間からアパートでゴロゴロとしているだけにしか見えないのです」

「早く再就職先が決まれば良いね」

この頃には北条も美紀もかなり酒が回っていた。

美紀は北条に体をべったりと付けていた。

「北条係長は大学生の時に教育実習で富士西中学校に来ましたよね」

「大学の時に教職課程を取っていたんだ。でも何故僕が富士西中学校で教育実習をやった事を知っているの?」

「その時私は富士西中学校の生徒でした。水泳部に入部していて北条係長にコーチをして頂きました。それまでは沢山泳げ、沢山筋力トレーニングをしろの一辺倒の練習でしたが北条係長の指導は早く泳ぐ方法を理論的に解説してくれて、個人別に具体的にどういう練習をしたら良いか詳しく教えてくれました。驚きでカルチャーショックを受けたようでした」

当時大学で水泳部の選手だった北条は下宿の近くのスイミングクラブで水泳コーチのアルバイトをしていた。美紀が通っていた中学校の水泳部は部員が20名程で約半分は女子部員だった。

北条はおぼろげな記憶を呼び起こしていた。

授業が終わった放課後、北条はプールサイドで部員の泳ぎを一人一人観察していた。

すると溺れている様な奇妙な動きをしている一人の女子部員が目に入ってきた。北条が慌てて近づいて声を掛けると正常な動きに戻り何事も無かったかの様に泳ぎ出した。練習が終盤に差し掛かった頃、同じ女子部員が再び溺れている様な奇妙な動きをしていた。

近づいて声を掛けると直ぐに正常な動きに戻った。

練習が終わり、部員達がプールから上がってきた。

北条は改めて練習中に溺れた演技をして自分を慌てさせた女子部員を眺めてみた。ゴーグルを外し競泳キャップを取った女子部員の顔は健康的に日に焼けていて丸顔で大きな目をしていた。

練習が終了し北条が職員室の方に歩いているとその女子部員が追いかけてきて真剣な眼差しで話かけてきた。

「北条先生、私は姫川美紀です。名前を覚えて下さい!」

この時から美紀は北条の周りをいつもうろうろする様になった。

北条の視線の先にはいつも美紀が入って来た。美紀は何でも無い事でも頻繁に話しかけてきて話し始めると止まらなかった。

北条が他の女子生徒と話をしている時は不機嫌になり顔を横に向けていた。

そんな美紀がある日を境に全く北条に話をしてこなくなった。人の影からじっと北条を見つめるようになり北条が話しかけても目を合わせないで小さな声で返事を返すばかりだった。

美紀は生まれて初めて本当の恋をしてしまった。

教育実習の最終日、北条が校門を出て歩いていると数人の女子生徒の集団が目に入ってきてその中に美紀の姿も有った。美紀は周りの女子生徒から北条の所へ行くように促されているようだった。

しかし北条と目が合うと真っ赤な顔をしてその場から立ち去ってしまった。

「姫川さん、何となく思い出してきたよ」

「やっと思い出してくれたのですね」

体を北条に密着させていた美紀は右手で北条の左手を握ってきた。

大いに盛り上がっていたカラオケもお開きになり北条と美紀は外に出た。

「北条係長、私の貴方への思いはあの頃と全く変わっていません」

「えっまあ・・・姫川さん、これからもう一軒行かない?」

「二人だけで行くのですか?」

「そうだね、二人で行こうか」

美紀は密着させていた体を北条から離すと、あの時の様に真っ赤な顔をして駅に向かって走り去ってしまった。

         5        

この日は梅雨の中休みで空には青空が広がっていた。北条と美紀は得意先への訪問で神奈川県相模原市に営業車で来ていた。

午前中に大きなクレームを受けていた得意先を訪問して何とか解決に漕ぎ着けた。

北条は朝からこのクレーム対応の事で頭が一杯になっていて美紀が何を話かけてきても全く上の空だった。

故に美紀の機嫌が相当悪くなっている事にも全く気が付いていなかった。

美紀は今日が誕生日で北条にそれを伝えてお祝いの言葉をかけて欲しかったのだ。

午後の予定もまたクレームの対応だった。

昼になり相模原公園の駐車場に車を停めた。

相模原公園は四季を通して様々な花が咲き樹木が生い茂る広い公園である。

二人は公園の中の飲食店に入った。

外のテラス席に座っていると醤油ラーメンが二つ運ばれてきた。鶏ガラスープの昔ながらの美味しいラーメンだ。

北条は昼食中も午後の仕事の事で頭が一杯だった。食べ終えると車に戻った。

約束の時間にはまだ早かったので北条は車の運転席の座席を少し後ろに倒し目を瞑って休憩をしていた。すると横の助手席に座っている美紀が突然大きな声で電話をかけ始めた。

「インターネットで募集の記事を見て一度面接に伺いたくて連絡をしました。はい、プロフィールや全身写真はメールで送りますので宜しくお願いします」

北条は時間になったので体を起こして車のエンジンをかけた。得意先に向かっている間、美紀はずっとスマートフォンをいじくっていた。

クレーム対応が終わり横浜の契約駐車場に車を走らせている間も美紀は他の事には目もくれずスマートフォンの画面を見ていた。

営業車が契約駐車場に着いたと同時に美紀の携帯電話がけたたましく鳴った。

「はい、私です。今日ですか。はい、分かりました。それでは17時から18時の間に伺います」

「北条係長、私は用事が出来たので今日は直帰でお願いします」

「うん、分かったよ」

「・・・・ねえ、私の事が全然気にならないのですか?全く関心が無いのですか?」

「御免、今日は仕事の事で頭が一杯だった。そう言えば昼休みにプロフィールや全身写真を送るとかスマートフォンで話をしていたよね。何かの面接に行くの?」

「これからアダルトビデオに出演する採用の面接に行きます」

そう言うと美紀は素早く車から降りて駆け足で駅に向かった。

「え、ちょっと待て!」

北条は慌てて車から降りると美紀を追いかけた。駅の改札を通った美紀の姿が見える所まで追いついていた北条は改札を抜け更に美紀を追いかけた。北条は発車のベルが鳴っている電車に飛び乗った。

「姫川さん、面接に行くのは止めよう!」

美紀は黙り込んだまま北条にそっぽを向いていた。美紀が次の駅で降りると北条も一緒に降りた。

美紀は北条を全く無視して駅の改札を出た。閑静な住宅街の中をしばらく歩いているとピンク色の家が見えてきた。

美紀は止める北条を無視して家の玄関のチャイムを鳴らした。

玄関のドアが開き、茶髪で色黒の若い男がにやけた顔をして出てきた。

「先程連絡をくれた女の子だね。どうぞ、中に入ってよ」

奥の部屋からは何やら怪しげな撮影をしているらしき声が漏れ聞こえてきた。

北条は美紀の左手を掴み引っ張って行こうとした。

すると茶髪で色黒の男の後ろに立っていた短髪の体の大きい男が北条の胸ぐらを掴み道の反対側まで連れて行きその場で北条を投げ飛ばした。

北条はアスファルトの道路に腰を打ち付けてしばらくその場にうずくまっていた。

北条は何とか立ち上がるとふらふらになりながらも美紀が連れ込まれた家の前まで来た。

玄関のドアは鍵がかかっていて開かない。右手で何度もドアを殴り続けていると、ドアが開き茶髪で色黒の男が顔を出した。

「うるせえなあ、何だてめえは?」

「あの女の子の保護者です」

「あの女の子は自分の意志でここに来たのだからてめえは関係ないだろう!」

北条は茶髪で色黒の男を家の外に押し出して鍵をかけ家の中に突入した。すぐ手前の部屋のドアを開けると美紀が両手を太い紐で縛られ椅子に座っていた。胸がはだけて形の良い大きなおっぱいが弾けている。北条は美紀の縛られていた両手を解き手を掴むと家の玄関に向かった。奥の部屋からはアダルトビデオの撮影中だった短髪の体の大きな男がパンツ一丁の姿で飛び出してきた。北条と美紀は家の外に出ると駅に向かって走った。

家の中から飛び出してきた短髪の体の大きな男と茶髪の色黒の男が北条達に追い着き、北条の前に立ちはだかった。

短髪の体の大きな男は北条を投げ飛ばし、更に殴りかかろうとした瞬間、美紀が横になっている北条に覆いかぶさった。

するとこの光景を遠巻きに見ていた人達が騒ぎ出した。

「お兄さんが女性を殴ろうとしていますよ。警察を呼んで下さい!」

男達は周りに人が集まっている事に気が付いた。

「くそ、お前も中途半端に面接を受けに来るな」

男たちはしぶしぶ立ち去った。

「北条係長、私のせいでこんな目に遭ってしまって御免なさい」

美紀は目に涙を溜めていた。

「それよりも姫川さんに何事も無くて良かったよ。でもアダルトビデオに出演する事は考えない方が良いと思うよ」

すると先程から塩らしかった美紀が顔色を変えて北条を睨んできた。

「貴方が私をちゃんと相手にしてくれればこんな事はしませんでした。今日は私の誕生日で朝からその事を貴方に伝えたかったのです。面接を受ける事は、今日咄嗟に思い立ったことですよ!」

         6

梅雨が明け、暑い夏がやってきた。三浦半島の青い空には所々厚い入道雲が浮かんでいて地平線の向こうにはコバルトブルーの海が広がっている。

北条と美紀は京浜急行電鉄の終着駅である三崎口で降りた。

バスを待っている間、強い日差しが容赦無く二人に降り注いできたが、二人が乗り込んだバスの中は強い冷房が効いていて涼しかった。

訪問予定の会社の最寄りのバス停で降りると少し遅めの昼食を取ることにした。

海鮮専門の食堂に入り二人ともマグロの刺身定食を注文した。三崎口のマグロは新鮮で美味しかった。

「彼氏の就職活動の状況はどう?」

「彼は私がその事で質問をすると怒るので詳しい事は聞けません」

「きっとイライラしているのだろうね」

その時美紀が一瞬話し出そうとして口をつぐんだので北条が美紀の顔を覗きこんだ。

「実は最近、彼氏が暴力を振るってくる様になりました。私のお腹や背中を殴ってくるのです。顔は殴りませんが」

「えっ、その彼氏とこのまま一緒に暮らしていて大丈夫?」

美紀は無言のままだった。沈黙の時間がしばらく続いた後、美紀から話しを切り出した。

「北条係長、お店を出ましょう。もうお客さんを訪問する時間ですよ」

二人は店を出ると訪問先に向かった。

打合せを2時間程で済ませるとバスに乗り三崎口駅に戻った。その後電車を乗り継ぎ大塚駅に到着した。

「僕は会社に戻るよ。姫川さんはもう定時を過ぎているから直帰で構わないけどアパートに帰って大丈夫?彼氏から暴力を振るわれないかな?」

すると美紀はすがる様に北条の腕を掴んできた。

「今日はアパートには戻りたく無いです。また殴られるのが怖いです」

北条はこのまま美紀を帰す事が出来なくなりじっくりと話を聞こうと大塚駅の近くの居酒屋に誘った。

二人は店内に入りカウンター席に座るとビールと焼き鳥などのつまみを注文した。

若い男性店員が中生ビールを運んできた。

北条はジョッキの半分ほどを一気に飲んだが仕事を終えた後の真夏の夕方に飲むビールは瞬く間に体に染みわたった。

「姫川さん、彼氏が暴力を振るうのなら別れた方が良いよ。一緒に暮らさない方が良いと思う」

北条は真剣に話をしていたが美紀は何故かとても楽しそうで右足を北条の左足にべったりと付けてきた。

「北条係長がそう言うなら彼氏と別れます。当分は友達の家で居候をしながら住まいを探します。今日から泊まれるかどうか、友達に聞いてみます」

そう言って美紀が席を立っている間に北条は中生ビールを飲み干していた。しばらくすると美紀が困ったような顔をして戻ってきた。

「今日は友達の都合が悪くて泊まる所が有りません。絶対に奥さんには迷惑を掛けませんので北条係長のアパートに泊めてもらえないでしょうか」

北条は渋々、妻の仁美に連絡をして事情を説明した。

アパートに美紀を連れて行くと仁美は快く迎えてくれた。

「姫川さん、主人から事情を聞いたけど暴力を振るう男性とは別れた方が良いよ。離れられなくても踏ん切りをつけた方が良いと思うわ」

「はい、私も別れようと思います。今日は突然押しかけて御免なさい」

「いえいえ、どういたしまして、遠慮しないで泊ってね」

熱帯夜だったがアパートの居間は冷房が効いていて快適だった。仁美が風呂に入っている間、部屋の中では北条と美紀がテーブルに向かい合って座っていた。

北条はテレビを見ていたが美紀のじっと自分を見つめる視線が気になっていた。

北条はテーブルの上のかごの中からクッキーを取り出すと美紀の目の前に置いて食べるように勧めた。するとクッキーを手に取った美紀はそれを北条に向かって思いっきり投げつけてきた。

クッキーは北条の頬に命中した。

「何をするんだよ」

「奥さんの事ばかり考えてないでもっと私の事を考えてよ!」

北条は無視する事にしてバラエティー番組から賑やかな声が聞こえてくるテレビを黙って見ていた。

やがて仁美が風呂から出て来るとテレビを見ながら三人の会話が弾んだ。

寝る時間になり北条と仁美は寝室で美紀は居間で寝る事になった。

明け方の4時頃、北条がトイレに起きると閉まっているはずの居間の襖が開いていた。

寝ぼけまなこで居間の中を見ると薄暗い部屋の奥で美紀が立って夜明け前の外の風景を眺めていた。

美紀は北条の方に体を向けた。

「北条係長、この前、アダルトビデオの面接の時に私のおっぱいを見たでしょう。また見せてあげるよ」

そう言って美紀がパジャマを脱ぐと形の良い大きなおっぱいが薄暗闇の中に浮かんでいた。

美紀が北条に近づいてきた。北条の両手を掴むとそのまま自分の胸に持っていった。

北条は慌てて美紀の胸から手を離し居間の襖を閉めた。

寝室に戻ると妻の仁美が気配を感じて起きていた。

「貴方、今話し声が聞こえたけど」

「トイレに行ったら姫川さんが早く起きてしまったらしくて声をかけてきたんだよ」

「あら、あの人は早起きね」

          7

翌日の朝、北条と美紀は時間を少しずらしてアパートを出て会社に出勤した。

この日は二人で神奈川県の取引先を数社回った。

会社に戻ろうと町田駅まで歩いていると美紀が突然腕を組んできて甘えた口調で話し始めた。

「申し訳ございませんが今日も北条係長のアパートに泊めてもらえないでしょうか?」

「えっ、今日からは友達の家に泊まると言っていたよね。だめならどこかホテルを予約しようよ。僕が今日泊まれるホテルを調べようか?」

「もう良いですよ。自分で何とかします!」

美紀は北条から離れると拗ねて横を向いてしまった。

それから数日経ったある日、北条は田中部長に呼ばれた。

「北条係長、実は姫川君から君にセクハラを受けているという相談を受けたんだ。何やら神奈川県三崎市に一緒に仕事に行った帰りに断ったにも関わらず無理やり居酒屋に連れて行かれてその後ホテルにも誘われたって言っている。僕は新婚の君がそんな事は絶対にしないと思っているけど」

北条はその日の出来事の一部始終を部長の田中に説明して納得してもらった。

疑惑は晴れたが北条は今回の件でかなり頭に血が上っていた。

翌日、北条は朝から直行で外出をして午後は美紀と一緒に取引先を訪問するので横浜市の弘明寺駅で待ち合わせをした。

訪問先での打合せを終えて二人は弘明寺商店街を歩いていた。長いアーケード商店街は活気が有り平日でも人の往来が絶えなかった。

今日の北条は待ち合わせてからは最初に挨拶をしただけで、昨日田中部長から聞いたセクハラ疑惑の件も含め、美紀には一切話しをしなかった。

ひたすら早足で歩き美紀がその後ろを小走りで着いて来た。美紀は駅のホームで電車を待っている間も息が絶え絶えだった。

電車がやって来るのが遠くに見えると美紀が絞り出すような声で北条に話しかけた。

「お願いですから私と話をして下さい。私が田中部長に貴方からセクハラを受けていると相談した事を怒っているのですよね。それならそんな嘘を言うなと叱って下さい。私は自分の気持ちが抑えられないのです。そして何よりも貴方から無視される事が一番辛いのです」

美紀は北条の目を見つめながら体を付けてきた。

「今日は私とずっと一緒に居て下さい」

美紀が祈るように懇願してきたが北条は頭の中の邪念をやっとの思いで振り払った。

「姫川さん、僕は妻帯者だからそれは出来ないよ」

弘明寺駅から乗車する電車は仕事からの帰宅ラッシュで満員だった。更に次の駅でも無理やり人が乗り込んで来て北条も美紀も身動きが取れないような姿勢で辛うじて立っていた。美紀は口を真一文字に結び顔を横に向けている。二人は向かい合って立っているので美紀の胸の温かな感触が伝わってきた。北条は思わず美紀の綺麗で大きなおっぱいを触った時の感触を思い出していた。

次の駅に着いて大勢の乗客が降りたその時、美紀が大声で北条を指差して叫んだ。

「キャー、この人痴漢です!」

北条は突然の出来事に全く事態を飲み込めていなかったが近くにいた屈強な中年の男性にヘッドロックをかけられて電車から降ろされた。駅員も駆けつけて来てそのまま警察に連れて行かれた。

警察では若い男性と中年の女性の二人の警察官が対応した。

北条は美紀とは会社の上司と部下の関係である事や全くの無実で有る事を必死になって説明した。

その間、ずっと下を向いていた美紀に女性の警察官が話しかけた。

「この人が言っている事は事実なの?」

美紀は顔を上げると女性の警察官の顔を真っすぐに見据えた。

「はい、この人の言っている事が事実です。私は嘘をつきました」

「何故、そんな嘘をついたの?」

「この人が私をかまってくれないから嘘をつきました」

警察官達は呆れて苦笑いをしていた。

二人が警察署を出た頃には日が暮れてすっかり暗くなっていた。

「姫川さん、今度という今度は絶対に許さないよ。田中部長にも今日の事は報告するし、もう僕の前から消え去ってくれないか!」

北条の余りの権幕に慌てた美紀はその場で土出座をした。

「北条係長、御免なさい。こんな事はもう二度としません。何でも貴方の言う通りにします。だから許して下さい。私は貴方から突き放されたら生きていけません」

「土下座なんてしないで立ちなよ。でもどんなに謝られても僕はもう君を絶対に許さないよ」

北条は冷たい目をして美紀を見下ろしていた。

         8

翌日、北条が出勤すると直ぐに部長の田中に呼びだされた。

「北条係長、昨晩姫川君が同棲している男から暴力を受けて救急車で病院に運ばれたそうだ。肋骨と前歯を折ったらしいが幸い大怪我はしなかった様だ。今日の午前中に母親が実家の静岡に連れて帰るそうで多分、会社も辞める事になりそうだよ」

北条は田中部長から状況の説明を受けた後、事務所から外に出て美紀の携帯電話に電話をしてみたが繋がらなかった。

北条は昨晩、美紀を突き放した結果こうなってしまったのかと強い後悔の念に駆られていた。

数日が経ち朝礼で美紀が会社を辞めたという報告が有った。

事件は示談となり同棲相手の男からの暴力はこの時が初めてだった事が明らかになった。

同棲相手の男は日頃から美紀には職に就いていない事などでひどい侮辱を受けていた。この日は特に挑発的な言葉を投げられ、遂に切れて暴力を振るってしまったらしい。

大学を卒業して就職した会社が実態はブラック企業で入社して一か月で見切りをつけた後毎日朝から晩まで必死になって次の就職先を探していたのだった。

北条は美紀が会社を辞めた後も何回か電話やLINEをしてみたが連絡を取る事が出来なかった。

身近に居た時は時に鬱陶しい存在だったのに居なくなってみると寂しいものだった。

寂しい気持ちは日に日に強くなっていき心にぽっかりと穴が空いてしまった様だった。

短い期間だったが美紀との日々の出来事が懐かしく思えた。

ある日の夜、夢の中に美紀が現れた。

美紀は優しく女神のように微笑んでいた。

「北条係長、貴方が私に自分の前から消えて欲しいと言ったから私は消えたのですよ」

「姫川さん、あの時は言い過ぎた。御免!」

美紀はくるりと背中を向けて走り出した。北条が追いかけようとした瞬間、目の前から消えていた。

例年に無く暑かった夏が終わりやがて秋も過ぎ寒い冬になっていた。

この日は朝からどんよりとした曇り空で夕方からは粉雪が舞っていた。

北条は会社からの帰りに横浜市営地下鉄センター南駅で降りて改札を出た。雪の降る暗い外を眺めながら鞄から傘を取り出そうとしていると突然誰かが横から体をぶつけてきた。驚いて横を見るとそこにはにこにこしながら美紀が立っていた。

「北条さん、ご無沙汰しております。私は今月から東京の会社に再就職しました。住んでいるアパートは貴方のアパートの直ぐ近くです。今度はご近所さんとして付き合って下さい。宜しくお願いします」

美紀は呆気に取られている北条に両手で抱きついた。少し間を置いて北条も美紀を両手で強く抱きしめた。

やがて二人の唇が重なり合った。雪は粉雪から激しい雪に変わっていた。

降りしきる雪が二人の周りの全てを夜のしじまの中に消していた。






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